「――ほぅ」
洋服の青○で、二着で半額となる安物のスーツを着た短身痩躯の赤毛の青年が、小さくそう漏らした。ため息とも吐息ともつかぬその声を発した者の名は、緋村剣心。そう、まさしく彼こそが平成の世に生きる――――侍である。
独特の圧迫感を感じる室内。頭上の窓から差し込んでくる西日を背に、剣心は目を閉じて石の如くじっと待機していた。数多くのイスが並べられた部屋の中には、人間は剣心のみしか存在しない。
張り詰めたようなある種の緊張感が漂うこの部屋で、現在剣心はとある順番待ちの最中。何を隠そう、剣心は就職のために面接に来ているのだ。そして、そろそろ呼ばれるかなと思った矢先のこと。
「はい、次。えー、緋村剣心さんどうぞ」
「…………んー?」
「緋村さん、おられないんですか?」
「……あ、はい。すぐにそっちに行くでござる」
二度名を呼ばれた剣心は、ようやく椅子から立ち上がった。パイプ製のイスがぎしりと軋みを上げるのを後ろに、大きく背を伸ばす。
ちなみに返事の反応が遅れたのは、大胆にも居眠りをしかけていたからである。伝説の剣術を操る侍たる剣心にとって、一般人との面接程度で緊張感など起こりえない。ただ単に徹夜してネットゲームで遊んでしまった弊害なだけであった。この侍は、社会というものを完全に舐めきっていた。
「ようやく出番でござるな」
そのまま待合室をだるそうな足取りで出ると、剣心は面接官の待つ部屋へと向かった。ふと下方へと注意を向けると、履き慣れていない革靴が、やけに足を圧迫してくるような気がする。緊張は皆無であったが、どことなく不安な気分になってきた剣心だった。
「名は緋村剣心。よろしくお願い致す」
部屋に入って、すぐに頭を下げて挨拶だ。物事は挨拶に始まり、挨拶に終わる。挨拶はとても大事だと、知り合いの、お庭番衆を先祖に持つ忍者の頭領もそう言っていた気がする。忍者だけに。
下げた頭を戻すと同時に素早く相手を観察する剣心。相手の年の頃は四十代であろうか、人の良さそうな顔が印象的な面接官の男が担当だった。
「はい、こちらこそよろしくお願いします。私は面接担当の来迎寺です。それでは始めましょうか」
こうして挨拶もそこそこに、剣心の進退(主に家賃的な)を賭けた面接が開始となる。
「履歴書は拝見させてもらいましたよ、緋村さん。それでですね。その、大変失礼ですが、この前職……というか、現職もですか。『侍』というのは何かの冗談でしょうか? 職歴もずっと『侍』オンリーですし」
「いやいや、本気も本気の大本気。拙者はこれでもれっきとした侍でござるよ」
「日光の江戸村や京都の太秦で働いていたとか、そういうのじゃなくて? もしくは時代劇関係者の役者さんやスタントマンであるとか? なんかござるござる言ってますし、そういうキャラ作りなんですか?」
「失敬な。あんな紛い物とは違って、拙者は正真正銘、本物の侍でござる」
「……あぁ、はい。そうですか。分かりました。それで……その、侍という職では、具体的に何をされていたんですか?」
「えっと、その…………。流浪人を、少々……」
「はぁ、るろうに、ですか? 聞き覚えのない言葉ですが……。なんです、それは?」
「流れの浪人というか、主君を持たぬ誇り高き侍というか……大体そんな感じのニュアンスみたいな感じ? でござる」
「つまり、今までずっと……無職ですか?」
「いやいや心外な。そう、これは、あれでござる。拙者、少々長めのモラトリアム期間を過ごしているだけでござるよ」
「それを世間一般では無職と言うのでは?」
「ま、まぁ……一部ではそういう説もあるでござるな」
「……ではこの資格にある、飛天御剣流免許皆伝というのは? こちらも私には聞き覚えのないものですが、華道か茶道辺りの流派でしょうか?」
