―ある人間の話をしようと思う。それは、壮大なラストなんか望めるわけもなくて。悪を打ち倒す正義の話でもなければ、ほろりとさせるような切なく感動的な話でもない。ただ、地獄の血の池でもがき苦しんでいたらいつの間にか競泳選手になっていた、そんな馬鹿みたいな話だ。
――――――
ヨーロッパでは『海の悪魔』と呼び称されている頭足類。では、その頭足類の特定の種がさらに『悪魔』
という別名で呼ばれている事はあまり広くは知られていない。
しかし、彼らの生きる姿を目の当たりにすれば、誰しもがその名で呼ぶ事に疑問を抱く事はなくなるだろう。
光届かぬ世界で群れをなし、狩りを行い。
一、二年しか持たない短い寿命で巨体に成長する裏には、弱った同族を糧としか見ない酷薄な野生の性質を有し。
全身の色を一瞬にして全く違う色に変化させる上に、無数の変色パターンを持つ頭足類でも屈指の変色能力。
そして、頭足類に違わぬ高い知能。
頭足類である彼らの外見上の特徴は、他の種と違わず筋肉で構成され、力強いだけでなく複雑、精妙な動きをも可能にする複数の触手である。
だが、獰猛な捕食者である彼らの武器はそれだけではない。彼らの属する門『軟体動物』という名前と、その外見からは想像もつかないものがもう一つ。
―――――
「クッ、てめ……ぇ……」
ジェネジオの腕が万力のような硬く、強い力に押し潰されて原型を失っていく。
エレオノーラの左手。それは、まるで鳥の嘴のような形に姿を変えていた。
頭足類は魚に加えて、貝や甲殻類といった硬い装甲を有する生物も日常的に捕食している。
柔らかそうな体の彼らに、それは可能なのか。
その疑問に答えるのは、彼らの口内に暗器の様に隠された捕食器だ。
光を当てると反射して鈍く、黒く輝くそれは鳥のものとよく似た形状をしている。
ゆえに『カラストンビ』と呼ばれるそれは、頭足類の筋力と合わさって獲物の装甲を軽く挽き潰す。
触手と並ぶ頭足類の武器なのだ。
そして、フンボルトイカのそれは。
『全ての有機化合物の中で最も硬い』とまで言われる強度を持っている。
―――――――――
それはただの偶然だったのだろう。ヨーロッパのある国のある街で、まだ10歳の一人の少女が家族が少し目を離した隙に行方不明となった。
……別に、珍しい話ではなかった。当時のヨーロッパの情勢は最悪で、数々の犯罪組織が裏社会の覇権を争い、その流れ弾が何の罪も無く暮らす民間人に降り注ぐ、そんな状態だった。それは日常茶飯事だったし、きっと少女が行方不明になったのも、それに巻き込まれて命を落として、死体は処分されてしまったか、もしくは誘拐されたか。
家族はそう考えて、早々に諦めた。もちろん、警察に相談もしたのだろう。だが、碌にとりあってもらえなかった事は簡単に想像できた。この時代のマフィアというものは、公権力すら掌握していたのだから
一方の少女は、祖国から離れた、特に犯罪組織同士の抗争が激しいとされていたスラム街の裏路地にただ一人で放り出されていた。周りに見えるのは、黒くべったりとした汚れがこべりついた無数の家屋と、古めかしい看板。
そう、彼女は拉致されていた。が、その後の展開はあまり一般的なものではなかった。
少女はただ放置されていたのだ。よそものが一度入っては二度と生きて帰れない、とまで言われていた場所の中で。
誰が何のために? 考えようとしていた少女は、ひとまず同じ場所に留まっていては危ない、という事を雰囲気で察して歩き始めた。にわかに、人が争う音が聞こえてきた。もちろん、少女は慌てて逃げようとする。
だが、汚れに汚れていた道路に足を滑らせ、その場に倒れてしまった。直後、頭上を銃弾が通過した。
これが、初めての経験だった。命の危機に陥った事も、銃声を聞いたのも。
そして、この状況で少女が命を落とさなかったのは、全て運によるものだった。
怖かった。恐ろしかった。少女はどちらかというと上流階級の家の子で、将来の夢はお嫁さん、などというどこにでもいる、平和な世界に属する人間だったのだ。
