短いです。
世界各地の都市で、時には深き自然の中で、それは行われました。
たくさんの人が理不尽に抗い、手を繋ぎ、この世界を抜け出そうと足掻き、無力に咽び、苦しみ、殺し合い……善性も悪性も入り混じった物語を紡ぎ続けました。
被害者は最終的に3279人。
命を落としたのは、計648437人。
……あら、何か腑に落ちないという顔をされていますね。
人数が合わない。
そんな数が犠牲になる事件なんて隠しようがないはずなのに、自分は聞いたこともない。
なるほど、それはごもっともです。
でも安心してくださいね。
だって──
――――――――
──笑顔は、いいものだ。
その真理にたどり着くまでの記憶を、彼女ははっきりと覚えている。
生後、肉体の経過時間で数えて3歳から6歳の頃に経験した、一連の出来事からだ。
ある日目を覚ますと、そこは戦場だった。
いつもの真白な実験室でもない、学習のために連れていかれる豪華な聖堂でもない、汚く騒がしい真逆の場所。
砲火が絶えず飛び交い、爆発音が響いている。
最も対処に迫られた事態と言えば、なにかを喚き散らしながら銃を突きつけてきている男がいる。
不意に訪れた環境の激変に、彼女は。
「……ふわぁ」
手で口を押さえて、小さくあくびをした。
そのついでに──男がその動きに釣られた隙を縫って、もう片方の腕を振るう。
一瞬にして鎌に変じたそれは銃を両断し、止まらない勢いのまま男の体を引き裂いた。
状況に対する動揺はない。手に伝わる骨肉と臓腑を裂く感触に対する忌避感もない。
身体に異常がないことも、人為変態が可能なことも目を覚ました瞬間に確認している。
正確に述べれば奇妙な身体感覚のずれを認知していたが、即座に対応した。
「先進国……おそらくイギリスのビル街……。人の気配は、おひるなのにちょっとだけ……ううん」
きょろきょろと周囲を見渡す彼女の表情は、恐怖も動揺も皆無な凪いだものだった。
ただ、状況を把握するべき必要があったから。今の彼女の行動理由は、それが全てだ。
彼女は、感情の大部分を希薄な状態でしか持っていない。そしてそれが育つ余地も存在していない。
そんなものは、無駄でしかないからだ。
恐怖は判断を鈍らせ、必要以上の高揚もまた同じ。
慈悲や同情など、以ての外だろう。
だから必要ない。
彼女は兵器である。
如何なる状況でも正常に作動し、本分を果たすようにできていた。
「ん……」
彼女の残った思考と感覚器官のリソースは、常に周囲への警戒に向けられている。
何かが光った。
そう認識するよりも早く、彼女は人間の物理限界を超えた反射速度で目を向ける。
視界に入ったのは、自分に向けられた狙撃銃のスコープの反射光だった。
銃弾が発せられるより、相手が気付かれたのだと把握するより早く、彼女は駆け出し、薄暗い路地へと身を滑り込ませる。
──可能な限り多くを殺し、長く生き残れ。そうすれば、ここから出られるだろう。
ここで目覚めて以降、そんな一文が頭の中に残り続けていた。
思考の邪魔になるようなものではない、さりとて忘却できない程度には存在感がある、不思議な感覚。
彼女はそれを、自分に対する命令とみなす。
「たくさん、
このようにして、■■は始まった。
やる事は単純だ。『より多くの魂に試練と救済を』。
彼女は僅かな睡眠時間以外の全てを、成すべき聖務へと割り当てた。
何も感じないまま、ただ刃を振るい続ける。
どうやらこの地にいる多くは傭兵や軍人というような実戦経験を持つ人間らしく、ただ無軌道に殺し合っているだけだったが、それ以外の振舞いを見せる者にもいくらか遭遇した。
何故自分たちはこのような状態に陥っているのか、情報を集めている元一般人だという集団。
彼女と同じ“改造手術”を受けているそうで、皆で手を組み組織的に戦おうとする者たち。
国という枠組みを作ることで、平穏をもたらそうという大それた考えの人間もいた。
時に彼らは敵対し、時に彼女を受け入れようとした。
他の人間の目的などどうでもよかったが、むやみやたらに暴れるだけが最適解ではない。
可能な限り多くを殺し長く生き残る。そのためには、補給や情報収集といった回り道も必要だ。
憎悪をぶつけられ彼らを
彼女が命を落としたのは、新しい生活が始まって15日目の夕暮れだった。
いつものように数人を救い、最後の一人を行き止まりまで追い詰め鎌を振るう瞬間に、微かな隙を見せてしまった。
実験室で経験してきた戦闘試験では、こんな事態は起こらなかった。
彼女は絶対的な捕食者であり、テラフォーマーも人間もただ貪られるだけの獲物だった。
だが、命の奪い合いとは決闘のように真正面から行われるばかりではない。
立体的かつ複雑な都市を舞台とした戦いにおいて、この時の彼女は必ずしも狩る側に回れる存在ではなかった。
身体に飛来した衝撃。遅れてやってくる、パン、という音。
彼女が視線を下ろせば、背後から貫通された左胸と血に染まっていく修道服が映った。
彼女は既に、要警戒対象として生存者の間でその情報が共有されていた。
銃すら用いずに人を裂く、虫と思わしき生物の特徴を発現させる“被験者”“化け物”。
その脅威を重く見た一団は、彼女の
そうして死に瀕する仲間たちを援護すらせず、一瞬の隙を待ち構えていた狙撃手が射抜いたのだった。
「……?」
彼女は、今から救おうとしていた目の前の少年兵をまじまじと見る。
左腕が肩から切断され、逃避の過程で体のいたる所から血を流す彼は、笑っていた。
ありがとう、よくやってくれた。そんな、笑顔だった。
どうしてだろう、と彼女は考える。
今から救うまでもなく、失血死する重傷だった。青ざめているその顔を見るに、長くはあるまい。
だが、笑顔。彼は、嬉しいのだろうか。
自分が今まで殺してきた相手は、その最期に苦悶や憎しみ、怒りを湛えていた。
……ああ、でも。どうせ同じ結末を辿るのなら。
「──」
なにかを考えようとする。口に出そうとする。
直後、末期の言葉を語る暇もなく追撃の一発が頭部を正確に捉え、弾けさせた。
そして彼女は死んだ。
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