「羽川」
「んん?」
「もうここには、来ない方がいい」
僕はそう切り出した。
切り出した、というか既に完結しているような出だしだった。
「・・・・・・んー」
羽川は、にこやかな笑顔のままで──椅子から立ち上がり、僕の方へと寄ってきた。
「まあ、言われると思ってたし」
「お願いだから、傷つかないでくれ──この間とは理由がまるっきり違うんだ。この間も、お前を巻き込みたくないっていう気持ちはあったけれど・・・・・・正直、自分の気持ちが抑えられなかったってのが大きい。あの時のあれは八つ当たりだったと、後悔している。だけど、今は違うんだ」
「・・・・・・どう違うの?」
「昨日、エピソードの十字架がお前の脇腹を抉ったとき・・・・・・、僕は訳が分からなくなっちまったよ。頭に血が上っちゃって、・・・・・・死ぬかと思った」
「私が?」
「僕が」
不死身の身体なのに──死ぬかと思った。
自分の傷のように痛かった。
「人間強度の話、したよな?」
「・・・・・・・・・」
「してなかったっけ。じゃあ今更かもしれないけどするよ。友人関係を持つと、お互いの気持ちを共感しあうだろう? 女子なんて特にそうじゃないか。
「教室の真ん中で、わかるー、なんて騒いで。相手の気持ちに同意し合ってるだろう?
「僕の言う人間強度っていうのは、それだ。誰かが傷つくのが嫌なんだ。・・・赤の他人でも、そうだったんだ、自分のコミュニティに入れた相手がそうなるなんて──僕は嫌だったんだよ」
結局、人間は過去の経験からしか喋れないのである。
今の僕は吸血鬼で、人間ではないのだけれど。
「だから、お前をないがしろにして──傷を負わせてまで人間に戻ろうとは思わないんだよ」
まるで、自分の身を引き裂かれるような、そんな気がするから。
「私、別に如月くんから、そんなことされてるつもりはないけど」
「自分側の視点と相手側の視点じゃあ、認識が違って当然だよ。己の不注意で吸血鬼・・・なんかになった僕に、羽川、お前は大切な時期の、春休みの時間を費やして──挙句の果てには死にかけて、何やってんだよ。おかしいと思わないか?」
「ぜ・・・・・・全然?」
むしろそんなことを言われる方が心外だと言わんばかりに、羽川はぶんぶんと首を振った。
「記憶が飛んじゃっててその辺りのことはよく覚えてないけど、私が死にかけたのは私の責任でしょう? どちらかといえば、如月くんは私のこと助けてくれたんじゃない」
「僕はそんなふうには考えられないんだ」
羽川が本気でそう言っているのはわかる。
僕に気を遣っているわけじゃないのはわかる。
偽善じゃない。
本物の善人だ。
しかし──それほどに強く。
だからこそ、危ういのだ。
「僕には、わからないよ」
「・・・・・・・・・」
「同じ状況になったとき、お前を助けてやれる自信がない。例えば逆の立場だったとして、そこまでのことができる自信がない。あんな危なっかしいやつの前に、不死身でもないのに身体を晒せる自信がない──でもお前は、普通にやるんだよな」
僕は言葉を選ぼうとしたが──無理だった。
選べない。
そんな羽川を表す言葉はひとつしかなかった。
「お前、怖いよ」
「・・・・・・怖いって」
「正直、引く」
羽川の顔が見れず、僕は床をただ見つめるだけだった。
「傷つかないでくれ。そんなつもりで言ったんじゃないんだ──でも、僕はどうしてお前が僕にそこまでしてくれるのか、全然わからない。この間知り合ったばかりの同級生に、どうしてそこまで献身的になるのかわからない──まるで聖人だ、お前は」
聖人。
あるいは、聖母のようだ。
「だけどお前の自己犠牲は、僕には重過ぎる。それに耐え切るだけの器が、僕にはない。治るか治らないかじゃなくて──僕のためにお前が傷ついたりするかと思うと 、もう・・・・・・身体が動かないんだ。それが怖くて、このままでギロチンカッターとやりあえない」
「自己犠牲なんかじゃないよ」
羽川は少し怒ったような口調で言った。
「自己犠牲なんかじゃ、ない」
「じゃあ、なんだよ」
「自己満足」
羽川は静かな口調で言う。
「如月くん、私のことを誤解してる──私はそんないい人間じゃないし、それに強い人間でもないよ。私は自分のやりたいようにやっているだけだし・・・・・・多分、私くらい自分のことしか考えてない人間はいないと思う」
「・・・・・・・・・」
「本当の私を知ったら、如月くん、きっと幻滅するよ」
そこまで幻想を抱かれると困るな、と。
羽川は笑う。
「私はずるいし、それにしたたかなつもりだよ。如月くんがドン引きするくらい」
「・・・・・・どの辺が」
「どの辺がっていうか、全部かなあ。如月くんのことだって、私がやりたいからやってるだけだよ。それで如月くんが気に病むことなんて、何もないのに」
「羽川・・・・・・」
「でも」
ぱちん、と羽川は、胸の前で手を叩いた。そしてそのまま、手を合わせたままで、
「私がいるせいで如月くんがやりにくくなっちゃうんだったら、それはそれで立派に本末転倒だよね」
と言った。
「買い出し係もそろそろお役御免だろうし。確かに、私にできることもなさそうね」
「いや、お前にできることはある」
僕は、羽川の顔をじっと見つめて、言った。
