夜、英国北部の小さな農村が見える小高い丘に人影があった。
黒の帽子を目深に被り、その鍔の下には丸いサングラス、襟を立てた黒のコートに隠れ顔は見えない。穏やかな山景は夜の陰影に押し潰され、巨大な満月から燦々と降り注ぐ光が漆黒を纏った男をより黒く浮き上がらせる。
男が空を見上げて言った。
「良い夜だ。本当に、良い夜だ。こんな夜だ――」
笑う男の口には異常に尖った犬歯が覗いている。
「血も吸いたくなるさ。静かで、本当に良い夜だ」
そう言って、男はゆっくりと村へと向かって歩き始めた。
†††
英国北部、チェーダース村。
六月のある日、村の教会にいる神父のもとに、警官を引き連れた村人達が押し寄せた。その神父は奇妙な男だった。この小さな農村での生活において、日中に件の神父を見た村人が皆無なのだ。
元々この神父、ある日、ふらりと教会に立ち寄ると、そのまま住み着いたのである。また、それと前後する形で、元々その教会にいた牧師の姿が見えなくなった。近隣での行方不明者の異常な多さに神経を尖らせていた村人達や警官が、連れだって神父を問い詰めようとしたのは当然の流れと言えよう。
運の悪い事に、それは夕方、それも夜近くの事であった。
翌日の夜、英国北部、チェーダース村へと続く街道は物々しい雰囲気に包まれていた。街道を封鎖する形で警察部隊が配備され、その傍らの野営用テントに対策本部が設置されている。そこに一人の女性の姿があった。
「一体、あの村で何が起きているんだ!? ヘルシング卿!!」
指揮官と思わしき男は女性の姿を見るなり叫ぶように言った。一方、ヘルシング卿、と呼ばれた女性は落ち着き払った調子で答える。
「ご心配にはおよびませんよ。ここからは、我々の仕事です」
「三時間前突入した警官隊が連絡を絶った。警官が所持していたカメラに映っていた映像がこれだ……」
男が隣の警官に指示を出し、傍らのスクリーンに画像が映し出される。雑木林の映像だった。薄暗がりの粗い画像だったが、その中心に人だかりがはっきりと見える。何かを囲っている。ノイズと、何かの咀嚼音が響いてくる。映像がその人だかりへと近付き、同時に指揮官の男の咽が鳴った。
人だかりの中心に男がいた。男だった物がそこにあった。
四肢と服で、人だかりの真ん中にいるそれが人間の男だと分かる。その人間だった物の上に馬乗りになっている男がいる。それが、振り返る形でこちらを、カメラの方を向き、その姿が見える。血走った目の、血だらけの、幽鬼の如き様相の男だった。そして、その後ろに、腸を引きずり出された人間に喰らいついている人間達の姿があった。
絶叫と同時に、テント内にいた一人が嘔吐した。そんな中、ヘルシング卿と呼ばれた女性は眉一つ動かさずに映像を見据えている。
カメラが反転したのだろう、画面が空を向く。しかし、映像は止まらなかった。幾度か画面が陰ったと見えると、断末魔の絶叫が木霊し、飛び散った何かが画面を黒く染め、映像はそこで終わった。
一瞬、沈黙が流れ、指揮官の男が言った。
「あ、あれは一体!?」
「喰屍鬼です。村の中はグールで一杯のようですね」
「な……一体何の話だ? 話が見えんのだが……」
「あれは吸血鬼に襲われた処女、童貞以外の人間の末路です。吸血鬼に操られているゾンビ共、そんなところですか」
女性は懐から葉巻を取り出すと、火を付け続ける。
「ですから、あの村には吸血鬼がいると考えられます」
「グール!? 吸血鬼だとッ!? い、一体何を言っているのだ!?」
男の怒鳴り声が響く。それを平然と受け流すと、女性は笑った。
「事実ですよ。でも、信じなくとも全然結構。あなた方の仕事は既に終わったのですから。あなた方のような木っ端役人は知らなかっただろうし、知らなくて良いんですが、我々、王立国境騎士団、通称、ヘルシング機関は随分昔から化物共と戦ってきたんですよ」
女性、ヘルシング機関局長、インテグラル・ファルブルケ・ウィンゲーツ・ヘルシングは続ける。
「大英帝国と国教を犯そうとする反キリストの化物共を葬り去る為、我々は組織された特務機関ですから」
「そ、それで、我々はどうすれば良い?」
指揮官の顔には迷乱の影があった。平時なら笑い飛ばす突飛な話であるはずが、彼の周囲の状況が安易な否定を許さぬのだ。先の映像から始まり、警察上層部の対応。いずれにせよ、彼は上層部の指示に従う事にした。即ち、眼前の女性の指示に従う、という事である。インテグラは首を振った。
