9/13 2話連続で更新いたしましたので、こちらの冒頭を読んで「?」となった方は一話前からご観覧いただけますと幸いです!
己が道標としていたものは、偽りだった。
自身が立つ土台となっていたものが音を立てて崩れる感覚に、頭を掻きむしりたくなるほどの怒りが滾々と湧き出してくる。
──たとえ予想外の事態で事前の計画がうまく行かずとも、その場で最適な連携が取れるような、苦楽を共にした戦友たち。
なにが戦友だ。絆だ。
その綺麗ごとに重きを置いた結果、貴様は国を裏切り敵に付く畜生へと成り下がったのか。
──士気を保ち気力を燃やし続けるための、何よりも優先すべきと定めた帰るべき場所。
帰るべき場所?
貴様はそれを守ったから、無数の期待と信頼を無下にしたのか?
愛すべき祖国は、我々は、あなたにとって優先されるものではなかったのか。
今まで人生の指針としてきたものが、失われていく。
何より優先すべき物事を教えてくれた憧れは、吐き気を催す悪だったと突き付けられた。
「貴様の全ては誤りだった。ならば──」
エミールが信じるものは、ある意味では変わらない。
──情を捨てろ。肝要なのは鉄のように堅い規則と計画、機械的に作戦を遂行できる手駒だ。
──兵士に余計な思考の熱は必要ない。その揺らぎのせいで、多くを失うことになるからだ。
「──小生は、貴様を否定した上で成功しその過ちを証明してみせる」
ただ、ひっくり返っただけだ。
信じるべきものから、絶対にその真逆を行くべきものへと。
小さな監獄のあり様は、その時から再び大きく変わっていった。
敵国の兵士を処断した。
あろうことか敵国の者と友誼を結んでいた裏切者どもを処断した。
紛争の平和的解決、と生温い戯言をほざいた敗北主義者どもを処断した。
家族や友人の為、などという尤もらしい理由で己の罪を覆い隠そうとしたクズ共を処断した。
今までの穏当な方針を覆すのは、難しい話ではなかった。
かつてと違い、皆と分かり合いこの場所を知ろうとした今のエミールには知識がある。さらには、今まで忌避し意識的に振るわないよう抑えていた父の権力がある。
囚人の反抗的な態度は消え失せ、職員たちは黙々と業務を遂行するようになった。
業務効率も、以前より遥かに上がっているに違いない。
なんと素晴らしい、小生の理想郷か。やはり、奴のような悪のやり方が正しいわけがなかった。
エミールは自身の正しさを確信し、満足気に静かな机へと腰を下ろした。
「……提案書?」
とある朝、業務以外で誰も訪れなくなった執務室の机に、書類が置かれているのを見つけた。
内容は、施設の運営方針について監獄長……つまりエミールと話し合いたいとの旨。
署名には多くの職員が名を連ねている。
欄の一番上、目立つところに並んでいたのは特に見慣れた同年代の職員たちだった。
不真面目な連中だ、とエミールは眉を寄せる。
どうせ、以前のような生温い体制に戻せと言いたいのだろう。
応じてやる必要も理由もなかった。全ての決定権が自分にある以上、結論は火を見るより明らかだから。
最初から着地点が決まっている会議で、大人数の時間を浪費する必要はない。
この紙を握りつぶしてゴミ箱に捨てて、この件については終わりだ。
「……だが。改めて話し合えば、お前たちにも小生の正しさを理解できるはずだ」
合理的な最適解が何であるかわかっていたはずなのに、エミールは承認の判を押した。
どうしてかわからないが、冷たくあろうと律していた思考が少しだけ熱を持っていた気がする。
予定日と書かれていた明日の昼が、待ち遠しいような気がした。
──破滅が訪れたのは、その日の夜だった。
「何故だ……?」
警報がけたたましく鳴り響き、赤色のランプが施設のいたる箇所を照らす。
あらゆる設備が危急の事態を告げる中、施設全域からの通信が途絶えた執務室でエミールは茫然と呟く。
最初にエミールが受けた報告は、監視室からの「ふたりの侵入者が現れた」というものだった。
不審人物が施設内に踏み入ってくる事態は、既に何度か経験している。
囚人を開放せんとする身内であったり物資に目を付けた盗人であったりと素性は様々だったが、今までその全てを跳ねのけており、死人を出したこともない。
全ては皆で改善を繰り返した適切な訓練と配置のおかげだ。
人数はたったふたり、監視カメラに映るその動作も盗みのプロとは言い難いもの。
だから、監視室に詰めている皆に油断が無かったとは言い切れない。背格好を見て迷子でも来たのか、と甘く見ていた者もいただろう。
夜間の内は外部に繋がる扉は封鎖されているはずだが、誰かが閉め忘れたのかもしれない。
捕縛なんて考えず、優しく話を聞いた方がいいのでは?
