1と2は、語るにはまだ早い……ってやつですね。
ちょっとした閑話というか、短編というか、入れるとテンポ悪くなるので省かれた小話なので肩の力を抜いて気軽に読めると思います。
テーマは、うーん、ミステリオ:ノーウェイホーム(笑)みたいな。
--1
遠ざかっていくヘリキャリアから黒い煙が上がっている。
『太陽』を作ったときよりもずっとずっと空に近いし、ずっとずっと陸から遠い。
残っているドローンは間に合わない、無駄にするよりはヘリキャリア内に使ったほうがいいだろうから指示は出さない。
1万メートル近い高度から落下したので、海に衝突するまで結構時間が掛かる。
時間にして2分半弱くらい。
この先は死ぬだけ。
最悪ではあるが、俺の死体が残らないので最悪の中でなら最高に位置するって感じだな。
落下の衝撃で藻屑になるから変な物は残らない。
これは重要なことだ。
研究が心残りだ。
普通の研究成果はトニーが確認できるようになっているし、用意してある遺言とか諸々も閲覧できる。
内臓の限界が訪れる前にこんな事故もどきで死ぬことにはなると全く思ってなかったけども。
タイムマシンとかガチのやつはベイマックスから受け取れるようにしておく。
まあベイマックスが渡したいと思った相手しか受け取れないし、受け取れるようになるまで毎日吐き出される数字を読み解く必要があるから何年か掛かるんだけど。
他は……特に無いなぁ。
ボランティア活動とかは他の人が引き継ぐから問題なし。
何も無さすぎて寂しいな、なんかもっと無いのか……?
……無いなぁ。
頭を切り落としたらそこから生えてこないだけマシだよな。
危険な実験の時にマスクが要らないくらいしか利点が無かった。
つまり『セレブロ』はここで藻屑となるんだよ。
そのまま諦観と後悔、または虚無を抱きながら死ぬものだと思ってたんだけど。
突然、落下先にオレンジの輪っかが出現した。
そして、どうすることもできずにそこを通り過ぎたら見知らぬ室内にいた。
いくつかの蝋燭が灯っていて、少しだけ暗い。
月の光が入りやすい作りになっている木造、落ち着く雰囲気を抱かせる部屋だった。
もしかして俺は夢を見ている、とか。
確かに『夢を見せる機械』も開発してるけど、実験した覚えはない。
植物状態の人が突然起きたときのために、それまでの情報を夢として脳にぶち込むので「空から落ちたらニューヨークに居た」状態みたいになるため支離滅裂となるのかもしれない。
そういった時に掛かる心の負荷を自動で調整して軽減するために『夢を見る機械』の補助としてベイマックスを作ったりもしているわけで。
もしかして超能力が……?
「こんにちは」
「ぉんっ!?」
突然背後から声をかけられた驚きで、ロキ流の変なアスガルド語が出てしまった。
動きが激しくなった心臓を、胸の上から抑えつつ声へと振り向く。
剃髪の女性だった。
高めの背と整っている容姿、異国の僧侶が着ているような衣を羽織っている姿からどこか浮世離れしている。
神秘的で綺麗な人だ。
ドキュメンタリー番組とかで見たことあるチベット僧侶的な感じがする。
「どこか不具合がありませんか? 気絶してもおかしくない高度でしたから」
「え? ああ、大丈夫です。大丈夫……。いや、ちょっと動けないというか、動かないほうがいいというか」
ぺたぺたと首裏やお腹を触りながら確かめる。
たぶん大丈夫だと思う。
装備が無いのにちょっと運動をしすぎて疲れているのが気になるところ。
休息が必要だ。
眠りたいが、設備も上着も無いのでダメだよな。
「そうですか。では、そちらにお掛けになってください。……不躾に声をかけて驚かせてしまったようなので、改めて挨拶を。こんにちは、ドクター・オクトパス」
「ありがとうございます。それにこんにちは。あ、いや、違う。違います。俺は……」
「お茶です」
「あ、どうも。……美味しい。ああ、違います。俺はドクター・オクトパスではないです」
礼を言いながら木製の椅子に座る。
突然の言葉に驚きながら否定していると、不意に差し出されたお茶を受け取る。
虚を突かれた形になってしまった。
「ミスター・オクトパス?」
「そうじゃないです。……俺は、違うのです」
絞り出すような声を発した俺の目をじっと見ていた女性は、やがて何かに納得したのか一度だけ頷いた。
その視線は俺の目を正確に射抜いていた。
だが、同時に俺を見ているようで、何処か遠くを見ているようだった。
心を見通す何かを持っている、そんな印象を与える。
「今はまだそうでしたね。ドクター・ナツメ。私は……そうですね、近しい者からワンと呼ばれています」
その瞳は、凪いだ海のように穏やかだった。