でも、この一件で少女は思い知ったのだ。全く別の世界に放り出されてしまった、と。
この世界は、自分を食らおうとしているのだと。
死にたくない、と彼女が人生で初めて思ったのは、この時だった。
その後数日間、彼女はスラム街の隅に、影に、コソコソと隠れて過ごしていた。
何も食べてはいない。飲んだのは、二日前に降った雨水。
ゴミ漁りでもすれば食糧は手に入ったかもしれない。だが、少女は元上流階級。そんな事をするという発想そのものがなかったのだ。
……そして、空腹に耐える、などという生活もしていなかった。
翌日、少女はスラムを行きかう汚らしい恰好の人々とは違う、身なりのいい青年を見つけた。
他の人とは違う、この人ならば。自分を助けてくれるのではないのか。
少女はそんな甘い考えで、空腹に負け青年に話しかけたのだ。
青年はその少女を受け入れ、自身の所属する組織へと連れていった。
ああ、助かった。少女はにこやかに笑う青年を見て、そう確信した。
……そんなわけがなかろうに。
答えから言おう。青年が少女を連れていったのは、このスラム街で抗争をしていた小さな犯罪組織のアジトだった。
そして、青年は少女を組織の新たな一員として加入させたのだ。
まあ、正式な組織の一員として加入したのなら、彼女もまだ幸せだったのだろう。
―――――
「……終わりかしら?」
ただただ少しづつ潰されていく腕を見る事しかできないジェネジオを見て、エレオノーラは歪んだ笑みを見せる。
片腕は粉砕され、もう片腕は触手によって拘束されている。
先ほどの優位から一転、追い詰められたこの状況。
反撃の手段を探らねばならない。
「んなわけねえだろうがよォ!」
触手と左腕に拘束され、両腕は使用できない。ならば残るものは決まっている。
ジェネジオは自身に向けて伸ばされているエレオノーラの頭を狙い、右脚を振り上げた。
カブトムシの強力なパワーであれば、変態しているとはいえ人間一人の頭を飛ばす事くらい造作は無い。
……もちろん、それは当たればの話であるが。
「おお、怖い怖い」
首を引っ込めて、おどけたように笑いながらエレオノーラはジェネジオの脚をあっさりと回避する。
―――――
少女は簡単に言えば『鉄砲玉』だった。敵対組織の襲撃や要人暗殺といった危険な任務に投入される使い捨て。救いを求めた結果がこれである。
もちろん、逃げる事などかなわない。
そして、その鉄砲玉は彼女一人ではなかった。
組織の活動範囲から集められた子ども達。その全てが、鉄砲玉として使われていた。
勝手に炸裂するかもしれない粗悪な爆弾一つ、撃てるかもわからない銃一つで敵の真っ只中に飛び込み、目的を遂行する。
そんな人間として扱われない人間の生存率が、どれほどのものなのか。それは、想像するまでも無い事だろう。
事実、少女の周りにいてお互いに励まし合った同年代の子ども達は日が経つにつれてその数を減らしていった。
新たな供給すらない事から、組織の力が日に日に弱っている事が伺えた。
だが、少女は生き続けた。数十人の武装した警備員の中に飛び込んだ時も。式典の参加者に成り代わり、爆弾の入った花束を要人にプレゼントする、という自爆テロまがいの任務も。
最初は、ただの幸運であった。そう、少女が最初にこの裏の世界に足を踏み入れた時に銃弾を回避できたのと同じ、ただのマグレである。
だがある日、幸運が百パーセントを占めていた生き残れた要因の中に、彼女自身の判断が生まれた。
どのような動きをすれば、ただの一般人に擬態できるのか。どんなルートを選択すれば、追手から逃げられるのか。
恐ろしかったのだ。ただの肉と皮の袋になってこの薄汚れた世界で朽ち果てるのが。怖かったのだ、ゴミのように価値の無い存在として処分されるのが。
死にたくない。生き残れるわけがない、と虚ろな目で生存できる確率が限りなく低い戦場へと赴く他の子ども達とは異なり。少女はひたすら、磨き続けた。ただ、生きる為の手段を。
