哲学とは何なのか。
それは考える学問である。
「『バナナが果たしておやつに入るのか否か』。これは卵が先か鶏が先かのような人類史における、永遠に追求せねばならない命題ではないかと私は思っているのです」
私は自分の手に握られた黄色厚皮の果実を口に運びながらそんなことを口にしてみた。
見渡す限り青々とした草木が生い茂る大地を訝しみながら、そんな退屈とも見飽きたとも言える風景に刺激をつけるため気分的には世紀のエンターテイナーを気取りつつ、なんなら肩書には『あなたのお耳の恋人』と看板を掲げられる可愛らしい声でそんな愛らしいことを宣った。
果実を食みながら「因みに下ネタだと思った人は悔い改めるべきだと思います」とそんなおちゃめな文言も付け加える。
――おやつなわけがないでしょう。
そんな言葉と共に私の頭は無機質な物体に鷲掴みにされてしまう。
鷲掴み。
あるいはアイアンクローとも言う。
固定された頭で恐る恐る視線だけ声がした方に向けると「ワナワナ」という効果音が聞こえてきそうなほど笑顔をひきつらせた野生のイケメンがそこにはいた。
因みに野生のイケメンとは「金」と「酒」と「女」があれば光合成できる次世代型の「イケてる明太子」の略では決してない。
「あーでたでた。でましたよ、これ。私知ってるんですから、そうやってフォロー外からあたかも『自分は世界の真理を理解してますから』みたいな空気出しながらマウント取って来る輩。別にいいんですよ? 私は寛大で大海原のような心の広さを持ち合わせた絵にかいたような美少女ですのでそんなこと全然気にしませんから。ですが一言言わせて貰えるなら『フォロー外から失礼します!!』の一言が抜けてるだろうが!! このザコォ……!! ――に゛ゃぁぁぁ!?」
――ミシミシッ……!!
とそんなオノマトペを脳内に直接響かせながらあまりな激痛に悲鳴を上げてしまう。
頭部を締め付ける握力にのたうち回る私を意にも介さず血も通わぬアイアンなクローを持つノアは口を開く。
「私、確か言いましたよね? そのバナナは非常食だって。それ非常食なんですよ? なんで食べてるんですか?」
その問いに鼻を鳴らし、自身の右目を覆い隠す眼帯をくいっと持ち上げ知的さをアピールするような仕草をとる。
「実に面白い質問だノア君。『なぜ人はバナナを食べるのか』その答えを求めているということだね。だが安心してくれたまえ『そこにバナナがあったから』なんてくだらない答えを言う気はさらさらない。これには語るにも涙聞くにも涙の深い理由があるのだ。その答えを一言で簡潔に述べるのならば、そう……」
――禁断の果実ほど食べたくなるやん?
そんな答えにスパーッン!! と私の頭をはたき小気味いい音を奏でるノア。
「……ぬおぉぉぉ。こんな美少女の頭を乱雑に扱うなんて血も涙もないとはまさにこのこと……!!」
「血も涙もないことは今更なので反論はしませんが、あなたはもう少しお淑やかさとか雅やかさなどを持つべきではないですか? 何かいろいろと残念で仕方ないことになってますよ?」
「へっ!! ほかに人がいるわけでもないのにそんなものに気を使って何になるって言うんですか。『絵に描いた餅』が何味の餅なのかは創造主にしかわからない訳で受け取り手側からすればそこから先は想像しかできないのです。そして私はバナナ味だと思った!! そう!! 私はバナナ味の餅だと思ったからバナナ味なのです!! 理解できたかこのポコツンッ!!」
「一体何の話をしているんですか……」とあきれ顔で先ほどのやり取りで乱れた私の御髪を整えるように手ですいてくれるノア。
硬質な五指が頭部にガツガツと当たり実に痛い。
『サイバネテック・オーガニズム』
通称「サイボーグ」
それが彼。
本名は「時空間転送装置付ヒューマンコンタクトインターフェース」
呼称「ノア」
人類が滅んだ世界を救うべくやってきた未来からの救世主(笑)らしい。
『というわけであなたが最後の一人です』
そんないろいろな文言をひっさげ私の目に前に唐突に表れた「サイバネテック・オーガニズム」こと「サバオ」はそれからという物、甲斐甲斐しく私の身の回りの世話をやり始めた。