「何もしなくて結構。いえ、封鎖の続行をお願いします。村の中にはグールを操っている吸血鬼がいます。相手は化物だ。通常の軍隊や警官を投入した所で、奴等に餌を与えているに過ぎません。
吸血鬼は処女、童貞の血を吸った時、自らの血を与えた時のみ血を吸った相手を吸血鬼に転化させて繁殖し、それ以外はグールという化物に変え、自らの勢力を拡大します。しかし……」
インテグラが新しい葉巻を取り出し、火を点けると、強い調子で続ける。
「母体である吸血鬼を殺れば、全滅する。吸血鬼は我々が殺りますのでご安心を。既に我々の中でも特に対吸血鬼のエキスパートをチェーダース村に向かわせてあります」
「何者なのだ? 大丈夫なのかね、そいつは……」
男の問いに、インテグラは微笑む。
「彼の名はアーカード。化物、中でもそう、吸血鬼に関しては誰よりもエキスパートですよ」
†††
同刻、チェーダース村。
そこには家々の間を息を切らしながら走る女性の姿があった。
血で汚れた制服としっかりと握り締めている拳銃から彼女が警官隊の一員である事が窺える。肩まで届くかどうかという金髪を振り乱し、彼女、セラス・ヴィクトリアは逃走の最中であった。
彼女は先刻、村に派遣された警察部隊の一員だった。彼女の仲間は皆死んだ。否、人でないものになってしまった。彼女を身を呈して逃がしてくれた上司も然りだ。
農家の横手を抜け、セラスは街道へ出るべく走る。我が身に、この村に降り掛かった状況は彼女の理解を超えていたが、ただ一つ、大事な事を彼女は理解していた。生きる為の正しい選択である。恐怖はあった。考えれば考える程、混乱し、身が竦む思いがした。
しかし、彼女は走り続けた。そして、そんな彼女が、不意に一軒の民家の前でその足を止めた。息切れを起こし、呼吸を整え、耳を澄ます。
ぐるぐると思考が回る。恐怖と焦燥と躊躇に義務感と猜疑、そして……。息を整える。そして、今度はハッキリと彼女の耳に届いた。子供の泣き声であった。即座に、セラスは民家の扉を開けた。
今、その目に揺るぎはない。
玄関を突っ切ってダイニングに飛び込み、絶句する。眼前に広がるは惨状。ダイニングの中央に、血の海に伏し、喰われたのだろうズタズタになった死体が二つ落ちている。カタカタと身体が震え、カチカチと奥歯が鳴る。彼女はもう一度耳を澄ます。廊下に出て、ベッドルームに進んで、もう一度。
そして、セラスはクローゼットを開けた。
「うぅう、う、お、お母さん……?」
大人ものの服に包まれ、それで泣き腫らした目を拭きながら、クローゼットに隠れていた少女がセラスに言った。セラスは俯くと、ダイニングの死体を思い出し、なるべく感情を顔に出さない様に努めた。
「お母さんは? お姉ちゃん、誰?」
猶も聞く少女の肩を、セラスは掴み、強い調子で言おうとして、
「ここから逃げ――」
「逃げる? どうやって?」
言葉は男の声に遮られた。続いて轟音と共に部屋の入り口の扉が吹き飛び、男が部屋へと入ってくる。神父服を着た男。全ての元凶である吸血鬼であった。
咄嗟にセラスは手にした拳銃を構え、少女を背後に庇う。当然、セラスは男が吸血鬼である事など露とも知らぬ。しかし、この男が敵だと言う事は身に沁みて知っていた。
セラスは思い出す。
先刻、派遣された警官部隊の人員は十余人。それが二つに分散して、それぞれ村、報告を受けた教会へと向かった。セラスがいたのは教会へ向かった一隊で、そこには同僚六人の姿があった。闇の中、報告を受けた教会へと辿り着く。
先刻は未だグール達の徘徊が無く、彼女等は簡単に教会へと辿り着く事が出来たのである。これは罠だったに相違無いが、事情を知らぬ彼女達に見破れるはずも無かった。
辺りは不自然な程の静寂に包まれていた。
隊員の一人が扉を開け、二人が銃を構えて突入する。セラスも後方からそれに続いた。眼前にあったのは真っ暗な礼拝堂だ。彼等が報告を受けていた礼拝堂に向かったという警官と村人達の姿は無いが、暴れた形跡も見て取れぬ。そんな中、一人の隊員が並んだ椅子と先にある壇上を見、薄闇の中に浮かぶ人影を認めた。
よく見ればそれが神父服を着た男の後姿で、その後ろに彼にもたれ掛かる形の女性の姿があった。
