深緑の火星の物語   作:子無しししゃも

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7,アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、
8,その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
9,そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎををささげて、これを罪祭としなければならない。
10,

『レビ記』より


第105話 聖絶の日

──ローマ連邦 大統領府

 

「……いやいや。いやいやいやいや」

 

 大統領執務室の整えられたデスクにて。

 ローマ連邦大統領、ルーク・スノーレソンはタブレット端末を前に首を小刻みに振っていた。

 

 発端は数時間前。

 シロたちを任務に送り出してからしばらく経ち、想定される標的との接触時間はもう過ぎている。

 事が首尾よく進めば、近く報告が帰ってくるだろう。

 それが本人たちによる成功の知らせか諜報部の人員による失敗の知らせか、どちらかはわからないが。

 

“俺としちゃ、どちらに転んでも悪くない”

 ルークは現状を思い、言葉なくシニカルな笑みを浮かべた。

 成功すれば御の字だ。お上(ニュートン)にとっての脅威を早期に排除でき、計画はより一層盤石となる。

 失敗しても然程悲観する程ではない。

 シロは研究材料として大きな価値があるものの、一方で潜在的なリスクを抱えた存在である。

 中国の機密施設から逃げ出したという、特大の爆弾。

 

 ニュートンの上層部は中国軍の一部と接触して結託している向きこそあるが、それでも総体としては軋轢の源になりかねない。

 最悪、この大統領府で奪取・暗殺劇が巻き起こってもおかしくないだろう。

 故にシロとエミリーをここで失っても諦めは付く。

 私人としてあの二人を悪く思っているわけではない。どちらかと言えばむしろ逆だ。

 だがそれでも、政治家としてのルークはそこに情を挟まず冷静な判断を下すことができた。

 

 作戦の成否、そのどちらのパターンも想定し今後の戦略を立てていく。

 しばらくして、無事大枠は決まりようやくひと段落。時期当主様に見せる資料もきっちり整えた。

 そうして微かな満足感に浸りながら、ルークはすっかり冷めてしまった珈琲を啜った。

 

「大統領! これを……!」

「あん? どうした騒がし──」

『跪き、全てを委ねろ。そうすれば、永遠の幸福を約束してやろう』

『“ニュートンの一族”の教皇。このロムアルド・イデア・アポリエールがな』

 

「つぁあ!? ゲホッゴホッ!!」

 

 そして即座に吐き出す羽目となった。

 秘書に渡されたタブレット端末には、荒唐無稽な演説を行う男が映っていた。

 同時に、宇宙から核兵器を搭載したミサイルが降ってきた、という報告も。

 

「なに? 世界征服? は?」

 

 かくして、今に至る。

 汚れた机に目も向けず、ルークは疑問の言葉を繰り返す。

 これがただの得体の知れぬテロリストの声明であれば、ルークはさして大きな反応もしなかっただろう。

 宇宙から攻撃を仕掛け各国の迎撃尽くをすり抜ける技術力。宗教染みたその姿。

 異常な状況の数々に対しても、思考を停止したりはしなかった。

 おいおい勘弁してくれと首脳らしからぬ調子で愚痴を吐きながら、分析と各所への指示を進めていたに違いない。

 

 彼の激しい動揺、その原因はただ一点に集約されている。

 

「いや一族て……何やってくれてんだ……!」

 

“ニュートンの一族”の教皇。

 それは画面に映っている男、ロムアルドが名乗った肩書だった。

 

 基本的に、一族の者は支配者として歴史の表に出ることを好まない。

 確かに、彼らの噂は『人間を品種改良している者たち』『大企業の上層部に少々不自然な程多い幾つかの姓とその者たちの親類関係』としてまことしやかに囁かれこそしている。

 だが、一族という纏まった存在を自分たちから表ざたにする事はまずない。

 

 その禁を、画面の向こうにいる男は堂々と侵した。

 無論、ルークはこの件について何の事前連絡も受けていない。

 計画の全てを共有されると思うほど自惚れてはいないが、それでも世界秩序そのものに大きな影響を及ぼすような行動について何も知らされないのはさすがにおかしいだろう。

 

