深緑の火星の物語   作:子無しししゃも

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第108話、敵サイドの諸々紹介回となります。


第108話 死せる軍

──38時間前。ロシア連邦指定閉鎖都市・“ニジニ・ノヴゴロド4(チェティーリ)”にて。

 

 この都市ではかつて、クローン技術、それも人体のクローンに関する研究が行われていた。

 極めて高い技術水準が要求され、かつ倫理的な議論を避けられない学術分野。

 その専門研究を思う存分行うために余人の介入を許さない閉鎖都市が用意されるのは、必然だったと言えよう。

 

 多数のクローン体の生育を施設内部のみで完結できるだけの大規模設備に、当時最新鋭の防諜技術。

 都市中央に鎮座する城のような威容の中央研究棟は、政府高官ですらその内部を知る者は片手で数えられるとまで謳われていた。

 

 ……それが、いけなかった。

『倫理的な議論を避ける』。

『必要以上に感情的な追及によって技術の発展が妨げられるのを防ぐため』という意味合いだったそれは、いつしか閉鎖環境による疲弊と秘密の先進研究によって選民思想を育ててしまった研究者たちの中で『如何なる倫理に反する行いでも許される』とすり替わった。

 当時の政府上層部の焦りと極めて有用な検体の入手が、さらに研究の追い風となってしまった。

 

 かくして屍の山を築いた果てに、この研究施設は封鎖される運びとなった。

 それが、役割を終えてなおこの都市が機密に指定され続け厳重な防備が敷かれている理由だ。

 

 この都市は、ロシアという国にとって決して開けてはならぬパンドラの箱になり果てたのだから。

 

────

 

──人間の侵入者がいる。

 最初にその警告を発したのは、中央研究棟の高楼にて目視での見張りをしている兵士のひとりだった。

 不運なことに、レーダーの類はその大部分が破損し機能を喪失しており、残った少数による探知はノイズが酷く発見は不可能な状態にある。

 ただ、ノイズというと少々語弊があるだろうか。

 生き残ったレーダーは、役割通り正しく標的を探知していた。

 

「人数は……くっ、邪魔だ……!」

 

 何かに怯えたような様子で逃げ惑う、大量のテラフォーマーたちを。

 

 この都市では、つい先程までテラフォーマーの大軍を相手に大規模な戦闘が行われていた。

 機材や人員に被害が出ながらもある程度の余裕を持てていた状況が変わったのは、30分程前。

 突如として、犠牲を厭わぬ猛攻を仕掛けてきていたテラフォーマーたちが慌てた様子で四方八方に飛び去ろうとする。

 しかし逃げ出せたのは一部のようで、その多くがどこに行くでもなく錯乱した様子で都市上空を飛び交うばかりだった。

 

 不可解な状況だが、この都市を呑み込まんとする攻勢が大きく緩んだのは良い傾向である。

 兵士たちもほっと息をなでおろしている者が多かった。

 

 その中でも気を緩めず、不足の事態に備えて研究棟の上階より目視での警戒を続けていた彼らは間違いなく優秀な兵士だったのだろう。

 だが──それ故に、彼らは真っ先に標的となった。

 

 

 見張りのひとりが、日光を反射しぎらりと光る何かを視界に映す。 

 

「あ、かっ……?」

 

 直後。高速で飛来した銀色の槍が、彼の胸部を刺し貫いた。

 己に何が起こったのか認識する間もなく、その目から命の光がかき消える。

 

「っ──!?」

「伏せろっ!」

 

 投擲武器による、原始的な狙撃。

 攻撃の正体を即座に把握した他の見張りが、咄嗟に頭を屈める。

 その頭上を辻風が抜け、背後のオフィスへと槍が突き刺さる。

 

 攻撃を受けている。

 しかしこのままでは、何に攻撃を受けているのか把握することすらままならない。

 決死の覚悟で、ひとりが再び窓から身を乗り出し外を覗く。

 

「きひっ……きひひひっ!」

 

 タガが外れたような笑い声は、その時聞こえた。

 反射的に銃を構えた彼の視界が、影に覆われる。

 

「ふふ、ひぃっ、ひぃっ……!」

 

 それは、翼を纏った青年だった。

 白と黒の羽に包まれた、鍛え上げられている事がわかる均衡の取れた肉体。

 その容貌も、まともにしていれば整っていると分類できただろう。

 だが無精ひげと正気を感じさせない濁った瞳が、健康的なアスリートという印象をどす黒く塗りつぶす。

 

 恐怖とも狂喜ともつかぬ音を喉から立てながら、得体の知れぬ青年は自身に向けられた銃口をじいと見つめていた。

 

「ひっ……!」

 

 見張りの表情が本能的な嫌悪と恐怖に歪む。

 その喉が、青年の腕から生えた鉤爪によって引き裂かれた。

 咄嗟の銃撃は、間に合わなかった。

 

 そのまま死体を組み倒す形で室内に突入してきた青年に、不幸にも居合わせた非戦闘員たちから悲鳴があがる。

 

「貴様!」

 

 だが、一方的な殺戮とは相成らなかった。

 幸い、現在は既に役目を終えているとはいえ、この都市は外に漏れてはいけない秘密を隠蔽しておくための防備が整っている。

 そのため外部に打って出たのが全てではなく、施設内部にも多数の防衛戦力を配置していた。

 

