原作で、マダム・レッドが【例の事件】に至った理由が不幸な出来事が重なってしまったからでした。
もしも…マダム・レッドの運命を変えるとしたら、どこだろう?
その疑問を突き詰めてみて、一つの回答として事故に遭遇した時に、自らの子宮と子どもが無事だったIFの物語を描きました。
その日―――ある女性が、人生で大きな転換点を迎えた。
アンジェリーナ・バーネット夫人は、夫と共にロンドンの郊外にいた。
夫人は妊娠7カ月目。
生まれてくる子どもの為に、夫は服や玩具を買おうと専門店を廻っていた。
「次はあの店に行こう!」
「もう…これで何軒目?」
「まだまだ、回るにきまってるじゃないか!」
子どものように無邪気に笑って、そう断言する夫。
誠実で素朴な、優しい人だ。
アンジェリーナには忘れられない人がいた。
15歳の時に初めて会って、一目ぼれした青年。
彼女が大嫌いだった赤い髪を褒めてくれたおかげで、彼女はコンプレックスがなくなった。
でも、その青年は別の女性と結婚。
その人との間にも、9歳の息子もいる。
未だに彼に対して未練を持っている事を知った上で、今の夫は求婚してくれた。
そして…自らのお腹に芽生えた命。
アンジェリーナは思った。
生まれてくる子どものためにも、けじめをつけよう。
淡い初恋の思い出は忘却の彼方へおいて、今の家庭を守っていこう。
そう考えていた矢先、とんでもない悲劇に見舞われた。
…暴走した馬車が人込みへ突っ込んでいき、彼女と夫ははねられたのだ。
―――いたい…くるしい…
ぼんやりとする視界が鮮明になった。
(ここはどこ?……私は、確か…暴走した馬車がきて…)
そこは、緑色の絨毯が続く草原地だった。
太陽が降り注ぐ草原に一人たたずむアンジェリーナ。
一筋の風が頬を撫でる。
「あなた…ねえ、あなたどこ!?」
だんだんと思考が冷静になり、一緒にいた夫の姿が頭をよぎる。
夫を探そうと前へ進もうとしたその時…
「それ以上先へ行ってはいけません」
誰かが腕を引っ張って引き留めた。
振り返ると、そこには一人の女性がいた。
薄い青と銀色の長い髪、20代位の美しい人だ。
「だれ…?」
「…簡単に言うと“人間ではない”ですね」
人間ではない…その言葉で、アンジェリーナは眼前の女性が、神様の使いなのだと察した。
「私は…死んだの?」
「いいえ、貴女はまだ生きています」
恐る恐る聞いた質問に、女性は温和な口調で「否」と答えた。
自分が生きていると分かり、若干胸の恐怖が和らぐものの、すぐに別の不安が生まれた。
「あの人…私の夫はどうなの? 生きているの?」
不安を打ち消したい一心で訊いたら、女性は悲しげな表情で緩慢に首を左右に振る。
そんな…と力なく腰を落としてしまう。
*** ****** ***
『君がその男性の事を忘れられなくてもいい。私の妻になってほしい』
初恋の男性が忘れられない私を受け入れてくれた…寛容な人だった。
『アン、誕生日おめでとう。君に似合うといいんだけど』
結婚してから迎えた誕生日にプレゼントをくれた…私の生まれた月の誕生石を使ったシンプルだけど綺麗な指輪。
『男かな? 女かな? 早く生まれてきてほしいなぁ…』
妊娠した事を誰よりも真っ先に喜んでくれた。
そうだ…あの人はいつも私の傍にいてくれた。
報われなかった恋にいつまでもしがみついていた私を見捨てずに、愛人だって囲わずにいてくれた。
私は、彼の事をどう思っていた?
優しい彼の気持ちに甘んじて、ずっと過去にばかり囚われていた。
なんで、今更気づいてしまったんだろう…。
「ごめんなさい…」
―――『愛している』
その言葉の重みを痛感した。
失って初めて、私は夫を心の底から愛していたのだと実感した。
*** ***** ***
「貴女が現世へ戻るにはまだ時間がかかります。
此処で、これからの事を考えて…少しでも心の傷を癒していただければ幸いです」
「…ねぇ、私は元の場所に戻れるのよね?」
アンジェリーナは顔を俯けたまま、再度確認した。
女性が「はい」と肯定すると、さらに言葉を紡ぐ。
「じゃあ…私のお腹にいるこの子は…? あの人との間の子は…戻れるの?」
縋るような思いで尋ねた。
そんな彼女の思いに反して、女性は困った顔を向ける。
「それは…難しいです。貴女は馬車に引かれて腹部に多大な損傷を受けてしまいました。
お腹に宿っている命も…貴女から離れつつある」
衝撃の言葉に、アンジェリーナは起き上がるやその女性の両の肩を強く掴んだ。
あまりにも強く掴まれて痛みが伴う…けれども、女性は軽く右目を瞑り耐えるように、アンジェリーナの顔を見る。
「お願い……この子を助けてッ!」
「お気持ちは分かりますが…」
「助けて、この子を助けて…助けて!…お願いよぉ……」
真珠大の涙をぽろぽろと目元から流し、アンジェリーナは懇願した。
「あの人を…失って…そのうえ、この子まで消えてしまうなんて…
私だけ生きるなんてできるわけないじゃないッ!」
「アンジェリーナさん…」
「この子を助けるためならなんだってする…私の命をささげたっていいッ…!
