色んなものを見て、食べて、回って。
僕は神様と、そしてヴェルフと共に、この
これから先に何が起こるかは分かっている。だが、それは今を楽しまない理由にはならない。
そう自分に言い聞かせ、時間の許す限り、この心地よい騒がしさに身を任せていた。
だが、やはりその時間は長くは続かなくて、
ふとした瞬間を境に、周囲を漂う空気が変わるのを感じた。
「──」
興奮と盛況で満ちたこの地上に、冷たく重い、戦場の風が吹き抜ける。僕の世界から一瞬だけ、全ての音と色が消え失せた。
灰色だけで構成されたその中心で、手にしていたクレープを貪るように嚥下し、ゆっくりと腰に帯びた《絶影》の柄に手を伸ばす。
「ベル君?」
「おい、どうした?」
突然足を止めてその場に立ち尽くした僕に、神様とヴェルフは不思議そうな顔をしている。
そして、どこからか絶叫が上がったのは、その直後のことだった。
「モ、モンスターだぁあああああああああ!!」
その絶叫を皮切りに、人々が悲鳴を上げながら逃げ惑い始める。笑顔と笑声に包まれていた通りは、一瞬にして恐怖と動揺に支配されてしまった。
やがてそこに、一体のモンスターが姿を現した。
『グォオオオオォオオオオオォオオオオオ!!』
白い剛毛に覆われた、ミノタウロスを越える巨大な体躯。尻尾と見間違える長い銀の髪。四肢を縛る拘束具らしき鎖は強引に引き千切られ、一部がぶら下がって地面にとぐろを巻いている。
メインストリートを我が物顔で進むそいつは、僕たちを視界に収めるや否や、その目を血走らせ、歓喜するかのように全身を震わせた。
「おいおい……あれは……!」
「……シルバーバック!」
その名をこぼすのと、シルバーバックが走り出したのは同時だった。
野猿のモンスターはその巨体にあるまじき軽やかさで、一気にこちらへ迫ってくる。
「ヴェルフ! 神様を!」
「なっ!? 一人でやる気か!?」
「僕のことは大丈夫! だから神様をお願い!」
「……分かった! ヘスティア様、下がりましょう!」
「わっ!? ちょっ、ベル君!」
張り上げた声に弾かれたように動いたヴェルフが、神様の手を引いてこの場から離れていく。神様が何かを叫んでいるが、僕の意識は既に前へ向いていた。
《絶影》を抜刀し、突っ込んでくるシルバーバックと対峙する。
「さぁ、いくぞ!」
『ォオオオォオオオオオォオオオ!!』
突っ込んでくるシルバーバックを横に跳んで躱し、崩れた屋台を足場に大きく跳躍。空中で身を翻し、逆手に短刀を構える。振り返ったシルバーバックと視線が交錯した。
──大丈夫だ。
──今の僕なら、絶対に負けない。
甦るはかつて感じた恐怖。
目の前に現れたこのモンスターが、恐ろしくて恐ろしくて仕方なかった。
けれど、僕が戦わなければ神様が危険にさらされる。そう思えたからこそ、勇気を振り絞ることが出来たのだ。
では今はどうだろうか。
恐怖がない訳ではない。しかし、自分でも驚くほどに目が冴えていて、心も冷静さを保っている。
不思議なくらいに、負ける気がしなかった。
「ふっ──!」
振り下ろした黒き刃は寸分違わず、シルバーバックの右目に深々と突き刺さった。すかさず柄を両手で握り、捻りながら更に奥へと押し込む。吹き出した鮮血に全身を汚しながら、激痛に絶叫するシルバーバックの顔面を横薙ぎに斬り裂いた。
『ガアアァアアアア────!?』
血まみれの顔を両手で覆いながら、しかしシルバーバックは倒れなかった。指の隙間から覗く左目は真っ赤で、これ以上ないくらい怒りに染まっていた。
やはり一筋縄ではいかないか、と。
距離を取り、気を引き締め直した僕に、垂れ下がっていた鎖がジャラリと音を立てて振るわれた。路肩に並ぶ屋台や建物が次々に破壊され、生じた風圧が強く肌を叩く。
「くっ、望むところ……!」
巻き起こる砂塵と鉄鎖の渦に真っ正面から飛び込む。駆け抜けた石畳が直後に炸裂し、衝撃に崩れそうになる体勢をすぐに立て直す。絶えず目を動かすことで次の動きを予測、最小限度の回避で済ましつつ、前へと進んでいく。
実際には数
恐らく、シルバーバックが完全に我を忘れていなければ、接近することはもっと困難だった筈だ。傷を負わされたことに激昂し、大振りの攻撃をめちゃくちゃに繰り返すだけだったからこそ、上手くやり過ごすことが出来たのである。
「食らえっ!」
全身を一本の槍に見立て、シルバーバックの胸──正確にはそこにある魔石目掛けて、短刀を突き出す。巨躯が僅かに浮き上がり、背中から落下して勢いよく地面を滑った。
──獲った。
得物を通して伝わる確かな手応えに顔を上げると、シルバーバックは弱々しい呻き声を最後に動かなくなった。僕が上から退くと、その体は灰へと還って霧散した。