 反撃に転じたのは、異常を察知して駆け付けた兵士だ。

 素早く『薬』を打ち込み腕から昆虫の大顎を生やした彼は、このイカれた侵入者を一秒でも早く始末すべく、その首へと得物を繰り出そうとし。

 

「……」

「っ……」

 

 感情の抜け落ちた状態で見つめてくる青年の目に、一瞬迷う。

 無論、同情をしたなどではない。もしかしたら何かがあるかもしれないと、本能が告げていたのだ。

 奇怪な気配に、思考が一瞬空白となり──

 

「うヴぉえっ!」

「く……!?」

 

 青年が、迎撃とばかりに喉から吐瀉物を吐き出した。

 ほとんど固形の無い、液体がほぼ全てを占めるそれを兵士は咄嗟に回避する。

 

 迷いによって脚を踏み込みきれていなかったのが幸いしたか。

 回避が間に合い顔への直撃を避けた吐瀉物は、彼の肩を汚す結果となる。

 不快ではあるが、それだけだ。もらった。

 

「ぐっ、が、ああぁぁ!?」

 

 そこに、焼けるような灼熱感が襲った。

 己の勝利を確信していた兵士は、不意打ちの激痛に苦悶の声をあげる。

 

「ひひ!」

「しまっ……!」

 

 それが、命運を分けた。

 哄笑と同時、頭と顎が鉤爪の付いた腕で鷲掴みにされる。

 

 バギリ、と鈍い音が響いた。

 

「いち、にぃ、さん……」

「ひ、ぃ……!」

 

 首がねじ曲がった死体をポイと捨て、青年は数を数え始める。

 腰が抜けて立てない職員の方には、見向きもしない様子で。 

 

「新記録……今日は、新記録……」

 

 そして、ぶつぶつと小声で何かを呟きながら、青年は再び窓から飛び立った。

 与えられた指示を──この都市の偵察兵を皆殺しにするという任務を、こなすために。

 

――――

 中央研究棟、第一ロビー。

 正面入口から続くこの区画は、エレベーターや高速自動歩道、ハイパーループといった様々な移動手段にアクセスできる場所である。

 広大な中央研究棟のあらゆる施設へと繋がる文字通りの玄関口であるここは、在りし日には多くの研究者や貨物の搬入員が忙しなく動き回っていた。

 

「警戒を怠るな!」

「『薬』の在庫は残っているか」

 

 そして今現在、この場所には重武装の兵士たちによる防衛線が敷かれている。

 人数にして、五十人ほど。

 機密施設の要衝を守るには少々心もとない数と判断する者もいるかもしれないが、これには彼らを取り巻く頭の痛い事情が関わっている。

 

 この都市を守る軍事力は確かに充実していた。ロシア連邦の封鎖都市は他にも存在するが、その中でも有数だと言っていいだろう。

 だからこそ、テラフォーマーの猛攻に今まで耐え抜いている。

 だがそれでも、多方面からの同時攻撃ともなればどうしても戦力を分散せざるを得なくなってしまう。

 

 都市の外に撃って出た兵士が多数。テラフォーマーがどこから侵入してくるかわからないため、施設内部にも各区画に分散して配置しなければならない。

 さらには、機密中の機密である旧地下工場に続く経路や司令部たる中央管制室といったここと同様かそれ以上の重要地点にも厚い守りを敷く必要がある。

 そのため、あくまでも要所のひとつであるここに配備できた兵士は限られていた。

 

「お聞きしたいのだけど、この施設の地図はあるかな?」

「っ……!?」

 

 その正面ドアから、堂々と足を踏み入れてくる一団があった。

 武装した兵士(増援)でもなければ、白衣の研究員(避難者)でもない。

 

「案内役はいるけど、流石に迷ってしまいそうでね」

 

 服装、性別、年齢……それぞれがバラバラの、統一感に欠ける七人組だ。

 その先頭に立つ片眼鏡の研究者然とした青年は、張り詰めた空気の中で呑気に兵士たちへと話しかける。

 

「構え──」

 

 兵士たちの返答は、銃を向けることだった。

 現在この施設に立ち入りを許されているのは、防衛を任された軍属の人間と身元を証明できる職員のみ。

 それ以外は全て敵と見なすのが、ここを守る兵士たちの方針だ。

 

「ふむ……困ったね?」

 

 それに対する一団の反応は、どれも似通っていた。

 怯えた様子で青年にしがみ付く銀髪の少女こそ例外だったが、彼女以外のほぼ全員が動かない。

 まるで、自分が対応する必要など無いとでもいうように。 

 

「やっちゃうね……? いいよね……?」

 

 例外は、ひとりだけだった。

 一団のすき間を縫って、ひときわ小柄な影が青年の前に現れる。

 

 フリル付きのドレスに身を包んだ少女である。

 黒の髪に、黒の瞳。和洋の人形を組み合わせたような印象を与えるその少女は、一本の剣──己の背丈を超す長さの大剣を重そうに引きずりながら、兵士たちを忌々しげに見やる。

 

 その特徴的な姿に、一瞬の空白が生じる。

 だが兵士たちは、即座に攻撃の姿勢へと移った。

 少女の額には一対の太い触覚が生えている。

 MO手術の被験者であるそれは、同時にどのような攻撃手段を有しているかわからない脅威の証でもある。

 即座に制圧を。

 

