気が付けば覚えのある場所だった。
ぱちりと一つ瞬きをして身体を起こす。改めて周りを見渡し確信を得た。
凛と立つ一本の大きな桜の木。周囲一帯は海の如く湖の如く、静かな水面が何処までも続いている。しかし水面と言うにはあまりにも鮮明に桜の木が映り込み、まるで鏡のよう。そしてその木を中心とした小さな小さな孤島とも言える場所に、朔良は横たわっていた。
「ここ……私の精神世界」
『そうです』
独り言に返ってきた、澄み切った高い声。前触れのなかったそれに一瞬驚いたものの立ち上がる。
「あなたが私を連れてきたの?」
『他に誰が居るというのですか?』
「それはそうだけど、珍しいと思ってさ。最初の数回以来、あなたの意思で私がここに来ることはなかったもの」
ぐるりと周りを見ても、誰も居ない。ただ声だけが聞こえる。
「……一体いつになったら姿を見せてくれるのかな」
『貴女が気付くまで待つつもりでしたが、状況が変わりました。悠長に事を構えている時間はありません』
「状況?」
『お忘れですか? 今、
目を見開く。そうだ、たった今まで大虚と戦っていたのだ。いや、実際には現在もその最中なのだろう。虚閃を受ける直前だった筈だ。
「……まさか、手を貸してくれるの?」
『今はまだお貸しできません』
つまり、まだ名前は教えてくれないということだ。
僅かに落胆しつつも、朔良には気にかかることがあった。
これまで、声は何処から聞こえてくるのかまるで判らない、空間全体に反響するようなものだった。けれど今響く声は、漠然とではあるが出所が掴める。少しの自信を持って正面――すぐ傍にある水面へ歩を進めた。
『そこ』に映り込む己の姿を見て――瞠目する。
鏡の如く映る顔、体格。けれどその身に纏うものは、死覇装ではない。色は黒で似ているものの作りは狩衣、藍色の帯で蝶々結びで締められている。髪も色こそ同じだが結い上げておらず、下ろしてある。
そして何より――その手の中には一振りの刀が在った。
『驚いていますね』
言葉を失くしていると、己とそっくりな顔が口を動かす。
「……まさか……あなたが私の斬魄刀……?」
『そう、なります』
「え……でも、だって……その顔は……」
『自分と同じ。そうおっしゃりたいのでしょう』
高い少女の声は、己のそれとは違う響き。けれども紡ぐ口、顔は己そのもの。
『貴女だからこそ、私はこの姿なのです』
「え……?」
『判らないのであれば、貴女に私をお渡しすることはできません』
思わずその手中を見やった。足元に突き立てられるように映るそれ。造形は何故かよく見えないけれど、斬魄刀であることは明らかだった。
膝をついて身を乗り出すも、映る姿は立ったまま。思わず求めて水面に手を伸ばすが――
「!」
手が沈まない。否、水面だと思っていたそれは水ではなかった。触れれば水の如く波紋が広がるが、伝わる感触は固い。まるで本当に鏡のようだ。しかし映り込む姿はやはり異なる。
「どうして……」
『……何度もお伝えした筈です。まだ足りない、貴女はまだ私を持つべきでない、と。貴女には私を持つにあたって、必要不可欠なモノが欠けている』
「ずっとそれを考えているよ。何が足りないんだろうって。でも判らないんだ」
己の力量? 斬魄刀に対する理解? それとも歩み寄り?
『……貴女は他人に協調することには長けています。始解する為の条件のほとんどは揃っているのです。あと一つ、根本的な理解が貴女には無い』
「理解……?」
『それに辿り着けないのであれば、残念ながら貴女はここまでです』
「え、そんな」
『最早時間はありません。貴方自身の力が……』
声が遠くなる。同時に映る姿がゆらりと揺れ、徐々に薄くなっていく。
「! 待って! お願い!」
伸ばす手は届かない。ただ波紋が広がり冷たい感触が伝わるのみ。
(どうすればいいの? どうすれば――)
たった一つ足りないモノ。根本的な理解が無いのだと、『彼女』は言った。
(根本的な理解って何? 一体何に対する理解なんだ?)