もちろん、何回も任務に失敗した。彼女が磨いたのは、生存術。己の身を捨てて確実な任務の成功を果たす技術ではなく、例え失敗しても死なない、生きて戻るための手段。いつしか、彼女が生き残る要因の殆どは、運ではなく彼女の技術になっていた。
少女が任務に失敗し、生きて戻るたびに、組織の人間は彼女に罰を与えた。それは暴力であったり、また別のものであったり。それに彼女は耐え続けた。生きていれば、生きてこそすればいくらでも何とかなる。
そして、幾度となく成功と失敗を繰り返し、少年少女の鉄砲玉が彼女一人となった時、彼女はその実力を認められ、正式な組織の一員となっていた。
この時、彼女を一員として迎え入れた人材管理の人間は、組織の上層部は、気が付いていたのだろうか。
彼らが使い捨てにしようと考えていたか弱いお嬢様の瞳に、あらゆる負の感情が入り混じったドス黒い炎が宿っていた事に。
―――――
攻撃は回避された。だが、拘束が緩んだ。
別に狙ったわけではないが、ジェネジオが振り上げた脚はエレオノーラの視界を妨害している。
好機と考え、ジェネジオは嘴に潰されている手を力任せに引き抜く。ぶちぶちと何かが千切れる音。とにかく、拘束の一部を解く事はできた。手の状態は確認しない。それを知った所で、どうにかなるわけではないからだ。
恐らくは本来の用途ではもう使い物にならないであろう腕を、エレオノーラに向けて繰り出す。
その攻撃をあっさりと回避するエレオノーラ。見えていないはずなのに。その理由について思考する、その手間さえ省いてジェネジオが行おうとしていた事、それは。
「ぅ……オラァッ!」
野太い掛け声とともに、触手に拘束されていた手が引き抜かれる。
ジェネジオはある事に気が付いていたのだ。触手の拘束が緩い、という事に。
吸盤のように吸い付いているわけではなく、ただ巻き付いているだけ。
何故なのかはジェネジオにはわからなかったが、それに加えて血で腕が滑りやすくなっている、という事から触手による束縛を解く事ができるのではないか。そう考えた。
そして、それは正解だったのだ。その報酬、とばかりにエレオノーラの顔がガラ空きになっている。
これは読めたか? そう言わんばかりに、ジェネジオは引き抜いたばかりの拳を顔に繰り出した。
―――――
少女は下っ端であるものの、組織の正式な構成員となった。
そんな彼女の日常は、まあ一般的な犯罪組織のそれと言っていいものであった。
密輸、抗争、まあとりあえず悪いヤツのする事、と思っていいだろう。
彼女はそれらの護衛として様々な場所に赴いていた。
争いはさらに激化する。少女の属する組織は落ち目なのだ。それが他の組織の嗅覚を刺激し、美味い餌だと認識されるは、至極当然の事といえよう。
銃弾が、爆弾が、ロケット砲が、たまにミサイルが飛び交うような、もはや戦場と言っていいマフィア同士の、荒廃した西洋での抗争。毎日のように組織の人員は減っていき、そして世の中に絶望した、他に行き場の無くなった人間が代わりに加入してくる。
これはどこの犯罪組織にも言える事だったが、組織に加入する側としては、少しでもいい待遇を求めるもの。
もう既に破滅しそうな組織にわざわざ加入する人間は、よっぽどの物好きか死にたがりくらいのものだった。
こうして、少女の属していた組織は緩やかに壊滅する、かに思われた。
さて、少女はと言うと、組織の中でグングンと力を持つ立場になっていった。
武器の扱いに慣れ、裏社会のあれこれを知る正規の構成員が次々と死んでいく中、少女のような長く生き残り、技術を持つ人間は貴重であったのだ。
ただ、立場が上がったからと言って安全になるわけではない。暗殺の危険がある以上、さらに死ぬ可能性は上がったと言ってもいいだろう。
少女はさらに学び続けた。実戦に応用できる武術を、裏の世界で生きるための知識を。そして、それ以上に実戦の、間近に迫る死の中で研ぎ澄まされていった。本能的に危機を察知する能力が。瞬間的に危険を回避する反射神経が。極限状態における人間の心理、それを利用する術が。
