プロローグ「宇津瀬京介という人物」
ゆうたとは小学3年生のころに同じクラスになったのが初めての出会いだった。
ゆうたはありていに言えば、変わった子供だった。
あまり人とは馴染まず、どこかぼんやりとしていて、昆虫と動物の図鑑が好きだった。
初めて声をかけたのも京介だった。
給食の後の掃除の時間が終わって、クラスメイト達が一斉にボールを持って教室を出ていく中、ゆうたは机の中からいつも読んでいる「世界の昆虫」という図鑑を取り出して読み始めた。
「それいつも読んでるね」
京介が話しかけると、ゆうたはまるで真横に雷が落ちたかのような反応で京介の方へ振り返った。
「俺はその中だとこいつが好きだな」
京介は図鑑に乗っている一匹のカブトムシを指さす。ゆうたは動揺しながらも、にへらと空気の中に溶けてしまいそうな儚げな笑みを浮かべる。
「ヘラクレスオオカブト。世界で一番大きなカブトムシだね」
「うん。知ってる。だから好きなんだ」
京介も笑う。京介も図鑑が好きだった。自分の知らない生き物たちの姿を見ると、世界にはこんなにもいろいろなものがあるのだとわくわくする。誕生日には必ず一冊の図鑑を買ってもらって、それを何度も何度も読み返すのが京介の好きなことの一つだった。
「ゆうたは何が好き?」
「ぼくは、これかな」
ゆうたは控えめに一匹の真っ黒なカブトムシを指さす。
「お、アトラスオオカブト! かっこいいよなぁそれ!」
「うん。黒くて、大きくて、堂々としててすごくかっこいい」
「わかる! でもヘラクレスの方がもっとかっこいい。こう、角がドーンって感じで」
「アトラスだって角がバーンって感じでかっこいいよ。しかもヘラクレスよりも本数が多いし」
それから、京介とゆうたは二人でどちらの方がかっこよくて強いかを激論しあって、気づけば昼休みが終わる時間になっていた。
それが、二人の初めての出会いだった。
「デジモン?」
「そう!」
京介はカバンの中からデジモンカードの入ったケースを取り出す。
「俺好きなんだよね、デジモン。一番好きなのはウォーグレイモンだろ。あとデュークモンと、ムゲンドラモンとか、それからオメガモンはやっぱ外せないよなぁ」
「一番いっぱいだね……」
ゆうたが苦笑いを浮かべながら順番に京介から差し出されるデジモンカードを受け取っていく。
「あ、かっこいい」
「だろ? やっぱゆうたならわかってくれると思ってた!」
「これ、『メタルグレイモン』? ていうの、かっこいいね」
「だろー!! なぁなぁ、もしさ、デジタルワールドに行くとしたらパートナーデジモンはどれがいい?」
「パートナーデジモン?」
「一緒にデジタルワールドを冒険するパートナーだよ。俺はやっぱりアグモンかなぁ」
「そうだね。じゃあ僕は……」
京介は自分の秘蔵のデジモンカードを次々にゆうたに見せ、ゆうたはそれを一枚一枚受け取りながら、京介のデジモン話を楽しそうに聞き続けた。
この日以来、ゆうたもデジモンにすっかりはまってしまい、二人でデジモンのゲームやカードを集めたり、お互いの好きなデジモンやアニメの話をして過ごすようになった。
ゆうたは親友だった。ゆうたといる時間はいつも楽しくて、幸せに溢れていた。ゆうたとの思い出を思い出すと、そこにはいつだって日だまりがある。暖かで、優しくて、安らかな日だまりが。
ゆうたと友達になって半年がたったころだった。
ゆうたが用事があるため先に玄関で待っていようと下駄箱に行ったときに、同じクラスの何人かがゆうたの靴箱の前で何かごそごそと怪しい動きをしているのを見つけた。
「何してんの?」
「!? なんだ京介かよ」
クラスでもお調子者で通ってる男子が一瞬体をびくつかせた後、京介の顔を見て露骨なほどにほっとした表情を浮かべた。
男子の手にはセミの抜け殻があった。
「それ、どうすんの?」
「ゆうたの靴箱に入れんの。あいつ、虫好きだろ?」
そいつが顔を歪めてにやりと笑う。玄関から差し込む夕日の逆光も相まってか、いつも見ているクラスメイトの顔がまるで得体のしれない化け物のように見えて、京介は全身が総毛立つような悪寒を覚えた。
「先生には内緒な」
男子生徒はそう言って取り巻きと一緒に昇降口を出て行った。
京介は恐怖で何も言えないままその後ろ姿を見送り、しばらくしてからはっとしてゆうたの靴箱に駆け寄って開いた。