その緩んだ空気は──対応のために向かった職員が、突然身体を掻きむしり床をのたうち回る姿を見て変わった。
“は?”
“え、死……?”
十数秒の後ぴくりとも動かなくなった、画面越しの同僚。
ショッキングな光景に職員たちは動揺していたが、通信機越しのエミールの指揮もありすぐさま平静を取り戻し、増援を指示する。
防毒装備と銃器の携帯、最悪の場合殺害も許可するのも欠かさずに。
「……染み?」
皆が矢継ぎ早に施設各所へ指令を出す中、ある職員が不意に呟いた。
不意の発言を疑問に思い目を向けてきた同僚へと、彼はモニターの一点を指さす。
それは、先ほど侵入者と相対し倒れ伏した同僚の映ったものだった。
どうしても人間に目が向いてしまうが、職員が注目していたのはそこではない。
壁面や床が、やけに汚れているような。
何人かが、奇妙なそれに首をかしげる。
暗視カメラによる映像のため、解像度が低く細部まではわからない。
だがただの汚れにしては、異様なまでに範囲が広い。
まるで薄い膜のような何かが、壁面全体にへばりついているかのような。
「これ……なんか、動いて」
直後。
「へ?」
監視室の扉が、唐突に
そして、
悲鳴、苦悶の絶叫。
エミールへの通信は、それを最後に途絶えた。
「な、なんだこいつは……戦うな! まともにやりあって敵う輩ではない! 隔壁を閉じ避難しろ!」
「何をやっている! 貴様ら、なぜ同士討ちを……!」
真っ先に監視室が潰された。
その代わりとして、情報が足りない中で必死に指揮を取った。
だが、今まで非力な不審者しか相手取ってこなかった少年では、本物の地獄は荷が重すぎた。
壁面を這うように拡大し、触れた命をたちどころに蝕んでいく何か。
数十人の武装した兵士を単騎で切り刻む怪物。
今まで日々を共にしていたはずの者たちの正気を失わせ、同士討ちに導く妖の技。
戦争に使われる最新技術は、覆い隠され最前線にしか周知されないものだ。
エミールには、そのような所業を個人で可能とする御業を実際に目にする機会などなかったのだ。
「退け! 何をやっている! お前たちは正気だったではないか! 小生の命が聞けぬのか! ふざけるな!」
「なぜ真逆の方向に逃げている愚か者が! はやくこちらまで来い! 緊急脱出口があると共有していたはずではないか!?」
「誰でもいい、応答してくれ……まだ、生存者はいるはずだろう……?」
必死だった。
それでも、エミールには何もできない。
誰もいないひとりぼっちの部屋で、ただ自分たちが積み重ねてきたものが失われるのを眺めることしか叶わない。
「はじめまして! こんな夜遅くに失礼いたします、監獄長さん」
そして、ふたつの影が執務室へと我が者顔で踏み入ってきた。
内ひとりは、外部から侵入してきた片割れ。
阿鼻叫喚の状況にそぐわぬ、楚々とした修道服の幼い少女だった。外見を見るに、エミールの半分程の歳だろう。
両腕を異形の大鎌へと変じさせた彼女は、場違いなほど丁寧にエミールへと一礼する。
「……ッ!」
赤黒い血肉をべったりとこびりつかせた凶器が、エミールの知己を害した現行犯であると物語っている。
だが、エミールの激憤が向けられていた主体はそちらではない。
「信頼に応えられず大変申し訳ないですね、監獄長。ですが全ては主の思し召し……どうか、ご納得いただきたいですねェ」
「神父……! 何故!」
もう一人は、エミールの知己……どころか信頼まで置いていた、施設内部の人間だったのだから。
今まで何度も迷える職員や囚人たちの相談に乗り、エミールも悩みを打ち明けていた礼拝堂の神父が、平時と同じ穏やかな笑みを湛え立っている。
内部犯。
そう考えれば様々なことに納得がいく。
敵がまるで施設の構造を知り尽くしているかのように攻め落とせたのも、何故か外部への扉が解放されていたのも。
「何故……と問われると、少々困りますねェ。私の一存で、お話ししてよいものか……」
「良いも悪いもあるか! 小生にはここの管理者として、聞く権利がある!」
