ふとした日常、いつもの風景の一場面。我々が当たり前だと思っているもの。それらは酷く脆く曖昧である。路上の小石に躓くだけで変化は起こる。
『小石に躓かなかった日常』と『小石に躓いた現状』それらは想像と現実の表裏一体のものであり、もちろんそれらがひっくり返る事は有り得ない。そう、有り得ないのだ。
「よう、おはよう」
ばしん、と背中を叩かれる。親友がじゃれついてくるのはいつもの事。しかし今日はご機嫌なのか痣が残りそうな程。非難の意味を込めて少し睨む。
「痛ぇな、何すんだ」
「何って? 挨拶だろ?」
きょとんとした顔を見せた後、破顔する親友。まだあどけなさの残る顔に浮かぶ屈託のない笑顔。悪意なんてこれっぽっちも感じない顔に何となく毒気が抜けてしまった。
そんな笑顔に乗せられてまぁ、いいやなんて思っているうちに、向かいの自転車とすれ違う際に、向こうの鞄が身体と接触する。
「痛っ! 今日はえらくぶつかるな」
「まぁ、人気者なんだろ」
今日だけで二桁はいくななんて愚痴を溢すと、親友はそう返す。
いきなり殴られるし、鞄にも接触する。身体的接触の多い日だ、もしかしたら厄日かもしれない。それにまた、痛いのが困りものだ。そんな物思いをぶつ切りにする声が、俺と親友の間に割って入る。
「あ、おはよう」
女子特有の高い声に振り向くと、目の前にバックが迫っていた。こちらの不意をついた完璧な一撃。理解が追いつく間もなく加速した鞄と俺の顔が接触する。
「は?」
殴り飛ばされる際に、辛うじて出せた言葉は驚愕とも唖然ともつかない気の抜けた声だった。教科書の重さが乗った鞄は破壊力が抜群であり、男子高校生の身体と言えど吹き飛ばすには充分すぎる程であった。
「あ、吹き飛んだ」
親友が事実だけをぽそりと呟く。そんな声に反応する余裕もなく地面とキスをする。
「わわ、ごめん。勢いが付き過ぎた」
親友の声に追従する委員長の声が彼女は普段はきっちりしているのだが、ところどころで抜けている。
今回もその一端である事には違い無いのだが今回はなかなかの破壊力を誇っており、復帰にはなかなかの時間を要した。
いてて、なんて呟きながら立ち上がろうとすると委員長が手を差し伸べてくれる。
「ごめんね、吹き飛ばすつもりはなかったの」
「おいおい気を付けてくれよ。頼むから」
「次は勢いつけ過ぎないようにしないとね」
ほんと頼むよなんて、言いつつも立ち上がる。親友が大丈夫か? なんて声を掛けて来る。そんな声に応えつつも通学路を辿っていく。破天荒ではあるがギリギリいつもの日常。愛すべき我らの日常である。
しかし今日は混んでいる訳でないのに人によくぶつかる日だなぁ。
教室に入ると、これまた手熱い歓迎を受けることになった。何をしたわけでも無いのに囲まれてもみくちゃにされる。おいおい何なんだよって言っても誰も答えてくれず、ふとした違和感が脳裏を過っていくが朝の喧騒に押し流された。
朝の大歓迎に疲れ、机に突っ伏していると、とん、入室してきた先生に出席簿で頭をはたかれる。
「ほれ、起きろ。もう始まるぞ」
「あーい」
のろのろと頭を上げて周りを見ると既に周りは着席しており、おっといけないと気を引き締める。丁度始業のチャイムが校舎に響き渡った。
「起立、気を付け、礼」
隣の席の委員長が凛とした声が教室の隅々まで届く。目線を向けると、にっこりと微笑まれた。ドキリ、と胸が高鳴る。不意打ちはいつだって突然だ。
そのままに着席を告げる合図を待っていると、聞きなれない音が耳に届いた。
「殴打」
着席とは似ても似つかないそんな言葉に委員長の方へ再び視線を向ける。
