「い、今、一瞬、スズカのフォームが崩れなかったか?」
「え? そうだったかしら? 私にはわからなかったわ」
「そうか……、いや、私の気の所為かもしれないが……」
アリーナ席で見下ろす、シンボリルドルフとマルゼンスキーの二人は、自分たちの目の前を高速で駆け抜け、すでに二度目の登坂に突入しているサイレンススズカを畏怖を持って見つめ続けていた。
サイレンススズカは普通ではない速度を保ったままで、すでにこのコースを一周回ってきてしまっている。
距離にすればすでに2400mを軽く越えてしまっている。
これはまさしく驚異の出来事だった。
サイレンススズカの最も得意とする距離は1800mから2000mであることは万人が知るところであり、何度となく競い合ったこの二人もまた、その尺でのサイレンススズカの強さは身に染みていた。
余人を許さぬ加速力こそがサイレンススズカ最大の武器。
その武器を如何なく発揮する彼女の戦法こそが、先頭抜け出しによる大逃げである。
他のウマ娘との駆け引きもなしに、飛び出す勢いのままに後続をぐんぐん引き離すこのスタイルは、サイレンススズカをおいて誰にも出来ない芸当だった。
だがしかし……
ある距離を境に、彼女は糸の切れた凧のように失速してしまう。
今までの苛烈な勢いがまるで嘘のように消え失せ、そのまま追走のウマ娘たちの中に消えてしまうのだ。
それが、2000m付近なのである。
確かにそうであった。
今まではそうであったのだ。
しかし……
「落ちない……」
「ええ……」
彼女たちの目の前でサイレンススズカは未知の走りを見せつけていた。
すでに彼女は、限界を超えた距離を走っている。
そのはずなのに、彼女の勢いは落ちてはいなかった。
ここまでと同様に身体を躍動させ、大地を蹴って前へ前へとその身を躍らせ続ける。
ほぼトップスピードと言っても差し支えない速度のままこの距離を走る困難さを、彼女たちは良く理解していた。
「信じられない。スズカはどうしてあんな芸当が出来る? これでは勝負にもならない」
「まさか……3200mの逃げ切り……」
そう呟きつつ、彼女たちは背筋にひやりと汗が流れるのを感じていた。
あまりに非常識。
あまりに異常。
そのことに困惑を覚えつつも、少し下に座る男の言葉に追い打ちを掛けられた。
「それだけじゃない。このコースは京都を模して造られていて、今走っている内容は春の天皇賞そのものだ。このままゴールすれば……間違いなく……。見ろ、これが2400のタイムだ」
「なっ!?」
「え? 本当に!?」
ストップウォッチを見せられたその数字に二人は絶句する。
そのあまりに規格外のタイムに、度肝を抜かれつつ、視界の遠くを駆け抜けるサイレンススズカを凝視し続けた。
まさかと思いつつも、そんなことはありえないと思いつつも、ひょっとしたらこのまま行ってしまうのではないか……
異次元のタイムを出してしまうのではないか。
その予感に彼女たちの肌は粟だっていた。
しかし……
ストップウォッチを手にした男だけは、目を細めた。
そして祈るようにつぶやいた。
「スズカ……、頼む、もう…………」
彼らが見守る中、サイレンススズカは再び下りの最終コーナーへと差し掛かる。
今度は先ほどのような加速はない。
ただ、それまでと変わらぬフォームで走り抜けていた。
そんな中、彼女の背後に突然その『影』が現れた。
× × ×
「うわあああああああああああああああああああっ!」
全速で坂を登り切った私は、叫びながら腕を振って地を蹴った。
目の前には先ほどと変わらない様子のままに坂を駆け降りるスズカさんの姿。
やっと……
やっと捉えた!
鋭い矢じりの様に先を行くスズカさんを見据えたまま、私は全身の持てる力の全てを爆発させて加速させる。
スズカさんが、ここまで失速しないなんて信じられなかった。普通じゃなかったから。
でも……負けたくない一念で私は必死に追いすがった。
前半にスズカさんの直背で温存を計れたことも大きかったけど、二度目の登坂の際のスズカさんのフォームにも助けられた。
彼女は確かに速かった。
でも、それは登坂で私を置き去りにするあの凄みのある走りとは違うものだった。
彼女は平地の速度のまま駆け上っていたけれど、そこから更なる加速をおこなっていない。
やはり彼女は疲労している。
そう直観した私は勝負に出た。
登坂に全力を傾けて、一気に彼女との差を詰めた。
そして、下りに入ると同時に、先ほどスズカさんがしたように、私もスパートした。
まだ、差はかなり離れている。
でも、疲労している彼女はここから更なるダッシュには移れないはず。
ここで……
必ず差す!
「でやああああああああああああああああああああっ!」
気合で吠えた。
大地を削る様に蹴り続けた。
胸を振るい、腕を振るい、全身で前方の空気を掻き分けた。
少しづつ……
先を行くスズカさんの背が近づいて来る。
全身の血液が逆流してでもいるかのように身体全体が熱くなってくる。
そして……
私はあらん限りの全力を振り絞った。
ミチミチと身体が軋んでいた。
足を上げ、腕を振り、ただそれだけを繰り返した。
目の前に……
スズカさんがいた!
も、もう……少し……で……
ゴールポストが見る間に近づいて来る。
それを見ながら、最後の力を振り絞った。
「うわああああああっ!!」
刹那っ!
私はスズカさんの前に出た。
ほんの一歩、ほんの半身。
その瞬間に、ゴールを切った。
勝った!
私が勝った!
勝ちましたよ、スズカさ……
え?
私の横を緑の風が吹き抜ける。
呆気にとられた私の脇を、スズカさんが減速もせずに通過していった。
「スズカさんっ!!」