 顎に手を当て、ルークは今ある情報を整理していく。

 ロムアルドという男が名乗った姓は、一族の当主筋たるニュートンではなかった。

 アポリエールというその家名には聞き覚えがある。

 傍流のまた傍流だと以前ジョセフから説明を受けた、宗教団体を運営していた(・・)という一族だ。

 一時期は本家でも無視できない規模に膨れ上がったというが、マフィアとの抗争で大きな打撃を受けた末に内部抗争でほぼ壊滅したという。

 

「バカが逸りやがったか……?」

 

──過激派の暴走。

 ルークは此度の経緯についての予想をそう結論付ける。

 過去の栄光が忘れられず、一族そのものを騙って短絡的に世界の支配を成そうとした。

 なんとも人間臭い矮小さだ。

 

「……」

 

 しかしそこで、ルークは侮蔑一辺倒に傾きかけた思考を止める。

 ただの愚か者にしては、得体のしれない不気味さが拭えなかったのだ。

『教皇』という肩書通り、宗教指導者を彷彿とさせる豪奢な服装をしている。

 しかし、今この瞬間彼が座していると思わしきその広間は、富と名誉に眩んだ者の玉座にしては不自然な程に殺風景だった。

 

 唯一目立つ部分と言えば、ガラス張りの天蓋から覗く空、そこに映る地球のみ。

 並大抵の弾道ミサイルを凌ぐ規模の兵器を発射できるだけの土台。

 現状の情報から推測できる敵の所在地、其処は──。

 

「大統領、失礼いたします! 至急判断を仰ぎたく!」

 

 そこで、ルークの思考は中断された。

 秘書に続いての来客が執務室の扉を開け放ち、足早に駆け寄ってくる。

 一国のトップの執務室への無許可入室は、本来ならそれだけで射殺されてもおかしくない蛮行だ。

 

「聞かせろ」

 

 ルークは無礼を咎めなかった。

 執務室への連絡を仰せつかるような者が、作法を知らぬはずがない。

 ならば、そんな事を気にしていられない程の事態が起こったに違いないだろう。

 

「怪しげな法衣の者たちが、今後のこの国(ローマ連邦)の統治について話し合いたいと……」

 

 来客──軍装に身を包んだ男の顔には、困惑の色が濃く見られた。

 それはそうだ、とルークは納得する。ロムアルドの演説から察するに、得体の知れない連中が恐らく上から目線で『自分たちに国を譲ってもらう話』を始めたのだろう。

 頭のおかしい輩が来たと追い返さずに判断を仰いだだけ、大統領府の警護員は優秀だと褒めてやりたかった。

 

「わかった。少し待ってくれよ……」

 

 やっぱり今から病欠は許されるだろうか。許されねぇよな。

 内心でひときわ大きなため息を吐き、ルークは突然襲い来た非常事態について、さらなる考えを巡らせ始めるのだった。

 

――――――

──ローマ連邦 某所

 

「月、でしたね。ジョセフ君の予想通りです」

 

 緊急の招集を受けた会合の席で、褐色の肌を和装に包んだ青年──エロネ・新界は単刀直入に結論を述べた。

 壁に埋め込まれたモニターには、複数のセンサーによる観測資料とそれにより割り出された此度の攻撃元が映し出されていた。

 地球の衛星、月。

 礫岩の荒野広がる地表を映した写真の一点には、奇妙な盛り上がりがいくつも見て取れる。

 金属と思わしき層が所々露出しているそれは、隠蔽された建造物が存在していた証拠である。

 

 モニターを囲む人影は少ない。

 まだ招集をかけてから三十分程しか経っていないため、一族の会合拠点であるこの地下室に集まっているのはたった三人だ。

 エロネから報告を受けた残りのふたりは、それぞれの反応を示していた。

 

「ああ」

「ってことは、落ちてきたあれって……」

 