この現状も裏切りも、何もかもが許せなかった。
まるで誤魔化すように目を逸らす神父に、エミールは席を蹴って立ち上がる。
剣呑さを増した空気に、修道女が笑顔のまま鎌を構える。
「全て、ワタシが命じた行いの結果ですよ。あまりふたりを責めないであげてくださいね」
結末のわかりきった殺し合いが始まりそうな、一触即発の空気。
それを鎮めるように割り込んできたのは、場違いな程に穏やかな声だった。
聖職者たちから見て背後、エミールから見て正面から聞こえてきたそれに、三者はそれぞれ異なった反応を示す。
神父は瞑目し恭しく頭を下げ、修道女が目を輝かせて振り返り、エミールは言葉の意味を十分に咀嚼できないまま状況への怒りと共に睨みつける。
「ノウア卿、カルテジア卿。あなたたちの尽力に感謝を」
しずしずと部屋に入ってきたのは、ひとりの少女だった。
腰ほどまで伸ばされた白銀の髪に、中近世の魔女を思わせる鍔広の帽子と黒白のゴシックドレス。
服装から顔立ちまで人を引きつける容姿を持ちながらどこか存在感が希薄で、気付けば世界に溶けてしまっているのではないかと錯覚する不確かさを備えている。
それは思わずエミールが息を呑んでしまうほどに美しく、意思に反するかのように目を向けてしまうような存在だった。
「なんだ、貴様……は……!」
「あなたがノウア卿のご報告にあった子ですね? お目にかかれる日を、とてもとても楽しみにしていました」
嬉しそうに細められた薄水色の双眸が、エミールへと向けられる。
目が合う。声をかけられる。出会いを喜ばれる。
たったそれだけで意識と視線が少女から離せなくなり、溢れんばかりの多幸感に感情を塗りつぶされそうになる。
「ぐッ……!」
そんな毒の如き好意に抗うように、舌を強く噛んだ。
思考を甘く溶かすかのような熱の中で、エミールには気付くことができた。彼には、常人ではたちどころに絡め取られるそれを見破る才能と知識があった。
「なんと……痛くはないですか?」
思わず目を取られてしまう相貌が天性のものであるのは、きっとそうなのだろう。
だがそれ以外の全てが、作り物だ。
どのようにすれば他者を魅了し敵意を抑制し、心の隙間に潜り込めるか。
その所作、声色、他五感で得られる彼女の情報全てが、人工的に形作られ巧みに偽装されたまやかしで構成されている。
『人心掌握』という目的のため最適化されたお人形。
──異常だ。そして、危険だ。
その感情は恐怖だったのか復讐心だったのか、使命感だったのか。
直感の赴くまま、エミールは迅速に判断を下した。
机の引き出し、その一つを引き中に隠されていたものを手に取る。
迷わず少女へと向けたのは、黒く、ずしりとした重みを感じる凶器……拳銃。
「まあ」
可愛らしく目を丸くする少女の頭部目掛け、エミールは躊躇なくトリガーを引いた。
実戦は経験せずとも訓練の成果か、弾丸は吸い込まれるように彼女の額を穿ち、血と脳漿を散らす。
「う、う゛ぅ……っ」
グロテスクな光景に、エミールは口を押さえる。
目の前で人間が死んだ。それも、自分が殺した。
急速に襲い来た重苦しい自覚に、激しい吐き気がこみ上げてくる。
「素敵です」
が、エミールの罪悪感は最悪の形で打ち消された。
死体となったはずの少女が、ぽつりと呟いた。
それを皮切りに、彼女の頭部がぐにゃりと歪み蠢く。
まるで人間に擬態していた何かが、正体を現したかのような不気味な光景だった。
「あぁ、なんと美しい……こちらをご覧ください、ふたりとも」
少女の頭がしばし蠕動した後、何かが吐き出され小さな掌に収まる。先ほどエミールから打ち込まれた銃弾だった。
まるで聖なる遺物でも手にするかのように、彼女は先程まで己の頭に埋まっていた弾丸を両手で包み、左右を守る二人へと掲げてみせる。
「彼は忌避感を乗り越え、己の命も顧みず大切な人々のためワタシを撃ったのです。なんという勇気、そして愛……。これを人の輝き、神の卵と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか?」