「おおぁっ!?」

 

 だが、彼らの決定は一手遅かった。

 縦方向に高速回転する凶刃が飛来したのは、その瞬間だった。

 凄まじい切れ味を伴ったそれにより軌道上にあった尽くが引き裂かれ、血飛沫が舞う。

 

「な、あッ……!」

 

 突如襲来した刃は、兵士たちが背にしていた柱で止まった。

 理解を越えた事態に、彼らは自分たちに襲い来たものが何なのか、反射的に目で追ってしまう。

 

「あなたたち……『手術』は受けてる……?」

 

 兵士たちを出迎えたのは、じっとりとした声と敵意の目だった。

 そこには、一瞬前には兵士たちが相対する方向にいたはずの少女が。

 

「なんで答えないの!? やっぱり受けてないんだ……! 下等生物なんだ!」

 

 答えを待つこともせず、妄執めいた激憤と共に少女は細腕を柱に添える。

 ドレスの裾から露出したその腕には、二股に別れた棒状の何かが。

 

──刹那。胴を両断する殺戮の嵐が兵士たちに襲い掛かった。

 

「おっといけないな。正面の敵から……それもこのボクから目を逸らすなんて、キミたちは実にいただけない!」

 

 そして崩れた隊列に、一団のひとりであった青年が襲いかかる。

 額に触覚、腕に大顎。

 その外見的特徴は一般的な昆虫型手術ベースの域を出ない。

 

 だが。

 

「フッ……!」

 

 ブシュウ、と青年の腕から液体が噴霧される。

 それはどうにか態勢を立て直し、反撃に転じようとした兵士達の視界を的確に奪い取った。

 眼に襲い来た激痛に呻く隙を突き、懐に飛び込んだ青年の大顎がその喉を軽やかに切り裂いていく。

 

「……っ、焦るな! 直接攻撃型の範疇だ! 下がれ、下がれっ!」

「おおっと、油断ならないな……それは少々困る……」

 

 隊長と思わしき男の声に、幾人かが応じて後退を試みる。

 手練れではあるが、用いている武器は剣に大顎。

 距離の優位を保ち弾幕で押せば、完全にどうにもならない相手ではない。

 

「だから、逃がしてあげるとでも思うかい? まあボクが、ではないがね!」

 

 問題は、この襲撃者たちがそれを許す相手ではなかったということ。

 

「気持ち悪い……早く、細切れになって……!」

 

 撤退を測る兵士たちの退路は、ミキサーの如く回転する刃によって塞がれていた。 

 

 距離を詰められての近接戦では敵わない。

 かといって退避を試みようとすれば、高速の刃による処刑が待ち受けている。

 

 初手の奇襲によりペースを奪われ、さらにその混乱を広げられ。

 もはやこの場を守護する兵士たちに、勝ちの目は皆無であった。 

 

 

 抵抗の音が止むまでは、数分とかからなかった。

 

 

 

 

「ご苦労様。流石はオリヴィエ様より借り受けた精鋭と言ったところだね」

 

 すっかり静まり返ったロビーにて、ぱちぱちというまばらな拍手が鏖殺を成したふたりを褒め讃えていた。

 拍手の主、片眼鏡の青年──フリッツ・アードルングは予想以上の戦果に小さく笑みを漏らす。

 

「フリッツ博士にお褒めいただけるとは光栄だね。デモンストレーション程度にはなったようで何よりだとも!」

「これくらい……当然だもん……。それより、隊長はなんで来てくれないの……?」

 

 今この場に残っているのは、作戦の中核を担うフリッツとナタリヤを除けば先に戦闘を行ったふたりだけ。

 残りの人員は、既にそれぞれの任を果たすべく散開している。

 

「半分近くが不参戦と聞いた時はどうなるかと思ったが……君が代理を務めてくれて助かったよ」

 

 だからこそ、フリッツは少々げんなりした顔で今回の補助人員たちについて愚痴を吐く。

 彼らはフィンランドの研究機関の警備を担う私兵……という名目の、槍の一族(ゲガルド家)直属の作戦部隊である。

 

 別方面の任務に投入される手筈だった彼らを、オリヴィエはフリッツに貸し与えた。

 本来の隊長が元々の任務を遂行するために外れ、数人が「気が乗らない」と任務を拒否するなどアクシデントこそいくらかあったが、そこは得体の知れぬ技術と人員を抱えるゲガルド家。

 代理として二人──先ほど兵士を殲滅してみせた青年と少女に穴を埋めてもらい、さらに新人を紹介してもらう、成り行きで外部からひとり増える、といった形でどうにか戦力を整え今に至る。

 

「まぁ、ボクも隊長の方に付いていきたかったのが正直なところだけど……自分の手で殺した相手(・・・・・・・・・・)とは、顔が合わせづらいだろうからね」

 

 言葉の重みに反してあっけらかんと笑いながら、青年は己の軍服の胸に刻まれた刺繍、蟻をモチーフとした部隊章を指さした。

 それは彼がかつて、U-NASAの猟犬と蔑まれる暗部部隊に所属していた証だ。

 

「……期待していますよ」

 

 フリッツはふたりを一瞥し、背を向ける。

 その信頼に偽りはない。

 

