「スズカさんっ!!」
減速もせずに走り続けるスズカさん。
まさか、ゴールの位置が分からないとか?
それとも、レースに集中しすぎてとか?
一体どうしてなのか、分からなかったけど、彼女の後姿に不吉なものを感じて、私は気が付くと全力で彼女のことを追いかけていた。
速い……!
とても3000m以上走って来たとは思えない速度。
私ももう限界をとうに超えていて、あまりの疲労に意識が朦朧となっているというのに、いったいどうしてあんなに速く走ることが出来るのか……
必死に追いかけるなか、このコース唯一の客席から男性が飛び降りてこちらに走ってくるのが見えた。
あれは……トレーナーさん?
彼は大声を張り上げていた。
「スぺっ!! スズカを転倒させるなっ!!」
「!?」
背筋に怖気が走る。
彼女に何かが間違いなく起きている。
そう確信して、私は彼女に向かって全力で迫った。
コーナーを超えて、尚も直線へと向かおうとしているスズカさん。
私はそんな彼女になんとか追いついて、そのままその腰を抱きしめた。
その瞬間感じたのは、信じられないくらいの冷たさ。
彼女は尚も走り続けようとしていて、止まるそぶりを見せなかった。
「スズカさんっ!!」
名前を呼んだ。
でも、返事はおろか、何一つの小さな反応すら返してくれなかった。
「スズカさんっ!!」
もう一度呼ぶ。
すると、ほんの少しだけ足が遅れた。
それを見止めて、私は彼女の上半身に抱き着いた。
振りほどこうとするそぶりはない。
でも、身体は異常なほどに冷たく、ただ腕や足を動かすことだけは止めようとしなかった。
私は、そんな彼女に抱き着いたままブレーキをかける。
彼女の手足は次第とその勢いを失って、最後は私に寄り掛かる様に倒れてきた。
「きゃ」
だらんと身体を弛緩させて私へ向かって倒れ込むスズカさん。
私は、すぐに彼女を仰向けにして名前を呼びかけ続けた。
でも返事はない。
手足は小刻みに震えていて、顔はすでに真っ青だった。
その時気が付いた。
彼女が呼吸をしていないことに。
「スズカさんっ!!」
「どけっ」
急に頭上から声を掛けられて、襟首をつかまれた私はスズカさんの脇に尻餅をついた。
何が起きたのか分からないままに、スズカさんを捜して視線を向けてみれば、そこにはあの黒い服のお医者様が。
彼はスズカさんの衣装の胸の辺りを掴むと、そのまま一気に服を引き裂いた。
びりびりに敗れた服の合間から、彼女の綺麗なお椀型の胸があらわになる。
「な、何をしているんですかっ!?」
そう叫んだ私に、そのお医者様が睨んできた。
「手持ち無沙汰なら、こいつの気道を確保して呼びかけ続けろ」
「え? は、はい」
彼は地面に置いた鞄を開くと、そこからコードの伸びたパッドのような物を二つ取り出して、スズカさんのお腹と肩にそれぞれ貼る。その間、私は彼女の顎を持ち上げつつ、何度も彼女の名前を呼んだ。
「電気ショックを使う。離れろ」
「はい」
答えて離れた瞬間、スズカさんの身体が大きく跳ねた。
そしてお医者様は、すぐにスズカさんの胸の間に手の平を当てて真下に向かって繰り返し押し始めた。
「気道は確保しているな? なら、俺の合図で彼女の鼻を摘まんで、その口に直接、大きく息を二回吹きこめ」
「え? スズカさんの口にですか? ちょ、直接?」
「ええいうるさい。さっさとやらなければ、こいつは本当に死ぬぞ」
「は、はいっ」
「よし……いまだ!!」
私は急いで彼女の口に口を当てて、鼻を摘まみながら息を流し込んだ。
スズカさんの胸が大きく膨らむ。
「いいぞ、その調子だ」
彼はすぐ様マッサージに移り、そしてまた息を入れるように指示を出した。
それに従って人工呼吸を行う私。
そんなことをしばらく繰り返した後のことだった。
「カッ……カハッ!! カハッ、ケホッケホケホ……」
丁度私が息を吹き込もうとしたその時、彼女は私の口に向けて逆に息を吹き出した。
そして、そのままぜえぜえと掠れたような息を吐きながら咳を繰り返した。
「スズカさんっ!!」
「よし、自発呼吸再開。心臓の動きも……問題なさそうだな」
彼はそう言いながら、スズカさんに酸素マスクを被せ、首に手を当ててその様子を見ていた。
私は一気に全身の力が抜けて腰が抜けて座り込んでしまった。
そのあと急に涙が溢れてきた。
死んでしまうかと思った。
もうだめかと思った。
スズカさんが事故にあったあの日以上の恐怖に、今の今まで確かに襲われていたのだから。
お医者様はスズカさんの手足の様子も確認しながら言った。
「意識のないまま走り続けていたようだな。よくも転倒しなかったものだ」
「え?」
意識のないまま走り続けていた?
