その日は酷く激しい雨が降っていた。
まるで白と黒の絵の具を混ぜ込んだような黒い雲の隙間から、ときおり雷が発する光と音が漏れ出ている。雷だけではない嵐が吹き荒れる音、空からもの凄い勢いで降る雨が地面に叩きつけられる音など、大地には自然の不協和音が溢れ出ていた。
この一年に一度あるかないかの悪天候はこれから起こるであろう戦いを予感させていた。
ここナザリック大墳墓のロイヤルスイート内の一室では、後輩が自室の中にある物をかき集めていた。クローゼットの中の衣類も、集めていたポーションも、使わずにとっておいたマジックアイテムなども全部、無限の背負い袋やアイテムボックスの中に入れていく。
部屋の中はまるで泥棒でも入ったかのように物が散乱しているが、そんなことを気にする余裕は後輩にはない。とにかく少しでも多くの私物を持ち出そうと必死で、使えそうなものをかき集めている。
何故、後輩はこんなことをするのか?
理由は簡単。ナザリックが行って来た所業に耐えきれなくなり離反を決めたからだ。
最近のアインズはおかしい。魔道国となり魔道王となってからは特にだ。
歯向かう者は容赦なく粛清を行い、敵対する風潮のある組織には先制攻撃をしかけ、人間を使った人体実験や、非人道的な虐殺など、日が経つに連れてその悪魔のような所業は酷くなっていった。
後輩は考える。モモンガは段々と人間であった時の心がすり減り、魔道王アインズ・ウール・ゴウンとしての人格が強くなってきてるのはないかと。
最初に転移した時にはまだ人間としてモモンガの人格は残っていたのだろう。情報収集のためとは言え虐殺が行われている村を助けに行ったりしていた。だが今では虐殺をする側に回り、全てを支配しナザリックの栄光を広めることに心を奪われてしまっている。
後輩はそれが何よりも辛かった。
もう殺すのも、殺されそうになるのも、両方に疲れた。全てが嫌になったのだ
後輩はアインズとは違い心の本質は変化していなかった。
それはカルマ値がマイナスでなかったことや、亡霊という種族が人間種に近いことなど様々な理由が重なったからである。だから悪にはなり切れなかった。
また異世界への認識の違いも離反の理由の一つだ。
モモンガの現実世界での境遇はユグドラシル時代に聞いたことがある。そのためこの異世界で、想像から実像になったナザリックと生きていくという判断を否定はしない。だが、後輩は違う。故郷に家族や友人を残しているのだ。帰らないわけにはいかなかった。
最初に転移した時に二人の意見は衝突し小さな軋轢を生んだ。だがその軋轢は段々と大きくなっていく。今では後輩に帰還の方法を探らせないないために、NPCによる監視付きでナザリック内での業務を押し付けるなど行動を制限する半ば軟禁状態であった。
もう限界だった。
亡霊の体には心臓はない。だが心はある。その心が淀んでいくの感じていたのだ。
たとえ争うことになったとしても、自分の意思を曲げるつもりは毛頭なかった。
この命のやり取りが軽い異世界にも、人間を虫けらのように扱う異形種にも、くだらない戦争ばかりをする人間種にも、そしてそれら全てを見下し傲慢に振舞うナザリックにも、暗く深い嫌気が差したのだ。
私室ということで現在は監視はいない。無限の背負い袋に私室にあったアイテムをあるだけ詰めた。行く当てはないが、とりあえずはこの世界を旅しながら帰還の方法を探そう。
最後にナザリックを抜ける際に戦闘になることを見越してフル装備の状態になる。
出来れば争いたくはないのだが最悪の事態は想定しなければならない。
私室から一気に<<上位転移>>を使い近くのトブの大森林に飛ぶ。
激しい雨が後輩の体に叩きつけられる。離反するには相応しい天候だ。そう思い灰色の世界の中をただ一人駆け抜けていく。
後輩のたった一人での反逆はこうして始まったのだった。
◆
その日、魔導国魔導王「アインズ・ウール・ゴウン」は自室で一人事務仕事を淡々とこなしていた。魔道国が出来てからは仕事が山積みで中々部屋からは出れなくなっていた。聖王国や帝国、王国、法国など各国との国交や、ナザリック内の管理など仕事は山ほどある。デミウルゴスにぶん投げてもいいのだが、そこは魔道王としての威厳を示すために自分で出来る範囲は自分でやろうと決めていた。
