「……嫌だ」
薄暗い空が、俺を追い詰めるようにその色を段々と濃く変えている。
必死に走る俺の背後からは、無数の足音。それが俺を救出しようというわけでない、というのは考えるまでもない。
燃え盛る街と、所々に散らばる、かつて人間だったものの残骸。
地獄、という言葉に相応しい光景の中、俺は一人で無我夢中に安全地帯を求めて走っていた。
だが、その安全地帯は、本当に安全地帯なのだろうか?
足は震えている。足取りもおぼつかない。疲労も限界まできている。
ここで終わりなのだろうか。何もかもが失われてしまうのだろうか。
「う……ああ……」
もうダメだ。一歩も動けない。お終いだ。追跡者からすれば、戦場の真っ只中で立ち止まる俺はさぞかし滑稽に見える事だろう。戦うという選択肢すら出てこない。ただその場に立ち止まって、最後の時が来るのを待つ事しかできないんだ。なんて臆病なんだろうか。家族を、友達を、仲間を、全てを奪ったあいつらに追い詰められて、抵抗するという選択肢さえ選べないなんて。
背後からの嘲笑か、怒声か。死への恐怖でじんわりとした麻痺に奪われている聴覚は、それすらも識別できない。
まあ、俺はここで死ぬ、その結果は変わらないのだろう。
諦めなんかつかない、最後まで見苦しく死にたくない、と呟いていた俺は、ふいにその大声が途切れた事に気づいた。
それから数秒か数分か、頭を抱えてうずくまっている俺の頭が、何か柔らかで暖かいものに包まれる。
「大丈夫、大丈夫ですから」
穏やかで優しい声。怖々と目を開けた俺の目に最初に飛び込んできたのは、これまで散々見てきた血にまみれた衣服。
でも、俺はそれに恐怖を感じず、……?
あの日あの時、俺を救ってくれたあの人は、誰だったんだろうか……?
―――――――――――
「蜘蛛か……畜生」
起き上がった俊輝の体に、容赦なく毒の負荷が圧し掛かる。
すぐに死ぬ、というわけではないだろう。だが、あまり長引くとまずいのは考えずともすぐ理解できる。
「オイオイ、まさかこれで終わるってわけじゃねえだろうなあ」
宙に張り巡らされた糸を伝い、三次元的な機動で攻撃してくるバイロン。
毒による吐き気で集中を乱されている状態での複雑化した戦闘。
全て、相手に踊らされていたのだろうか。
このままでは、勝てない。
俊輝は何とかその状態でも戦闘を続けるが、圧倒的に不利な状況を作られてしまった、それは覆しようのない事実だ。
狭い地下道、そこに張り巡らされた糸。蜘蛛にとってはこれ以上ないフィールドであり、そこに迷い込んだ虫は餌でしかない。それはわかっている。だが、ここで諦めるわけにはいかない、というのもまた事実。
「ダニエル! 大丈夫か!?」
ひとまずは態勢を立て直したい。だが、俊輝の目の前に現在の状況がはっきりと映る。
一度認識してしまえば驚くほどよく見えるようになった、所どころに巡らされている糸。
それは巧妙に、二人の合流を防ぐように配置されていた。
そこまで密度はあるわけではない。除去に集中すれば、すぐにでも抜け穴を作れるだろう。しかし、戦況はそれを許そうとしない。
パワーはあるもののスピードが遅いので正面からバイロンと戦っても話にならないが、その盾で押されている戦況を押し戻し、一旦リセットするダニエル。
バイロンとある程度殴り合えるが、それでもスピードでは劣る上に防御力に難があり、いざ押され始めるとそのまま総崩れで終わり、という流れになってしまう俊輝。
協力して初めて互角以上の戦いができるというのに、分断されてしまったというこの状況。
糸を切り、合流する。……ダメだ、そんな余裕をこの相手が与えてくれるとは思えない。
このまま一人で戦い続ける。……これもダメだ、これまでの戦闘からして正面から戦って勝てる相手ではないと分かり切っている。その上、先ほどの打ち込まれた毒による体への負荷による弱体化。先ほどよりもさらに不利な状況だ。
「おうおう、もっと踏ん張れよォ!」
笑い声と共に再び襲い来るバイロン。
俊輝は何かおかしな感覚を覚える。
相手は高速で移動し、糸を使った移動による死角からの襲撃も仕掛けてくる。だが、相手は常にハイテンションな態度で騒ぎ立てながら戦闘を行っている。正面からの殴り合いであれば、士気を上げ、己を奮い立たせるという目的で掛け声などは意味があるといえる。
だが、相手に気づかれない位置から攻撃を仕掛けるのであれば、無駄な声で場所を知らせるという行為はマイナス以外の何物でもない。
ならば相手は素人なのか? と問われれば、その答えはNO,である。これまでの攻防の動きと糸による戦術的なトラップ、それは明らかに実戦慣れした戦士のそれである。
この矛盾は何なのか?