 時期当主有力候補、ジョセフ・G・ニュートンは思索に耽っている様子で、最低限の返事だけを。

 一族上位に名を連ねるひとり、ファティマ・フォン・ヴィンランドは片頬に指を当て思い当たる節があると呟く。

 

「“システマ・セレーネ”。私たちの先祖様(・・・)の遺産だろう」

 

 ファティマに繋ぐように、エロネがその答えを告げた。ジョセフもまた、無言のまま頷く。

 女神の名を冠する機構。

 それは数百年前に発案された“世界支配”の手段が一つである。

 

 如何にして、世界の王として君臨するのか?

 当時、ニュートンの一族はその目的の為に様々な手段を検討していた。

 

「武力による世界秩序を目的とした戦略兵器……。詳細は上層部のみ閲覧可能なクリアランスレベルの代物だが、まさか実際に目にする日が来ようとは」

 

 その内ひとつが、先程地球へと突き立った大槍であった。

 反撃不可能なプラットフォーム──月面に築いた発射基地から迎撃不可能な速度、機動性のミサイルを投射する事によって、地上のあらゆる地点を焼き尽くせる体制を確立する。

 名の通り、神の裁きが如き兵器による恐怖の下で成り立つ世界の支配。

 

 まるで物語の悪役じみたその計画は、現代に伝わる一族の史書では『案に詰まった末の暴論』『酒の席での与太話が大真面目に受け取られた』として半ば笑い話じみて語られている。

 だがどのような経緯か、この兵器そのものは実際に設計が行われ月面の基地と共に実戦配備一歩手前までたどり着いたという。

 エロネもかつて説明を受けたことがあったが、その性能は数百年を経た現在でさえ各国が所有する類似の兵器を凌駕する程との話だった。

 

「今まで保管していたか密かに製造し輸送したのかはわからないが……このままでは拙い」

 

 目に影を落としたエロネの言葉は、重い。

 その威力の程は、各国の防衛線を貫き着弾したという一幕を見ての通りだ。

 ニュートンの歴史に葬られたはずの兵器が、今世界に牙を剝いている。

 看過すれば、間違いなく一族にとって良い方向には進むまい。

 

「……もぉ! 何やってるのよあの連中!」

 

 重々しい空気に、事態の切迫を改めて感じ取ったか。

 三人の中である意味最も責が重い人間が、ついにこらえ切れず声を張り上げた。

 アポリエール家は、ファティマが属するヴィンランド家の分家にあたる家系である。

 

 いくらニュートンの一族が人類最先端を行く存在と言っても、長い歴史で多数が生まれれば外れ値が生じるのはどうしようもない。

 加えて本家から遠のき血が薄まれば、理想から外れた俗物も混じってくる。

 アポリエールという分家は、その象徴とも言える家系だった。

 本家の方針に真っ向から反する信仰を掲げた末、最後にはその祈りすら失い世俗的な欲望に駆られ破滅した愚かな一族。

 当時は随分と肩身が狭い思いをした、とファティマは親世代から聞いていた。

 

「……此度に関しては例外が多い。嘆く暇があるなら実のある意見を出した方がいいだろう」

「エロネがフォローしてくれるなんて、ちょっと不気味ね……」

 

 引き気味のファティマから顔を背け、エロネは近い内に当主を継ぐだろう青年を見た。

 別にファティマを気遣ったわけではない。

 自分たちにとって望ましくない事実を言ったまでの話だ。

 普段は快活に議論を主導しているジョセフが黙っているのも、それについて考えているからだろう。

 

「ファティマ。今の彼らに、今回の事態を起こすだけの力が残っているか?」

「それは……そうだけど」

 

 エロネの言わんとする内容を察し、ファティマは表情を硬くする。

 今回の一件には不自然な点が多い。

 一族の恥部と言えるアポリエール家の生き残りたちは監視されている。はず、だった。

 だというのに、今回の兆候を察知することができなかった。

 まずその時点で、何かがおかしい。

 

 さらには、起こした事態の大きさについて。

 ニュートン上層部しか知り得なかったはずの惑星外の施設を稼働可能なまでに整備し、並大抵の資金と技術では運用不可能な兵器を用意する。

 それを世界中の通信を同時に乗っ取り、通達する。

 これが、凋落した一分家の残党程度に成せるものだろうか?