「ワン、さん……でいいですか。ワンさん、高度9千メートルを超える高さから一体どうやって……。ああ、すみません。礼を失していました。命を助けていただき、本当に感謝しています」
抱いた疑問を押しやりながら、感謝の言葉とともに頭を下げる。
俺の肩に優しく手を乗せて「畏まる必要はありません。こちらの都合もありましたから」とワンさんが言った。
その言葉には不思議な力強さが籠っていた。
「それで、お礼なのですが……」
「いえ、金銭は結構です。考えているような設備と技術も」
俺が提示しようとしたお礼を先に断られてしまった。
どこかの宗教家がパトロンを求めている、というわけではないようだ。
俺としては変な宗教に力を持たせることにならなくて助かるが、同時に出せる物が無いので困ってしまった。
タダより高い物は無いというが、果たして。
「対価を求めて手を加えたわけではありません。しかし、こちらの希望を聞いていただけるのであれば私から一つ」
「……俺にできることならなんでも」
俺が出来うる限りで完結することならば、なんでも叶えるくらいには感謝している。
方法は不明だが、命の恩人なのは確かだ。
夢や幻の類でなければ。
「近い将来、手が不自由となった者が貴方を訪ねる日が来るでしょう。その時に、貴方には『義手』を渡さないで欲しい。もちろん、彼だけで良いのです」
「……それは、きっと出来ません。出来ないことです」
「望む者に与えたいからですか? ですが、世界中に新たな『手』を求める人々が溢れかえっていて、貴方は彼らに事実何もしていない。社会的地位や善悪の秤が気になりますか? 彼は今は医者です、確かに善人で多くの人を、選り好みはしますが助けてきました。しかし、医者とは違った優れたる才能があるのです。彼が新しい『手』を使って医者として人を救うよりも、もっと多くの命を救えるのです」
俺はゆっくりと首を横に振る。
実際、手段はわからないが、ワンさんが俺を助けたことも未来を見ることも可能であると疑っていない。
ぼんやりと受け取れるイメージでそう思わされている。
同時に、その医者のイメージも。
だから答えは決まっていた。
「申し訳ありませんが、出来ません。……俺には、それが出来てはいけないのです。絶対にそうしなければ俺が生きられないのなら、元の場所に戻してください」
「自分にとって正しいことが、他人にとって正しいとは限らないとしても?」
「俺は、俺のことを好きな人たちがどこをどう好きなのかわかっているつもりです。……それから逸れたくないだけなんだ」
科学に真摯であること、人を殺さないこと、少しだけ優しく在ること。
細かいことなら溢れるほどに、大雑把ならこれだけ。
今の俺が求められていることを捨ててしまえばどうなるかわからないのが怖い。
直接『義肢』を求められた俺が与えない、それは俺として間違っていることになってしまうのではないか。
沈黙が場を支配した。
穏やかでいて、どこか厳しいその瞳に射抜かれた俺は口を閉ざすことしかできなかった。
重苦しい空気の中、時間の感覚が狂い始めていた。
どれだけ時間が経ったかわからない。
一時間経ったと言われてもすんなりと受け入れられるし、一日と言われてももしかすると信じてしまうかもしれない。
ジッと見つめ続けられるのには慣れていなかった。
ハゲも無言で見つめてくるが、正しく俺の瞳を捉えられているかと言えばそうでもなかった。
誰か助け舟を出してくれる人が来ないだろうかと思い始めた頃、ワンさんが「いいでしょう」と呟いた。
表情は最初と変わらず穏やかで優し気で、そして浮世離れした神々しさを秘めていた。
「……いいでしょう。元より対価は求めていません。ただ、私は望まぬ流れを生み出したくないことも確かなのです。幾つもの流れがある。……全てを意のままにできると思い込んでいた傲慢な天才が、命にも等しいと思い込んでいるその全てを失いかけたとき、大義を前にして希望を見出せるものか」
そう言うと、ワンさんが手に持っていたお茶を飲んだ。
その姿から、そういえばお茶を渡されていたことを思い出した。
すっかり冷えてしまっていたが、意識するととても香りが良いことに気付いた。
お茶を飲んでいる姿を凝視され、少しだけ縮こまる思いだ。
「ああ、お茶が冷えてしまいましたね。私ほどの年になると考えが深くなって迷惑をかけてしまうことも多々あります。……一つ聞きたいことが。優れた医者が両手の機能をほとんど失うほどの怪我をしたとして、貴方に救いを求めるでしょうか」
年齢不詳としか思えない女性が微笑みを浮かべ、俺に問いを投げかけた。
答えは決まっている。
「……最初だけ、かと」
「最初?」