一人が咄嗟に銃口を向け、別の警官が事情を聞くべく口を開き、それと同時に、人影が動いた。
その時、確かにセラスは見たのだ。牧師と思わしき男が女性の首筋に噛み付き、その身体を宙に吊り上げていたのである。次の瞬間、警官達が動くなという怒号と共に彼に銃口を向ける。
その時であった。同時に椅子の陰から幾人もの人間が現れたのである。否、それは最早人間ではなかった。目を血走らせ、口腔から牙を覗かせた、幽鬼の如き様相であった。その彼等が突如、一斉に警官隊へと襲い掛かったのである。
現場に絶叫と混乱が満ちた。
最も前方にいた警官が引き倒さる。全員が手にした銃で応戦し、幾つかの発砲があった。しかし、その幽鬼と化した者達は銃弾でも怯まぬどころか、銃弾を受けても平然とにじり寄って来るのだった。状況に部隊の一番後方で混乱するセラスを、前にいた上司が咄嗟に教会の入り口へと突き飛ばした。直後、何かが飛来し、警官達を押し倒した。
人間であった。
牧師が噛み付き、宙に吊り上げていた人間を、首の振りだけで投擲したのだ。幽鬼共の襲撃に混乱していた警官達はなす術もなく押し倒され、分断される。直ぐに彼方此方で悲鳴が上がった。
「セラス、逃げ――」
上司が振り返り、セラスに叫ぶ。しかし、言葉は途中で途切れた。いつの間に接近したのか、上司の前に立った牧師が、その首筋に食らい付いたのである。
「セ、ラス……応…え、んを…本…に……」
最後にセラスが背後に聞いたのは、途切れ途切れになった上司のその言葉だった。
彼女は泣きながら走り、その場から逃げた。
部隊の仲間の事を思い出す。先頭に立っていた警官は同期で良く彼女をフォローしてくれた。その後ろに立っていた警官は気の弱い先輩だったが優しかった。皆、多くの時間を共有した仲間だった。
良く目に掛けてくれた気の良い上司の事を思い出す。警官だった父の友人だったと語るその上司は、その最後まで彼女を気遣っていた。
その最後を思い出す。
正しく、彼等を殺した牧師がそこに立っている。
セラスが咄嗟に拳銃を構えようとして、その腕が固まった。牧師の背後からグールが入ってくるのを見た為である。否、それはただのグールではなかった。警官部隊の面々が、目を血走らせ、幽鬼達の如き様相で部屋に入ってきたのである。
セラスが彼等の名前を叫んだ。しかし、返事は無く、彼等は牧師に付き従っている。彼等のその姿を見たセラスの瞳が怒りと悲しみに揺れ、次の瞬間、牧師に向けた拳銃の引き金を引いた。
銃弾は牧師の米神に突き刺さり、牧師の身体が大きく傾ぐ。
しかし、倒れない。
銃で撃たれても死なぬ牧師のその姿に、セラスが激情から冷め、その背中を冷たいものが伝った。牧師はそんな彼女を嘲笑い、
「ははは、無駄だ。吸血鬼は――」
「銃なんかじゃ死なん」
牧師の言葉を遮る言葉と共に、突如、壁を貫いて飛来した弾丸が、牧師の周りを取り囲むグール達に撃ち込まれていく。すると、先の警官部隊の発砲を物ともしなかったグール共の四肢が千切れ、次々と倒れて動かなくなっていったのである。
「ただの銃ならな」
階段を上る音と共に、射手は続ける。
「ランチェスター大聖堂の銀十字錫溶かして作った13mm爆裂鉄鋼弾だ。こいつ喰らって平気な化物なんかいないよ」
「な、何者だッ!?」
狼狽する牧師と、倒れた仲間達だったモノを放心した様に眺めるセラスの前に、その男は現れた。血風を切って現れた男は、黒尽くめの格好でその全身は血に染まり赤黒く、妖しく光っている。
また、牧師が狼狽するのも当然であった。この家は彼女等を逃がさぬ為に、牧師が数多くのグール達に包囲させていたのだ。誰も出る事は出来ず、来る事もまた然り、であったはずである。膂力と耐久性で人を遥かに凌駕し、銃火さえ脅威とせぬグールの群れをこの男は単身突破してのけたのである。
「いい加減にしておけよ、お前。最近の若いのは全く下種だ。モラルも何もあったもんじゃない。ああ、名を聞かれたんだったな。俺の名前はアーカード。特務機関ヘルシングの手先のゴミ処理係……お前らみたいなの専門の殺し屋だ」
「ふ、ふざけるなッ!! 人間などにッ!!」