 彼らは、強い。

 自分たちと同じく、(オリヴィエ)によって世界各地より集められた人材。

 ゲガルドの精髄たるMO技術と、選び抜かれた手術ベースの数々。

 フリッツが信を置くのは、それによる戦闘能力……という意味だけではない。

 

「まあ、大船に乗った気分でいてくれたまえ!」

 

“堅き意志の力が、闘争にどれ程素晴らしい影響を与えることか”。

 フリッツを暗き底に(いざな)った主は、かつてそう言った。地球で、火星で起こった戦いの数々がその言の正しさを証明していた。

 

「ボクたち負け犬部隊……じゃなかった──」

 

 ここに集った彼らは、いずれも深い妄執を抱く者たちだった。

 目の前の一見して快活な印象を与える青年も、それは同じ。

 

「──ギルダン・ボーフォート麾下、フィンランド共和国国家研究院特殊作戦群“エインヘリャル”。大いなる主の為その使徒たるお二方の為、全霊を尽くし万難を排除しようじゃないか」

 

 そして。

 死した戦士たちの名を冠する部隊の指揮官代理は、仰々しく膝を折り手を高く捧げ忠誠の意を示した。

 

――――

「この世界には、善に反するものが多すぎる。そう思わないだろうか諸君」

 

 中央研究棟の一区画にて。

 兵士たちが会敵した侵入者は突然、敵対者に向けて問い始めた。

 

「たとえばそう、長らくの争いで疲弊している国家などでは顕著だ。そのような国では得てして、物事の道理を解さない愚か者が次から次へと湧き出してくる」

 

 軍服に官帽といった軍属を思わせる出で立ちの少年だ。

 その口に加えられているのは、漆塗りのパイプ。

 服装だけ見れば高官を思わせる彼は、戦いを始めるでなくただ言葉を紡いでいく。

 

「嘆かわしい話だが、奴らは具体例を挙げていけばキリがない程にいた。誇り高き祖国を同じくしている者たちとは思えぬお粗末な弁明に、小生がどれほど心を削ったかわかるだろうか!」

 

 興奮し声を張り上げる少年に、兵士たちはそれぞれの武器を構える。

 近代戦の基本兵装、銃ではない。筋肉質な腕と毛皮の先に形成された爪や、長く鋭い牙。

 

 この場に配備されていたのは、直接攻撃に長けた手術ベースを持つ者たちであった。

 狭く通路が多いここ近辺では、下手な銃器よりも即応性の高い近接戦闘用の武器が有効に働く。

 

「合わせろ!」

 

 隙を与えず確実に仕留めるべく、彼らは侵入者に対して同時に仕掛けた。

 

 猛獣の爪。昆虫の大顎。げっ歯類と思わしき動物の歯。

 獲物を狩るための大自然の武器が、一人の人間の命を奪うべく殺到し。

 

「無礼者め……小生が話している最中であろうが……!」

 

 少年の左腕が──鋏が形成された堅牢な鎧が、攻勢を纏めて受け止めた。

 

「道理を弁えぬクズ共が! やはり、無法者にはそれを縛り付ける厳格なる規則が必要だな……!」

 

 そして、反撃として右腕が振るわれる。

 長々としたご高説と同時に放たれたそれは、元となる生物の特性もあって決して機敏ではない。

 だが受け止めての反撃(カウンター)を前提とした動きは避けきれず、その鋏は兵士のひとりの頬を引き裂き血を流させた。

 

 一撃離脱、素早く退いた三人の兵士は独りよがりに激する少年を慎重に観察する。

 このまま続けて、勝てるか否か。

 三人の決定は、そのまま少年と向き合い続けることだった。

 

「なんだ、その目は……小生を馬鹿にしているのか? 目上の者に不敬を働く……それは紛れもない罪、罪である! 本来であれば寛容に、我が身に宿るこ奴のように、自ら抗するような真似はしないが……」

 

 先の一合を見てわかる通り、守勢に長けた手術ベース。

 だが急所を突けば、決して崩せぬ相手ではない。

 いくら相手が固かろうと、集団で抑え込めば無力化できる。

 

「小生は違う……罪人には、罰が与えられて然るべきだろう?」

 

──その推測は、直後に覆った。

 兵士のひとりが、何の前触れもなく崩れ落ちる。

 頬に反撃を受けた男だった。

 

 まるで急に体から力が抜け落ちたかのように地に伏せた彼は、苦し気に口をぱくぱくと開いている。

 

「っ……!?」

 

「ああ、そうだ! このような場にこそ、鋼の如き法と厳粛な罰による秩序が必要なのだ! 小生は秩序を成そうと何もかもが足りない中で力を振り絞った! 善良な捕虜面をする侵略者のクズ共を罰し、敵に尻尾を振ろうとしたクズ共を罰し、敗北主義者のクズ共を罰し、貧困だ家族の為だとそれらしい理由で罪を犯すクズどもを罰した! それの何が過ちだったというのだ!」

 

 それで、終わりではない。

 

 ポコリ、ポコリ。

 少年が自分の咥えていたパイプをかりかりと掻けば、泡が噴き出て宙に舞っていく。

 

「ふぅ、ふぅぅ……。やはり、秩序を解さない輩は滅ぶべきだ……小生は間違ってなどいない……! 間違っていたのは、あの裏切り者だ……!」

 