「……えぇ、喜ばしきことかと」
「おっしゃる通りだと思います!」
頬を上気させ、銃弾を胸に抱いて恍惚とする少女。
彼女の問いを受け、致死の銃撃をただ見過ごしていた両隣の聖職者がそれぞれ頷く。
「ここを訪れて、本当によかった。事のついでなどとは、とんでもない……とても、良いものを見せていただけました」
「ついでだと……?」
現実離れした状況に茫然としていたエミールが、少女の言葉を拾い唖然と呟く。
それは当然のように流された、だが彼にとっては無視できない単語である。
「我々はこの施設の囚人ひとりに用があっただけなのですねェ。なので、本当は私だけでも構わなかったワケですが……」
少女の言葉を引き継ぐように、神父が真実を語る。
その内容が意味するところに、エミールは愕然と口を震わせる。
「監獄長殿は、どうやらお眼鏡にかかってしまったようでして……」
用事があったのは、囚人単独。つまり、本来であればこのような犠牲が出る必要などなかった?
──ノウア卿、お願いしますね。
エミールが物事を深く考えるだけの猶予はなかった。
少女に名を呼ばれた神父が頷き、指を鳴らす。
合図に応じるようによろよろと部屋に入ってきたのは、数人の少年少女だった。
「悪い、ドジっちまった……」
エミールが最初に仲を深めた、同年代の職員たちだ。
その筆頭である少年は、困ったようにエミールへと笑いかける。
彼らの顔には恐怖や悔恨が浮かんでおり、その様が肉体は支配されど精神はまだ正気であると証明してくれた。
「っ……!」
「さて。あなたの前には、分かれ道があります」
この場の支配権は、完全に相手へと渡っている。
状況を理解したエミールは口をつぐみ、ただ少女に続きを促すことしかできない。
「ひとつは、膝を屈してこの施設を売り渡す。あなたは国を裏切り、我らが主の望むものを捧げる傀儡となります。代わりに今以上の犠牲はなく、これからも皆様との平穏が続くと約束いたしましょう」
「言うなれば……愛に生きる道、とでも称しましょうか。誇りを捨てる代わりに、あなたは温かさの中で生きられるでしょう」
少女が左の掌を微かに丸め、肩まで掲げてみせる。
最初の選択肢。
それは彼女の言う通り、エミールにとって屈辱そのものでありながら、同時に優しい道だった。
何人がまだ生きてくれているのかはわからない。これから国への背信を働くことになる。
それでも、ただ腐っていく自分を最初に変えてくれた者たちは生きている。
自分はこれからも、この地で皆と過ごすことができる。
この極限状態で、これ以上に救いのある道など存在するのか?
もうひとつを聞くまでもない。
エミールは、迷わず少女の左手を握ろうとした。
「空の器を温める価値が如何程のものかは、ワタシには判断いたしかねますが」
その手は、少女が首を傾げながら呟いた内容でぴたりと止まる。
明確に意味を読み取れたわけではない。
しかしそれは、エミールの奥底にあった何かへと強烈に訴えかけてきた。
「もうひとつは、勇気に生きる道」
「あなたは多くを失います。けれど──喪失の対価として、渇ききった杯に水を注いで差し上げます」
黙り込んだエミールに微笑みかける少女が、もう一つの選択を提示する。
「なにを、言っている……?」
少女の言葉は抽象的で、摩耗した思考ではやはり意味を察することができない。
たどたどしく疑問を口にしたエミールには、自覚できていなかった。
詳細な説明を求めている時点で、うっすらとその選択肢に希望を抱いている自分に。
「では、もう少し直截に。戦士として指揮官として、戦う場所を差し上げます。代わりに、この子たちは助かりません」
「──!」
心臓が、大きく跳ねた。
自分の中で閉ざしていた扉が、開け放たれた感覚。
「だが……それは」
残酷な選択肢の提示に、少年少女がそれぞれ喚き始める。
お願い、助けて。死にたくない。信じるな、今すぐ逃げろ。
内容は自身の命を惜しむものからエミールを思いやるものまで様々だ。
──戦える? 自分が?