彼女の様子は日常的だ。間違えて恥ずかしそうにするわけでも、言い直そうとするわけでも無い。恐ろしいまでに当たり前としてその言葉を言い放っていた。
疑問を口にする前に、ふと、教室の様子がおかしい事に気づく。
音がない。誰かが机を蹴り、やかましい音を立てる訳でも、暇に飽きて雑談を始める訳でもない。ただただ、黙ってある一点を見つめていた。
その視線の先に気づき、冷や汗が体を伝う。先程から、否、今朝から感じていた違和感がどんどんと肥大化していく。濁流が堰を切ってしまいそうなそんな危機感が背筋を這う。
先程委員長はなんと言ったか。そうだ、こう言っていた。『殴打』と。
殴打とはつまり、殴る事だ。殴る? 一体何を? 思考を巡らせる。
しかし、いつだって世の中の答えはシンプルである。目標という感じには目という文字が入るように、目の先にあるものこそがターゲットであると言える。
冷や汗が止まらない。これが悪い夢であればどれほどに良かったのだろうか。しかし、悪夢のような現実は止まってくれない。
もう一度、360度辺りを伺う。そして、はっきりとした認識が重くのしかかってくる。認めたくないし認識したくなんてない。
しかし皆が貝のように押し黙り、ぎらつかせた目を向けているのは、間違いなく『自分』であった。
「構え」
魂が抜けた機械染みた声が隣から発生される。それに呼応するかのように、教師を含めた教室の全員がどこからともなく棒状のものを取り出した。その矛先が自身へと向けられている。
「は?」
理解が追いつかぬままに事態は進む。ドッキリであれと願うばかりだが、それすらもありえない。異様な雰囲気がうねりを上げて自分を呑み込もうとする。それに溺れまいと必死に声を絞り出した。
「お、おい、みんなどうしたんだよ。そんな物騒なもの取り出して」
親友に目線で訴える。すると親友は何がおかしいのかと首を捻る。まるでこちらがおかしいと言わんばかりに。
必死に首を振る。しかし、それ以上に現状から逃れる術もなく、せめてもと委員長に目線を向けた。すると委員長は先ほどの笑顔と共にこう答えた。
「何を騒いでいるの?
何を決まりきった事を言っているのかと、彼女は聞き覚えのない常識をこちらへと叩きつける。
理解が追いつかない。事態を飲み込めない。これはなんだ。どうしてこうなった。それすらも分からない。ただ、一つ言えるのはここから逃げるべきであり。そして──
「始め」
それすらも許してくれずに、自分を求めて棒を持った級友が自身を求めて殺到する。
気分が悪い。昨日まで笑いあっていた友達、先生が、その笑顔のままに棒を振るう。
気持ちが悪い。委員長が、親友がにこやかに朗らかに棒を俺に叩きつける。
ついに逃げ切れず、誰かの棒が腕に当たる。足に当たる。痛覚が叫びをあげる。これは夢ではない。れっきとした現実だ。
「やめろ、やめろよ! 何だよ! お前ら狂ってる!」
「狂ってる? 何を言ってるの?」
「そうよ、常識じゃない」
常識? 何が常識なのか、おかしい。こんなことはおかしい。けれど、みなは日常として俺を殴る。
おかしいことが、おかしいのかそれすらも暴力の嵐に紛れて消える。
キーンコーンカーンコーンと、チャイムが鳴り響く。それと同時にピタリ、とみなが止まり机に戻った。
まるで「殴打」だけが日常にピタリと歪に嵌まってしまったように、普通が展開されていく。異常なのは自分の方だ。
いつしか、殴られることすらも日常化される。普遍化されて常識になる。圧倒的な大きさの我らの日常は、俺という小石を軽々と呑み込んでいった。
「起立、気をつけ、礼」
これはいつもの日常。自分が知っているいつものこと。そう、これは『当たり前』
「殴打」