―――――フィエステリア・ピシシーダ
学名『Pfiesteria piscicida 』
日本の探偵小説に登場する大怪盗『怪人二十面相』。
神話の名をとった一種のホラー小説に登場する邪神『ナイアーラトテップ』。
人間は、無数の『顔』を持つモノに恐怖を抱き、また、大なり小なりの畏敬の念を抱く。
だがそれは、現実に存在しようもないものであるからだ。
そこら中に無数の顔を持つものが溢れていたとして、空想の世界に存在する悪人、邪神に感情を大きく動かされるだろうか。
あるわけもないものだからこそ人はその世界に入り込み、一つに固定されない多くの『顔』を持つ異形の存在に心を動かされるのではないだろうか。
しかし、それは実際に存在した。
さらに悪い事に、それは人間を蝕み、体を侵して苦しめる厄介な存在だった。
『渦鞭毛藻類』。水産業に大損害を与える赤潮の原因となる生物達だ。その一種であるこの生物は、あらゆる生物と比べても度を超えた特殊な生活環を有している。
泥の中で休眠形態となって眠り、獲物である魚類が現れればそれを敏感に察知、遊泳に適した形へとその姿を変え、毒素を放出し獲物の動きを鈍らせる。
動きの鈍った獲物の体に取りついた後は、ストローのような形の器官を突き刺し血球を吸い取り、餌を得ながらさらに毒を放出する。
この生物と同じ水域に存在してしまった哀れな獲物は、そう長くない内にその腹を水面に浮かべる事となる。
フィエステリアは植物プランクトン、本来ならば一方的な被捕食者というのが一般の考えだ。
だが、この見えない脅威は襲い来る他の動物プランクトンを感知すると数百倍ものサイズになる大型のアメーバ形態へと姿を変え、逆に捕食し返してしまう。
これらの活動、さらに細かい領域まで含めて、その変化する形態数は24にも達する。
だが、これで終わりではない。これだけなら、フィエステリアはただのおもしろ生物で済んだはずだ。
動物番組で変わった生態の生き物、として紹介され、お茶の間のひと時の興味を引いたりする、それだけだったはずである。
その魔の手は水域の外にまで及ぶ事となる。
生成された毒素はエアロゾル化し、宙を飛ぶ海鳥や水浴びをする動物にまで効力を及ぼす。
そしてその対象は、人間とて例外ではないのだ。
実際に起こった事例としては、この生物が大量発生した河で魚を獲っていた漁師が、突然の体調不良に悩まされた、というものがある。きっと疲れているんだ、仕事を切り上げ早く帰ろうと思い帰路につこうとしたものの、長年慣れ親しんできたはずの河、その帰り道がわからない。
迷いに迷い、結局数時間かけてようやく帰宅できたのだ。
さらに被害は拡大、繁殖した河の水面は魚の死骸で埋め尽くされ、数百人規模がこの毒に侵された。この生物を解析していた研究所ですら、この毒が漏れ出し封鎖騒ぎになった程だ。一時期は謎の病として医師を悩ませる事になった。
その症状は、記憶障害を主とし、腸の不調、視界の不鮮明化、喘息に似た症状の呼吸器異常、腎臓や肝臓の機能不全など、部位に関係無く、そして重たいものである。
ただの単細胞生物、されど、それは無数の顔を持つ異形の存在。
決して触れてはならない領域に、この生物は足を踏み入れているのだ。
―――――
「わかるか? この力の差が。目の前に移る絶望が」
ヨーゼフは静かに、無表情の瞳でアントニーに告げる。
次々と展開し、本体には指一本触れさせない巨大なアメーバに、時間が経てば経つほど濃度を増し、心身を侵していく毒素。
アントニーが頼りにしていた部下はすでにアメーバの海に飲み込まれ、その体を漂わせている。
これが、0.3%。これが、『2位』。狂気に墜ち、正気に苦しんだ博士が自殺に失敗して得た力。
「私の肉体は非力なのだよ、エセ占い師君」
なんとか立ち上がり、気丈に剣を持つアントニー。だが、その目から勝利の意思はもう消え去っている。
「私はただの研究者だ。ローマのジョセフ君のように人類最高の肉体を持っているわけでもなければ、ドイツの……アドルフ君の様に部下に慕われているわけでもない。ま、当然だろうな。彼らは私の過去を知っている。それで私についてくるわけがないだろう?」
問いかける。答えは求めていないし、アントニーにその質問に答える気力はない。