十年が経った。それ以上の時が経った。もう少女と呼ぶ年ではない、彼女は際限無く知識を吸収し、実戦を生き抜き続けたのだった。
そして、いつの日だっただろうか。組織の首領の椅子に、彼女が腰を下ろしたのは。先代の屍をカーペットの代わりにし、震えを隠す事ができないまま彼女の前に傅く先代派の構成員に向かって、笑顔で命令を下したのは。
これが、当時ヨーロッパ最弱となっていた犯罪組織、『カラマーロ』の玉座に新たな帝王が生まれた瞬間であった。
―――――
「
ジェネジオの腕は、エレオノーラの顔に到達する事は無かった。
エレオノーラが防御をしたわけではない。
エレオノーラがしたのは、攻撃であった。
一瞬の間が空き、ジェネジオが血を吐く。ジェネジオの腹に突き刺さっていたのは、三本の触手。
そして、硬質の嘴と化したエレオノーラの左腕。
再生が、終わっていたのだ。四本の触手が、二本の触腕が、ジェネジオを包囲する。
わかっていたのだ、どれだけのダメージを一度に与えれば、攻勢が止まるのかを。
そして、動きが止まったジェネジオの隙を逃すほど、エレオノーラは甘くはなかった。
隙だらけになったその顎に、勢いをつけた膝蹴りが直撃する。
後退するジェネジオ、だがその背後にあるのは、二本の触腕。
後ろに倒れる事を許さず、その触手はジェネジオを支え、前に押し戻す。
さらにその腹に、腕に、脚に、つぎつぎと拳と足が叩きこまれ、カブトムシの甲皮を砕いていく。
砕かれ、その内にある肉を晒した部分に触手が絡みつく。
「……ぁぁ!」
突如体を襲った、これまでにない苦痛に身を捩ろうとするも、拘束されて動けないジェネジオ。何が起こったのか?
蛸と烏賊の吸盤、その差が今のジェネジオを襲う苦痛の理由だった。
蛸の吸盤は筋肉の動きにより吸盤の内部に真空状態を作り、それによって獲物の体に吸い付かせている。
だが、烏賊の吸盤は獲物を素早く捕えるために別の仕組みの吸盤を持つ。
烏賊の吸盤は蛸のような仕組みは持っていない。だが、吸盤の外周に無数の鉤爪を持ち、それを獲物に食い込ませる事によって動きを封じているのだ。
先ほどのジェネジオがあっさりと触手から腕を抜く事ができたのは、硬い甲皮により吸盤の周囲の鉤爪が体に食い込まず、表面を引っかくだけの状態になっていたからだ。だが、今はその甲皮を砕かれ、肉がむき出しになっている。
完全に拘束されてしまった状態。そして、内部の柔らかい肉を晒した部分に絡みつく触手が、その鉤爪がエレオノーラの趣味の品、拷問具のような凄まじい苦痛を与える。
「テメェ……エレオノーラァァア!!」
ジェネジオからは力が失われているように見えた。
全身を覆う苦痛。それによって、失われていた戦闘本能が覚醒する。
ジェネジオの服のポケットからこぼれ落ちるのは、何本もの注射器。地面に落ちていくそれを肘と足で挟み込むようにキャッチし、強引に押し込む。
『過剰摂取』。MO手術被術者の最後の手段である、命を削った圧倒的な戦闘能力の向上。
だが、αMO手術の特性、それは薬未使用時の変態を可能にするための、ベース生物側に大きく偏った細胞のバランス。元から過剰摂取に近い状態でさらに薬を打ち込み続けるとどうなるのか。
ジェネジオの甲皮がみるみるうちに回復し、体内にまで食い込んだ触手を押し戻す。
その変態は止まる事がなく、薬を打ち込んだ足から全身に、これまでとは比べものにならないほどのコーカサスオオカブトの性質を示していた。
こうなってしまっては、最早元の姿に戻る事はできないだろう。通常のMO手術による過剰摂取ならば、『薬』の成分を分解できる臓器が損傷しない限りは元に戻る事ができる希望はある。
だが、αMO手術における過剰摂取は、臓器への負担と完全に崩壊した細胞のバランス、この二つによってもう戻る事はできなくなる。
肩まで変異が到達し、もはや自我が残っているのかもわからないジェネジオはエレオノーラに突撃する。
