良馬繁殖センターの一角にある、重役用スィートルームの一室で、数河井芽衣は大きなため息をついていた。
ここは数河井に割り当てられた住まい。
センターの資金で建てられたこの建物には、他にもここで働く重役たちのプライベートルームも用意されている。
ここで彼女は、シャワーから出たナイトガウン姿のままで、グラスにウィスキーを注いでいた。
天皇賞春秋連覇を果たし、ジャパンカップで凱旋門賞にも輝いたブロワイエをも降し、全国のファームや施設からもっとも注目の高かったスペシャルウィーク。
種牡ウマ娘となった暁には、かなり多くの種付けオファーが来ると期待されてもいたことから、今回の若年性性転換はまさに慶事だった。
通常のウマ娘よりも数年も早いのだ。
当然、その分種付けもたくさん行えるわけで、多くの収益を見込んでいたセンター側からすれば最重要の種ウマ娘であった。
でも……
彼女は重度のEDを発症していた。
完全な勃起不全というわけではなく、稀に回復することもあったようだが、実際の種付け現場での成功は皆無。
好みの問題や、健康状態に左右される仕事でもあるため、その辺りに関してはかなり優遇していたつもりであったのだが、変わることのない結果に数河井は諦めを通り越して、ただただ落胆するようになっていた。
「ふう……もうスペシャルウィークはダメね。ここまで相当に予算を割り当ててきたけれど、面倒見切れないわ。上の判断としてももう『処分』相当ということだし、週明けにはさっさと追い出して……」
まだ口をつけていないウイスキーのグラスを持ち上げそれを口に運ぼうとしていた。
それを飲めば、ここまでの苦労や今の倦怠感が少しは払われると思えたから。
その時、ドアをノックする音が聞こえ、彼女はもう一度グラスを手元へと下げる。
どうぞと言って開いたドアの向こうには、普段から彼女の世話をしているメイドの姿。
深々と頭を下げたそのメイドは彼女へと言った。
「失礼します。病院の方でこれからスペシャルウィーク様の手術がおこなわれるということで、数河井様にもすぐに手伝いに来るようにとのご伝言にございます」
「え? スペシャルウィーク? 手術? ど、どういうこと?」
かたりとグラスをテーブルに置いた数河井は、そのメイドに掴みかかるも、彼女はただ慌てた様子で答えるのみ。
「い、いえ、私はそうお伝えするようにと申し使っただけでございます。申し訳ありません」
「そう、ごめんなさいね声を荒立てて。それで、誰からの伝言なの?」
「それが……名乗られなかったのですが、真っ黒い服を着た顔に斜めに傷の入った男のお医者様でした」
「黒い……医者?」
数河井は先日のスペシャルウィークの話を思い出しつつ、急いでガウンを脱いで着替える。
そして、嫌な予感を抱きながら病院へと急行した。
× × ×
「ではこれからオペに入るぞ。緊張することはない。君はただ眠っていればいいのだ」
「はい」
手術室の前の廊下で、オペ用の白衣に着替えた男はベッドに横たわるスペシャルウィークへとそう声を掛ける。彼女は男性の顔を見た後に、視線を壁の窓の方へと向けた。
そこには窓越しに心配そうな眼差しを向けてきているサイレンススズカの顔。
そちらへと視線を送りつつ、彼女は『行ってきます』と心の内で呟いた。
そして彼女は手術室へと入った。
× × ×
「どういうことですか? 貴方はいったいだれ?」
スペシャルウィークへの麻酔導入がほぼ終わったころ、オペ室に手術着姿の一人の女性が駆け込んできた。
彼女は、すでに準備を終えてあるこの部屋の様子を見ながら唖然としていた。
「これはこれは遅いお越しで。あまり遅いので、私一人で初めてしまうところでしたよ。数河井先生」
「な!? ひ、ひとりで? 何を言っているの? それに、これはいったいなんの手術……いえ、そうではないわ。スペシャルウィークの主治医はこの私です。彼女に病気は何もありません。それと、この施設の使用許可を出した覚えもないわ!」
「私もそんな許可をあなたから頂いた覚えはありませんな。だが、ここのセンター長には了解いただきましたがね」
そう言って繁殖センター長の名前入りの書類を差し出してくる男性の手から、彼女はそれを奪い取る。
そこには、この病院でのスペシャルウィークの手術を許可すると書かれていた。
「な? ど、どういうこと? 私にはこんな話は……」
男の医者は微かに微笑んだ。
「そりゃそうでしょうなあ、なにしろ、了解を貰ったのはまだ数十分前のことですからね。なあに、心配はいりませんよ。福沢諭吉の絵の描かれた紙きれを、ほんの一万枚差し上げただけですからね。彼は一も二もなく快諾してくれましたぜ」
「一万枚……って、い、一億円!?」
「金額は誰にも言うなと言われていますから、ノーコメントで。金額はね、ふふふ」
彼女はそれを聞いて愕然となった。
まさかあのセンター長が買収に応じたなんて。
それを聞いて怒りにも似た感情がふつふつと湧き上がってきていたところだったが、男の医者は構わずに言い放った。
「それと、どうもこのセンターではスペシャルウィーク号にできそこないの烙印を押して、ここから追い出すことを決めたようですな。そのことも教えてもらいましたよ」
「できそこないって……」
そう言われ彼女は言葉を詰まらせる。
スペシャルウィークを処分するように進言したのは他の誰でもない、この数河井であったのだから。
「だから私がスペシャルウィーク号をどうしようと、もはや誰も文句はなくなったというわけですよ。彼女と彼女の親の手術の承諾書もある。あんたは主治医としてオペに立ち会い、手伝えばそれでいい。最後くらい主治医らしく彼女の為に働け」
ギンと眼光するどく彼女を睨みつける男の医者。
それに見据えられて数河井は全身が硬直した。
明らかに気圧され圧倒された中、麻酔で深い眠りについているスペシャルウィークを見て、彼女はコクリと頷いて承諾した。
「これより、『ミクロフィラリア病巣、および脊髄腫瘍摘出術』を行う。メス!!」