「……よし」
自分の中で張っていた緊張の糸が弛み、小さく息をつく。
静まり返った通りにしばらく立ち尽くしていると、後ろからばたばたと足音が連続した。
「ベル!」
「ベル君! 大丈夫!? 怪我はないかい!?」
駆け寄ってきたのは神様とヴェルフだ。シルバーバックとの戦闘が終わるまで、どこかに隠れていたのだろう。
心配そうな顔をしてやってきた二人に、僕はふっと微笑みかける。
「大丈夫ですよ、神様。怪我なんて一つもありません。ヴェルフも神様をありがとう」
「そっか……。よかったぁ……」
「しかし驚いたな。まさか本当にシルバーバックを倒しちまうなんて……」
しみじみとばかりにヴェルフが呟いたそのとき、新たな鳴き声が辺り一帯に響いた。
敵の姿は見えない。だが、近い。
「ベ、ベル君……」
「……行きましょう。西側の、僕たちの
不安に瞳を揺らす神様の手を取り、僕たちは西側のメインストリートを目指して移動し始めた。
しかし、一刻も早くこの場を離れようとする僕たちの行く手を阻むように、新たな脅威が立ちはだかった。
湾曲した刃を思わせる角が特徴の雄鹿のモンスター、『ソード・スタッグ』。
20階層以下の領域に出現する俊足を持つ敵が、通りの脇から躍り出てきたのである。
「……まずいな」
寸前で物陰に身を隠したおかげか、まだ向こうはこちらに気付いていないようだ。ただ、このままこうしていても見つかるだけ。故に今すぐにでもこの場を離れたいところなのだが──。
「まずいって、どういうことだ?」
「逃げきれないんだ。神様を連れた今の僕たちじゃ……ううん、神様を連れてなかったとしても、Lv.1の僕たちじゃ確実に追いつかれる」
ソード・スタッグは速い。
同じLv.2であるミノタウロスが膂力と体力に優れたモンスターだとすれば、ソード・スタッグは敏捷さに優れたモンスターと言えよう。一度捕捉されれば、今の僕たちに振りきることはほぼ不可能だ。
「そんな!? じゃ、じゃあどうすればいいのさ!?」
「……囮か?」
真剣な面持ちで答えたヴェルフに、僕はこくりと頷く。
見つかれば追いつかれる。ならば、誰かが注意を引くしかない。
一刻も早く神様を逃がすためにも、これが現状における最善策だ。
「神様、【ステイタス】の更新をしてもらえませんか?」
「へ? い、今ここでかい?」
「はい。時間稼ぎとはいえ、ソード・スタッグと戦うなら、少しでも強くなった方がいいと思うんです。ここ数日、神様の不在で更新が出来てなかったから、やってみる価値はあるかと思います」
「待てよベル、残るなら俺が──」
「ヴェルフ」
上着を捲り、背中の【ステイタス】を神様の前に晒しながら、僕はヴェルフを制した。
「その気持ちは嬉しい。けど、武器も何もない今のヴェルフには危険すぎるから」
「っ……! けどよ……!」
「大丈夫。これだけ大きな騒ぎなんだ、きっとすぐに他の冒険者が来てくれる。僕だって最初から足止めに徹すれば、そう簡単にやられたりしないよ」
だから、と。
僕はヴェルフの目を、まっすぐ見つめた。
「神様をお願い。僕だけじゃ神様を守ることは出来ない。これは、ヴェルフにしか頼めないことなんだ」
「俺にしか……頼めない……」
僕の言葉を、ヴェルフ噛み締めるように繰り返す。僅かに俯いた彼の表情を、今の位置から見ることは出来ない。
「……よし。終わったよ、ベル君」
漂っていた沈黙を破ったのは、そんな神様の一言だった。
ありがとうございますと感謝を告げ、服装を正す僕に、神様はずっと背負っていた包みをほどくと、その中身である小型の箱を差し出した。
入っていたのは漆黒の鞘に収められた、漆黒の柄を持つ短刀。
それを見た瞬間、僕の口から「あっ……」と声がこぼれた。
見間違える筈がない。
それは、僕の窮地を何度も何度も救ってくれた、大切な神様からの贈り物。
《神様のナイフ》だ。
「神様、これ……」
「本当はもっときちんと渡したかったんだけどね。いつもお世話になってるベル君へのサプライズさ」
神様はにこりと笑い、僕の肩に手を置いた。
「ベル君、僕は待っているからね。君が僕たちの
蒼穹を思わせる澄んだ瞳が、僕のことを正面から見据えている。そこに懸念や不安の色は皆無だった。
神様はどこまでも純粋に、僕のことを信じてくれていた。
そんな彼女の気持ちを、裏切る訳にはいかない。
「──はいっ!」
《神様のナイフ》を受け取り、手早く腰の辺りに装備する。
なくなっていた
「ヴェルフ、あとはお願い」
「……あぁ。気をつけろよ」
「ありがとう。神様、いってきます」
「あぁ、いってらっしゃい!」
二人の激励を背中を受け、僕は勢いよく物陰から飛び出していった。