「新たな『義手』の可能性に希望を持って、そして実物を見て聞いて触って諦めに変わると思います。自分の『手』に自信や誇りがあるほど顕著です。……自分の考えに比べて鈍すぎる、または精確すぎる。そんな『義手』を人々が求めるとは思わない。調整はできますが、理想を追うほどあまりに遠いことに気付くんです」
それでも俺はその医者に渡すだろう。
期待を持たせてしまうのがひどく恥ずかしい。
彼女が言ったこととは程遠い。
ただ、拒めるほどたぶん俺は強くない。
「どうしてそのような研究を?」
「『どうしてこれほどの天才が求めたのか、私はそれが知りたかった』……つまり、単なる好奇心を満たすためです。知らないことを知るためにはこれが一番早いと思っただけなんです。」
思い返せば知らないことばかりだ。
いつになったら俺は理解できるのか。
知ることができるのか。
知らないままなのか。
知らないままでいるかもしれないことがとても怖い。
「……失礼、話が逸れてしまいましたね。すぐに馴染むことは? 自分の手だと認め、元の人生を歩み始めるようなことは起きますか?」
生まれてから初めて立って歩く時に着けていない限りは、その様なことはあまり考えられない。
そこまで馴染んでしまえば、逆に咄嗟に自分の手と『義手』を間違える悩みを抱えるほどになっているだろう。
「それは……限りなく低いと思われます。何か不都合があるのなら、やはり俺を元の場所に戻して貰った方が……」
「それなら問題はありません。私が危惧しているのは彼が復帰できるかどうか。おそらく貴方が彼と再び会う時にはもう必要としないでしょう。……そして、今は貴方を戻す方がむしろ不都合な流れとなる」
「流れ、流れ、か。私はあるがままの流れを重視しすぎているのかもしれない。合流して流れを強くすることもできる。……こうしましょう。ドクター・ナツメ、貴方が遠くの地を観測する実験をする際に私も立ち会わせて貰えますか? 当然協力を求めてくれるのならこちらも惜しみませんよ」
「……さて、私が貴方をここに連れてきましたが、言葉よりもまず見て確かめる方が早い。これからのことを考えると、貴方には時間が必要でしょうからね」
どうやって、と俺が声を出すよりも早くワンさんが円を描くように片手を回し始める。
少し離れた空間にオレンジの火花を散らし、すぐにその火花は連続した光となって弧の軌跡となった。
優に一人は通れる大きさのそれは、確かに見覚えのある部屋へと続いていた。
ニューヨークを一望できるガラス張り、つい先日点灯式を迎えたスターク・タワーの最上階だ。
綺麗な白い手が、先に行く様に促した。
「どうぞ。百聞は一見に如かず、でしょう? ……ああ、忘れていました。こちらも受け取ってください」
ついでとばかりにメモも渡される。
「これは? お茶の請求書、ではないですよね」
「単なるメールアドレスです。お誘い、楽しみにしていますよ」
ワンさんはそう言って、どこかおかしそうに笑った。
つい先日の話を思い出しながら、カマー・タージを歩く。
時差に気を付けないと夜間に来ることとなってしまうのもなかなか面倒だった。
先導してくれているワンさんの後ろを歩きながら視線を少し横に外せば、オレンジの火花を散らしている異国風の装束を着た人たちが修練に励んでいる。
以前来たときには気づかなかったが、多種多様な人種がいるようだった。
ざっと説明されたことを纏めると、まずここは魔術の総本山っぽい場所。
魔術を使うと出てくるあのオレンジの光はエルドリッチ・ライトと呼ばれる物で、引き出したエネルギーがそう見えるらしい。
『多元宇宙』から超凄いパワーを引き出してるらしいが、そうなると俺は完全に使えない。
残念だけど仕方ないね。
必要になったら力や知恵を借りるくらいがちょうどいいのかもしれない。
ワンさんに立ち会ってもらって行う今日の実験はベイマックスの探索だ。
そのための道具も持ってきていて、ドクター・オクトパスで運んできた。
宇宙の彼方すぎてどうにもならないと思っていたが、オレンジの輪っかでワープできればすぐ回収できるに違いない。
……というのは甘っちょろい考えだった。
あれは場所をちゃんとわかってないと使えない類の物らしい。
なのでアストラル投射とやらで俺の魂をぶっ飛ばしてベイマックスを探索し、可能なら回収やビーコンとしてポケベルを送り込むことにした。
よくわからないことが多々あるが、専門家がそう言ってるのだからそうなのだろう。
もっと踏み込んでもいいが、理解を深めるには時間が必要なのはわかりきっているので後回しにした。
魔術で動く機械とか作るなら流石に俺も勉強するけど、レーダーやゲート代わりに使うんだからいいかなって。