そんなノアに最初に聞いたことは確か「ネズミとか嫌いだったりします?」だった。
その次はどら焼きを手渡してみて反応をうかがってみた。
実はネコ型ロボットだったりしないかどうかもきちんと確認した。
寝床としてわざわざお手製の押し入れも作ったりした。
ポケットの中身が四次元になっていないかも確かめた。
だがどれも思うような成果が得られず、仕方がなかったので青色のペンキをノアにぶちまけようとしたあたりでガチギレされて今に至る。
誠に遺憾である。
そんな未来から訪れた未知のロボと人類最後の生き残りである超絶美少女との邂逅。
一体何が起こるのか。
この薄幸の少女である私の身に一体どんな困難が降りかかるのか……。
その日の夜はさすがの私も眠れなかったことを覚えている。
だがしかし結論を言ってしまえば。
「何も起きないわけだが。どういうことよ?」
ノアが引く荷車に揺られながら私は再び訪れる蒼天で煌びやかな大空と小鳥のさえずりが耳をなでるだけの空虚で退屈な時間にただただ悪態をついた。
「ヘイユー。ノアどういう事よ。私はてっきりここから私の人生は少年漫画よろしくの物事をすべて殴り合いで解決するバトル展開が訪れると期待してワクワクで夜も眠れなかったのに何も起きないってどういう事よ。ユーのその両手のロケットパンチと両足の加速装置は一体何のためについているだい? ファッション? それが未来のウェイ系の流行ファッションなの? リア充なの? ノアってばリア充なの? だとすればこれはもう即ブロ案件ですわぁ~」
荷台でゴロゴロと転がりながらそんな戯言を宣う私に「服が汚れるのでやめてください、誰がその服を洗うと思ってるんですか……」と一家に一台は欲しい専業マママシーンに注意される。
「私の体にはロケットパンチも加速装置も搭載されていません。そもそも私は戦闘用には造られていませんのでその手の期待しないでください」
そのノアの言葉に私の落胆の色は一層濃くなる。
「戦闘用に作られてないとか……。もうお前さん『I"ll be back』って言う資格ねぇから!! 溶鉱炉に沈むラストとか期待するだけ無駄だからな!!」
「そんなこと期待するわけないじゃないですか、本当勘弁してくださいよ……」
まあそもそも人類がもう私しかいないこの世界で戦闘をする人類なんていないのだからそんなヒロインチックな展開は期待するだけ無駄である。
ではなぜノアがこの時代にバックトゥザフューチャーしたのかという核心的な話という名のネタバレをするのであれば。
単純な話、彼は人類が滅んだ「世界」を救いに来ただけなのであって、別に「人類」を救いに来たわけではないというただそれだけのことらしい。
「人類を救いに来たのならばこんな人類残機一の時代ではなくてもっと初期の時代に向かいます。概ね私たちの文明はあなた方人類の存続には興味がないのですねこれが」
「ふーん」
と私も興味なく唸るだけ唸ってみる。
興味がないのにその人類残機が一の時代に訪れてその私の世話に精を出している現状が矛盾しているという事には突っ込むべきなのか悩むところである。
「……」
裏を返せば、それはつまるところ「世界を救う」≒「私の世話」という結論を出さざるおえないノアの説明であるのだが。
「世界の命運は美少女の生活態度に委ねられた!! 次回!! 世紀末少女!! 最終話『盗んだバイクで走りだす!!』かみんぐすーん……」
――そんな未来は来ないで欲しいものですが。
そう呆れるようにつぶやくノアの言葉に『そんな未来も何もあなたはその未来から来たのでは?』と小首を傾げる。
「ふむふむ、なるほどなるほどだよノア君。それはそれとしてユーは『オッカムの剃刀』という哲学を知っているかね? 物事を考えるときあまり多くを仮定するべきではないという考え方のことなのだけれど。どうだね、青タヌキ君?」
「青タヌキ君が私の何を指しての呼称なのかはわかりませんが……『オッカムの剃刀』ですか。過分に存じ上げませんがその哲学とやらが一体どうしたのでしょうか?」
ロボに哲学。
自分で言っていて何とも語呂が良い。