──何を言っている。彼らを見捨てろというのか。それに、どちらを選ぶにしても自分は祖国を。
心を交わした友人たちの叫びは、今のエミールには届いていなかった。
今の彼に聞こえていた声は、喧々諤々と議論を交わす自分自身のものだけ。
「いいえ? あなたはなにも裏切りませんよ」
全てを察しているかのように、少女は揺らぐエミールの疑問を先回りする。
優しく心を融かすようなその声を、エミールは聞いてしまった。
「後ほど、あなたの刃の切っ先は主要国……この国が相対している敵へも、向けられるでしょう」
つまり所属が変わるだけで、あなたが最終的に戦う相手は変わらない。裏切りではない。そう捉えることも、可能ではないでしょうか?
少女の説明は言い訳じみていて、無理があるのは明らかだ。
だが。
「護国の将として、誇り高く戦う。己の欲望に甘んじて祖国を見捨てた
酷い吐き気に、エミールは口を押さえる。
いくつもの記憶が、頭の中を渦巻く。
かつての憧れと同じく、祖国を離れて戦う。
唾棄すべき裏切りを働いた彼と違って、そうしてなお己には正義がある。己が望んだのに得られなかった、戦場がある。
「証明、したいのでしょう? 自分はあの人と違って、正しく優れた人間なのだと」
己の欲望に甘んじて、祖国を見捨てたどなたか。
少女の先ほどの言葉を、もう一度脳裏で再生する。
職員たちを助命してもらうため、国を裏切りこの施設を売り渡す。
それは己が誰より憎み間違いだと断じた愚か者の思想と、どう違う?
「小生は……」
気が付けば、少女の足元を中心として何かが薄く広がっていた。
ところどころ凸凹があり穴が開いた、出来の悪い絨毯か毒沼を思わせる物体。
黄土色の表層に痣のような黒灰色がこびりついた不気味なそれは、まるで意思があるかのようにエミールの同僚たちへと向かって拡大していく。
まるで契約の対価とでも言うように、彼らの体へとそれが這い上がる。
肌に吸い込まれるように、黄土の毒沼がジュウと音を立てながら体内に沈んでいく。悲鳴。
表皮に取り残された黒灰の痣が、そのまま体中を覆わんとする。絶叫。
エミールは、その光景をただ見ていた。
仮に、あと一日だけ襲来が遅ければ。皆と話し合い、多少なりともかつての自分を取り戻せていたのなら。
憧れの人と再び対話できる機会があり、彼が敵国に付いた詳しい経緯を知ったならば。
選択は、変わっていただろうか。
「そうだ……小生は、証明せねばならない……」
その答えは、もう彼にすらわからない。
──────
「……正しい選択を、したはずだ」
戦いはいい。
どう敵を仕留めるか、どう敵の攻撃に対処するか考えている一瞬一瞬は、他のことを考えなくて済むから。
作戦指揮はいい。過酷な戦場であればなお良い。
繊細緻密な計画を立てたりそれを遂行している内は、他のことを考えなくて済むから。
仲間は駒と考えるのが良い。そうすれば──
「正しいからには、負けられぬのだ。負けてはならないのだ。正しくあらねばならぬのだ」
慣れない量の投薬が、酩酊に近い形で思考をかき乱す。
奥底に沈めていた思考を、表層まで引きずり出してくる。
「奴は火星で死んだ……殿となって、戦友を庇い命を落としたと報告があった……」
幽鬼のような、精気の抜け落ちた瞳がレナートへと向いた。
地位に驕った若者でもなければ、世界を滅ぼす集団の手先を思わせる邪悪でもない。