よく考えるとあんまりよくなさそうだな、これ。
「では、始めましょう」
「お願いします。……何か気を付けることとかありますか」
「いえ、ありませんよ。何かあってもモルドが抱えてくれます」
「抱えてくれるって……ほわあ」
あああああああああああああ^q^
「手掛かりは見つかりましたか?」
「驚きすぎてそれどころでは……」
「ではもう一度行きます」
「ちょ、待……ほわ」
あああああああああああああ^q^
「まだのようですね。遠慮なさらずもう一度」
「いや……ほ」
わあああああああああああああ^q^
「そろそろ限界でしょう。次で最後になると思いますが、見つけられそうですか」
「わかりませんが、光がより強く感じられるのはヒントになると思います。宇宙のスケールと比べたら微弱ですが、特異性で言えばアーク・リアクターは宇宙でも数少ない個性を持つと思うんですよ。ベイマックスにはアーク・リアクターが積まれていますし、さらに試作品のポケベルもあります。これは大きな助けになるんじゃないかと」
モルドという黒人の男性に支えられていることを良い事に、ぐったりと身体を預けながら喋る。
抗議は聞き届けられないと思うので、もういっそのこと意識を探索に全振りしていく。
「私にはわかりませんが上手くいくことを祈っていますよ」
「ありがとうござ……」
ワンさんの掌底が俺の胸を軽く打つ。
それだけで意識が空へと吹っ飛んでいく。
ほわあああああああああああああ^q^
宇宙の彼方で、無数のコードに繋がれたベイマックスを見た。
--2
「これがあの馬鹿げた争いを起こしたロキの『杖』か」
研究員の男が熱心に見つめた先に、ロキが地球へと運び込んでしまった『杖』があった。
未知のエネルギーを秘めたそれは、人の心を操ることが可能だという。
その危険性からS.H.I.E.L.D.が持つ研究施設の地下深く、厳重な管理の下に飾られていた。
人が触れてはいけない杖は、確かにその部屋に飾られていた。
隠れるように、そして、何かを待つように。
『聞こえるか? 説明した通り、部屋は完全に隔離され、その間だけ見ることが許可されている』
「わかっているとも……」
部屋の外からかけられた声に、男は呟くように返事した。
面倒な手続きを繰り返した末に得られた僅かな時間だったが、その甲斐は十分あった。
エージェントとして現場での活躍を望んだ男は、その能力の末に研究員として後方に配属されていた。
強い不満を持っていた。
そして、その不満を嗅ぎ付けた者に囁かれ、ここに来てしまった。
「なんてすばらしいんだ……」
男の脳裏には幸福と栄光が焼き付いてしまっていた。
杖を持つ自分の姿、杖を支配する自分の姿、不満などない満ち足りた自分の姿。
もう意識はほとんど『杖』に支配されていた。
栄光は約束された。
自分に『杖』を運び出す手伝いをしろと言ってきた者のことも既に忘れていた。
この『杖』を手にすればすべてが思うままだ。
『杖』さえあれば外にいるエージェントは簡単に処分できる、持ち出してしまえばいい。
誘われるように、導かれるように、『杖』へと手が伸びた。
そして、『杖』に触れた男の手が、真っ黒に染まっていた。
「どうだった?」
「心を操ることが出来るなんて確かに不思議だね。まさに魔法としか思えないな」
『杖』が飾られた部屋から出た男に、警備を担当するエージェントが話しかけた。
この施設を歩くにはエージェントの監視が必要だった。
「ああ、俺もそう思う。他のエージェントはあれさえあれば全てを解決できる奇跡の杖だと言っている者もいるんだが、それが逆に怖くてな。何でもできる奇跡を前に人間はどうなってしまうのか……」
「ははは、面白いね。だが、それは言い過ぎだろう。確かに心を操ることは脅威だが、それだけだ。奇跡だって品切れさ。そんな目先の事だけじゃあ、全然足りないね」
「へぇ、意外だな」
「意外? ……何処が意外なんだ?」
「あんたは部屋に来る前は視野も狭くて危なっかしい感じだったが、実際に話してみるとなかなか言うからな。それが意外だった」
「……そうか、それはよかった。……ああ、いや、期待しすぎていただけさ。あれさえあればもっと仕事ができて認められるはずだった。だけど、実際に見たのがあれじゃあね」
エージェントの言葉に、男は笑みを見せた。
穏やかで、どこにも危険性を感じられない。
瞳孔が、ぐるぐると何か黒くて濁った物で渦巻いていた。
施設から出て、日の下を歩く。
監視していたエージェントは他に仕事があるのか、急いで去っていった。
男は自由だった。
「本当に怖いのは奇跡じゃない。科学だよ。もっとも恐ろしいものは
そうだろう、ドクター?