『彼女』の言ったことを振り返ってみる。
“貴女だからこそ、私はこの姿なのです”
“私を持つにあたって、必要不可欠なモノが欠けている”
“貴女は他人に協調することには長けています”
“条件のほとんどは揃っているのです”
一体『彼女』は何を伝えたいのか――
(……あれ?)
ふっ、と違和感を感じた。
何故貴女――
主だから? いや、そういう風には聞こえなかった。ならば何か。
(『私』という個に何かがある……?)
――待て。
己は今、何を思った?
(…………『個』…………?)
瞬間、カチリと。
歯車が噛み合った気がした。
(……私は)
『物真似』が得意だ。武器でもあり誇りでもある。
瞬歩も、鬼道も、白打も、剣術も。全て達人のそれを『真似』てきた。だからこそ上達し、強くなれた事実がある。
けれどもそれは、あくまで他人の『模倣』にすぎない。覚えたことを再現できたとしても、『己自身』の形ではない。ただひたすら、『真似』るばかりで。
“自分自身を見失わない、ずっとその場所に『居』続ける『雲』”
兄と慕う一人の師の、名付けてくれた時の言葉が蘇る。
彼の込めた意味が、身に染みて判った。
『彼女』が言った、必要不可欠なモノ。内容は実に単純で――
「……私は、『私自身』が見えてなかったのか」
呟けば、より明確さを増す。まさしく『根本的な理解』だった。
『私』が主だから、『彼女』は私の姿をしていたのだ。『私』の武器が――『物真似』だから。
『――理解、できたようですね』
再び響いてきた声にはっと我に返ると、薄れていた筈の姿ははっきりとした輪郭を取り戻していた。いや、寧ろ先ほどよりもずっと鮮明に映って見える。そして無表情だった顔は、穏やかな微笑みを浮かべていて。
『良かった、一時はどうなることかと思いましたが。これで私をお渡しできます』
「え? でも、私は自分が見えてないって判っただけで、何も……」
『それが重要だったのですよ。無自覚ほど恐ろしいものはない。『己自身への理解が足りないことを理解すること』こそ、貴女に欠けていたモノです』
「……な、なんか矛盾してない?」
『そうでしょうか? まあその辺りはどうでもいいことです』
何だろう。さっきまでの『彼女』と随分違う感じがする。何と言うか、印象が柔らかくなった。
『さて……先ほども申し上げましたが、時間がありません』
映る『彼女』は刀を掴み直し、こちらに柄の先を突き出すようにして放した。
何をしているのかと思った瞬間――鏡の如く固い水面から、浮き上がってきたそれ。
茫然とする内に淡く光る刀身が目の前に現われて。あとは僅かな先端が水面に突き刺さるばかりとなった。
『引き抜いてください』
声が届く。今までのように響いてくるものでなく、何となく出所が判るものでもなく、真っ直ぐに。
おもむろに立ち上がり、柄に手を伸ばす。指先が触れ、そっと握り込んだ。
『私の力は、貴女の力です』
力は込めず、ゆっくりと腕を持ち上げる。ゆるりと、引き抜く。
『伝えます。我が名と、解き放つ為の号を』
刀身の光が爆ぜた――
* * * * *
意識が灯る。
感じるのは殺気と喧騒、迫りくる気配。肩の痛みもまた、紛れもない現実。
そして、手の中にある刀から伝わる霊圧も。
(解号と、名前)
握る手に、力を込める。
迫ってくる光――虚閃は、死の閃光に見えていた。――先ほどまでは。
刀を眼前に突き出し、真横に構える。もう片方の腕も伸ばして掌を下に向け、刃に被せるようにして添えた。
「――
振り抜く。その切っ先が緩やかな波を描くが如く、空いた手は虚空を滑り、切り裂くが如く。