「小生は違う!! 勝って生き抜いて、己こそが正しかったのだと示し続けねばならぬのだ!」
こびりつくような妄執を宿した、暗い光を放つ目だった。
その焦点がレナートにはっきりと合うや否や、エミールは自ら身を前方に躍らせる。
「う、おっ!」
下方から斜め右に鋏が振り上げられた鋏が、レナートの襟を再び捕えた。
レナートの額にどっと汗が浮き、本能が迫る死に警鐘を鳴らす。
このままでは再び引き倒される。どうにか振りほどかねば。
──いや、このままでいい。
だが、戦士としての判断が本能に逆らった。
この戦闘、長期戦になればなるほど不利だ。
武術との相性こそ良くないが、たった一度でも傷を作られたらそこからたちどころに無力化されかねない毒。
手足程度の損傷ならば一度二度と回復可能な再生能力。
「悪いが、幕切れだ……お前の望む結果にゃ、ならねぇよ」
ならば短期決戦、速攻で決着を付ける他ない。
レナートが選んだのは、真っ向からの迎撃。
「無駄である。今更貴様に抵抗の術など──」
容赦なく首を締め上げてくる鋏に対して、レナートは懐に手を入れる。
何か武器でも仕込んであるのかと推測するエミールだったが、それでも勝ちは揺るがないと確信する。
携帯できるサイズ、それも碌に力を込められもしない武器でこちらの甲殻を抜き致命傷を与えるのは不可能だ。
死に際の見苦しい抵抗に過ぎない。そう判断したエミールは、今度こそ完全に敵の命脈を断とうとして──
「──な、バカな貴様ッ……!?」
取り出された物体に、表情を大きく歪めた。
「考えてみろや、坊や。お前は勝たなきゃいけないんだろうが……コッチは違う」
レナートは締め上げられ殆ど動かせない手を小さくスナップさせ、
「後を任せられる連中がいる。つまり……」
流れる血を舐め取り、皮肉げにレナートは笑った。
少々無理やりの投擲だったが、どうやら神は微笑んだらしい。
密着した両者の身体の隙間に、見事に入り込んだ。
「相打ちでも、構わねぇんだよ」
──一本の、手榴弾が。
「おのれっ……おのれおのれ!!」
正気か、という罵倒をエミールは即座に飲み下す。
己の内の冷静な部分が、レナートの言ったことが全てなのだと納得してしまっていた。
最初から、此方と彼方では達成すべき条件が異なっていたのだ。
敵を打ち倒しこの場を守り続ける。自分の抱いた信念がある。
それらを全うするには、エミールはこの戦いに“勝利する”必要がある。
だがレナートは違う。
エミールと違い、託すことができる人たちがいる。
この戦いで彼らに貢献できる結果とは、監視の無力化だ。
ならば、相打ちでも構わない。必ずしも“勝たなくていい”。
「貴様はっ!」
エミールは少しでも爆発の影響下を逃れるべく、全力で身を引いた。
レナートの拘束を、解いてしまった。
しまった。いや、現状での最適解だ。仕方ない。
自由の身となったレナートを見てエミールの脳裏を駆け巡ったのは、己の戦闘判断について。
「狂って……狂って……?」
では、なかった。
本来優先するべき戦闘の思考が、突如として湧いて出た考えに上書きされてしまった。
「なぜ、どうして……小生は、その選択を“狂っている”と?」
不可解だった。エミールの描く戦略的な図から見れば、レナートはしょせん代わりの利く駒のひとつだ。駒を自爆させ敵の指揮官と引き換えにするなど、それが最適解であれば異論なく実行すべき手ではないか。
どうして、その判断を愚かだと考えてしまった?