こうしてアインズは忙しいながらも充実した日々を送っていたはずだった。しかし、現在の生活に満足している一方で不安なところもあった。それは同じギルメンの存在についてだ。
現在ナザリックには後輩と呼ばれているギルメンが一人在籍している。そのギルメンが現在のナザリックの状況をよく思っていないようなのだ。
自分と共に転移したギルメン「後輩」は意見の食い違いなどからいつナザリックを抜けてもおかしくない状態であった。そこでアインズは監視付きで大墳墓からださないようにしているがいつまで従うかは分からない。アインズは常に監視の目を光らせていた
仕事を切りの良い所まで終わらせたところで大きく背伸びをする。オーバーロードである自分の体には肉はないのだが何となく肩が凝っているように感じる。
その時、急にメッセージより連絡が入る。相手はアルベドであった
『アインズ様報告します!ただいま監視していた対象がナザリックを抜け逃走中。私室からはアイテムが持ち去られていることから離反の可能性が強いかと』
その言葉を聞いた時にアインズの心は大きく揺れ動いた。いつか来るであろう恐れていたことが起きてしまったからだ。だがすぐに鎮静化により平常心を取り戻す。
「追跡はどうなっている?」
『つつがなく、ニグレド他索敵系の配下が追跡しております』
「わかった。いまから10分後に奇襲を仕掛ける。予想地点に転移門を発生させ私を含めた守護者全員で拘束する。他の守護者達にも装備を整えておくよう伝えろ」
『了解しました』
話を終えたアインズは大きくため息を吐きながら自らの準備に取り掛かる。洗脳されたシャルティアの時と同様に、決して負けてはならない戦いをしなくてはならない。
本当の幸せのためにも絶対に勝つ。
自分自身のためにも後輩のためにも。
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俺は部屋の端にうずくまりながらソリュシャンから受けた仕打ちを必死に忘れようとする。昨日の攻めがこれまでで一番酷いやり方であった。考えれば考えるほど吐き気と頭痛が止まらない。
痛かった。苦しかった。辛かった。両腕両足が溶かされていく感覚が今でも脳裏にこびり付いてる。その次の水責めだって容赦というものが感じ取れなかった。
ソリュシャンは言った。
『いつまでも耐えられる訳ないじゃない』っと。その通りだ。こんなことがずっと続けられていくのならいつの日にか頭がおかしくなるだろう。
心が蝕まれていくのを感じる。殴られ溶かされ溺れていく内に心が病んでいくのだ。このままいけば壊れてしまう。
ならいっそ至高の存在に戻ったらどうか?それでもやはり変わらないだろう。一度逃がした鳥を再度逃がすほど先輩も馬鹿じゃない。きっと今度はもっと厳重に監禁されることだろう。
行き場のない怒りが叫びとなって声から漏れ出る。
「クソっ!何でっ!何でだよ!俺が何をしたっていうんだよ!俺は……俺はただ、帰りたかっただけなのに……うぅ……」
熱せられたように熱い怒りは、どうしようもない悲しみにより冷たく冷やされ涙へと変わっていった。目からは大量の涙が堰を切ったように溢れ出ていく。その瞬間、胃がキリキリと痛みはじめ急激な吐き気を催す。
急いで便器のある方に向かいそこに向けて胃液だけの吐瀉物をこぼしていく。
「ハァ……ハァ……」
気分が悪い。
もう嫌だ。
助けて。
「……大丈夫……大丈夫だからゆっくり息をして……」
平坦だが優しい声が後ろから聞こえる。
誰かが背中をさすってくれている。
視界がチカチカし始め、頭から血の気が引いていくのが分かる。どうやら貧血を起こしたらしい。立っていられなくなりその場に倒れかけるが背中をさすってくれていた誰かが体を支えてくれた。それを最後に俺の意識は瞬間的になくなった。
目を覚ました時に一番最初に見えたものは自分のことを無表情で眺める『シズ・デルタ』の顔であった。体勢はどうやら膝枕をしているらしく後頭部から柔らかい太ももの感触を布越しに感じる。