 苛立ちに顔を押さえぶつぶつ呟く少年と、一面に漂う泡。

 兵士たちが戦闘能力を失う間際に見た光景は、そのような戦場らしからぬ風景であった。

――――

 

 既に閉鎖された地下階層に唯一繋がるエレベータへと続くこの通路は、中央研究棟の中でも厳重な防備が敷かれた区画のひとつだった。

 MO手術および銃器で武装した兵士たちがバリケードを敷き、油断なく侵入者を待ち構える。

 

「勇敢なる警備兵の皆様、どうか(わたくし)めに対話と交渉の機会をいただけないでしょうか」

 

 そんな張り詰めた空気漂う場に、静かな声が響いた。

 戦闘地帯とは思えない落ち着いた声色に、兵士たちは様子を伺うべく微かに顔を出す。

 

「皆様をいたずらに害する意思は私どもにはございません。その説明のため、少しばかりお時間を頂戴したいのです」

 

 その視線の先に独り立っていたのは、整った身なりをした初老の男。

 スーツにシルクハット、手に持っているのは一本の杖。

 軍人や戦士という風体ではない。ステレオタイプな英国紳士か手品師かといった印象を与えるその男は、自分に向けられた視線に気付いたのかこれまた優雅な所作で一礼する。

 

「ご温情に感謝を」

 

 兵士たちが即座にこの不審人物を射殺しようとしなかったのは、彼が言うような温情からではない。

 今襲撃を仕掛けてきている敵対勢力について、情報を引き出せると考えたからだ。

 加えて、時間は彼らの味方だという認識があった。

 少人数による奇襲と思わしき今の状況、敵の全員を捕捉しきり分散した戦力を集中させれば、数の差で押しつぶせる。

 

「この通り、私に積極的な交戦の意図はございません。何卒ご理解をいただけますれば」

 

 それから男は杖を足元に置き、懐からいくつもの注射器を取り出し同様に足元へと落とす。

 注射器。それを無抵抗の姿勢として手放した男に、兵士の幾人かが反応した。

 

「はい。ご想像の通りかと思われますが、私は“手術”を受けております」

 

 両手を掲げ、降参のポーズを示しながら男は自身の情報を開示する。

 

「それも、かの『アネックス計画』にも投入された実績のある強力な生物です。正面から戦えば、如何に皆様が過酷な訓練を潜り抜けた精兵とはいえ、双方に大きな被害が出る結末は避けられなかったかと存じます」

 

 嘘か真か。どちらにせよ、今の状況には関係がない。

 兵士たちはそう考え、銃を向け続けながら思考を巡らせる。

 相手が武装を解除───以上、どんな力を有してい──が使わ─る前に射殺───いいだけだ。

 

「……?」

「失礼、長話が過ぎましたな。次はそちらの質問にお答えいたしましょう。私が如何なる組織に属する者か? 襲撃者の人数は? 彼らにはどのような特徴があり、誰が指揮官なのか? どうぞ望むようにお尋ねくださいませ」

 

 男の様子に一切の変化はない。

 自分たちの情報を好きなだけ教えてくれるという、どこまでも都合のいい状況。

 その状況に、兵士たちは違和感を抱かない。

 

「お──ち─、─者─?」

「申し訳ございません、よく聞こえませんでした。もう一度お願いしてもよろしいですか?」

 

 質問をした兵士は、苛立ちに表情を険しくする。

 時間稼ぎでもしているつもりか。

 

 だから、『お前たちは、何者だ?』と聞いているだろう。

 そう改めて、今度はもっと大声で口にする。

 

「─────、───」

 

 そこで、やっと気付いた。

 声が、出ていないことに。

 そして、思考に靄がかかり意識に影が落ち始めていることにも。 

 

「楽しいお喋りの時間は、ここまででしょうか」

 

 気付かぬ内に何かをされていた。

 鈍った思考の中で、兵士たちはようやく気付く。

 銃のトリガーを引こうとするが、その指は動かない。

 

「それでは良き夢を。ご清聴、ありがとうございました」

 

 己に向けられた無数の銃口へ、まるで観客に対する謝辞を述べるかのように男は一礼する。

 取り落とした銃が、床を叩く音。ぐらつき崩れ落ちる、自分の体。

 それを最後に、兵士たちの意識は薄暗い闇へと落ちていった。

 

 

「っぐぅ……!」

 

 ただひとりを除いて。

 

「おや……気付いていたのですか?」

「貴様は、あの作戦で見た顔だ……!」

 

 年配の兵士だった。

 彼は同僚たちが倒れ伏せた中でただひとり、よろめきながらも銃を構え続けていた。

 息を止め、己の舌を千切れんばかりに強く噛みしめ、どうにか意識を保ちながら。

 

「これはこれは、奇縁にて」

「通すものかッ……!」

 

 気迫と使命感で、兵士は己の身を苛む睡りに抗っていた。

 手持無沙汰にすくめられている男の両手を見て、武器の類を持っていないことを確認する。

 麻痺した指を無理に押さえ付け、トリガーを引こうとする。

 

「ですが、少しばかり不用心でしたな」

 

 その、刹那。

 何かが、彼の眼を刺し貫いた。

 

 

 

 

「博士、お嬢様。もう問題ないかと」

「ご苦労様」

 

