『ルールはコミなしの定先のようですね』
(コミなし? あれだよね、黒が勝つには余分に6目ないとダメっていう)
『そうですね、コミは5目半です』
斜陰はコミを含め、ルールを理解していた。
(じゃあ盤面だけで勝てばいいってこと?)
『そうですね』
(それなら楽勝だよ!)
斜陰の黒。
右上隅、小目。
佐為が好んで使う初手だ。
斜陰は覚束ない手先で、コトリと石を置いた。
――うわ、思いっきり初心者の手つきだな……
和谷はかなり弱いと、予測し、それでも碁になるようにするつもりだった。
相手に合わせて、形勢に差が付きすぎないように打つつもりだった。
――ん? 手つきは初心者だが、石の筋は悪くない。もしかして強いのか? ……それに全体的に、手の雰囲気が似てる――アイツに。
――saiに。
――そして、shineに。
shineが現れて3ヵ月、和谷は何度もその棋譜を並べた。そして確信した。shineとはかつてネット碁に現れた伝説の棋士、saiだ! と。
それはヒカルも認めているところだったし、アキラや塔矢元名人も『これはsaiだ』と口をそろえて言っていた。
saiのファンだった和谷は、もちろんアカウントが変わっても執着する。
何十局、何百局と見続けた。
――だが、前とは少し違う。なんだ? 棋風改造でもする気なのか?
和谷は、佐為の中の少しの違いにすら気付いていた。
全体的にちょっと凝った手が多い。
遊んでるような、一手一手。
良し悪しよりも、まるで面白さを重視しているかのような一手一手。
そう。
佐為にはすでに神の一手の追求という目標はない。
だからこそ、自由に、多分悪いだろうけど、でもちゃんとやろうとすると難しいような遊びの手を試していた。
――でも強くなっている。このたった3ヵ月で、saiはさらに強くなっている。
神の一手の追求という目標は、良くも悪くも佐為を縛っていた。
その枷がなくなり、一手一手が自由になった。
そしてダメだと思っていた手の中から、たまに新しい手のヒントが見つかる。
その度に、saiは強くなっていた。
神の一手を諦めた先で、神の一手に近づいていく。
そんなsai改め、shineの変化に和谷は気付いていた。
――そうだ。コイツの一手一手は、saiというよりshineに近い! これは……!!
謎に包まれたshine。
それはsaiでありながら、saiよりも自由に指している印象だった。
そんなshineはチャットを全て拒否している。
それは斜陰からしてみれば当然のこと。
休日は家に引きこもってゆったりしたいだけなのだ。
佐為が喜ぶと和むからネット碁を打たせてあげているだけで、知らない人とチャットがしたいなんて思わない。
すべてのチャットを拒否し、相手側から何かを送っても、一瞬たりとも斜陰の目には入らない。
ド陰キャで毎日週6で仕事がある斜陰にとっては当然すぎる。
しかしそれがshineという存在をさらに謎めいたものにしているのだった。
「60、70……75!」
「67目だな」
「あー、8目負けかあ……」
「いやあ、でも正直、予想以上に強くて驚いたぜ?」
「でもコミ入れたら13目半負けだよ? 完敗じゃん」
斜陰は悔しがる。
「いやいや、そもそも俺、本気出してねーからな? 指導碁だから」
「……あれ? そういえば、指導碁って何?」
「あのなあ……指導碁受けといてそんな奴、初めて見たぞ」
和谷はこういう風に言いながら、
――まるで進藤みたいだな。
と思う。
それに手の感じがsaiに似ているのも、そうだ。
「なあ、ホントに打つのは初めてなのか?」
「う、うん」
「じゃあどうやって囲碁覚えたんだ?」
「えっとパソコンで……」
「ネット碁か? ネット碁ならやったことあるのか?」
「見てただけだよ」
「あ。わかった。【死神】の碁を見てたんだろ? だから全体的に手がsaiっぽかった」
「――佐為ッ!?」
斜陰は驚いてしまうが、我に返る。
「こほん。ごめん、僕ちょっと驚いちゃった」
「え? saiが当てられたことか? saiの棋譜とかネットに上がっているからそれ見たりしてたんだろ?」
「……」
(え? そうなの、佐為?)
