八月の蒸し暑い夜、英国の山間に佇む古城に一人の男が現れた。
襟を立てた熱帯用オーバーコートを着込み、規格帽を目深に被った痩身の男だ。男は酷く場違いな格好で門前に佇み、じっと門を睨んでいる。眼光は帽子の陰に隠れていたが、確かにそこには並ならぬ雰囲気があった。
少し間を置いて、男を門前で女中の格好をした女が迎えた。肌は白く、人形の様に整った容姿の女であった。女が言う。
「何用で――」
言葉の途中で男が銃口を女の額へと押し当て、一切の躊躇無く引き金を引いた。
轟音。
女の身体が大きく傾いで倒れた。しかし、血は流れない。砕けた頭から見えるのは頭蓋や脳漿ではなく、空洞だった。男はそれに特段驚いた顔を見せなかった。否、男は驚くほどに無表情であった。女の頭を撃ち抜いた時でさえ、眉一つ動かしてはいないのだ。彼は城へと足を踏み入れた。
灯りの灯っていない廊下、回廊と抜け、食堂へと出る。食堂ではシャンデリアが輝き、その下には来客を待ち受ける城主の姿があった。
「来客の予定はなかったはずだが?」
城主、黒いドレスを着た金髪の女性が言い、その口元だけが歪んだ。同時に空間を殺気が覆ったが、男は微動だにしなかった。ただ女性を真っ直ぐに見据え、黙っている。
突如、女性の姿が幻の如くかき消えた。それが人の目には映らぬ速度での移動によるものと誰が知ろう。次の瞬間、女性は男の背後へと現れ、片腕を上げ、目を剥いた。
首だけを回した男の片目が真っ直ぐに彼女を見据えていたからだ。
女性は咄嗟に蹴りを繰り出した。男は飛び上がる形でそれを避けた。その瞬間に、彼女の視界が閉じた。交差の一瞬に、男を脱いだコートを覆い被せ、女性の視界を奪っていた。
咄嗟に後ずさる女性の頭へと、男は銃口を合わせる。
轟音が鳴り響き、コートの上から銃弾は確かに女性の頭があったはずの位置へと撃ち込まれた。しかし、女性は即座にコートを振り払うと、そのまま男へと相対した、はずであったが、そこにいたのは先程の女性ではなかった。
「残念。生憎、こちらが本当の姿でな」
その声は確かに先の女性の物であるのに、その姿は先よりも一回りは幼い少女へと変わっている。先の女性の姿は仮の幻覚に過ぎない。この少女の姿こそ、齢数百を数える吸血鬼である彼女本来の姿であった。
少女が手を前に突き出す。
その瞬間、少女の前方の空間に生じた氷塊が男の影を押し潰した。
如何なる原理か。およそ数百キロの氷塊が突如現れ、男へと襲い掛かったのだ。氷塊は男のいた空間を薙いで、そのまま後ろの壁へと激突した。煉瓦作りの壁は打ち砕かれて瓦解した。直撃を受ければ人など原形を残すまい。男の運命は語るも愚かと思われた。
「何者かは知らんが、愚か者だったな」
少女が勝ち誇り、ドレスの裾を叩こうと少し屈んだ。
その時、少女は自らの影が揺れるのを視界の端に捉えた。光が揺れている。即座に光源を見上げ、少女は目を瞠った。男がそこにいた。
男はシャンデリアを吊るす鎖を掴み、シャンデリアの上に悠々と立っている。男が銃口をその手の鎖に向けた。
轟音と共に銃弾を撃ち込まれた鎖が千切れ、シャンデリアは真下の少女へと降り注いだ。
シャンデリアはその下にある全てを押し潰さんと少女へと降り掛かる。しかし、少女の上空、僅か十センチの距離でそれが止まった。否、何か目に見えぬ壁にぶち当たり、自重で押し潰れ始めたのだ。少女が後方に退くと、同時にシャンデリアは再び落下を始める。シャンデリアは木製の机を押し潰し、床に傷跡を作り、そのガラスが部屋全体に飛散した。もはや、部屋は一種惨状の体をなしているのだが、そこに佇む不可視の障壁に守られた少女には傷一つ無い。
しかし、シャンデリアを避けた少女が、再び視線を上げた時には、もう男の姿はどこにも見えなかった。
少女は屈辱に肩を震わせ、振り上げた拳を手近の机へと振り下ろした。木製の机がへし折られ、木片が宙を舞う。その時、彼女に、後ろから声が掛かった。
「コンバンワ。いやぁ、大尉とやりあうなんて流石だなぁ。流石は『闇の福音』、『人形遣い』、『不死の魔法使い』エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。噂に違わぬ腕前だね」
声の主は少年だった。軍服を身に纏い、壁に背中を預け、少女、エヴァンジェリンを見つめて微笑んでいる。歳の頃は十四、五といった風で、そのあどけない表情はこの場に似つかわしくない。その側頭部には人のそれではなく、獣の耳が付いている。
「人の根城を散々滅茶苦茶にしておいて、よくもそんな軽口を叩けるものだな」
エヴァンジェリンは殺気を隠そうともしなかったが、少年はどこ吹く風といった様子でけらけらと笑う。
「壁に大穴開けたのはそっちの魔法じゃない」
エヴァンジェリンが目を細め、腕を少年に向ける。氷塊は間もなく少年を無残に押し潰すだろう。だのに、少年は慌てた風も無く手を上げた。
「待った。僕は特使だ。やりあうつもりは無いよ」
「特使?」
「そう、特使。僕は高名な吸血鬼である貴方を勧誘に来たんだ」
「勧誘? 私をか? 『闇の福音』を勧誘とは、随分と酔狂だな。 一体何が目的だ?」
「目的? 戦争、戦争さ。その為の戦力を僕達は集めている。『闇の福音』については少し調べさせてもらったよ。戦いたくはないの? 吸血鬼である事を謳歌したくはないの?」
少年は意地悪く微笑む。
「君を否定した全てを燃やし尽くしてしまいたくは――」
少年の言葉はそこで途切れた。エヴァンジェリンの手の平の前方の空間に生じた氷塊が、少年の上半身をその言葉ごと抉り潰したのだ。そのまま氷塊は壁面に激突し、推進力を失って落下し、少年の下半身を押し潰した。
「下らん遺言だ」
少年を殺したエヴァンジェリンの顔には氷の微笑が張り付いていた。
「酷いなぁ。あんな殺され方じゃ、原形も残らないじゃないか」
陽気な少年の声が響いた。エヴァンジェリンの後ろで、確かに先程氷塊に押し潰されて死んだはずの少年が椅子に座って笑っている。
「なッ!? 貴様!!」
エヴァンジェリンの声に狼狽が混じった。エヴァンジェリンが再び手を少年へと向けると、少年はまた手を上げ、楽しそうに笑った。
「無駄だよ。僕はどこにでもいるし、どこにもいない。それよりも、ちゃんと考えてもらえないかな? 僕達と共に来るかどうか。『闇の福音』とまで呼ばれ、怖れられた貴方が、こんな処で人と交わらずひっそりと暮らしているなんて、間違っていると思わない?」
少年が笑う。その瞬間、少女の指先から迸った冷気の刃が少年の腕を裂いた。肩から切り落とされた腕が宙を舞う。
「答えは、否だ。小僧」
怒気を孕んだ声に、少年はあくまでも陽気に答える。
「そう、残念だなぁ。少佐も君の事はお気に入りだったのに。それじゃあ、また」
氷塊が少年を叩き潰した。
※後書き※
ちょっと色々と修正しつつ上げなおします。