 そして、しばしの間を置き。

 男は、自分が歩いてきた通路の先にある階段へと呼びかける。

 返ってきたのは、労いの声だった。

 

「相変わらずの手際だ。やはり本職(・・)は違うな」

「び、びっくりしました」

 

 傷一つなく兵士を制圧してみせた腕前を、青年と少女──フリッツとナタリヤはそれぞれ讃える。

 

「でも……彼らの前に姿を現す必要なんてあったのかい? わざわざ真偽織り交ぜたお喋りまでして、問答無用で撃ってくるような輩だったらどうするつもりだったんだ」

 

 ただそれはそれとして、不満もあったらしい。

 君は昆虫型じゃないだろう、と呆れたように注射器を拾いながら、フリッツは男に呆れた様子で問う。

 

 この男が手術で得た能力は、相当に凶悪なものだ。

 十全に用いれば、身を晒すことすらせずこの場を制圧できていただろう。

 にもかかわらず、わざわざいくつもの射線にその身を晒して長々とおしゃべりをしていた。

 

「……以前よりお伝えしているように、それが良いのではありませんか」

 

 己の姿勢を窘めてくるフリッツに、男は先程までの上品さを崩した笑いを浮かべる。

 悪意だけではなく、どこか喜悦のようなものが混じった不気味な歪み方だった。

 

「生と死が間際に触れ合う瞬間にこそ、至上の快楽が在る……。それにもし戦闘になっていたとしても、博士の期待は裏切りますまい」

「まあ君なら問題ないのだろうが……悪いがその考えは理解が及ばないよ」

 

 今まで何度か聞いた理解しがたい嗜好に、フリッツは頭に手を当て首を振る。

 要するに、この男は危ない橋を渡ることに喜びを見いだす類の人間なのだ。

 

「ええ、構いませんとも。ご理解いただけないのは承知の上でございます」

 

 そして、フリッツとしてはありがたい事に切り替えの早さがある。

 先程まで微かに崩れていた表情は、すぐに元の紳士めいたものへと戻っている。

 

「我が悲願さえ果たしてくださるのならば、私はこの身を捧げましょう」

 

 まさか忘れていないだろうな、という意図の籠った確認に、フリッツは頷く。

 紛れもない危険人物であるこの男がフリッツの指揮下に入っているのは、フリッツたちと同じ事情だ。

 

「わかっている。今回の件が済めばオリヴィエ様に頼んで、君の願いを叶えてもらおう」

 

 尋常の手段では達せられない目的があって、それを叶えられる存在が上にいるためである。

 

「じゃあ、僕とナタリヤはしばらく外すから。引き続きここを守っておいてくれ」

「お、おつかれさまです……?」

 

「……」

 

 この約束がある限り、彼が裏切る心配はない。

 男に言い残し、フリッツはナタリヤと共に通路の奥へと進んでいく。

 

「あ、あぁっ……」

 

 後にはひとり、男が取り残された。

 ただ立ちすくむ彼の耳に、フリッツの命令もナタリヤの労いももう届いていない様子だった。

 遅れた返事の代わりに彼が発したのは、熱が籠った悦楽の声。

 

「我が君……あと少しでございますっ……亡き御身に、今一度の謁見を……この無能の首に、はぁ、貴女様の骨張った指が伸び、息もできぬ程に締め上げられ……あぁっ……うっ……は、あァ……!」

 

 恍惚に歪んだ表情で荒い息を付き始めた男の姿を見る者は、もはや誰もいない。

 彼の乱れたコートの、その襟元には──十本足の海魔(クラーケン)を思わせるエンブレムが刻まれていた。

 

――――

 多数並んだ機械の排熱音だけが、静寂の中で続く。

 ここ中央管制室は、先程まで行われていた対テラフォーマー戦闘において司令部の役割を果たしていた。

 

 施設内、施設外問わずこの都市に展開した全軍を統制する脳ともいえるこの場所には、当然ながら多数の兵士が詰め防備を固めている。

 

 はず、だった。

 今現在のこの部屋を表現する言葉で最も適切なのは、“死山血河”だろうか。

 電子機器の数々で血に汚れていないものはなく、死体や切断された手足が床を埋めている。

 所々に刻まれた弾痕と散らばる変態薬からは戦闘が行われた名残が伺えるが、その抵抗がどのような結果に終わったかは室内を見ればひと目で明らかだ。

 

「……」

 

 そんな地獄そのものの様相となった広い室内を、独りの男が歩いている。

 猫背気味な姿勢によれた背広の彼は、街中で見かけたとしてもくたびれた社会人としか映らない。

 

 だが彼は、一般人なら即座に血の気を失いそうな地獄の内にあってなお平然としていた。

 それだけでも、男が唯人ではない事実が伺えるだろう。

 

「ああ、ハイハイ。そういう事ね?」 

 

 彼の視線は、部屋の最奥へと向けられていた。

 その気だるげな瞳にはひとりの人間が映っている。

 

「こんばんは、麗しいお嬢さん」

 

 部屋の奥でしゃがみこんでいるその人間の手元から、ブツリ、ブツリと音が鳴っていた。

 男はそれが何かを知っている。聞き慣れた、刃物が肉を引き裂く音だ。

 

「お忙しいところ、失礼するよ」

 