「お前に何があったとか、さっぱりわかんねぇけどよ」
かき乱された意識と接続できず、ただ目の前の光景を写すだけのエミールの視界には猛然と突き進んでくるレナートの姿。
退避もせず拳を思いっきりに振りかぶっているその意図は、誰が見ても明らかであった。
「悪ィな。俺の“勝ち”だ」
先のやり取りと反する言葉の意味を解する余裕は、エミールにはなかった。
全力の拳が、腹に叩き込まれる。
甲殻がひしゃげ、剥き出しになった身にさらなる衝撃が叩き付けられる。
その攻防を最後に、手榴弾の炸裂によって両者の世界は真白に染まった。
「戦闘で勝利し、だが戦術では敗北した……か」
意識を取り戻したエミールの目には、天井が映っていた。
甲殻型の防御力は、カブトムシの全力の一撃と爆発という二重の衝撃にも耐え命を守ってくれたらしい。
しかし、どれだけ力を込めても体が動かない。
敵の狙い通り、命と引き換えに無力化されてしまった。
奴は死に、己は生き延びた。
だが作戦全体という意味では、敵は見事に目標を達成してみせたのだ。
この一戦、勝利と判断すべきか敗北と判断すべきか。
「いや、坊やの完敗なんだな、それがよ」
そう考えていたエミールの視界に、先ほど消し飛んだはずの男が大写しとなった。
「……何故だ」
驚くだけの元気はもはやなく、エミールはただ呟く。
至近距離での手榴弾の炸裂。
通常の威力のそれであれば生存は困難なはずだ。
「コイツはな、MO手術戦用に特性で作られた手榴弾だった……っていやぁ、わかるか?」
「……!」
MO手術被験者同士の戦いを想定した爆弾。
そのシチュエーションを前提とした場合、考えられる一般的なものとの差異は2パターンだ。
ひとつは、甲殻型などの強化された外皮さえ貫けるよう、単純に威力を増したもの。
そしてもう一つは。
「己が耐えられる程度に威力を落とし取り回しを良くする、か」
「ご名答」
「ま、ギリギリ攻めた威力にしてもらった結果このザマなわけだが。俺としちゃ威力強い方を希望したんだが猛反対されてな?」
レナートは焼けこげた己の身を見て、力なく笑う。
甲虫の甲皮はずたずたに引き裂かれ、ところどころから血が流れている。
“耐えられた”というよりは“死ななかった”というだけの有様であった。
「お前があそこで退かなかったら、普通に負けてたな。賭けに勝った、ってワケだ」
「そうか……小生は負けたのか」
だが、レナートはこうして立っており、エミールは動けない。
勝敗は、明らかだった。
「ひとつ、問いたい」
「んだよ」
己は敗北した。
彼は既にその結末を飲み込んでいた。
そうしてなお、どうしても知りたい事があってどうにか口を動かす。
「もし確実に死ぬとわかっていた場合でも……貴様は自爆を決行しようとしたか?」
今回レナートが取った作戦、自分が命を懸けずに済むという前提でのものだった。
では、そうでなかった場合でも同じ選択をしたのだろうか?
先の言葉からして、反対とやらがなければさらに強力な威力のものを持っていたのだろう。
もしそうだったなら、彼はひとつの駒として、どのような判断を下したのだろうか?
それが、気になってしまった。
「あー……。もしかしたら、止めてたかもしれねぇな」
「それは、何故だ」
意外な返答に、エミールは再び質問を繰り返す。
この男は、命を惜しむような質には見えなかった。
結果そうならなかったとはいえ、戦いのさ中語った相打ちの覚悟は、間違いなく本心からのものだったとエミールにはわかっている。
ではどうして躊躇する。それが、何故だか知りたかった。
「だって、お嬢が泣くだろ絶対」
その解答は、なんともくだらない。
まるで誇るような、自信を持った一言が全てだった。
「そうか……貴様らの将は、配下をそのように扱う者なのだな……」
予想外の馬鹿馬鹿しい言葉に、ただ、息を付く。
考えが纏まらない。それは己の全てを否定されたに等しい、不意打ちの回答だった。
「そして小生は、そ奴にも敗れたのか……」
ロシアの
指揮官としては下等も下等と思っていた彼女のあり様で、勝利もしくは相打ちだったはずの戦いを完敗まで持ち込まれた。
皮肉な結末に、エミールはただ小さく息を付く。
「……殺さぬのか」
「馬鹿が。このままひっ捕まえて情報吐かせるに決まってんだろ」
聞きたいことは聞ききった。
後は沙汰に身を任せようと力を抜くエミールに、レナートは悪辣に宣言する。
「そのつもりは無い」
当然、エミールに応じてやるつもりはない。
たとえ敗れようと、己の価値観に何度目かわからないヒビを入れられようと、彼の性根も信念も何も変わらない。
それは自ら犠牲を生み出した果てに得たもので、己の全てであったから。
「だが……万が一にも、貴様らが正しかったのであれば。貴様の戦友どもが、我らを上回り破滅を防ぐ結末を掴み取ったのならば──」
それでも、彼と彼らを率いる将を知って、ほんの少しだけ思ってしまった。
彼らの──己とは違った信念を抱いた将と兵たちの結末によっては、認められるかもしれない。
もしかしたら、自分は選択を誤ったのではないか、と。
「──その時は、負けを認めよう」
再び、身体から力を抜き。
かつて己の全てを削ぎ落した少年は、どこか憑き物が落ちたように小さく宣言した。
ご観覧ありがとうございました!