男の瞳から一筋の黒い液体が流れ落ちた。
--3
「ドクター、これ以上は無理をしないほうが……」
自然の摂理をよく気にするモルドがそう言った。
摂理ってなんやねん。
俺も頷くが、頷くだけだ。
メールで連絡すると、魔術師の誰かがゲートを開いて招待してくれる。
懐疑的な視線に晒されるが、ゲート係には実験にも手伝ってもらうので胡散臭い相手に向ける視線なんて安い物だ。
「大丈夫です。それに、あとちょっとだけなんです」
モルドの言葉を聞いたほうがいいのかもしれないが、どうしてもやっておきたかった。
宇宙の彼方にいるベイマックスを解放できなかったら心残りになる。
巨大な宇宙船の中で、無数のコードに繋がれて情報を吸い出されていた。
あのまま放っておいたら処分されてしまうかもしれない。
ベイマックスに積まれていた壊れたドクター・オクトパスを使い、なんとか再起動だけでもしたい。
ハゲからパクった未完成のポケベルもどきがベイマックスに積んであり、色々と連動しているので、それに指令を出せれば何とかなるはずだった。
「いいだろう。しかし、これ以上は危険だとこちらが判断したら中止させてもらう」
寝不足で、それに疲労もあった。
頭も割れそうに痛かったし、歩くのにも苦労していた。
人の手で作った物には制限時間があるのは当たり前のことだった。
「いいですよ。……今の俺にこれ以上の物は作れないので、どちらにしろ最後です」
またも頷きながら、懐から取り出したポケベルもどきを見せる。
ロキに操られてセルヴィグ博士が作った装置を起動すると、オレンジの光が火花を散らした。
俺はなんとなく座標がわかる、モルドはゲートを開けられる。
その折衷案がこれだった。
魔術のゲートを科学で開ける。
原理はよくわからん、なんとなくでやっている。
狙いを定めないで出現させたゲートに、装置で座標をぶち込むだけだ。
なお座標は魔術頼りのふわふわした物とする。
不安定なゲートだが意外とどうにかなってるんだからセーフだ。
「……自然には逆らうべきではないとは思うがね」
「俺は生まれた時から摂理に逆らっているので大丈夫です。……ずっと逆らってる」
モルドの言葉を聞き流しながら、ゲートが開く。
迸るエネルギーが白く眩く輝いていて、ゲートの内部がわからない。
敵軍にゲートを開くような物なので、悠長に様子を窺ってはいられない。
叫びながらゲートにポケベルもどきを放り投げる。
「帰って来い!! ベイマックス!!」
白くてよく見えないが、丸いフォルムの頭部らしきものがこちらをのぞき込んでいた。
のぞき込む……?
ベイマックスもそんな早く再起動しないはずなのに……?