「――『
コォン、と音が響いた。
刀から真っ白な光が溢れ出し、一瞬で大きく膨らんだ。それは向かってきていた虚閃とぶつかり、爆音と共に両方の光を消し去った。
もうもうと舞う煙の中で、朔良は己の『刀』を見つめる。
「……これが私の……斬魄刀」
大きさ自体は普通の刀。けれどその刀身は、水晶と見紛う透明さ。向こう側がうっすらと透けて見え、小さな光も反射して煌めいている。鍔の形状は丸く、刀身を中心とした六つ桜の紋が刻み込まれ、柄は藍色だった。
「やっと、始解できた……わっ!?」
感慨にふける暇もなく、上から襲いかかってきた虚を横に飛んで避けた。失念しかけていたが今は戦闘のまっただ中なのだ。その上こちらは傷を――
「……って、あれ?」
先程虚に噛まれてできた筈の左肩の傷。その出血が止まっていた。
『ひとまず私が止めています』
「! 珠水?」
頭の中に直接響いた声に応える。通じ合ったばかりの、『彼女』の声だ。
「止めてるって、出血を? そんなことできるの?」
『できるからやっているのですが』
「あ、うん、そだね」
『それよりこの状況をどうにかしましょう』
「って言っても、救援を大人しく待つのが得策だと思うけど……」
『何をおっしゃっているのですか。せっかく私の名をお伝えしたのですよ。使ってみなければ損です』
「え……」
『さあさあ! やってみるのです!』
「やってみるって……」
何だろう。かなり強引だ。というかまだ名を聞いただけで能力など全く知らないのだが。
「あの……あなたの能力って……」
『それは先程も申した筈ですよ。私の力は貴女の力。私の能力は貴女の能力と同じです』
「は、はあ?」
一体何のことか。まるで謎かけだ。
理解不能だと伝わったのか、『彼女』から考えるような気配を感じる。
『そうですね……もっと言うなら、貴女の記憶を更に鮮明に再現できる、といったところでしょうか』
「……ますます判んないんだけど」
『頑張ってください! 私は貴女の斬魄刀です!』
「それだけ!? もうちょっとこう、ハッキリした助言ない!?」
『血を止めておくにも限界がございますのでお早めに!』
「何気にさらっと重要事項伝えたね!?」
求める声も虚しく強制的に会議終了。……ひじょーうに既視感を覚えるのは何故だ。誰か似ている人物が居ただろうか。
ともあれ、目下の課題はそこではない。己の斬魄刀に似た人物が誰か居たかどうか記憶の引き出しを開けている時間はないのだ。
(……記憶?)
思えば今、珠水は『記憶』と言っていなかったか。持ち主の記憶を更に鮮明に再現できる、と。
始解した時も珠水の助言が鍵になった。
もう一度、貰った言葉を思い返す。
“私の力は貴女の力”
“私の能力は貴女の能力と同じです”
“貴女の記憶を更に鮮明に再現できる”
“私は貴女の斬魄刀です”
……………………斬魄刀?
「……って」
まさか、とは思う。けれど、
『力』『能力』『記憶』『再現』『斬魄刀』
『彼女』の言葉の意味を全て繋げるならば。
『――当たっていますよ、我が主』
「おわっ!? いきなり戻ってきた!」
『ちょっと下がっていただけなのですが。意外と急場に弱いのですね』
「通じ合ったのがついさっきとはいえ常に一緒に居る斬魄刀に急場も何もないだろ!」
『それもそうですね』
やはり感じる既視感。ものすごく気になってきたものの、状況が考えることを許してくれない。先程からずっとかわして逃げて、そればかりだ。
『さあ! やってみるのです!』
「だからやってみるって……」
『できます!