 彼の言葉に反応はない。

 その人間は死体の口を真横に裂いて、せっせと笑顔を作っている。

 まるでそれが神聖な儀式かのように、真摯な表情で。

 

「ごきげんよう。疲れた顔をしていらっしゃいますね」

 

 数十秒の沈黙。

 そこでようやく、ひと段落が付いたのか。

 その人間は顔だけを彼へと向け、微かに困ったような表情を浮かべた。

 

「辛い気分なのですか?」

「ああ、業務時間中にこんな美人さんと会うなんて悔しくてたまらないな。運が無かった、お互いに」

 

 清廉で穏やかな人格を思わせる、美しい女性だった。

 冷たい蛍光灯に赤く染まった修道服が照らされる様は、ある種の宗教画が如き神聖さを醸し出している。

 その両腕が人間のそれではなく、鎌のような異形に変じている部分から目を逸らせば、であるが。

 

「キリル、そう呼んでくれな。悪いけど、フルネームは明かせないような仕事しててね」

 

 男、キリルは女性の体にある異形を気にも留めず、話し続ける。

 フルネームは明かせないと言ったが、名乗ったファーストネームすらも偽名だ。

 名前を表沙汰にできないロシア連邦の政府機関に、彼は属していた。

 

 今回与えられていた任務は、この施設の兵士に加わっての情報収集。

 戦況を分析し必要最低限の交戦を行い、国家中央に可能な限りの手土産を持ち帰る。

 

 テラフォーマーに続いて仕掛けてくる馬鹿どもがいるのは流石に想定外だったが、そこは諜報も含む特別訓練を受けた工作員、次々と押し込まれる戦線の中でもいくらかの手がかりは手に入れた。

 そうして己の職務を忠実に果たし、キリルは都市を脱出しようと考えていたわけだが──

 

「こちらも名を名乗れぬ身ですので、お気遣いなく。ご無礼をお許しくださいまし」

「“ラシェル・カルテジア・アポリエール”」

 

──襲撃者たちの中に、覚えのある顔を見つけた。

 

「まあ」

「コッチが名乗ったのは、一方的に知ってるのが申し訳なかったからでね」

 

 いきなり名を呼ばれ目を丸くしているラシェルを、キリルは油断なく見つめる。

 様々な事件の糸を引いていると、表沙汰にはできない方法で入手した証拠から裏付けが取れているカルト宗教。

 その実働部隊と軍や警察組織との戦闘は、世界各地において公的な記録に残されていないだけで今まで幾度も起こっている。

 

 ここ数年の戦績は8:2で政府側が優位といったところだろうか。

 かつては今より苦戦を強いられていたらしいが、相手の組織力が弱まったのか近年では人間と武器の質、量、共に落ちている傾向にあるらしい。

 そちらの対策に当たっていた先輩たちはかつて『楽に給料貰える時代になったな』と笑っていた。

 

「アンタ、ウチらの中じゃ有名人だよ。勿論悪い意味でな」

 

 そんな先輩たちが属していた部隊は、今目の前にいる女と戦って壊滅した。

 他いくつもの部隊が、喰らい尽くされ彼女の言う笑顔(・・)にされた。

 現在こうしてキリルの目の前で擦り合わされている、灰色に黒の模様が浮かぶ一対の大鎌によって。

 

「社交パーティなら、花束を出してたトコだったが……」

 

 へらへらと不真面目に笑いながら、キリルは己の懐をまさぐる。

 音もなく取り出したのは、一丁の拳銃。

 

 そのまま流れるように弾を放てば、ラシェルは驚くほどの速度で上半身を傾け射線から身を躱す。

 

「ここで狩らせてもらうぜ」

 

 その回避動作の隙を突いて、キリルの身体が爆発的に前方へと跳ねた。

 彼の脚は既に、緑がかった太く強靭なものへと変じている。

 先ほど懐をまさぐった際に、銃を取り出すと同時に己へと打ち込んだ『薬』の影響で。

 

 MO手術、昆虫型“ウマオイ”。

 それが、諜報員にして時に暗殺任務にも従事するキリルに組み込まれた生物だ。

 直翅目、バッタの仲間の内でも特に肉食性が強い彼らは、彼ら共通の高い跳躍力に加え獲物を捕らえて離さぬ頑強なトゲを前足に持つ。

 

「シィァっ!」

 

 獰猛な笑みと共に、キリルは己が宿した生物の力を、己が磨き抜いた殺戮の技を叩き付ける。

 追撃に、銃弾を二発。腹を薙ぐように蹴りを一発。さらに、腕に形成された棘で首を狙う。

 並大抵の人間であれば対応しきれず致命打を受ける飽和攻撃。

 その迫りくる死を間近にして、血色に染まった修道服の聖女は。

 

「うふふ、まあ……」

 

 にこりと嬉しそうに笑い、己の刃を。

 

「素敵な笑顔です」

 

 いつの間にか黒く変色していた大鎌を、振り上げた。

 

――――

「あの、はかせ」

 

 深く、より深く。

 地の底へと沈んでいくエレベーターの中で、ナタリヤは罪を告白する時のように恐る恐る口を開いた。

 

「……もしや、体調が?」

 

 フリッツは隣に立つ少女を見下ろし、微かな不安を滲ませ尋ねる。

“神殿”におけるナタリヤの主治医であるフリッツは、その身体が如何に不安定で脆いものかをよく知っていた。

 