馬の耳に念仏と同じくらい語呂がいいと思う。
あとあれ、豚に真珠とかも。
「いやいや、余分な情報を削ぎ落していくことが物事を思考する際に重要だという、そういうお話なのだよ」
人類が滅んだ世界。
未来から来たというノア。
人類最後の生き残りらしい美少女こと私。
世界を救う≒私の世話。
これが現時点の初出情報。
それ以外はいらない駄肉でしかない。
「因みにオッカムの剃刀は短編などの作品を作る際にも重要だぞ!! 必要以上に設定を盛りすぎると作品が破綻するから良い子のみんなは部屋を明るくしてテレビから離れて見てくれよな!! 合法ロリとの大事な約束だぞ!! 因みに因みに合法ロリの対義語は脱法ババァだ!! 脱法ロリと混合されがちだから気を付けてくれ!! そしてここまでのセリフ全部、全くいらないそぎ落とすべき部分だ!! 聞き流せ!! 時間の無駄だ!!」
一息に声を荒げ空に指さす私をノアはとても哀れなものを見るような目で見つめて来ていた。
誠誠に遺憾である。
「それで結局あなたは何を仰りたいのですか? 話の中核が全く見えないのですが……」
私は再び己の眼を覆い隠す眼帯をクイッと持ち上げる。
「えーですから、その情報を繋ぎ合わせ推理すると私のことをこの世界の最後の生き残りだと考えるよりも『人類が滅んだ世界に迷い込んできた美少女なのではないか』と考えた方が筋が通っているという話です。一番の可能性としてはタイムマシンのようなものに乗って別界から送られてきたというのが最有力候補ですかね。そこら辺のことどう思います? 『時空間転送装置付ヒューマンコンタクトインターフェース』ことノア君?」
――な、何のことですかねぇ……。
と、そっぽを向くノアの背中に私は「何のことなんでしょうねぇ」とニヤニヤとしながらいやらしい言葉を投げつけたのでした句読点。
***
「はいはい、ではでは。そういう仮定の話になると一つ問題が出てきます!! それは一体なんでしょうか!! はい!! ノア君!! アンサープリーズ!!」
大きい樹木の影が作り出す天然の庇にて休みの憩いを堪能しているその時、私は先刻の続きを口にした。
「意思を共有してください……。そんなの『白紙に書かれる予定の問題を推測して答えを述べよ』と言ってるようなもんじゃないですか。とてもじゃないですがわかりませんよ」
「そんなんだからお前さんは未だにサバオなんだよ!! 恥を知れ!! 正解は『私の記憶』じゃボケェ!! 私にはノアと初めて出会ったという記憶がある!! つまり、出会う以前の私の記憶にはノアという登場人物は存在してない!! だからこの記憶がある限り先ほどの仮説は誤りである、という結論になるわけだ!! わかったか!!」
ノアのあの苦虫をかんだような表情はきっと「なぜそんな偉そうに堂々としているんだ」という意味があるのではないかと妙な勘繰りをしてしまう。
「前提から破綻しているじゃないですか、その仮説……。ではその私に出会う以前の記憶がある以上、あなたが未来の世界からの同伴者である説は根本から否定されるわけですか。的外れ甚だしいですね」
「だが、そうとも限らない!! というわけでここで出てきます哲学『箱の中のカブトムシ』!! 知ってるかノア!! どうせ知らねぇだろ!!」
私的言語論。
『箱の中のカブトムシ』
複数人に種類も形も違うカブトムシの入った箱を渡し、箱を渡された者同士でその自分が所有するカブトムシについての話のみさせる。その際、他人が所有する箱の中身を確認することはできず、あくまで見ることのできるのは己のカブトムシのみ。
当然その状態で共有されるカブトムシの情報はバラバラで統一性はなく真偽を確かめることもできない。
これは、他人が経験している事柄を視認することはできるが、その内側の経験に対しての観測まではすることができないという「人心」の思考実験のこと。
「私のノアとの出会い以前の記憶がないのは揺るがない事実ではある!! しかし『ノアの記憶がどうなのか』までは私には観測することができない!! そう!! ノアがどれだけ私に情報を委ねてもノアの心情までは計り知れないというそういう事なのだ!!」