セミの抜け殻だけではなかった。枯葉や石ころ、それだけには飽き足らず、バッタや芋虫、ダンゴムシの死骸まで、ゆうたの靴の中にグチャグチャに詰め込まれていた。
吐き気がせり上がってきた。
何が起こっているか、京介には理解が出来なかった。これまで京介が生きてきた常識の中にはなかった惨状が目の前に広がっている。拒絶したい感情と、恐怖と、困惑とがないまぜになって、京介は慌ててゆうたの靴箱を閉じた。
呼吸が荒くなる。京介は片手を靴箱についたまま、乱れた息と心が落ち着くのを待った。
はあ、はあ、……んぐっ、……はあ、……う、……ぁぁ。
「大丈夫?」
ハッとして振り返る。ゆうたが心配そうな表情を浮かべてこちらを見ていた。
「……見たの?」
その言葉に、京介の胸には言いようのない罪悪感がぶわりと湧き上がってきた。見られてはいけないものを見られてしまったような、不自然な居心地の悪さ。
「あ、えっと、何が?」
「靴箱の中。見たんでしょ?」
とっさの誤魔化しもゆうたの言葉で封じられる。さぁっと血の気が引いていく感触。
「……全然! な、何のことだろ? それより、俺トイレ行きたくなってきちゃったから、ちょっと待ってて! うんこだから時間かかるかも!」
そんなわけのわからないことを言いながら、京介は逃げるように下駄箱を後にして、トイレの個室の中に駆け込んだ。
最悪な気分だった。こみあげてきた吐き気はついに限界を迎えて、京介は便器に蹲って吐いた。
逃げ出した一瞬に見た、ゆうたの寂しげな表情が頭から離れなかった。
逃げ出した。俺は逃げ出したんだ。怖くて、情けなくて、泣きたくなる。口元を吐瀉物で汚したまま、京介は静かに嗚咽を漏らした。
それからも、京介は度々ゆうたのいじめられる現場を目にした。ゆうたは京介に何も言わないでいつも通りに接して、京介もまた何も見ていないかのように振舞った。それは、少なくとも優しさなんて言うたいそうなものではない、もっと矮小で、悍ましい感情故のもので、京介はそれを自覚し、自己嫌悪した。
どこかで変えなければならない。俺が動かなければこの状況は変わらない。俺がやらなきゃ、俺が。
半ば脅迫にも近い感情が京介の心中を埋め尽くすのに、そう時間はかからなかった。
木が枯れて、吹く風に冷たさを感じるようになったある日の帰りの会で、京介は手を挙げた。
「みんなに、言いたいことがあります」
*
結果から言えば、いじめは終わらなかった。
表に出かかっていたものは京介の告発で再び影に身を潜めただけで、しかもその影は京介にまで手を伸ばし始めた。
京介の靴の中に無視の死骸が詰め込まれていたのを見たとき、京介は再びトイレで吐いた。
いじめはだんだんとエスカレートしていった。しかも皮肉なことに、京介へのいじめが苛烈になればなるほど、ゆうたへのいじめは次第に大人しくなっていった。
それでも、京介は前よりはずっとましだと感じていた。少なくともゆうたへのいじめはなくなってきている。自分が我慢すればいいだけだし、何より俺にはゆうたがいる。友達ならゆうたがいればいい。それ以外には何もいらない。
「急な話だが、ゆうた君とは今日でお別れになる」
突如、帰りの会で聞いた先生の言葉に、京介はしばらく頭が真っ白になった。
ゆうたは先生の横で申し訳なさそうな顔をして立っている。
なんで、なんでゆうたはこっちを見てくれないんだろう。なんでそんな表情をしてるんだよ。俺とは友達じゃなかったのか? なんで黙ってたんだよ。どうして俺一人置いていくんだよ。どうして。どうして――。
そうして、京介は一人になった。
中学も、高校もずっと、誰の目にも止まらないようにひっそりと生きてきた。
ゆうたと必死になって集めたデジモンカードは中学に上がる時にまとめて捨ててしまった。
大学に進学してからは、京介は親元を離れて一人暮らしを始めた。
大学は京介にとって居心地がよかった。クラスなんてものは存在しないから、孤独でいようと思えばいくらでも孤独でいられた。
そうして京介は6畳一間のアパートで一人目を覚ます。
時計は6時半を指している。気だるげに体を起こし、洗面所で顔を洗い、歯を磨いてから服を着替える。七時になるまで適当にスマホでニュースを眺めて、時間になったら左手首に安物の腕時計を巻く。
そうして、玄関のドアノブに手をかけ、開いた瞬間。
世界は一変した。