 

 最後に、首謀者に対して感じる違和感。

 ロムアルドは『“ニュートンの一族”の教皇』と名乗った。

 演説の内容からもわかる通り、己こそが支配者だと大衆に知らしめたい類の名誉欲、承認欲求の強い男だ。

 本家に対して悪感情を抱いているのも伺える。

 ではどうして、わざわざニュートンの名を名乗った? アポリエールの名を掲げるのがあるべき流れではないのか。

 何よりおかしいのは、そもそもロムアルドという男はこの場の三人が知る限り……。

 

「──先手を打たれたか」

 

 それら、諸々の情報を脳内で整理したジョセフの小さな呟きには、如何なる意味が込められていたのか。

 

「さっき、大統領から連絡があったんだ。教団の連中が“統治交渉”と称して武装状態で首脳との会談を求めてるって。それもローマ連邦だけじゃなくて、複数の国で……らしくてね」

 

 己が知りえる現状を、ジョセフはひとつ、また一つと開示していく。

 

「具体的には、日本、アメリカ、ロシア、ドイツ、中国。ものの見事に、主要国ばかりだ」

 

 世界そのものを相手にした陰謀。

 そこに相対する筆頭と言えるのは、主要国の首脳たちだろう。

 困難多き現代の大国を牽引する者たちに、無能などいない。

 海千山千の彼らがそう容易く連中の軍門に降るとはこの場の誰も考えていなかったが、それでも相手にしないという選択は現状を考えると難しい。

 

「ファティマ。アレ(・・)を撃とうと思うから、根回しをお願いできるかな? 皆には『事後承諾でごめん』と謝っておいて」

「アレって……叔父様、まさか」

 

 これは、時間が経てば経つほど厄介になる類の問題だ。

 早急に対処を考える必要がある。

 故にジョセフは、手札の一つを切ると決めた。

 ファティマは一瞬躊躇ったようだったが、ジョセフの頼み通り方々へと回線を繋げていく。

 

「……取り急ぎだけど、招集は中止する。以後しばらく、会合は直接会ってじゃなくて機密回線で。皆にはできる限り分散して身を守ってもらうよう伝えてほしい」

「ジョセフ君、それは……」

 

 次いで、一族への今後の対応を。

 後半はわざわざ言われなくてもわかってるだろうけどね。

 そう苦笑しながらジョセフが下した判断に、今まで鉄面皮を守っていたエロネの表情が微かに動いた。

 分散による安全確保。すなわち、リスクの軽減。

 それはまるで、一族の上層部でさえ命の保証ができない事態が今から起こるとでも言っているかのようだ。

 

「まずどこから話したものか、とは思うんだけど……」

 

 そんなエロネの考えを、肯定するように。

 

「……これから、地球規模の戦争が始まるかもしれない」

 

 ジョセフは、これより訪れる事態を静かに口にした。

―――――

 

『今から私の使徒たちが諸君らの元を訪れるが……賢明な判断を期待しようではないか』

 

 そう前置きがあったからだろうか。

 突如として各国の国政を司る府へと修道服の一団が現れたことに対する混乱は、然程大きくなかった。

 

 灯を手に粛々と行進する彼らの姿は、厳かな宗教的儀礼を彷彿とさせる。

 遠目で見る者からすれば、神聖に映るのだろう。

 その光景を見て平静を取り戻す者がいた。己の信仰を思い、平穏であれと祈りを捧げる者もいた。

 

 一方で、彼らを至近距離で目の当たりにした人間は、また違った感想を抱くこととなる。

 

「……っ」

 