ゲートの先からポケベルを投げ渡された。
丸いフォルムはどこか金魚鉢に似ていて、よく見れば身体は人間だった。
円形のはずのゲートは、亀裂によく似た形状を成して広がり始めていた。
既視感と経験から、これが完全に望まぬ場所に繋がっている物だと理解した。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。
これは俺の……。
突然現れたワンさんが、目に見えない物を、それこそ空間を握る動作をすると、開いていたゲートは閉じた。
ほっと安堵のため息をついて俺も同じように手を握った。
自分でも気づかないくらいとても疲れていたようだ。
「ドクター・ナツメ。実験はここで終わりにすべきだと判断いたしますがどうでしょうか。材料は貴方の健康だけではありません。……時間も、空間も、現実も、単なる直線ではないことは貴方も、いえ、貴方は特に理解しているでしょう」
「……重々承知しています。無理を重ねて申し訳ありませんでした」
他の魔術師たちやモルドに謝り、最後にワンさんに謝りに来るとそう言われた。
どうなってもいいから、というのが先行しつつあったのは確かだ。
あと少しで踏み出しすぎるところだった。
『ポケベル』を握る手に力が入る。
「しかし、実を言うと私はそれほど問題だとは思っていません。これ以上続けるのは悪手ですが、直前で留まれたのは良かった。未来は朧気でも、その時に選べる手段が多いことに越したことはないことも確かでしょう」
「……よくわかりません」
「弟子に託すことは多くあるのに、やってあげられることは余りにも少ないのです」
俺が首を傾げると、ワンさんはこれで話は終わりだとでも言うように薄く微笑んだ。
その目は俺を見ているようで、どこか遠くを見ていた。
ベッドで横になりながら、今日手に入った『ポケベル』を眺める。
これは驚いた。
素晴らしいというか、空恐ろしいというか。
ちょっと言葉も思考も纏まらない。
完璧だった。
時間さえあれば俺が辿り着くはずの、いつか作り上げるはずの完成品。
宇宙の果てにいるベイマックスを再起動させるための、それだけの凄い『ポケべル』。
そのスイッチを押して……十分な時間が経過したら破壊した。
--アース??????
たった一人で宇宙を彷徨っていたロキの前に現れたのは、奇妙な輪だった。
オレンジ色で小さな火花を散らしたそれは、ロキが通るには十分な大きさだった。
取り残されたロキを招くように、宇宙船の内部に現れた。
その誘惑を振り払えるほどの強さは、今のロキには無かった。
「ようこそ、歓迎しますよ。アスガルドのロキ」
「アスガルドは滅んだ。……ただのロキだ」
そこは見覚えのある、懐かしさを感じる部屋だった。
地球の……思い出を巡らせつつあったロキは、つい反射的に返事をしていた。
禿頭の女がいた。
無表情で無感動、つまらない人間の類だ。
苛立ちと不甲斐なさを織り交ぜて睨みつけたはずのロキのその目は、どこか弱弱しかった。
力を入れたいのに、力の入れ方を忘れ去ってしまったようだった。
「そうですか。ただのロキ。私はただのエンシェント・ワン。あちらはただのミステリオ。あそこにいるのはただの……」
「もういい。うんざりだ。私はロキだ。……ただのロキでよかったのに」
疲れていた。
絶望した。
行き詰まっていた。
時が解決するのなら、ロキは頭を抱えて悲鳴を挙げながら転がりたくて仕方なかった。
それくらい追い詰められていた。
止まってはいけないのに進めない。
草臥れた様子でロキが椅子に腰かけ、首だけで室内を見回す。
あまりにも暗い。
活気がない。
目の前に座る金魚鉢のような物を被った男など、ずっと俯いたままだった。
死んでいるんじゃないかと羨ましく思ったくらいだ。
その男は、よく見れば何か小さな機械を握っていた。
ロキはそれを見たことがあった。
それは確か……。
「私たちは勝たないといけない……。か細い糸を手繰ってでも……。そうじゃないと顔向けできない……。何もかも無くなったなら、せめて勝利しなければ……。私はなぜ生きている……。私はなぜ逃げた……。ここにいるのは私じゃなかったはずなのに……。ピーターはもう死んでしまった……。私が見捨てた……」
よく見ようとして近づいたロキは、その男の言葉を聞いてしまった。
ロキもそうだ。
父と母は亡くなった。
友も死んだ。
兄は自分を庇って死んだ。
何もない。
ロキにはもう何もなかった。
欲しかった物が今さらわかった。
古いロボットアームが、ロキに飲み物を差し出した。
記憶が正しければ、本棚にアスガルドの生き物図鑑があるはずだった。
部屋に飾られた金魚鉢に、地球にいるはずのない魚が悠々と泳ぎ、ぼちゃんと音を立てて僅かに水面を跳ねた。
あ~あ
『ミステリオ:ノーウェイホーム』
みんな死んだ。ピーター・パーカーも死んだ。ミステリオだけ生き残った。
『ロキ』
みんな死んだ。ソーも死んだ。ロキだけ生き残った。
『エンシェント・ワン』
弟子になるはずだった男は、しかし、本物の手に勝るとも劣らない機械を手に入れてしまった。