霊圧は完全に隠され、音も立てず。しかし微かな――わざとこちらに気付かせたであろう――よく知った気配に、文机に向かっていた白哉は手を止める。
「……朔良か」
「ああ」
問いかけではなく確認の呼び掛けに、律儀に返ってくる声。筆を置いて振り返れば、死覇装姿のままの彼女が月光を浴びてそこに居た。
「よもや、我が邸に忍び込んでくるとはな」
「勝手知ったる邸の中、だろう。それに私にしてみればこの程度の警備、あってないようなものだし」
「違いない」
侮辱されている訳でも見下されている訳でもないと判っているので素直に認める。幼少期を隠密機動総司令官の元で過ごし、一時はその部隊にも所属した朔良だ。実際本当のことなのだろう。
それに人目を忍んだのは――恐らく、『あれ』に気を遣ってのこと。
「……入隊の儀はどうであった?」
「早速本題か。と言うか、ルキアから聞いてるだろ? まあ何事もなく終わったけど」
さらりとした返答に、白哉は小さく息を吐いた。
今日は『あれ』――朽木家に迎え入れた義妹、ルキアが護廷十三隊に入隊する日であった。数時間前帰宅した本人からも報告は受けていたが、やはり第三者の口から改めて聞くと安心できるものがある。
「しかし、本当に良かったのか?」
腕を組み、開けた障子の端に軽く寄りかかった朔良の唐突な質問に、少し眉を上げて先を促す。
「ルキアの入隊先だよ。六番隊の方がお前の目も行き届くし、心配事も少なかったんじゃないのか?」
「既に今の時点で、ルキアは目立ち過ぎている。あまり良くない意味でな。これ以上注目させることもあるまい」
「……悪目立ちさせてるって自覚、あったんだな……」
そこまで馬鹿ではないつもりだ。
朽木家の養子となり、真央霊術院の卒業試験も護廷隊の入隊試験も免除となったルキア。『朽木家の飼い猫』という噂は、既に一部で広まりつつある。同じ隊に入隊などさせれば、より一層風当たりが強くなるのは目に見えている。
試験免除となると一番隊は色々ときつい。殉職率の高い二番隊、戦闘狂集団の十一番隊、変人揃いの十二番隊は論外だ。三番隊隊長の市丸とは、白哉自身馬が合わない。七番隊隊長はまだ就任して日が浅く、九番隊隊長とは交流が少ない為よく知らない。八番隊と十番隊の隊長は女性に対して軽すぎる。とくれば四、五、十三が残るのだが――
「やはり、お前の居る隊が最も安心できる」
「……そこまで買ってくれるのは正直ありがたいよ。噂の火消しは私の方からもやっておこう」
「頼む」
白哉が
「……席官の件も上手くいったようだな」
「ああルキアを席官候補から外せっていうアレか? まあ話の判らない人達じゃないからなあ」
妹をなるべく危険から遠ざけようと取った一つの策。あらかじめ隊長らに根回しし、彼女を席官候補から外させる、というものだ。現時点では席官程の力がなくとも、将来的にどうなるかは判らない。故に先手を打ったわけだ。
ちなみに根回しについては朔良にも協力してもらった。はっきり言って彼女の方が多くの隊長格と親しいし、何と言っても白哉より遥かに口達者なのだ。
七、九の隊長達とはほとんど話したことがないらしく、五番隊の隊長を何故か苦手としているのは白哉も承知の上。なので一、二、三、四、八、十、十一、十二、十三を任せた。これらの隊長達は皆、白哉と朔良が懇意であることを知っている人物である。十一と十二に関しては何もしなくても大丈夫と判断したそうだが。
……半数以上は頼み過ぎだろうと言われても仕方がない。全くもって反論の余地もない。しかし、彼女が適任者であったことも確かだ。
「取り敢えず、あの子の指導担当は私になったぞ。十兄様の計らいで」
「妥当な人選だな」
とはいえルキアが緋真の実妹と知っているのは此処に居る二人と、後は古くから朽木家に仕える清家のみである。加えて言えば朔良と緋真が親友同士であったことも、ルキアには伝えていない。実妹と明かしたならまだしも、“亡き妻緋真によく似ていた為”という理由で朽木家に迎えた以上、その親友の存在は重荷になりかねないと判断したからだ。