「飛天御剣流は古流剣術にござる。戦国時代に端を発し、一対多数の戦いを得意とする幻の剣術と呼ばれていて……」
「いや、別にそれはどうでもいいです」
剣心が身を乗り出して解説しようとした瞬間、すかさず来迎寺が口を挟んで止めた。
「くッ。最後まで説明したかったんでござるが……無念」
「で、それ以外の記入がないということは、緋村さんは他には何も資格は持ってはおられないんですね?」
「いかにも、仰る通りでござる」
「車の免許くらいは?」
「もちろん所持していないでござる」
「なるほど」
来迎寺は軽く頷くと、清々しい微笑みを浮かべた。
「緋村さん。もう帰っていいですよ」
「おろ? それは、つまり……?」
「大変申し訳ありませんが、不採用です」
「えぇ!? こ、この場で即決定でござるか!? 普通は仮に不採用でも、建前も考えて後日連絡する、そういうものではござらぬか!?」
「不採用です」
「……はい」
緋村剣心、見事就職失敗。
◇
いつの間にか陽はすっかりと沈み、気が付けば夕暮れ。仕事帰りの人々が行き交う街の中で、剣心はぼんやりと佇んでいた。
「あんな会社、こっちから願い下げでござるよ。むしろ、拙者の方から断ったようなもの。拙者ほどの大器が納まるには相応しくない場所であった。それだけのこと。だから、悔しくなんてないでござる」
もしかすると通うことになっていたかもしれない会社のビルを、たっぷりと遠目に五分間ほど未練がましく見つめたあと、ようやく剣心は踵を返して歩き出した。
「しかし侍が職として認められないとは、とんだ誤算であった。RPGゲームなら戦士よりも上級職だし、二刀流とか超強いし、確率で敵の首を刎ねて一撃でぶっ殺したりも……あ、そっちは忍者の方でござったか」
愚痴をこぼしながら帰り道を行く剣心。アスファルトを踏みしめる革靴が、一歩歩くごとに無機質な音を立てる。
もう何年も使っていなかったスーツ一式を引っ張り出してきて面接に望んだのに、結局無駄になってしまった。
「家賃の期限は明日まで。このままではアパートを追い出されてしまうでござる。これは困った。どうしたものか……」
言いつつ、締めていたネクタイを緩めて外す。ついでにワイシャツのボタンも、上から二つほど外しておく。その姿はさながら、会社帰りの駄目リーマンそのものだった。
「職さえあれば、拙者とてすぐにでも家賃が払えたものを。口惜しいでござるな」
ちなみに剣心は気付いてはいなかったが、もし就職が決まっていたとしても給料日は翌月である。どう考えても明日が期限の家賃を払うことは不可能なのだが、今となってはどうでもいい話。
ただ、世の中の厳しさを改めて痛感しただけの一日だった。
「大家どの、本気で怒ると箒を振り乱して拙者を叩くでござるしなぁ……」
一念発起して就職活動をしてみたものの結果は見事に惨敗であったし、これからのことを考えると頭が痛くなってくる。
「こうなれば、明日は居留守を使って大家どのをやり過ごすしか手はないか……」
どこか遠くから、カラスの鳴き声が聞こえた気がした。見上げると茜色に染まった空に、鳥の影が三つ。なんだかカラスにまで馬鹿にされているような気がして、剣心の心は底無し沼にはまったようにどんどん沈んでいく。
「ああ、もう! 全てが嫌になったでござる! 真面目に生きるのが面倒でござる! さっさと部屋に戻って、ゲームの続きをするでござる! 今宵の拙者は侍ではなく、提督でござる! 徹夜で西方海域を攻略してやるでござるよぉおお!」
半ばヤケクソ気味にそう叫ぶと、剣心はアパートの方角へ向かって走り出した。現実逃避以外の何物でもなかった。
平成の侍の夜明けは、まだ遠い――。