――えっと。
と己の頬を掻くノアは「つまりは私があなたに嘘をついて初対面の振りをしているとそういう事ですか? 何のために?」と困った表情を浮かべる。
「しいて言えば私が美少女でさらに眼帯キャラという萌え要素たっぷりの愛されキュンだから? むしろそれしか思いつかん。異論も認めない」
「そうですか……」
――もう休憩はこれくらいでいいでしょう。
とでも言いたげに荷車へと歩み寄ってくるノア。
私はその姿に言葉を投げかけた。
「ただ、初対面なのにもかかわらず甲斐甲斐しく私の世話をしてくれていることに理由があるのだとすれば、それが一番わかりやすいっちゃ分かりやすい理由かなと」
私に記憶がないだけでノアにはその以前の記憶がある。
そういう仮説を立てた場合、いろいろと彼の行動に説明が付く部分は多い。
だが仮にその仮説が正しかったとしても私にそれを確かめるすべはない。
私はノアと会う以前の記憶がなく、ノアは己を未来から世界を救いに来た救世主だと名乗っている。
現時点はそれがすべてでしかなく、ノアの箱の中にどんなカブトムシが入っているのか私にはわからないのだから。
「ヘイ、ノア!!」
――いつもありがとさん。
私は満面の笑みでそんな感謝の言葉を贈る。
「…………どうもです」
そんなそっけない態度を見るのが何かと楽しく癖になるので止められない。
我ながらいい趣味だと思いました。
***
「『経験機械』という思考実験があります……。実際に体験することなく経験のみを獲得することのできる機械があるとすれば人は進んでその機械を使うのかどうかという『人間の尊厳』に関する考え方です」
地面のぬかるみが酷く荷車の車輪がその泥にとられ立ち往生していた時分。
ノアは唐突にそんなことを呟きだした。
『経験機械』
体験することなく経験が獲得できる機械。
そんなものが存在していたとすれば人間は生きる理由の大半を失うことになる。
「今まで人類が培ってきた技術、知識、常識、感情。それらを音楽をダウンロードするような感覚で獲得できるとしたら少なくとも人間という種族の進化はそこで止まるんじゃないけ? だってそれはつまり過去の焼き増しであり個性の消失に他ならないわけで平たく等しく平均的で平等な嫉妬のない世界が生まれるわけよな? 新しいものが生まれてもそれすらも他の者が何の苦なく獲得できる社会が生まれれば端的に言えば『誰も努力をしなくなる』。する必要がないわけだし。そんな世界はそりゃ滅ぶでしょ」
使うかどうかはその者の主観によるところは大いにあるのだろうけど。
と言ってもこの考え方はあくまでも極論でありもっとも単純に考えたときの結末には違いないわけだが。
実際にはそう単純ではないだろう。
「どったのよノア? 車輪がぬかるみから抜けないことへの現実逃避かえ? 諦めるな信じればきっと努力は報われるから頑張れファイトだ。私はノアの可能性に期待してるし、いい子はもう寝る時間だから寝る。後はよろぴく」
今年こそはいい子にしといてサンタクロースからプレゼントを貰わなくてはという確固たる強い意志を胸に寝の体勢に入ろうとする。
きっとそんな傍若無人な私の振る舞いにまたしてもノアが文句を言ってくるだろうと私は期待していた。
そしてこういう風に思うということはそうはならなかったという意味でもある。
「……本当にどったのよノア。サバオのくせに反応がないとか調子狂うジャマイカ」
――すみません。
そう謝罪の言葉を溢すノアに私はどうしても考えを巡らせてしまう。
一体その謝罪の言葉は何に対しての謝罪なのだろうかと。
『サイバネテック・オーガニズム』
両腕両足が機械のノア。
そんな義手義足を持つ彼を分類化するのであれば彼のことは『非侵略型』と呼ぶ。
これは別に彼が戦闘用に作られていないからとかそんな理由の非侵略型という分別ではない。
『侵略型』と『非侵略型』
機械を体内に埋め込まれている者を『侵略型』。
機械を体外に取り付けられている者を『非侵略型』と呼ぶ。
機械を体内もしくは体外に装着している者のことを総じて「サイバネテック・オーガニズム」と呼ばれる。