「お前と私の関係も、当分はただの“同期”ってことで通すよ。あとは私が四楓院家当主補佐だから、その接点が多少あるってくらいでどうだ?」
「その方がよかろう。私と親しいという理由で、お前にまで警戒心を持たせることはあるまい」
「…………」
「……何だ?」
突然沈黙したので疑問を投げかけると、彼女は軽く首を傾げてしかし真剣な顔つきになった。
「白哉お前……警戒されてると思ってるのか?」
「……違うのか?」
硬い声、硬い表情、硬い態度。そのどれもが、いきなり自分を妹にした白哉に対する警戒故だと考えていたのだが。
そう伝えれば、がっくりと肩を落とされた。
「あのなあ……。それは警戒じゃなくてどう接したらいいか判らないだけだろう……」
「……判らない?」
「まず流魂街出身の自分が四大貴族に入るなんて、有り得ないと思うのが普通の反応だ。しかもその現当主の妹にさ。突然できた正一位の身分にある血の繋がらない兄。戸惑わない方がおかしいじゃないか……」
……成る程、言われてみればそうかもしれない。やはり朔良も大貴族に拾われた身、よく理解している。もっとも彼女の場合は正式な養子ではなく、あくまで弟子だったけれど。
「……しかし、どうすれば……」
「お前自身、まだ戸惑ってるんだろ」
「!」
「判るよ。あの子は、本当に緋真と瓜二つだからな」
亡き妻に、まるで生き写しなその容姿。それは否が応でも重ねざるを得なかった。
「あそこまで似ているんじゃあな、重ねるなとは言わないが……」
「…………」
「ちゃんとあの子自身を見てやったらどうだ」
……昔からそうだったが、やはりこの幼馴染みは鋭い。聡明で人の真意を見抜く辺りは流石だ。これもずば抜けた観察力の為せる技なのだろうか。
しかし――
「これで返事無し……ってことは、“兄”としての自信が無いんだ」
「…………」
顔を逸らす。
「沈黙は肯定だよな」
「…………」
視線を外す。
「……白哉」
「…………」
無言を通す。
「……はあ、まったく。最初から自信満々な方が変だろ。少しずつでいいんだよ。徐々に歩み寄っていけばいい」
“それじゃ駄目だろう”などという叱責が来ると予想していた白哉は、思いもよらない肯定の言葉に目を丸くした。
「……良いの、だろうか」
「白哉とルキアの速度じゃないと、どのみち上手くなんていかないさ」
ふわりと零された彼女の笑みは、記憶の中と変わらない。温かく、明るく。まるで太陽のようだと思う。
いつだか緋真も言っていた。朔良の笑顔からは、元気を貰えるのだと。
(そう言えば――)
もうひとつ、彼女には話しておくべきことがある。
「朔良」
「何だ?」
「私は、二度掟を破った」
一瞬、彼女の藍色の瞳が瞠られた。しかしそれもすぐに戻り、頷いて先を促す。
「故に私は誓いを立てた。父母の墓前に、掟を破るのは最後だと」
“これより先いかなることがあろうとも、必ず掟を護り抜く”――
「――馬鹿か、お前は」
告げて数秒、返されたのはそんな一言と唖然とした表情だった。
「……何?」
「『何?』じゃないだろ。馬鹿だ馬鹿だと思ってだけどここまでかよ……。いや白哉が掟を守らなければならない立場なのは理解してるけどさ……」
肩まである下ろした藍色の髪をがしがしと掻き、「あー……」などと意味のない声を零す朔良。……こちらの声を真似る意味こそなかったのではなかろうか。
「……立てたものは仕方ないよな。とにかく、この先何事も無いことを祈るしかないか……」
「……何の話だ?」
「いいよ、あくまで万に一つの可能性だからな」
自分でくしゃくしゃに乱してしまった髪を整えて、幼馴染みは再びこちらに目を向けてくる。
「また来る」
「待っている」