答えを出す暇無く、猛毒を備えた一対の黒い鎌が左右から俊輝に襲い掛かる。右側から襲い来るそれを右手の刃で逸らし、左側は姿勢を低くして回避を試みる。
「……っ」
結論から言えば回避には成功した。だが、それは完璧なものではなかった。
肩に掠ったその攻撃は、少し触れただけなのに肩を守る甲皮を引きちぎったのだ。
シドニージョウゴグモ。俗にタランチュラと呼ばれるオオツチグモ科に迫る巨躯に加え哺乳類に特異的に作用する強毒を持つ危険生物だ。
だが、その二つにならぶ特徴がもう一つ。それは、噛力の強さである。
大型の蜘蛛の中でも指折りの強さを持つそれは、捕食の際に硬い殻を持つ生物をものともしない。
(これは……キッツいな……)
即座に反撃するが、バイロンはそれを余裕のある動きで回避。次いでの相手の攻撃に備えなければならないため、あまりこちらの攻撃に集中する事はできない。一方、向こうはスピードで優位という攻めにも守りにも常に先手が取れるという圧倒的優位。相手の攻撃を紙一重で回避し、当たりもしない反撃を繰り出す。そんな不毛な攻防戦に、苦笑いすら漏れてくる。
ようやく、比較的隙の大きい動きをバイロンは行ったというのに、俊輝が反撃しようとしたその瞬間、目の前から姿を消す。相手の反撃で傷を負いかねない状態ではそれ以上続けず、即座に離脱。常に自分が優位なペースを崩さない。
やはり、明らかに戦闘慣れしている動き。
「どこ探してんだ? こっちだ」
直後、俊輝の頭上から、声がかけられる。
だが、俊輝はそちらを見る事すらしない。
「……ああ、だろうな」
天井に巡らせた糸でぶら下がり、俊輝に向かって鎌を構えていたバイロンはその発言に怪訝そうな表情を見せる。
コイツは、この追い詰められた状況で何を言っている?
怒りが頭を支配し、目の前のザコを叩き潰そうと思考の全てが訴えかけてくる。
勿論、バイロンはそれに従い、鎌を振り下ろすが。
「おぐあッ!?」
そのバイロンの体は、大質量の激突によって吹き飛ばされ、糸の巡っている壁に叩きつけられた。
「待たせて悪かったな」
「気にすんな」
バイロンに激突したそれは起き上がり、バイロンの方を向いたまま俊輝に一言声をかける。
殻の先端の尖った部分で最低限の糸を切り、隙間をくぐってきたダニエルだ。
「テ……メエ……ら……」
バイロンの顔がさらなる怒りに歪み、むき出しになった殺意が二人に襲い掛かる。
だが、それに威圧される二人ではなかった。
やはりだ。ワナを張った時点で、それは最低限の時間分断できるだけのもの、という事はバイロンもわかっていたはず。だというのに、俊輝との戦闘にのみ没頭し、ダニエルの存在を見逃した。普通ではありえない事だ。
ダニエルが貝類ベース、という事で糸を切る事ができない、と思っていた? いや、それもありえない。
鈍足なダニエルの奇襲をそのまま受けた、それはダニエルが糸を切り始め、それを終えてバイロンに突撃するまで全くダニエルに目を向けていなったという事だ。戦闘慣れした人間が、決めつけで分断しておいた相手の動きを一度も見ない、なんという事があるだろうか。
だが、糸によるトラップそのものが有効だった事もまた事実。そこでは冷静な判断ができていたというのに。
戦術的で合理的な思考が、闘争的で直線的な思考に上書きされている、そんな雰囲気。
「もう許さねえぞ、お遊びは終わりだ、終わりにしてやる……」
バイロンがよろよろと起き上がり、己の懐に手を伸ばす。何を取り出し、何をしようとしているか容易に予想できた二人が、それを黙って見ているわけもない。
俊輝の腕の大顎が振るわれ、バイロンが取り出し手に持ったそれを、大量の節足動物型用の『薬』を、肘から切り落として阻止する。
「もう終わりだ、悪いようにはしない、利用価値もある。降伏しろ」
反撃に備えていたダニエルが、片腕を失ってなお殺意に満ちているバイロンに語り掛ける。
「……無様な姿だな、バイロン」
唐突に、地下道にこれまでになかった声が響く。