「いえ……わたし、本当はちょっと迷ってるんです」

「それは……これから遂行する計画についてでしょうか」

 

 これからふたりが行おうとしているのは、人類抹殺などという大それた野望だ。

 ナタリヤの力を全力で、さらに機械の補助を用いて運用すれば冗談抜きに手が届く。

 

「……はい。本当は、こんな世界滅びちゃえ、って思ってました」

「今は、違うと?」

 

 フリッツの問いに、ナタリヤは曖昧に首を傾ける。

 愛する師匠を殺したこの世界を滅ぼしてやる。そうしたら師匠を生き返らせてもらえる。

 かつてのナタリヤにとって、それは救いだった。

 だが。

 

「たしかに、わたしを作った人達みたいな悪い人はたくさんいますけど……はかせとみんな、エリシアお姉ちゃんみたいな優しい人もたくさんいて」

 

 フリッツのように自分の身を気遣ってくれる人がいて、新しい家の人たちはみんな道具同然だった自分に良くしてくれる。

 何より、もう二度と会えないと思っていた姉とまた会えた。

 自分と同じ顔で、自分と違って甘いけど怒ると怖かったお姉ちゃんは、変わらず優しかった。

 世界を滅ぼすというのは、そんな皆まで巻き込むということだ。

 

「本当に、師匠のために世界を滅ぼしちゃっていいのかって……わからなくて」

 

 ナタリヤは自分の想いの丈を語り、ぎゅっと目を瞑る。

 オリヴィエとの契約を放棄し、諦めるという選択肢。

 彼女の頭の片隅にあるそれは、オリヴィエとフリッツへの背信に他ならない。

 

「…………」

 

 フリッツはただ沈黙していた。

 きっと、自分は許されないだろうとナタリヤにはわかっている。

 この場で命を奪われるかもしれない。

 何かしらの手段で自由意思を奪われて、無理やりにでも事を進められるかもしれない。

 かつて自分が兵器として運用されるはずだったように。

 

 そう考えた上で、ナタリヤはフリッツに本音を話した。

 

「……ナタリヤ。僕は君がたとえどんな答えを出しても、見限ったり害したりするつもりはありません」

「え……?」

 

 答えは、ナタリヤにとって心底意外なものだった。

 

「オリヴィエ様はおっしゃいました。『君たちが上手くやろうと失敗しようと構わない』と。だから、君が投げ出したなら投げ出したで、それは一つの結末だと思うのです」

 

 神殿を出立する際、オリヴィエはフリッツに話していた。

“結局は時間稼ぎだからね、好きなようにするといい”と。

 

 成功しても主からの報酬はなく、失敗しても罰はない。

 フリッツにとっての悲願ではあるが、それはナタリヤの協力あってこそ成り立つ計画だ。

 だからナタリヤが納得しなければ、この話はそれまで。

 

「だから、どちらを選ぶにしても悔いの無いように。この世の良いも汚いも、全てを知った上で決められるように。そう考えたので、僕は君にある場所を案内しようと思いました」

 

 フリッツはただ端的に事実を伝え、口を閉じる。

 ふたりがエレベーターに乗っている時間は、不自然な程に長い。

 とうの前に、地下数階分に渡り築かれた工場及び生活区画は通り過ぎている。

 では一体、今ふたりはどこに向かっているのか?

 

「“私たち”の廃棄場……ですよね……?」

「……」

 

 再び口を開いたのは、フリッツではなくナタリヤだった。

 質問のようであって、そうではない。

 確信を持った上での確認。

 己を見上げてくる空色の瞳に、フリッツは黙り込む。

 

「あれからもうたくさんの時間が経ってるから……冷たいごみ捨て場の中で、お姉ちゃんと妹たちの骨の山だけが広がってる……きっと今から、それを見るんですよね」

 

 機密の霧に守られた都市の中にある、さらなる機密に守られた建造物。そして、その建造物の中でも機密とされる、まさに秘中の秘たる地下工場。

 ナタリヤたちはこの場所で生まれ、そしてその殆どが命を失っていった。

 証拠を残してはならない機密プロジェクトの産物であり番号で管理されていた少女たちに、墓が立てられることはなかった。

 

 その魂の抜け殻は、専用のダストシュートに投棄され地の底へと落とされる。

 彼女たちの末にあったのは、暗く冷たい、誰も顧みることのない廃棄場だけ。

 

「……向き合おうと思います。見た上で自分がどうしたいのか、知りたいです」

「そうですか」

 

 それは生き残ってしまった自分にとって、覚悟を決める儀式だとナタリヤは考えている。

 姉妹たちの亡骸と相対して、怒りに狂い世界を滅ぼすのか。

 それでもまだ生きている大好きな人を想って、全てを諦めるのか。

 

 知識と実感は、やはり違うのだ。

 自分がどんな判断を下すのかは、まだわからなかった。

 

「着きましたね。どうか、後悔の無い選択ができるよう祈っています」

「……はい」

 

 ポーン、という到着音に続いて、ゆっくりと扉が開いていく。

 その先にはきっと、かつて在った地獄の成れの果てが広がっている。

 ナタリヤは一度目を閉じ、覚悟を決め。

 

 そして、目を開き──




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