瞬時に掻き消え、相変わらず鮮やかな瞬歩だと感心する。最近では実力に差が出てきた為か手合わせすることは減ったけれど、少なくとも衰えてはいないらしい。彼女は自らが認めた好敵手、きっと追いついてくると信じている。
有意義な話ができたと、白哉は止まっていた筆を取った。
――この夜最後の話題で、何故朔良が“馬鹿”と言ったのか。
四十年以上先の未来にそれを思い知ることになろうとは――白哉は勿論言った朔良本人さえも、予想するのは不可能だった。
* * * * *
「ルーキーアっ」
「あわっ、く、雲居六席っ?」
「何やってるんだ? こんな所で」
こんな所――十三番隊詰所の屋根の上、後ろからぽんっと頭を叩かれて肩が跳ねる。いつの間にか背後に立っていたのは、最近できた直属の上官だった。
「その……ここは眺めが良いと……小椿四席から……」
「仙太郎さんか。確かにな」
隣に腰を下ろす雲居朔良六席。彼女は身長が低いが、それでも自分よりは高い。座っていてもそれは同じで、恐る恐る彼女を見上げた。
「あの……雲居六せ」
「朔良でいい」
「え」
「そっちの方がいいんだ」
「えっと……では……朔良、殿?」
「ああ」
向けられた自然な微笑みは明るく、温かく。まるで日の光のようで。緊張していたルキアは訳もなくほっとした。
「その……何か、ご用でしょうか……?」
「用がなければ来ちゃいけないのかい?」
「あ、いや、そういう訳ではっ」
「すまない、冗談だ。少し意地の悪い言い方だったな。ただきみの様子が気になったんだ」
「え……」
「私の勘違いだったら申し訳ないんだが、何か悩んでいるように見えてね。きみは色々特待だったから、思う所もあるのかもしれないけどな……」
「…………」
「“兄上殿”のことかい?」
「!」
思わずびくっと身体が跳ねてしまった。「図星か」という言葉に縋るように目を向ける。
「大丈夫、私口は堅いから。兄上殿に告げ口したりしないし、他の人に喋ったりもしない。言いたくないなら言わなくていい。だが話すだけで楽になることもある」
こちらを見下ろす藍色の双眸は、とても優しい色を湛えている。彼女のことなどまだよく知らないが、少なくともからかっている様子はない。
ルキアは意を決し、ほんの少しだけならと相談してみることにした。
「その……私は朽木隊長が……判らないのです……」
「判らない?」
「今は亡き奥様である緋真様によく似た私を気に入り……妹としてお迎えになったと……そう聞かされました……」
「うん」
「……しかし……」
思い起こすのはこちらを振り向きもしない、無感情な背中。
「……朽木隊長は……私を視界にすら入れて下さらない……」
「…………」
「あっ、いえ! 別に構ってもらいたいとかそうではないのです! ないのですが……」
自分を気に入り、迎えたのではなかったのだろうか。愛が欲しい、大事にされたいなどということは言わない。死神として実力不足なのも理解している。ただもう少し、ほんの少しでいいから自分を見てほしい。そう願うのは、我儘なのだろうか。
「(……いくら何でも、もうちょっと上手くやれよ白哉……)」
「はい?」
「あ、いや、何でもない! 」
小さな呟きが落とされた気がしたが、聞き取れなかった。何でもないと言うなら大したことではないと判断する。
気を取り直したように、彼女は「ふむ」とひとつ頷いた。
「私が白哉
「はい。霊術院時代からの同期だと」
「だから彼の人となりを少しは知っているが……別に冷たい人というわけじゃないぞ?」
「え……?」
疑問の声が零れてしまった。しかしそれも理解していると言いたげに言葉は続く。
「無口な上自分にも他人にも厳しいからな、誤解を受け易いんだ。ルキアのことも迎え入れたはいいけど、どう扱ったらいいか戸惑っているんじゃないか?」
「……まさか……そんな……」
「きみ自身は戸惑っているんだろう? 白哉殿も血の通った人だ、それくらいあるさ」