その言葉に私は先ほどの走りを思い返していた。
確かにスズカさんは少しおかしかった。
フォームは綺麗で速かったけど、いつも感じるような気迫のようなものはまるでなく、ゴール手前での駆け引きの一つすらなかったから。
なら、本当に気を失ったまま走っていたの?
どこから?
まさか、二度目の登坂の手前から……
あの時、確かにスズカさんは一度体勢を崩しかけていた。
そして、そこからプレッシャーのようなものを感じることはなくなった。
まさか、本当にあそこから、あんな距離を走り切って……
そのことを思い私は戦慄した。
この人は……
本当に走ることが全てなんだ……
スズカさん……
「う……うう……」
「す、スズカさんっ!!」
呻きつつ瞳を開こうとするスズカさん。
彼女は荒く息を吐きながら、掠れる声を出した。
「れ……レース……は……。わ、私は……」
「スズカさん……それは……」
彼女は必死にレースの結果を知ろうとしている。
そのことが分かったけど、私は自分が勝ったということを告げることが出来なかった。
すると……
「レースはスペシャルウィーク号の勝ちだ。君は負けた」
「な!? な、なんで今そんなことを言うんですか」
「今も後もない。事実は事実だ。君は勝った」
冷たい視線で私を見据えるお医者様。
それに何も言い返せないでいた私の目の前で、横になったスズカさんの閉じられた瞳から涙が溢れた。
「ごめんなさい……ごめんなさいスぺちゃん。ごめんなさい……」
「え」
急に謝りだしてしまったスズカさんに私はただ困惑した。
彼女が私にとって理不尽と思える条件でこの勝負を始めたことの背後には、何か別の要因があることは理解していた。
でも、それでどうして彼女が謝るのか。
私が勝つことで彼女が何かを失うものと思っていた。
でも、その失うものとは、ひょっとしたら私に関係のあるものだった?
困惑して動けなくなっていた私に、お医者様の言葉が聞こえてきた。
「勝負はこれで決した。サイレンススズカ号……お前の『願い』を聞いてやる条件は消滅した。だが、お前のことは病院に連れて行ってやる。大丈夫だろうが脳に後遺症が残る可能性はある。精密検査も必要だからな」
そう言って、黒服のお医者様はスズカさんのはだけた胸にマントを掛けてから、軽々と抱き上げた。
そこへ……
「待ってくれ! 頼む。もう少しだけ待ってくれ」
そう息を切らせて駆け寄って着たのはトレーナーさん。
「先生頼む。スズカの願いを聞き届けてやってくれ。この通りだ。こいつはこんなに頑張ったじゃないか。これに免じてどうか願いをかなえてやってくれ」
手を合わせて頭を下げるトレーナーさん。
黒いお医者様はそれを見つつ言った。
「そんなお涙頂戴な話しに興味はないんですがね。浪花節じゃあ腹は膨れませんぜ、だんな」
「く……」
ぐったりとしたスズカさんを抱えたまま可笑しそうに笑うお医者様。
逆に顔をくちゃくちゃにして苦しそうにしているトレーナーさん。
私は、本当にこの状況がまったく飲み込めなかった。
「あの……と、トレーナーさん? いったいどういうことなんですか? 何の話をしているんですか?」
そう問いかけた私に、トレーナーさんは苦し気に私を見た。
そして何かを言おうとしつつ、その唇を引結んでしまった。
何を言おうとしたの? 何を隠しているの?
得体のしれない不安が私の内から湧き上がってきて、困惑しきりになったところで、またお医者様が笑った。
「もう正直に教えてあげればいいじゃないですか。この娘は当事者なんだから」
「ど、どういうことですか?」
お医者様は私を見つめた。
それから視線をトレーナーさんへと戻して、言った。
「スペシャルウィーク号は間もなく『死ぬ』と。その治療を私がする条件としてこの勝負にサイレンススズカ号は勝つ必要があったのだと。事情説明もさせてもらえないまま、自分の苦手とするこんな長距離での勝負をせざるを得なかったのだとね」
「そ、そんな……」
私が……死ぬ?
私を治すためにスズカさんが勝負することになった?
そのせいでスズカさんまで死にそうに……
そんな……
様々な恐怖が全身を駆け巡る。
そのせいで思考がどんどん最悪のイメージを導きだし続け、私の胸は締め付けられ続けた。
身を捩って震えることしかできないでいた私。
そんな私を見下ろしながら、お医者様が言い放った。
「スペシャルウィーク号。君は『ミクロフィラリア由来による中枢神経異常』をきたしている。そのせいで性転換も早まり、性的活動能力の減衰も生じてしまっていると推測される。私の見立てでは間もなく『
お医者様はそう笑い、スズカさんを連れて歩み去ろうとする。
待って……
待ってください……
そう叫んで呼び止めようとしたかったけど、口がうまく動かなかった。
全てのことが理解できなかった。
私が死ぬということも、これが最後だということも。
すべてが分からなくて、考えがまとまらなくて、なんと声を出して良いのか分からなかったから。
そうして座り込んでいた私の目の前で、お医者様が立ち止まった。
それから私を覗き見るようにして一言。
「10億9262万円だ。私の治療を受けたければ耳を揃えてすぐに用意するのだな」