銃口を向けようとするアーカードに対し、咄嗟に牧師はセラスの腕を掴んで引き上げ盾にする。セラスは咄嗟に腕の中の少女を逃がすも、自身は腕を捻られ銃口の前に突き出される格好となった。その恐るべき膂力に、セラスの腕が悲鳴を上げる。その様を見たアーカードがセラスに向かって口を開き、
「お譲ちゃん――」
直後、セラスの拳銃を奪った牧師が引き金を引き、銃弾がその額を割った。ぐらりとアーカードの身体が傾ぎ、猶も牧師は弾丸を撃ち尽くすまで引き金を引く。しかし、何発もの銃弾を撃ち込んでいた男の表情が、不意に凍る。
地の底から這い出るような笑いが不気味に響いた。
「クク……ククク、クハハハ、銃なんぞ撃ったって無駄だ。吸血鬼は銃なんかじゃ死なん」
アーカードが言った。既に身体を起こした彼のその額には、傷跡すら見当たらぬ。
セラスが動いたのはその時だった。動揺した牧師の隙を付いて腰から抜いたナイフで牧師の腕を刺したのである。その時、その目にあったのは仲間をグールにした牧師への怒りか、否か。
「な、き、きっ、貴様ッ!!」
直後、逆上した牧師の腕がセラスの胴を前後に貫いた。ぱっと鮮血が辺りに散って、内臓から競り上がった血がセラスの口腔から毀れる。セラスの足が揺れ、前のめりに傾いだその身体を、アーカードの左腕が抱きとめた。と、同時にアーカードの身体が撓る。
牧師が本能的に飛び退こうとして、気付く。その時、最後に彼は、それを阻む自らの腕を、自らを刺し貫いた牧師の腕を掴むセラスを見たのである。牧師のその顔が歪んだのは驚愕に寄る物か、否か。
次の瞬間、アーカードの右腕が、一撃の下に牧師の上半身と下半身を断ち割ったのであった。
牧師の始末が終わり、アーカードは腕の中で虫の息と成っているセラスに向かって言うと、
「長くはもたんな。どうする?」
笑いながら自らの指先に牙を立てた。
†††
街道に設置された対策本部へ戻ってきたアーカードは二人の人間を抱えていた。一人は唯一の生き残りの少女。そして、もう一人……。
アーカードの姿を見て取ったインテグラが微笑む。
「良くやったアーカード。首尾は?」
「母体は倒した。生存者は一人」
アーカードの言葉にインテグラが訝しげに聞いた。
アーカードはその腕に二人の人間を抱えているからだ。片方は少女。もう一方は婦警である。どちらも疲れ切ったのか、折り重なるようにアーカードの腕の中で寝息を立てている。
「一人?」
「ああ、片方死んでいる」
そう言って、腕の中のセラスの上唇を引っ張ると、その長く伸びた犬歯をインテグラに見せた。それは正しく、吸血鬼と化した証に他ならない。
「な、何やって――」
インテグラの罵倒の言葉を遮り、畳み掛けるようにアーカードは言い、
「唯一の生存者はこいつの手柄だ。ヘルシング機関で引き取る。以上」
セラスのものと同じく長い犬歯を見せて、笑った。
†††
同刻、村の北東にある雑木林。
グール達の死体が転がる中、その傍らに二つの人影があった。
互いに神父服を着た神父に違いないが、彼等は互いに相対していた。一人は分厚い眼鏡を掛けた銀髪の優男、一人は壮年の柔和な顔立ちの神父である。
眼鏡の神父が言った。
「向こうが派手に暴れている隙に逃走とは考えましたね。元々吸血鬼だったのは、あちらの牧師ではなく貴方の方だ。アレクサンダー・スコット神父――父と子と精霊の御名において、貴方を十数件の殺人及び、血液強奪の容疑で逮捕しま――」
長々とした口上は失敗だったと言う他あるまい。言葉の終わらぬ内に、スコット神父の腕が翻ったと見えると、袖先に隠したナイフが音も無く相対した神父へと飛来し、その胸へと突き刺さったのである。彼もまた吸血鬼なのだ。その膂力は人間と比べるべくも無い。
「愚昧さ故の過ち、死して償うが――」
鼻を鳴らしたスコット神父の言葉は頓狂な声に遮られた。
「酷いですね。いきなりですか」
金属の砕ける音が辺りに響いた。男の胸に突き刺さったナイフが異様な音を上げて僧衣の中に沈み込んだのである。驚愕に吸血鬼が呻いた。
「き、貴様、同族、吸血鬼か!?」
「いえ、私は――です。私の上司はスキャンダルが嫌いでしてね。神父ともあろう者が転向された事を外部に知られたくないそうです……」
何処から取り出したものか、男の手には両刃の大鎌が握られている。それは満月の下に光る三日月の如く映った。男が告げる。
「いまやミサは終わりぬ――終わりです、スコット神父」