 ロシア連邦、首都モスクワ。

大統領府正門前で警備に当たっていた兵士のひとりは、真正面から歩み寄ってくる聖職者の集団に動揺の息を漏らした。

 一糸乱れぬ動きでしずしずと歩みを進める姿こそ、平静を保っているように見える。

 

 だが、間近で見ればそれが上辺だけであるとすぐにでも気付けてしまった。

 ぎらぎらとした、粘り付くような欲の気配。

 まるで長年の鬱憤を晴らす機会が訪れたかのような、貯めこまれた負の感情が漏れ出しているかのような不穏な空気。

 むせかえるような情念の空気を浴びて、まだ兵士としての歴が浅い彼は思わず一歩後ずさる。

 

「聖下の御言葉は既に届いているだろう。入らせてもらおうか」

 

 彼が横を見れば、同僚たちも似たような反応を示していた。

 そんな兵士たちへの嘲弄を隠そうともせずに、一団の先頭に立っている神父と思しき男が門をくぐろうとする。

 

「現在、その件について臨時の会議が行われています。少々お待ちいただきたい」

 

 その進路を身体で塞いだのは、この場の警備を取り仕切っている隊長だった。

 

「だったら何の問題もないだろう。これからは、我らも君たちと手を携え国を良くしていくのだからな」

「……」

 

 ひりついた空気が、場に走る。

 厭味ったらしい芝居がかった声は、ある事実を兵士たちに確信させた。

 こいつらは自分たちが招かれざる客だとわかった上で、わざとああ言ってこちらの反応を楽しんでいる。

 

 心底から自分たちの行いが正しいと思い込んでいる狂信者などではない。

 唾棄されるべき事をしているとわかった上で、それに対してなすすべがない相手を嘲笑っているのだ。

 

「それとも何か? 聖下のご意思に、何か申し立てがあるとでも?」

「コイツ……!」

 

 神父がわざとらしく首を傾げれば、その背後から押し殺したような引き笑いがいくつも上がる。

 隣の同僚が思わず銃を構えようとしたので、兵士は慌ててその手を押さえる。

 こいつらを通すわけにはいかない。だがそうなれば、連中はこちらから手を出すまで好き勝手を言い続けるだろう。

 言葉での挑発だけなら堪えればいいが、それが暴力に代わらない保証などどこにもない。

 このままでは惨事は避けられないと、兵士は諦観に唇を嚙みしめる。

 

「皆様、落ち着いてくださいませ。主がこのような争いを見たら、悲しくなってしまいます」

 

 場にそぐわぬ柔らかな声は、その瞬間に響いた。

 それが聞こえたのは、信徒たちの背後から。

 兵士たちが声の方向に思わず目を向けた途端、まるで要人を迎えるかのように集団が左右に割れる。

 

「……ラシェル卿」

 

 神父が呼んだのは、修道服に身を包んだ女性だった。

 ヴェールに覆われた金の長髪に、その声色が与える印象通りの柔らかな表情。

 左右の花道に小さく手を振りながら、彼女は神父の隣、兵士たちの真正面まで歩み寄る。

 

「貴女様にお越しいただくような事態はなにも起こっておりません……貴女様には、今の地位に相応しき聖務があるはずです」

 

 服装自体はこの場にいる他の信徒たちと何ら変わらない。

 そこから想定される聖職者の階級を思えば、修道女よりも神父の方が上なはずだ。

 だというのに、神父の顔には先ほどから一転し困惑の色が強い。

 

「アッツォ神父。……もしかして、悲しいのですか?」

「ええ、悲しいですとも。貴女様のお手を煩わせるような事態も、そうさせた愚民どもも」

 

 ラシェルと呼ばれた修道女は困ったように眉根を寄せた。

 眉根を寄せて、それで。

 

「──それは駄目ですッ!」

「ぐがっ!?」

 

 瞬間、神父から驚きの呻きが起こる。

 楚々とした落ち着きのある聖職の女性が、突然怒気の籠った声をあげた

 突然の事態を一瞬遅れて認識すると同時、場の全員が神父の身に何が起こったのかを理解する。

 