『裏アネックス』と『裏切り者』の怪物同士の決戦、その決着がつこうとしていた。
――――――
暗殺者が送られてくる事なんて、日常でしかなかった。それは、敵対組織の構成員だったり、もしくは己の組織に雇われた人間だったり。どちらかと言えば後者の方が多かっただろうか。
だが、その全てが失敗した。数えきれない程の死線を潜り抜け、もはや未来予知と呼べるレベルにまで昇華された直感。人間という種の極限まで到達した反射神経。人間の悪意を読み取る頭脳。
彼女が絶望に追いやられ、この世界で手にした全てが、彼女を死から遠ざける。あらゆる殺意を跳ね除ける無敵の盾として機能する。
そして、彼女はもはや元の世界へと、自分がかつて暮らしていた輝かしい世界へと戻る事を考えてはいなかった。彼女の思うがまま、組織は拡大していく。己より強い組織には無理に逆らわず、下に付き。だが、隙を見てその首を掻き切り。格下の組織をある時は傘下に加え、裏切りの気配を感じた時には迷わず皆殺しにし。権謀術数を尽くし、彼女は組織を拡大していった。
その途中で彼女は己を裏の世界に放り込んだ宗教団体の正体を知った。だが、そんな事はもうどうでもよかったのだ。ゴミ箱にゴミを捨てる、そんな調子でその宗教団体を滅ぼし、彼女の復讐はあっさりと終わった。彼女の弟の息子が政治家になった、などという話を情報収集の一環で手に入れたが、関わる気もなかった。
……彼女は止まらなかった。世界そのものへの復讐なのか、もうとっくの前に発狂しているのか。時々考えたが、結論は同じだった。『楽しいからいいじゃないか』
『カラマーロ』がヨーロッパの犯罪組織の頂点に立つのに、そこまで時間はかからなかった。
一般人を平然と盾にする、逆らった人間に一切の慈悲は与えない、最も恐ろしく、人の道を外れた組織の称号と共に。
―――――
「おやすみなさい」
ジェネジオが最期に聞いたのは、何故だろうか、何故か慈悲のようなものを感じる、エレオノーラのいつもの嘲笑うようなものとは違う穏やかな声だった。
突撃してくるジェネジオの、まだ変態が到達していない首の部分に、エレオノーラの左手が添えられ、そのままそっと握るように閉じられる。
勢いが止まらず、そのまま前に突き進むジェネジオの体。ぼとり、とその場に落ちる首。
そして、体は壁に激突しその場に倒れ、そのまま動く事はなかった。
その場にあったのは、ただ、沈黙だった。
―――――
彼女が最初にその椅子に座った時の三倍は広くなった部屋で、老人、と呼べる年になった彼女はぼんやりと考え事をしていた。
最初の十年は、死にたくない、誰も殺したくないと嘆いていた。
次の十年は、他人の命をいくら奪ってでも生き残る、と決意した。
その次の十年で、他人の命は遊び道具にしか見えなくなっていた。
さらに次の十年で、自分の命すら遊び道具としか思わなくなった。
残りの年月は、埋まる事の無い己の空白を満たす為に必死だった。
今の自分は、一体何なのだろうか。自分の手で運命を切り開いて来た、そう思っていた。
だが、結局自分は何かに操られていたのだろうか。あの、復讐した怪しい団体の思うがままの人間に自分はなっていたのだろうか。
何とも虚しかったのだ。最初に自分は、何としてでも生き残る、と決意に燃えていた。
今の自分はどうなのだろうか。弱い相手に完成されてしまった己の、組織の力を振るうのみ。なんともつまらない。
何をしても満たされないのだ。ただただ必死だった若い頃が羨ましく思えてくるのだ。
……そうだ、もう何もかも終わりにしよう。
彼女は、あっけなく破滅を選択した。
こうして、『カラマーロ』は活動を活発化させた。より残酷に、冷徹な方向に。
そしてついに、ヨーロッパの国々はこの脅威に対処するする事を決意したのだ。
マフィアの存在によって政治家達が貪っていた利益よりも、被害の方が大きくなっていたのだから。
これは本当に危険だと、目が覚めた政治家もいただろう。