「……アレか」
『アレです』
確かに、やってみなければ始まらない。それ以前にどうにかしないと前後左右上(下は地面)虚に囲まれたこの状況では救援を待つ間もなく喰われる。
『いきますよ』
「うん」
しかしまあなんと言うか。『彼女』は最初の頃の印象と随分変わった。いや、これが本来の『彼女』なのだろう。
一瞬だけ足を止め、刀を握る腕を真横に伸ばして切っ先を下に向ける。
『ようやく貴女の力になれます――朔良』
――名を呼ばれて。
誰に似ているのか合点がいった。
「いくよ――珠水」
かなり強引な所、意外と素直な所、口が回る所、容赦ない所、つっこみたくなる発言が多い所――
「――水天逆巻け」
――
「――『捩花』!」
くるんと刀を縦に、円を描くように回す。次の瞬間には見覚えのある三叉槍へと変じていた。
息を呑む刹那、上から飛びかかってきた虚を咄嗟に斬り裂く。その際に揺れた青い飾り、特徴ある刃と長い柄を持つ槍は紛れもなく彼――志波海燕の斬魄刀。
「これが……珠水の能力」
精巧に『再現』された『捩花』を握り直し、高く掲げた。そうそれは、彼独特の構え。
片手首を軸にして、回転させる。巻き上げた波濤は近付いてくる虚を砕いた。
収束されていく霊圧を感じる。見上げればまた大虚の口に赤黒い光が集まっている。
放たれるまでのほんの僅かな時間差――その差を、瞬歩で埋めた。
「は、あっ!」
波濤と共に突き出した槍は、巨大な黒い身体を砕いた。
ダンッ、と足音を立てて反対側に着地し後ろを仰ぎ見る。
「……やっぱ、そう簡単に倒れてはくれないか」
胴体に直撃させたことでよろめいてはいるものの、倒すには至っていない。ゆっくりとこちらへ狙いを定めようとしている様子が見て取れ、再び『三叉槍』を構えた。初めての力を使っている為か、霊力の消耗が激しい。これ以降、機会はない。
ひゅんひゅんと槍を回し、跳ぶ。先程よりも高く。
「これで、どうだっ!」
勢いを欠片も殺さず――狙うは頭。相手を圧砕せんとする波濤を、上から叩きつけた。
仮面を割り頭部を抉り。塵となっていく姿を認め――肩に痛みが走った。
『限界です、朔良』
止められていた血が傷口から溢れ、痛覚が戻ってくる。霊力も体力も削られ、体勢は簡単に崩れた。元々霊子で足場も作っておらず、空中にあった身体は地へと落下していく。その先には虚の群れ。このまま落ちたら痛いだろうなあ、食べられるのやだなあ、なんて暢気にも思った。
――刹那。
「――朔良!」
――耳に馴染んだ声が、聞こえた。
視界一面に広がった桜色に、瞬き一つ。同時に身体が温もりに包まれ落下が止まる。地面に降り立つ感覚、背中と膝裏に回された腕と身近に感じられる霊圧に、瞳に映り込んだ姿。
「……びゃく、や?」
何故、彼が此処に。
疑問は音にならず、喉の奥で留まる。呆気に取られていると、よく知った霊圧をもう一つ感じた。
「白哉、案じていたのは判るが一人で先に行くでない」
「! も、申し訳ありません隊長!」
「……銀嶺、爺様?」
白哉に隊長と呼ばれたその人は、羽織を靡かせひとり前に出た。『六』を背負った後ろ姿が目に入る。
「もう良い。朔良を連れて下がっておれ」
了承の言葉を返した白哉は朔良の身体を抱え直し、離れた位置にある木々の下まで一瞬で移動した。ゆっくりと降ろされ、木に優しく凭せ掛けられる。
「大丈夫か? 爺様が虚を片付けたら、すぐ尸魂界に連れ帰る。それまでしばし我慢してくれ」
そして朔良の傷と出血を改めて見ると、さっと顔を青くした白哉。取り乱すほどではないものの、明らかに焦った様子だ。
「え、あ、し、止血だけでもせねば……!」
呟きながらごそごそと懐を探っている。その様をぼんやりと眺めつつ、朔良はだんだんと瞼が重くなっていくのを感じていた。
訊きたいことは勿論ある。話したいことも当然ある。けれど今は何より眠かった。
慌てる幼馴染みの声も遠くなり、朔良の意識は落ちていった。