そう言われればそうなのかもしれない。しかしルキアにはやはり、あの厳格な義兄が戸惑うと言うイメージが全く湧かなかった。
「まあそれについては、少しずつ歩み寄っていけばいい。ところでどうだ? 隊の雰囲気には慣れたか?」
「え!? あ、その……」
突然の話題転換に口ごもると、くすくすと笑われた。
「そう日数も経ってないんじゃ、それはまだ無理か。仕事中は大体私が一緒だけど、どこかで海燕さんとかにこき使われてないかい?」
「おいテメー……朽木に何余計なこと吹き込んでんだ……」
「ひぃ……!?」
朔良の質問に返答する間もなく、屋根の下からぬっと顔を出したのは海燕当人で。思いも寄らない登場に小さな悲鳴が口から漏れる。
「ちょっと副隊長、ルキアを怖がらせないでくれますか?」
「テメー……前は“副隊長”って呼ばなかったくせに、今はこれ見よがしに使いやがるな……。逆にハラ立つぜ……」
「何ですか、呼べって言ったのはそっちでしょうに。面倒くさい……じゃない、我儘な人ですね」
「本音隠せてねえぞ!? つーか言い直した方もいい意味じゃねえし!」
「一体何時から聞いてたんですか? 女の子同士の会話を盗み聞きなんて、いい趣味とは思えないんですけど」
「さらっと流すな! でもって人聞きの悪いこと言うな!」
ぎゃーぎゃー言い合う二人の騒ぎは白熱し、遂には「今度という今度は許さねえー!」と追いかける海燕と「わあ暴力反対ー!」と逃げ回る朔良の追いかけっこに発展した。茫然とそれを見ていると、今度はまた別の人物から声を掛けられた。
「やれやれ、二人とも元気だな」
「う、浮竹隊長!?」
「ああ、そのままでいいぞ」
慌てて畏まろうとしたのを遮られ、先程まで朔良が据わっていた場所に腰を下ろす自隊の隊長。
「あの……よろしいのですか? 海燕殿と朔良殿は……」
「あの二人はいつものことだから心配するな」
「い、いつもの?」
「ああいう追いかけっこは少し珍しいが、朔良が生意気な態度を取って海燕を怒らせるのはいつものことだ。とはいえ締めるべきところでは締める子だし、今更だからもう誰も何も言わないさ」
浮竹の至極落ち着いた穏やかな表情に、本当にこれが日常なのだと実感する。
「あの……浮竹隊長」
「ん?」
「朔良殿は……一体どういう方なのでしょうか?」
「……そうだな……。子供の頃から、あの子は何も変わっていない」
「子供の頃……?」
「ああ。あの子は俺と京楽の妹弟子、総隊長の弟子だからな。あの子が幼い頃から見て来ている」
「!」
驚いた。それは初耳だ。
「それだけに強いぞ? まあ今ではそれについて知っている奴はあまり居ないんだけどな。ぶっちゃけて言えば、仙太郎や清音より強いだろう。都とはどうか判らないが」
「え? しかし……」
「席次だろう? あの子自身が上の階級を目指さないんだ。他隊に居た頃は副隊長の話も何度も出たがな」
「辞退していらっしゃるのですか?」
肯定されて、更に驚いた。『着任拒否権』があることは知っている。しかしそれが行使されるのは稀だということも。
「理由は知らないが……」
「ルキアー!」
身軽にあちこち跳び回りながら、こちらに向かって手を振る第六席。
「後で甘味屋行こうー! 海燕さんの失敗談聞かせてやるからなー!」
「だから……テメーは余計なこと吹き込むんじゃねええ!!」
「……ふふっ」
思わず、だった。笑いが零れて、しかし納得する。
義兄との関係は前途多難だ。隊内でもまだまだ周囲の妬みや非難は消えない。
――それでも。
(やっていけそうな、気がする)
温かい笑顔の朔良。
凡庸に接してくれる海燕。
穏やかな浮竹。
彼等の人柄は、沈んでいた心を優しく照らしてくれた。
(これが日常だと言うのなら)
今はただ、この日常を護ろう。その為に強くなる。
死神になったルキアの、最初の目標が決まった瞬間だった。