「そんな顔をしないでくださいね。悲しいのは、よくないことですよ」

「お、お待ち、を……」

 

 ラシェルの両手指が、神父の口に入れられていた。

 まるで仏頂面の子どもを親が笑わせる時のように、両の指が口端を横に無理やり広げさせている。

 

「そうです、笑ってください。もっと楽しく、嬉しくなるように」

「が、かっ……!?」

 

 ぎち、ぎちぎち、と何かが蠢く音。

 刹那、神父の口が横に裂ける。

 

 ラシェルの指は、否、その腕は人の形状を失っていた。

 ほっそりとした女性らしいそれは、処刑人を彷彿とさせる大鎌のような形状へと。

 指から刃に変じた構造が、口を横に引き裂いたのだ。

 

「ぷ、がっ、ぷふぁっ……」

 

 血の泡を吐きながら、神父がもんどりうって倒れる。

 大きく裂かれ閉じることもできないその口は、そこだけなら皮肉にも笑顔を浮かべているように見えた。

 

「……うん、いいですね。やはり、主が望まれるのは皆の笑っている顔です」

 

 しゃり、しゃりと刃をすり合わせる音だけが響いていた。

 ぱぁっと表情を明るくしたラシェルは、血の軌跡を地面に描いている神父を見て頬をほころばせる。

 

「皆さんはいかがですか?」

 

 純粋な、いっそ無垢さを感じさせるまでの笑顔が、周囲を順に見た。

 首だけを回し、ラシェルはロシアの兵士たちへ、信徒たちへと順に呼びかける。

 

 あは、あはは。

 そう答えたのは、邪教の信徒たち。

 ふ、へ、ははっ。

 彼らに倣うように、国を守らんとする兵士たちも渇いた笑い声と笑顔で答えた。

 

「ああ、よかったぁ。今日もこの世は平穏で、とても楽しいです」

 

 武力を用いない、対話による信徒の足止め。

 此度の騒動において、ロシアは唯一これを達成した国だったと後に語られる。

 現場の兵士たちが苦渋と恥辱の表情で否定したという事実は、記録には残されていない。

 

――――――

──ローマ連邦・地下水道

 

「じ、ぎ、ぎぎ」

 

 地底に張り巡らされた迷路で、黒の軍勢が蠢いていた。

 貧困者たちがささやかな街を作れる程度に広かった地下水道は、今やテラフォーマーが跋扈する魔境と化している。

 その最奥で金属片を固めて作った玉座に腰を下ろしているのは、赤黒く膨れ上がった左腕を持つ一匹のテラフォーマーである。

 地上に直通させた導菅から絶えず聞こえてくる混乱の声や足音に、頭髪の無い頭に『≒』の文様を持つ“()”はニタリと顔を歪めた。

 

“近い内に、地上が不自然な程騒がしくなるだろう。その日が、全てを覆す時だ”

“混乱の中に切り込んで、望むままに欲し奪ってくれたまえ。そうして地上を片付けた後で、雌雄を決そうじゃないか”

 

 不本意ながらも手を結ぶこととなったニンゲンは、そう語っていた。

 今がその時だと、周囲に張り巡らせた情報網が示していた。

 

 己の配下たちが潜伏しているのは、この国だけではない。

 主要国の幾つにも手を伸ばし、着々と勢力を広げている。

 『日本』とニンゲンたちの間で呼ばれている土地だけが、例外だ。

 かの地は既に、テラフォーマーの絶対的な“王”たる個体が触手を伸ばしているようで、付け入る隙が無かった。

 

「じょう……じ、ぎ」

 

 いつもの癇癪を起こす前触れに、周囲のテラフォーマーたちが一歩下がる。

 幾度となく偵察の手が途切れ、橋頭保を築こうとして失敗し。

 その度に“彼”は怒りに狂い歯を噛みしめた。

 