各国の軍がフル出動し、完全に組織を叩き潰す事を心に誓った。
戦いは一年近く続いただろうか。結果はわかりきっていた。
いくら強大に成長したマフィアといえども、完全武装した正規軍に勝てるわけがない。
それでも一年間戦い続けたのは、『カラマーロ』が強大な組織だった証左ともいえるが。
組織の中枢である彼女の部屋にも、軍の特殊部隊がなだれ込んできた。
彼女の親衛隊と特殊部隊の激しい銃撃戦。もちろん、最優先の殺害目標である彼女も戦闘に巻き込まれ……
ここで、少し違う人間の話をしよう。
彼は、ヨーロッパのある国のある街、なんという事はない一般的な上流階級の息子として生を受けた。
彼の溌剌とした性格は多くの人間の心を掴み、彼本人も非常に勤勉な性格であったため、その存在感は次第に大きくなっていた。
彼の将来の夢は政治家だった。この腐った世界を変えてやる。そんな思春期にありがちな考えを、彼は本当に遂行できる才能を持っていた。彼の父の姉は、父が幼い時に行方不明になったらしい。そして、その捜査はあっさりと打ち切られた。彼は幼い頃からこの話を何度も聞かされてきた。それも、彼の道を決める理由の一つだったのだろう。
まあ、賄賂と裏社会からの回し者に塗れた当時の政治家達に、彼がそう簡単に受け入れられるわけもなく。
彼は長い下積み時代を送る事となった。
そして、ある日。彼は軍のある部隊の指揮を任される事となる。
とはいっても、彼が軍そのものを指揮するわけでもなく、彼の仕事は部隊に付いていっての交渉や後始末、という意味でのまとめ役であった。
任務は、犯罪組織討伐、敵本部への突入部隊の支援。
先行した特殊部隊の後片付け。ただそれだけのはずだった。
本部を制圧し、いよいよ最後の部屋に部隊が突入、そして、沈黙。
何かイレギュラーな事態が起こったのだ。
そう考え、彼は己の部隊の隊長に突入を進言する。
それが聞き入れられ、部隊の後ろに隠れながら最後の部屋に入った彼が見たものとは。
それは、敵も味方も平等に混ざり合った、血と肉の海であった。激しい戦闘の痕。
そして、部屋の中央に、一人の人間が立っていたのだ。戦場に似合わぬ、痩せて見える老婆だった。
老婆に、彼の部隊は一斉に銃口を向けていた。危険だ。その老婆には本能的な恐怖を煽る何かがあった。
お互いの兵士が全滅する、そのような状況で生き残っている?
まさか、己の味方が全滅してから、老婆が特殊部隊を皆殺しにした?
どちらの可能性もありえない、常人には不可能な領域だ。
彼は血の海に一歩踏み出した。部隊は、彼の動向に少し戸惑っていた。
そして、老婆に向かって、いつもと変わらない声で話しかける。
「よう、バアさん、あんたはこれから捕まって、当然死刑だろうな」
それを無言で聞く老婆。今にも部隊に向かって飛びかからんとしていた戦闘状態を解いている。
「でもな、アンタに覚悟があるならもっといい選択肢があるんだ、これが」
老婆は、様子を伺うばかりだった。何も話そうとせず、無言を貫く。
「どうだ、今度はその力、ウチの国が天下取るのに生かしてみないか」
老婆は何も答えなかった。ただ、口元を歪めて笑うだけで。結局、老婆は部隊によって拘束され、その後死刑囚として短い時間を過ごし、処刑された。国民への発表はこうである。そして、それは
――処刑方法は『成功率0,3%の手術を施される』というギャンブルのようなものであったという事は、国民には知らされていない事実であったが。
感想ありがとうございました。
誰なのか隠す気ゼロの最後の『彼』の過去をねつ造しちゃってますがもし原作で明かされる事があったらあの辺りの文章が少し変更になります。ご了承ください。
BBA過去編最後まで書かれていないじゃないか!と怒られそうですが許してください! あの後~幹部登場員になるまでの話はいずれ番外編でやりますので! アドルフさんやアシモフのスピンオフみたいな本編とは別な感じで文字数割いてやりますので!