つまりサイボーグとは機械をその身に備えた人間の総称のことを指す。
だけどノアが非侵略型であるのは視覚的情報で得られる事柄を地盤にしているだけで彼の中身にどれだけ生身があるのかわからない以上彼が侵略型である可能性も捨てられない。
それこそノアには比喩表現なく音楽をダウンロードするように経験を己に取り込む機能があるのかもしれない。
人間の尊厳を思考する哲学用語『経験機械』。
仮に彼の中枢神経すらも機械だった場合彼は果たして人間と言えるのだろうか。
人間としての尊厳はあるのだろうかと考えてしまう。
哲学者ジョン・サールの思考実験。
『中国語の部屋』
英語しか理解できないイギリス人を部屋に閉じ込め外から中国語で書かれた手紙をイギリス人に渡す。
イギリス人は部屋にある中国語のマニュアルを見ながら手紙の返事をしていく、だがそのマニュアルにはあくまで「こう書かれていたらこう返せ」という定型文しか載っておらず意味までは記載されていない。
その手紙のやり取りをみた外の人は部屋にいるのは中国語を理解している人が入っていると思い込むが実際は理解していないイギリス人が内容もわからず手紙のやり取りをし続けるという構図が出来上がる。
イギリス人をCPUの人工知能に例え、どれだけ優れた言語識別ができたとしても人工知能は意味までは理解することができていないという機能主義を批判する考え方。
それが「中国語の部屋」。
会話が成立しているからと言ってそれが幾多数多のマニュアルから取捨選択された語群でやり取りされた精度の高いコミュニケーションである可能性は拭えない。
言うならば経験機械が人間の尊厳に関するものであるのに対し中国語の部屋は機械の尊厳に関するものであると言える。
「だとするのならば……」
ノアは口にする。
この人類が滅んだ世界でノアは呪文のように唱える。
――私たちはどちらの方が『人間』なのでしょうね?
荷車はその言葉と合わせるように「ゴトリ……」と静かに音を立て前へと進みだす。
空気にぬかるみを残すまま。
空は地上へ纏わりつくような影を落としながら。
ただただ虚しい音を奏でて。
***
アダムとイブの物語はいつだって禁断の果実を口にし楽園を追放されるところから始まる。
「――『バナナ』だとさ」
蛇に唆された彼らはいつだってそうやって知恵を得てエデンを追い出されるように出来ている。
「え……? なんですかいきなり? バナナって一体何のことですか?」
私の突然の言葉に驚きを隠せないでいるノア。
そんなノアを気にすることなく私は言葉をつづけた。
「アダムとイブが食べたっていう禁断の果実のこと。一般的に言われているリンゴは誤訳らしくて実際は『いちじく』『芭蕉』って呼ばれてた果物で正しくは『バナナ』なんだとさ。つまり!! 『松尾芭蕉』は『松尾バナナ』ということになるわけですね!! うはっ!! 俳句クソ上手そう!!」
「誰ですか松尾芭蕉って……」
「偉い俳人、それ以外知らん。私がわかるのは私がしってることだけだ」
そう、私が分かるのは私の頭の中にあることだけ。
私自身分かっている。
分かっているのだ。
「分かってるんですよノア。私の知識が『この世界感と合ってない』ことくらい。私とこの世界の関係が剥離していることくらい」
禁断の果実を口にして知恵を得た彼ら。
禁断の果実という名の経験機械をもって互いを理解しあえない男女という名のカブトムシを飼い慣らし、創造主の手によって追放という名の剃刀でそぎ落とされた彼ら。
彼らの物語はいつだってそこから始まる。
「知識を得たから余分な者として排除されたのか、余分な物を得たから排除されたのか。卵が先か鶏が先かのような話ですね。彼らが追放されたからこそ人類は繁栄し哲学もまた生まれたのですから」
そして繁栄した彼らはいつしか衰退してしまうのだろう。
沙羅双樹の花の色はいつだって盛者必衰の理を表すものなのだから。
衰え、堕落し、墜落しまた神に平たくならされてすべては一から創られる。
だとすればこの世界観と合っていない私は一体何者なのだろう?