バイロンはそれを聞いてちらりと目を向け、二人は短時間の戦闘といえどギリギリの勝利で疲弊していたため新手の登場に驚愕と少しの絶望を感じ、声のする方向に顔を向けた。
そこに立っていたのは、二人の人間だった。
片方は、軍服を纏った青年だ。すでに変態しているのか、額の触覚と両腕から生えた針、全身を包む青黒く、甲虫ではない薄い甲皮。
もう片方は、小柄な女性だ。青年の奥にいる上地下道の薄暗がりであまりよく見えないが、長く伸ばした銀髪に、白衣を纏い、機械的な装飾のされた杖をついている。全体的に少し薄幸そうな雰囲気で、静かな表情で俊輝を見ていた。
そして、俊輝とダニエルをさらに絶望に追い込んだのが、新手の二人の後ろからぬっと姿を現した三匹のテラフォーマー。これがただのテラフォーマーならまだいい。だが、それは手が、足が、あらぬ場所に、あらぬ本数付いた異形の生命体だったのだ。さらに、その全身を灰と青の混じった針が覆っている。
「ああ! 大丈夫ですかバイロン! こんな姿になってかわいそうに……」
緊迫した空気の中、次に口を開いたのは銀髪の女性だった。片腕を失い、壁に叩きつけられた衝撃でボロボロになったバイロンを見て悲痛な声をあげ、ぽろぽろと涙を零す。
「ったく、遅ぇんだよ、アナスタシア、ヨハン」
その姿を見て、バイロンは毒を吐く。これが相手の援軍である事はもう明らか。その光景に俊輝たちは次の一手を考える。
「調子に乗りすぎるのがお前の悪い所だ、早くこちらへ……」
軍服の青年、ヨハンがバイロンへ声をかける。今の俊輝達にこの援軍を止める力は無い。早く、本部に知らせなければ。
「ああ、なんてかわいそうなバイロン……だから」
涙を流し続ける銀髪の女性、アナスタシアの目に少し色の違う光が宿る。俊輝たちは、本能的に危険な雰囲気を感じ取った。何かが起こる。それも、おぞましい何かが。
青年、ヨハンも何かを感じ取ったらしく、ぴたりとバイロンの方へと歩きだそうとした足を止めた。
アナスタシアは杖を少し持ち上げ、それで地面を突く。カン、と地下道に響く音。
そして。
「だから……今楽にしてあげます」
続く言葉を言い放った。
「あ……? ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛!!」
突如、バイロンが倒れこみ、悲鳴を上げて苦しみだした。凄まじい痛みが全身を襲っている、そのような動きだ。もがき苦しみ、頭を押さえて倒れこんだまま芋虫のようにはい回る。
それを見たヨハンの顔が驚愕と恐怖に歪む。俊輝はその光景が信じられず、硬直。ダニエルはそれを睨み付け、油断なく見つめる。
「クソがぁあ!! アナスタシア、テメエ、ウ゛ア゛ア゛ア゛」
何かを言おうとするバイロン、だがその言葉は途中で襲い来た痛みで意味の無い悲鳴へと変わってしまった。
その殺意に満ちた眼光はただ一つ、これまでの標的であった俊輝ではなくアナスタシアに向けられ、他には全く構っていない様子だ。
「痛い、ああ、痛い痛い痛い、やめろ……やめ……」
徐々にその動きは弱まり、全身から力が急速に失われていく。それは、周囲の目から見ても明らかであった。
ふと、バイロンの動きが止まる、その目からは殺意、敵意が抜け落ち、ただ驚きと悲しみが入り混じった、憑き物が落ちた表情があった。そして、かすれた声で、迷子になった子どものような不安そうな目で、弱弱しく、救いを求めるような様子で呟く。
「せん……せい…………なん…で……?」
それを最後に、目からは光が消え、その体はもう動く事はなかった。
「……さあ、行きますよ、ヨハン。ここは恭華ちゃん達に任せておきましょう」
俊輝たちに背を向け、アナスタシアは地下道の奥へと歩いていく。ヨハンは複雑な表情を浮かべながらも頷き、異形のテラフォーマー達と一緒にそれに続く。
一人の亡骸が残された地下道は、不気味なほどに静まり返っていた。
観覧ありがとうございました、次回からもバトル続きです。