“彼”はテラフォーマーの異端児たる個体だった。

 高い知能を持ち、事実こうして地球に辿り着いた偉大なる指導者の一柱ではあるものの、その情緒は酷く幼い。

 本来生まれついて成体の姿で生まれてくるべきだったはずの“彼”は、通常のテラフォーマーと同じく幼体として誕生した。

 果たしてそれが原因だったのかはわからないが、“彼”は事が上手く運ばなければ癇癪を起こし、行動原理を嫉妬や憎しみで決定する。

 それは本来テラフォーマーの冷徹な合理と人間の感情を併せ持つ、俗にスキンヘッド型と呼ばれる上位個体としての欠落だ。

 

「じぎ……」

 

 怒りの矛先を探して“彼”は周囲を見るが、玉座から手の届く範囲に他のテラフォーマーはいない。

 たとえ人間的な感情を持たないテラフォーマーであっても、危険を察知する本能がある。

 これが危険の前触れだと判断される程度には、“彼”は同族への加害を繰り返していた。

 

「……じ」

 

 そこに、進み出た個体が一匹のみあった。

 全身を棘で覆った、周囲の個体より大柄なテラフォーマーである。

 火星からの古き臣下である、側近と呼べる一個体。

 まるで主君に身を捧げるかのように、その個体は“彼”の前に片膝を付いて傅く。

 それの意味するところに、“彼”は忌々しそうに目を細めた。

 

「ジョウ!」

 

 そして。

 岩を削り出した皿で、臣下の頭を殴打する。

 通常のテラフォーマーであれば頭が砕けている一撃を、歴戦の臣下たる個体は平然と受け止めた。

 二度、三度と繰り返しても、その体は揺るがなかった。

 単純な肉体の強度のみではない。

 折れた棘が、拉げた頭の一部が、時間経過と共に徐々に元の姿を取り戻していく。

 

「……じぎ」

 

 数度の暴力で、溜飲は十分に下がった。

 首を動かして『もう十分だ』と促せば、臣下は立ち上がり隊列へと戻っていく。

 

 頭を沸かせる怒りが収まれば、“彼”の脳裏を埋める感情は今後への期待と燃え上がるような対抗心で占められる。

 

 今度こそ、テラフォーマーの王たる個体を超える。

 己が生まれた時より火星で語り継がれていた、偉大なる先達。

 自分がどれだけ成果を挙げようと、そこには常にヤツの影があった。

 

 この星を訪れた時、微かな不安を覚えた記憶がある。

 もう既に同族たちの楽園となっていて、自分が新たに支配する余地などなくなっているのではないかと。

 

 だが、とんだ期待外れだった。

 

「じ、じ……ジョウジ……!」

 

 玉座から、“彼”は立ち上がる。

 鬨の声が、地下水道に響き渡る。

 

 ヤツは十年前に母なる地を捨てたにも関わらず、この新天地で一国すら支配できていなかった。

 自分は違う。

 一年にも満たぬ時で、この青き星の全てを我が手に収めてみせよう。

 そのような者ではなく、自分こそが火星で語り継がれるに相応しいのだと、全ての同族に示すのだ。

 

 そして、黒の軍勢は地上へと向けて足を進めていく。

 

―――――

 

「ふ、くっ……! ついに、この日がやって来たわけだ……!」

 

──己の飢えはようやく満たされるのだ。

 心地よい酔いに任せて空になった杯を差し出せば、艶めかしく白い腕から極上の美酒が注がれる。

 幸福の絶頂、という言葉があるのならば、今の私の事を指すのだろう。

 玉座の周囲に目を向ければ、そこには幾年も前からの楽園が広がっている。

 

 微かな音が鳴っている気がした。

 

 色取り取りの宝物で飾られた聖殿に、足元には己に傅き無聊を慰める美女が。

 他にも足りぬ何かがあれば、ただ手を叩いて信徒を呼びつけ命じるだけで用意された。

 

 あらゆる物が手に入る、贅に溢れた環境。

 只人であれば、ただそれだけで満たされるに違いない。

 だが、違うのだ。そこで立ち止まるなど、私にとってはあり得ないのだ。

 器が大きければ、それだけ多くのものを注がねば満杯にはならない。

 凡人共が満足するようなものだけでは、この私が満たされないのは当然の道理なのだ。

 人と神の幸福は、そもそもの絶対値が違うのだ。

 

