「え? 勝負って……な、なんでですか? スズカさん」
私がそう口にすると、スズカさんはキュッと唇を引き締めて、私の質問には何も答えないままに見据えて言った。
「勝負はこの競技トラックを使用します。スタートはここ。このまま時計回りで周回して、ゴールはあの登坂の先。距離は3200m。質問がなければすぐにはじめましょう」
「え? え? す、すぐですか? いますぐ? え? さ、3200mって、そんな長距離を……スズカさんが? え?」
彼女は再び唇を引き結ぶ。そして、視線をコースへと向けた。
私は呆気にとられるほかは無かったけど、そもそもどうしてこうなっているのか説明をしてもらいたくて、再度彼女へと詰め寄ろうとした。
その時、少し離れたところから、あのお医者様が声をかけてきた。
「スペシャルウィーク号。彼女は君との対戦を所望している。君はなぜこんなことになっているのか、疑問に思っているのだろうが、話は簡単だ。彼女と私は取引をしたのだよ、君との対決に勝つことを条件にしてね。彼女は君に勝つことであるものを手に入れる。そして負けた君のことは私がもらう。そういう約束になっている」
「え? 取引って……? え?」
今この人はなんて言ったの? 私とスズカさんが勝負をして……
スズカさんが勝ったら、私は……あの男の人のものになる。 え? ど、どういうこと……?
頭の中で疑問符がぐるぐる回っていた。
なんで私が賭けの景品みたいになっているのか……
確かに、お金持ちの中には大金をはたいてウマ娘を買って、近くにおいてペットにする人がいることは知っている。でも、私なんてただの田舎者だし、欲しくなるというのが分からない。
そもそも、私の知らないところでそんなことを勝手に決められるわけがあるわけないし、スズカさんがそんなことを承認するなんてとてもじゃないけど信じられなかった。
「う、うそ……嘘ですよね? スズカさんっ! スズカさんが私を売るみたいな……、そんなことをするはずないですよね?」
もう私を見もしないスズカさんは、ただ照明に照らされた芝のコースを黙って見つめるばかり。
何も答えないスズカさんに代わって、またあのお医者様が口を開いた。
何かのプリントの様なものをとりだしながら。
「君の気持ちは分かるが、本当の事だ。そしてここにその旨を記載した契約書もある。君の所有権に関しての部分には、君の養母のサインもキチンといただいているよ」
そう言って手渡された紙には、勝負の内容とスズカさんのサイン、それにお母ちゃんのサインまできちんと記入されていた。
「う、うそ」
その紙を、さっと奪い取ったお医者様はその紙を畳んで胸ポケットへとすぐに仕舞った。
「嘘ではないと何度も説明をしているのだがね……。君はこのサイレンススズカ号と養母の二人に売り飛ばされたのだよ、この私に。もっともサイレンススズカ号が勝負に勝ったらという条件付きではあるがね」
口角を吊り上げて微笑むその人は本当に邪悪に見えた。
まるで悪魔か、死神か……
その向こうで真剣にコースを見据えているスズカさんが空恐ろしく思えてきて、その感覚に身体が震えた。
でも、そこで私はふと考えついた。
この男の人が言った内容は少し変だったから。
スズカさんがこの人とした契約は、『私と勝負してスズカさんが勝ったとしたら』というもの。
当然だけど、私がスズカさんに勝てばこの通りではなくなるわけで、それこそ私が勝ったのだから嫌だと言えば話はもう終わってしまう。
ひょっとしたら、この勝負……
スズカさんがこの男の人に理不尽な要求を突き付けられて、しぶしぶ承諾することにしたのかもしれない。
だからわざとらしく本気を装ってレースを持ちかけて、わざと私に負ける八百長試合をする気なのかも……
「…………」
そう思い付きはしたけど、それだけはないと私は即座に悟る。
今のスズカさんの眼差しが全てを雄弁に語っていたから。
あの目は本気の目だ。
とても見せかけだけの出来レースをしようと思っている様子ではない。
そもそもスズカさんがいい加減なことをするわけがなかった。
いつも本気で、いつでも真剣に望むのが彼女のスタイル。
どんな理由があったとしてもその様な卑怯な行為を彼女は選ばない。
ではどうして……
不思議な点はもう一つあった。
それは彼女が指示してきたレースの内容。
ここのコースを使うのは分かるけど、私の体調も状況も知らないままに今すぐにレースをしようと申し出てきたこと。
相手の状況も知らないままに戦おうなんてスズカさんらしくない。
それと、一番の問題はその距離。
彼女が提案してきたコースは言えば、この高低差のある長いコースの、さらにそれの一周半にも及ぶ。
レースとしては長距離と言っても良いほどの長さで、確かスズカさんはこの距離のレースで惨敗した過去を持っていたはず。
彼女の得意としている中距離を超える長さを指定してきたのはなんのため?
正々堂々を重んじる彼女らしからぬ言動振る舞いの数々と、彼女自身が苦手とする長い距離での勝負を挑んできたことの意味。
なりふり構わず勝ちにこだわって見せつつも、苦手な申し出をあえてしてきた理由。
それらのちぐはぐさに私は困惑するばかりだった。
「どうしたの? さっさと始めましょう」
スズカさんはそう言って、怜悧な瞳を私へと向けた。
それに気圧されそうになりつつも、私はなんとか口を開いた。
「ひ、ひとつだけ教えてください。わ、私が勝ったら……どうなるんですか?」
それにスズカさんは長く息を吸った後で漏らすように言った。
「貴女が勝ったら、あなたの好きにしなさい。なんでもあなたの言う通りにしてあげるわ。奴隷になれというなら、私はあなたの奴隷にでもなんでもなります」
「ええっ!?」
スズカさんはなにかとんでもない事を口走っている。当然の様に驚いてしまったわけだけど、彼女は『でも』と続けた。
「私はあなたに負ける気はないわ。絶対に勝ちます。勝たなくちゃならないんですから」
そして彼女は正面を向いた。
私には今の彼女の真意はまったく読めなかった。
でも、彼女が悲壮な覚悟をもってこのレースに臨もうとしていることだけは分かった。
この私を賭けの対象としてでも?
「さあ、そろそろ始めてもらおうか。ホストはあくまでこの私だからな。何もしないというなら、不戦勝ということでスペシャルウィーク号は私がいただくだけだがね」
そう言われて私は男の人を睨んだ。
理由や経緯は良くは分からない。
でも、このレースだけは絶対勝たなきゃだめなんだ。
それだけは理解して、私は覚悟を固めた。
「やります。絶対に私が勝ちます」
「ああ、良い心がけだ」
私は上下のジャージを脱ぎ捨てた。
その下にはウララさんのような上下の体操着をきていたから。
ブルマに関しては、ペ〇スがあるせいで少し膨らんでしまってはいるけど、いろいろ試した結果、このフィット感が一番私にとって走りやすいものだったから。
私の隣では勝負服姿のスズカさんがすでに表情を強張らせていた。
それを一度見つめてから私も正面を向く。
スズカさんの真意は分からない。
でも……
手を抜いてはだめなんだ!
それだけを想い、私は覚悟を固めた。
「よし、では始めようか。位置について……よぉーい」
お医者様の右手が高らかに上げられ……
そして、一気にその手が振り下ろされた。