『ええ、そうですね。確かにホームぺージ? とかいうものに載せられていると、ヒカルが言ってましたね』
(へー)
「なんだ? 凄すぎて声が出ねーか? 俺だってプロなんだぜ?」
「和谷すごいね」
斜陰は本心から言った。
「だろ!?」
「でも、saiの棋譜は見たことないかな? あと、さっきの【死神】がなんとかとか、よく分からなかったけど、見てたのは
天然斜陰は喋る。
そして若干天然な部分のある和谷は、大好きなアイドル、シャインという言葉に引っ張られる。
「シャインッ!? でもシャインちゃんの棋譜は、そもそも公開されていないじゃねーか」
「え? ネット碁で一番レートが高いやつだよ。シャインっていう」
「は? 今一番高いのは【死神】だろ? エス、エッチ、アイ、エヌ、イーで、“シネ”って名前のアカウントだよ」
「……は?」
斜陰は驚き、開いた口が塞がらない。
「それだって! なんで“シネ”なんて読むの! ひどいよ! サイテーだよ! 和谷、サイテーだよ!」
「ええっ!? どうしたんだ、急に」
「エス、エイチ、アイ、エヌ、イーでシャインって読むに決まってるじゃん!! バカなの!?」
「バカじゃねーよ……」
「そんなんだから中卒なんだよ! 英語能力ないんだよ!」
「なんで俺が中卒って知ってるんだよ……」
もちろん佐為情報である。
「あ」
そして我に返る斜陰だったが、ちゃんと声を作ってなるべく低い声で喋っていたことに気付き、ほっと一安心する。
「でも俺の中で、シャイン=アイドルだからなぁ……そっちが正式でもシャインとは呼ばれないだろうなあ。てかオレが呼びたくねー。saiには憧れるけど、斜陰とは全然別物だぜ」
そう。
超有名アイドルの名前と被りの時点で、大ファンの和谷には呼びたくない名前であった。
和谷以外にも斜陰のファンは多い。
そんな人たちが、shineをシャインと読みたいと思うだろうか? 否、読むわけないだろう。
shineのアカウントが【死神】と呼ばれる理由にはそうした事情もあった。
「でも【死神】の碁を見ただけか? ネット碁でも打ったことないのか?」
「うん、そうだよ」
「まじか、今日がホントに初めてなのか?」
「うん」
「それを見始めたのはいつからだ?」
「えっと、3ヵ月前かな? 最初はルールはよく分からなかったけど、たくさん見ていくうちに分かるようになった」
「お前、すげーぜ……始めて3ヵ月の上に、今まで一回も打ったことないのに――アマ2、3段くらいあるぜ? 案外、桑原本因坊がお前に目を付けたのも、正しいのかもしれねーな! お前、碁のセンスあるよ」
「そ、そう?」
『ええ! 私もそう思いました! ユウコさんは初めて囲碁を打ったとは思えません!』
佐為にまでそう言われて、斜陰は嬉しくなる。
もちろん斜陰は褒められ慣れているが、そういうのは『かわいー!』とかそういう類のものである。それも薄っぺらい褒め言葉ばかり。
ちゃんと心の底から思われたような、重い褒め言葉。
そして、囲碁という知的ゲームのセンスを褒められるということ。
そんなことは初めてで、斜陰は嬉しくなった。
だからいつもなら褒められても、軽く微笑んで流すだけなのに、勢い余って斜陰は喋る。
「でも、和谷みたいに綺麗な打ち方できないよ?」
「ああ。お前の打ち方、完全に初心者だもんな」
「したかないでしょ……こうかな?」
斜陰は碁石を人差し指と中指で挟む。
そしてそれを碁盤に打ち付ける!
ぺちょん
……ころん
碁石ではなく指が打ち付けられてしまう。
「こうだって」
和谷は何気なく、斜陰の指を取った。
『まあ……』
佐為は和谷の行動に驚く。
「この状態で打ってみな?」
和谷は大好きな超有名アイドルの手と触れ合っているというのに、全く意識していないようだ。
ムッと、斜陰は不機嫌になる。
――そもそも今日はドッキリのためにやって来たんだ。なのに和谷は全く気付く様子ないよね? 私の大ファンなら気付いてもいいと思うのに……
だから――
「――私の手に触らないで」
斜陰は声を作ることなく、素で言った。
『ユウコさん!! 声!!』
(わざとだよ)
そして、和谷は――
――もちろんバッと反応した。
そして斜陰をガン見する。
映るのはマスクにキャップをした少年――だったはずの人。
「またね、和谷」
斜陰は声を作ることなく、笑顔でそう言って、席を立った。
――まさかな……
斜陰の後ろ姿を見守りながら、和谷はバクバクと振動する心臓を押さえていた。