そんな答えはノアが口にしていた。
私は最後の一人だと。
世界を救いに来たノアがそう言っていた。
「……あぁ、なるほど、そいうことですか。なんだ、最初から答えは出ていたんですか。ノアあなたはきっと……」
――『方舟』なんですね。
「……」
人類を救いに来たのではない。
世界を救いに来た。
つまり彼からすれば最後の一人は『誰でもよかった』のだろう。
私は最後の一人にされた、そういう事。
「……恨んでいませんか? あなたを選んだ理由がランダムで無作為で法則性もなく超絶美少女だからとかいうわけでもなかったことに。ただのエゴで選ばれたという事実に……」
つまり私に甲斐甲斐しく世話を焼いていたのは、一言で言えば『罪悪感』という事か。
「要は女性であればだれでもよかったのかこのサバオは!! とんだすけこましだな!! 恥を知れ!! ごめんなさいって言ってみろ!! 美少女に足蹴にされながらごめんなさいって鳴いてみろ!!」
ゲシゲシとノアの背中を蹴りやりながら罵倒を浴びせる。
私は叫んだ。
「そんなこと知ったことか!! それはノアと創造主の物語だ!! 知恵の実を食べたのもアダムとイヴの物語だ!!」
絵に描いた餅が何味かなんて創造主にしか分からない。
そこから先、受け取り手側は想像するしかない。
「そしてこれは『ノアと私の物語』だ!! 他の逸話なんぞ知ったことかぁ!! バナナ味だと思えばもうそれは誰が何と言おうとバナナ味なんだよ!!」
――バナナ味の物語ですか……。
そんな感傷に浸る様にポツリと呟く。
「なんだかとても間抜けな物語ですね」
そう。
これは救世主と少女の物語ではない。
知恵の実を食べ追放された物語ではない。
世界の秩序を守るため大洪水に見舞われた物語でもない。
「――これは世話焼き青年と超絶美少女の愉快な『ラブコメディ』だ」
その私の言葉に苦笑いを浮かべるノア。
「ラブは余計では?」
意地悪な笑みを浮かべる。
「あれあれ? ノアってば照れてるのけ? しかもこんなことも知らないとは滑稽とはまさにこのこと。愛は……」
――愛は地球を救うんですよ?
そのいやらしい私の文言に「救世主なんて名乗らなきゃよかった……」と頭を抱えるノアを指さして笑った。
……――。
そんな笑い転げる私にノアは黄色厚皮な果実を投げ渡してきた。
バナナだった。
「非常食なのでは?」という私の問いに「食べなきゃ腐るだけです」とそっぽを向きながら答えを返す。
これは旧約聖書のような知恵の実? 禁断の果実?
何気なしに天を仰ぐ。
太陽が煌々と真上から照り付ける時分。
きっと今はそういう時間なのだろう。
「へい、ノア!!」
「……何ですか?」
改めて問おう。
今なら彼がなんて答えてくれるか胸に期待を寄せながら。
哲学じみた幼稚な問いを……。
――彼に送ろう。
「人類が滅んだ世界でもバナナはおやつに入りますか?」
―fin―
哲学と旧約聖書のパロディみたいな?(多分違う)