 狭い小屋で餌を食らうだけの家畜の幸福が、人間にとっては足りぬのと同じように。

 選ばれしニュートン一族の中のさらに選ばれし者であるこの私には、人間の幸福などではとても足りなかった。 

 

 家畜。支配。ああそうだ、支配だ。

 なんと甘美な響きだろうか。これこそが、神たる私が至るべき幸福だ。

 あらゆる者を己の足元に跪かせて管理し、導いてやる。

 全ての命がこの手の内にあり、生かすも殺すも己の意思一つだ。

 今の私には、その力がある。

 

 微かな音が鳴っている気がした。

 

 ここに至るまでに、如何程の困難を乗り越えたことか。

 せっかく成長させた教団が無能な信徒どもの失態により壊滅した時は、この世を呪った。

 だが、私は諦めなかった!

 こうして月に身を隠し、アポリエールの協力相手であったゲガルドの者たちを走狗とした。

 かつて当主の写身を創り出して、奴らの神として与えてやったのだ。

 

 オリヴィエ・G・ニュートン。あのようなまがい物で満足するなど、所詮は連中も凡愚かと失望したものだ。どうして我らは奴らに従属する立場に甘んじていたのだろうか。

 

 とにかく、そうして準備を進め埋伏の時を得て今こうして世界の支配者に返り咲いた。

 この成功は、選ばれし者の必然としか言いようがない。

 

 頭上を仰ぎ見れば、ただそれだけで青の星を睥睨する事ができる。

 そこに住まう凡愚共の命は、今私が握っている。

 こうしてあらゆる物質に飽く事ができる、私だけが。

 

 ああ、これが私の世界だ。

 

「あーあー。教皇様、今大丈夫っすか?」

 

 ……と、己の栄光を噛みしめていたというのに。

 不意に、一度地球への通信を終えたモニターに光が灯った。

 そこから、耳障りな声が聞こえてくる。

 地球における我が教団の手駒、ゲガルドの取りまとめ役を務めている女だった。

 

「……希維か。私の憩いを邪魔するとは、いつの間にそこまで高尚な存在になった?」

「た、大変失礼いたしました! どうかお許しを……!」

 

 軽く鼻を鳴らしてやっただけで、女は面白い程に顔を青くし何度も頭を下げてくる。

 見慣れた光景なので、もはや然程の愉しみもなかった。

 

 だが、これからは違う。

 同じように、ニュートンの当主どもを跪かせるのだ。

 私を軽んじたその愚昧を、存分に思い知らせてやろうではないか。

 その光景を脳裏に描けば、この哀れな道化の振舞いにも多少の悦びを見いだせた。

 

「……オリヴィエ様からひとつ聞きたい事があるらしいんすけど、大丈夫ですか?」

「言ってみろ。今の私には、本家にすり寄る下賤の問いにも答えてやる慈悲がある」

 

 何かの音が鳴っている気がした。

 

 恐る恐るの問いに、私は鷹揚に頷いてみせる。

 神たる者、余裕と慈悲を持たねばならない。

 

 奴が以前提案してきた『火星産の害虫を利用して反抗する者を纏めて始末する』というのは胸がすくアイデアだった。

 神に逆らう者には、冒涜的な死が与えられて然るべきだ。

 故にこそ、その恩賞として多少の無礼は許してやろうではないか。

 

 尤も、思い上がった愚か者には天罰を与えるのが神の役目だ。

 くだらぬ内容であったのならば、全てを取り上げてやろう。

 どのように裁くのが良いだろうか。

 

 そう、たとえば……

 

 

 

 

 

「幸せなまま死ぬか本当の事知ってから死ぬか、どっちがいいっすか?」

 

 

 何かの音が鳴っている。

 警報のような音が、鳴っている。




ご観覧ありがとうございました!
次回予告:大惨事になる
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