目が合って数秒経つがシズの方からは何も言ってこないので、俺の方から話しかける。
「シズ……俺はどうなったんだ?」
「……たぶん貧血だろうって……ナーベラルが言ってた……」
「ナーベラルも来てたのか?」
「……そう……一緒にお世話してもいい?って……頼まれたから……」
「そうか」
もしかしてナーベラルは前の時に嫉妬でボコボコにしたことを引きづっているのだろうか?まあ、どちらにしても今回の当番はシズがメインだから酷い目にあわされることはないと思う。いや、思いたい。
「それじゃあ、ナーベラルはどこに行ったんだ?」
「……胃に優しい食べ物と薬を取りに行った」
あ、やっぱ前回のことを気にしてたんだな。
というかいつまでも膝枕の体勢じゃ恥ずかしい。シズも見下ろすようにして俺の顔をじっと見つめてくるし。
「あの……もう起き上がれるようになったしさ、だから膝枕はもういいよ」
そう言って立ち上がろうとるが、シズは俺の頭を押さえて起き上がらせないようにする。シズも力をそこまで強く出してるわけではないが、腕と足をはやしたばかりでなおかつ体調が優れず力が出ないために簡単に力負けしてしまう。
「……まだ、起き上がってはダメ……もう少し休んでいて」
「はぁ、それじゃあお言葉に甘えるか……」
仕方なく膝枕の体勢のままであきらめてリラックスすることに専念する。
自動人形でも太ももは柔らかいんだなとしみじみ思う。
そのうちにシズは載せている俺の頭を柔らかい手つきで撫で始める。正直に言えばかなり恥ずかしいが、気持ちいいのも確かであるため受け入れる。
「…………」
シズの顔を横目で見ると無表情ながら以外にも少しだけ楽しそうだった。昨日の凄惨なお世話に対して今日のお世話はまさに天国だった。どうしてこうもNPCによって対応が違うのか。
俺はNPC達のことは嫌いではない。みんなで作り上げた子供たちのようなものだ。だけど今はその子供たちに嫌われている。俺が現実世界へ帰ろうとしたことでモモンガ先輩の意思に反した反逆者になってしまったからだ。
そんな中でも一部のNPC達は好意的に接してくれている。それが不思議だった
「シズ、一つ聞いて良いか?」
「……何?」
「どうしてシズは俺に優しいんだ?俺は反逆者なのに……」
シズは少しだけ口をへの字に曲げた後に答える。
「……少なくとも……私達プレアデスはあなたのことが好き……でも、その愛の伝え方はバラバラだから…………私は……優しくすることで……伝わると思う」
「そうか……もし、俺がナザリックを去ったらどう思う?」
「………………考えたくもない」
シズの思いを聞くと俺自身が自分勝手な人間のように感じてくる。ナザリックを作った一人としてここに留まることが正解なのではないだろうか。責任を取ることが正しいのではないかと錯覚させられる。現実世界で俺の帰還を望んでくれる人がいる保証はない。
だが少なくともこの異世界では俺が留まることを望んでくれている人がいる。そう思うと至高の存在に戻らなければと感じてしまう。
…………ダメだ、絶対に帰るんだ。絶対に!
「シズ、薬と食べ物を持ってき――……」
俺が考えごとをしていると部屋にナーベラルが入ってくる。
シズに膝枕をされている俺を見て一瞬、動きが止まる。
ああ、クソまたこのパターンかよ。今回はルプスレギナが絡んでいないだけマシか。
「もう具合が良くなったようで良かったわ反逆者、これなら少しぐらい殴られても平気そうね。それとも殴られるのが嫌なら蹴る方にしましょうか?」
俺は急いで立ち上がり後ろに引く。それに対して持っていたバスケットを床に置いたナーベラルがじりじりと迫ってくる。
「や、やめて」
「体だけじゃなく口の方も調子がいいみたいね。良い悲鳴を期待してるわ」
俺とナーベラルの間にシズが割って入ってくる。
「……落ち着いて、暴力は今日はダメ」
「……シズがそういうなら」
ナーベラルは可愛い妹に止められ引き下がる。
今日の当番はシズなために勝手に行動はできないのであろう。
今日はどうやら痛い思いをせずに済みそうだ。
『辛い思い』の後の『甘い夢』から抜け出すのは中々難しい
前話はかなり悩んだので今話は気楽に書いてます