「だがね、そんなものは必要ないのだよ。私という個人の身体能力も、他者と協力して戦う術も、関係無い」
「私は、この呪われた手術によって手に入れた最高の『ベース生物』、そして、そのベースを完全に理解して使いこなすだけの『知識』。それしか持っていない。だが、これだけあれば、十分すぎると思わんかね?」
――――――――――
「……私に何か用かね? 多くの未来ある命を奪い、もう処刑台への階段を上る事しかできないこの私に」
「その未来ある命に償いたいとは思わないか?」
「なるほどね。だいたい事情は理解できたよ。私に合う、いや、君達が望むベース生物でも見つかったのかな?」
「ええ、その通りです」
「だとしても御免だな。私は見ての通り身体能力は低い上に、部下を率いる将としての才もないのでね」
「誤魔化さないでくれませんか? 開発者の貴方なら、この手術の理念に関しては一番良く知っているでしょう」
「……」
―――――――――――
「『個対群を想定した、広域懺滅能力及び従来技術では不可能な生物の適合』」
ヨーゼフは、目の前のアントニーを見ながらも、独り言をつぶやく。
それは、自分が提唱した、自分が作り上げた、αMO手術、その理念だった。
1対多数戦闘を前提とし、そこに味方が介在する余地など無く、そのベース生物は従来のMO手術では不可能な代物を可能とする。それに加え、通常の投薬でもMO手術における『過剰摂取』に近い力を発揮する事ができ、この手術を受け、訓練を積んだ人間には、まともな戦力では触れる事すらできなくなる。
フィエステリアの毒は無差別攻撃である。その範囲内に存在する味方は、例外なく毒に侵される事となる。
背や腕から展開したアメーバは全方位をカバーし、獲物の分泌物質による感知と組み合わせたその守りは鉄壁。人体からアメーバという本来無茶な変質は、常時過剰摂取、つまりMO手術よりもさらにベース生物の肉体に近付いている状態だからこそ可能なものだ。
それでもできる本体の隙は専用装備による高速変態でカバーする。
その布陣を突破するには多大な戦力が必要となり、またその戦力ですら時間が経過すれば毒に侵され全滅する事になる。
もちろん、ミサイルや重火器があれば突破は可能だろう。だが、この状況でそれはあまりに夢見ともいえる考え方だ。
「……わかった、降参だ。この通り、武器も捨てた、変態も終わった。だから許してくれ」
アントニーは勝機が無い事を悟ったのか、剣を明後日の方向に放り、両手を上げる。
ヨーゼフはそんなアントニーを見て少し考えるが、静かに頷いて展開していたアメーバを体に戻し、変態を解除する。
「私とて無駄な犠牲は払いたくはないからね。君が降伏してくれてよかったよ」
歩み寄ったヨーゼフはアントニーに笑いかけ、構えていた左手をアントニーに差し出し、握手を求める。
そんなヨーゼフにアントニーも笑いかけ、その手を取って握手を
するわけがない。アントニーは差しだしたかのように見えた手を、思いっきりヨーゼフの顔面に向かって繰り出した。それは、変態していないにも関わらず、人間の頭程度なら砕き割れる力をもった一撃だ。
戦争とは油断した方が負ける。やはり自分の占いは当たっていたようだ。
アントニーはほくそ笑み、その一撃の感触が手に伝わるのを待ったが……
手が、止められていた。それは、ヨーゼフの右腕が変質したアメーバによるものだった。
「……なん……で」
呆然とアントニーが呟くが、その声は掠れ、ヨーゼフに届いたのかすらわからない。
「なるほどね、『紅式手術』か。ありがとう。これでもう君に用は無いよ」
アントニーには目の前で起こった事が理解できなかった。
なんで。なんでヨーゼフはこの不意打ちを防ぐ事ができた?
なんで変態してもいないのにアメーバへの変質を行える?
疑問は尽きず、すでにフィエステリアの毒と焦りで支配されたアントニーに思考する能力は残っていなかったが、意識が潰える直前、ヨーゼフが呟いた内容だけは朧ながら聞きとる事ができた。
「薬非使用時の能力on/off不可能、選択できるベース生物もMO手術基準、だが成功率は格段に上昇。なるほど、あの国らしい改造だな。全く、この技術も嫌な形で利用されているものだな」
観覧ありがとうございました。
次回、主人公組編です。