長い下りの右回り。
私はインコースギリギリに身体を傾けつつ、大股に足を伸ばしながら地を蹴って、身体を前へ前へと押し出した。
ここまで出してきた私の限界の速度。
それをはるかに超える速度を無理矢理に引き出して、私は今駆け抜けている。
腰からつま先まで、筋肉と腱とが伸縮を繰り返すたびに、痛みにも似た痺れが全身に走り、その感覚が常に私へと警告を発し続けていた。
そうしながら思い出されるのは、『あの日』の恐怖。
軽やかに感じた身体のバネの命じるままに走ったあの日、私の左足は……
壊れた。
何の前触れもなく、何の違和感もなく、ただ、壊れた。
身体の限界を迎えたということだったのかもしれないけど、何一つの原因になりそうな予兆もないままにそうなったことが本当に恐ろしく、そしてもう走れないという現実が私を絶望の淵へと叩き落とした。
生きた心地はしなかった。
もう死んだと同じだった。
走ることしか出来ない私が、走ることで漸く夢を抱くことができそうだったあの時、その全てを失ってしまったのだから。
でも……
『いいえ、走れます! 絶対レースに出られます!』
そう言ってくれたのはスぺちゃんだった。
最悪の惨事から私を救い、過酷なトレーニングを手助けしてくれて、くじけそうになる私の心を守ってくれた。
今の私があるのは全てスぺちゃんのおかげ。
それなのに……
全てを失った彼女がただ立ち去るしかなかったあの時、私は涙する彼女をただ見送ることしか出来なかった。
どれだけ辛かったろう。
どれだけ苦しかったろう。
胸がつぶれるほどに苦しかった私のその何倍も彼女は辛かったはず。
だから……
私はもう逃げない。
絶対に迷わない。
今こうして、スぺちゃんと戦う事からだって。
彼女を守りたい、助けたい、救いたい……
恩返しとか、借りを返したいからとかそんなことじゃない。
今は、ただ彼女に勝たなければならないのだから。
絶対に。
それが唯一の『答え』なのだから。
スぺちゃん……
スぺちゃんは強くなった。
初めて出会った頃の何倍も。
彼女の素質は私を大きく上回っていた。
ただ速くはしるだけではない、彼女の勝負勘や爆発力は決して努力で手に入れられるレベルのものではない天性のもの。
そんなスぺちゃんと競い合って、鍛え合って、私の今はある。
彼女に憧れて貰えるだけの私でいたい。
いつだってそう思い続けてきた。
だからこそ、私は自分の限界を何度も超えて来られたのだから。
本気をだす。
ううん、本気以上、限界以上。
そうしなければ、私は彼女に勝つことなんてとても出来ない。
そして何が何でも勝つ。
たとえ私の苦手な長距離であったとしても。
私がこの勝負でスぺちゃんに勝つことの出来る唯一の方法。
それは、先行逃げ切り、これしかない。
それも、ただの逃げではだめ。
彼女がどんなに足を残していようとも逆転出来ない程の大逃げをする必要がある。
大きく差を開けるには、前半で足の全てを使いきらなくては、それも効率よく。
この勝負に必ず勝つために。
そのためならば、この足。
もう一度壊れてしまったって構わない。
心の内でそう覚悟する。
過去の恐怖も、迷いも、甘えも、その全てを掻き消して、私はこのレースへと没入する。
聞こえるのは空気を切り裂く風の音だけ。
自分の足音も心音も、スぺちゃんの気配すら何も感じない。
足を……
踏み出すの……
何度でも!
持てる全ての力を振り絞って、私は下りの先の長い直線を一気に駆け抜けた。
× × ×
「くっ!」
スズカさんの背中が突然小さくなった。
その途端に、強烈な風圧が私の事を蹂躙した。
なんとか持ち直して追従しようとするも、一度崩れた態勢からの復活は厳しかった。
あっという間に置き去りにされ、追いつこうとするもこの状態の彼女の加速に追いすがることは困難を極めた。
下りを利用しての急加速。
まさか、ここでこんなスプリントをしかけてくるなんて……
もはや張り裂けていてもおかしくない程に、全身の筋肉を酷使している。
ここまで彼女の背後で温存していた自分ですらこうなのだ。
絶え間ない風圧に晒されている今のスズカさんの身体にはどんな影響が出ているというのか。
私の脳裏にあの日の故障したスズカさんの姿が霞める。
それに恐怖しつつ、まったく減速の気配すらない彼女の走りに戦慄を覚えていた。
スズカさん……
いったいどうしてそこまで……
彼女が何もなしに、こんなことをするわけないことは知っていた。
ここまで真剣に、本気で……
つまり、彼女は私が売り飛ばされるという約束などどうでも良いようなものの為に走っているということに他ならない。
そのことに当に気が付いていても、それでも私は彼女に本気で勝たなくては。
なぜか?
それがスズカさんへのお礼だから。
今の私があるのは、いつも本気で私と向き合ってくれたスズカさんのおかげ。
彼女がいなければ、私はこんなに本気で勝つために走ることはできなかったから。
スズカさん私を導いてくれた。
スズカさんが私を鍛えてくれたから私は、こんなにも走ることを好きになれたんだ。
大好きだから……
絶対手は抜けない。
どんな理由があるのかは本当に分からない。
でも、手を抜いて手に入れられるものに価値なんてあるわけない。
彼女の本気に、私も本気で返す。
ただそれだけ。
遥か先を行くスズカさんをしっかり見据えて、私は自分の心に鞭を入れた。
気持ちでだけは絶対負けたらだめだから。
私の本領はここから。
どんなに泥くさくても、どんなに見てくれが悪くても、気合と根性で絶対になんとかしてみせる。
「ふぅぅぅ……」
息を吐いて、乱れたペースを整えつつ、二週目の直線に入るタイミングを計る。
スズカさんの大逃げの限界は迫っている。
どんなに彼女の足が優秀でも、散々蓄積された疲労物質によって彼女の身体は自由を失ってきているはず。その機を狙って、一気に彼女を抜き去る。
もうそれしかなかった。
いよいよその直線に差し掛かった時、前方を走るスズカさんの肩が左右に大きく揺れ動いた。