しっかりと見つめて、言った。
「待っててくれ」
「・・・・・・・・・」
「新学期、あの学校で。僕のことを待っててくれ」
それは、大変なことだと思うけれど。
来るかどうかわからない人間を待つことがどれだけの苦痛と不安を伴うものなのか、分からないわけじゃないけれど。
これから、誰もが警戒する、三人の中で最も危険な吸血鬼狩りの専門家と戦うことになり、たとえそのステージをクリアしたとしても、果たして本当に人間に戻れるかどうかわからない──そんな僕のことを、どうか待っていて欲しい。
「またお前とおしゃべりできることを、僕は心から楽しみにしている」
「・・・・・・おおっと」
羽川は、そこでどうしてか、一歩後ろに下がった。
目がなんだか楽しそうだった。
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
「ん? 何の音だ?」
「ときめいた音」
「え? 女子はときめいたときにそんな効果音がするのか!?」
初めて知った。
目覚まし時計みたいな音がするんだな。
「危ない危ない、惚れちゃうところだった」
「掘れちゃうとこって──温泉とか石油とか?」
豪気な話だ。
大富豪じゃねえか。
「いつもその手で女の子を口説いているのね」
「ん? いやいや。意味わかんねーし、そもそも女子とはほとんど話したことないし」
幼馴染である同級生の少女以外とは、の話ではあるが。
「もう」
そう言って。
羽川は大仰に背伸びをするようにして、それから意を決したような表情になり、そのまま制服のプリーツスカートの中に、裾から両手を差し込んだ。
股関節が痒くなったのだろうか。
それだったら、言ってくれれば向こうを向いたのに。
そんな予想は的外れだった。いくらなんでも、羽川はそんな脈略のないことはしなかった。
その代わりパンツを脱いだ。
縁にレースのあしらわれた桃色のパンツを下ろして、ゴムの部分が靴の裏に触れないように気をつけながら、両脚からそれを抜き取る。
僕が呆気に取られたことは言うまでもない。
最高級に脈絡がなかった。
「ん・・・・・・。と」
さすがに顔を赤くして恥ずかしそうにしながら。
羽川は小さく丸めたその下着を僕に差し出した。
「学園異能バトルのクライマックス直前のシーン風に言うなら、だけど」
羽川はそのまま、はにかんで言う。
「貸してあげる。新学期に会ったとき、返してね」
「・・・・・・いやいや。お前が最初に買ってきてくれた漫画にそんなシーンは確かにあったけれど、確かそのとき使用されたアイテムはヒロインがしていたネックレスだった」
「私、ネックレスなんてしてないし」
羽川はもじもじとスカートを押さえて、言う。
「如月くん、パンツが好きなんでしょう?」
「・・・・・・・・・!」
否定はしない!
否定はしないよ!?
おそらく巨乳が嫌いだという情報から、胸よりも下半身のが好きだという結論にたどり着いたのだろうけれど、そしてそれは間違っていなくもないんだけれど。
だけど、だけどさあ!
「え、えっと」
「あ、でもいらないんだったら」
「いやいらないとは言ってないよ。いるとかいらないとかそういう話をしているんじゃないだろ。うんうん。えっとなんだっけ。それを、新学期に会ったときに返せばいいんだっけ?」
女性用下着は脱ぐとこんなに小さくまとまるものなのかと驚きを覚えながら、なすすべもなく、僕はその布を受け取った。
柔らかな温もりが、手の内に広がる。
妹たちと幼馴染の誕生日プレゼントを思い出す。
「・・・・・・悪い。これは返さない」
「は、はあ?」
「て言うか絶対に返さない。 これは家宝として如月家の子々孫々まで受け継いでいく」
「それはやめて欲しいな!」
「このパンツはお前の肉体から永遠に失われた」
「なんて勝手なことを!」
「パンツは返さないけれど、その代わり」
僕は精一杯、見得を切って。
「恩は絶対に返す。羽川にとって必要なときに、たとえ何もできなくたって、僕は絶対そこにいる──お前に恩返しをすることが、今日から僕の生き甲斐だ」
「いいからパンツを返しなさい」
いくらかっこいいことを言っても無駄だった。
言葉は無力だ。
羽川は言う。
「私はこれからノーパンで、しかもこんなセキュリティ能力の低いスカートで家に帰らなくっちゃいけないわけだけれど・・・・・・、如月くん、それに比べたら、ギロチンカッターっていう人に勝つことは、そんなに難しくはないでしょう?」
「そりゃそうだ」
どんな厳しい戦いでも──
それを思えば乗り越えられるだろう。
「じゃ、健闘を祈る」
「健闘を祈る」
新学期に会おう。
僕達は笑顔で、互いの拳をぶつけ合った。
春休みが終わった新学期──
羽川と会うことを楽しみに。
ともすれば、同じクラスになれることを楽しみに。
僕は。
僕は人間に戻る決意を、新たにしたのだった──だけど。
そんな羽川との別れの余韻も冷めやらぬ中、彼女は帰っていた三時間後くらい、キスショットがようやく目を覚ましたくらいのところで、学習塾跡へと戻ってきた忍野は──彼らしくもない、沈痛な表情を浮かべていた。
「悪い、ミスった」
そしてその表情に相応しい声で、忍野は言った。
「委員長ちゃんがさらわれた」