この子を…連れて帰りたいの!」
初恋の人…愛してくれた夫。
欲しかったもの…大切だったものは私の前から消えてしまった。
でも、子どもだけは…失いたくない。
失ってしまえば、私にはもう何も残らない。
空虚と後悔だけが残る現世で、独りぼっちになりたくない。
「この子が助かるのであれば、私は犠牲になっても構わない。
この子と現世で生きていけるなら…私はなんだってできる」
生存への切符を放棄したとしてもいい。
神の摂理に反する行為をしろ、と言うならそれすら行ってやる。
そんな決意を宿した目に…女性は微かに目を見開くと、閉じていた口をゆっくり開いた。
「どんな事でもしてみせる…そんな事を易々と語ってはいけませんよ」
「あんたに何が分かるのよ! あんたに私の気持ちが分かるっていうの!」
アンジェリーナは女性の胸倉を掴んで、憤りに近い感情をぶつける。
女性はそれに怯む事無く、冷静に…かつ真剣な顔つきでさらに言う。
「『言葉』には力が宿ります。
人を元気づけ癒す事もあれば、傷つけ不幸にする事だってできる。
それに、言葉は場合によっては『契約』にも相当する証となる。
一度それを口にしたら取り消す事は難しい。
もしも、悪魔や心無い力のある人の前で、その言葉を口にしてみなさい。
……死ぬ事よりも辛い境遇に陥りますよ」
力強い瞳と美しくも気迫のこもった顔でそう指摘され、アンジェリーナは圧倒される。
衣服を掴んでいた手が緩められ、女性は改めてアンジェリーナにこう言った。
「でも…貴女の子どもに対する強い愛情と覚悟は感銘を受けました」
「…えっ…」
「家族を失う悲しみ…私にも分かります」
女性は哀しそうに笑みを浮かべる。
アンジェリーナは思った。
…ああ、この人もまた、大切な誰かを失くしてしまったのか、と。
「…貴女は子どもを助けたい。その気持ちに嘘偽りはありませんね」
「……ええ」
「一つだけ、二人とも助かる方法があります。
でも…この方法を選ぶと、生涯貴女は“リスクを背負う”事になります。
それでも…よろしいのですか?」
女性は問いかける。
「リスクって…?」
「本来なら死ぬ魂を生き返らせるために、貴女は対価を払わなくてはならない。その生を全うするまで」
子どもと二人で、現世で生きるために…アンジェリーナは選択を迫られる。
けれども、アンジェリーナの決意は揺るがなかった。
「分かったわ…その対価を払う」
「茨の道を歩む事になりますよ。……それでも?」
再び同じ問いをする女性。
アンジェリーナは目を閉じて刹那の間をおくと…口を開いた。
「―――答えなんてとっくに決まってるのよ」
彼女の決意は揺るがなかった。
その答えに満足した女性は口元を緩める。
「分かりました。貴女の覚悟見届けます」
そう告げられるや、視界が眩い光で覆われ、アンジェリーナの意識は暗転した。
【プロローグ】
「…さま。奥様!」
「…ん?」
目を開けると、そこは屋敷の自室だった。
ああ、そういえば…午前中から論文を書いていてそのまま寝てしまったな…とおぼろげな記憶をたどった。
「奥様、お疲れなら一休みした方がよろしいかと」
「あぁ…大丈夫。随分、寝ちゃったけど…今何時…」
心配する執事に対し、手の甲で口元からでていた涎を拭きながら懐中時計をみるや、
アンジェリーナの顔は一変した。
「やばっ! もうこんな時間じゃない!?」
ガタッと椅子を倒す勢いで立ち上がると、メイドに外出する準備をしてもらい、着替える。
鏡を前に、自らの姿を確認する。
父親譲りの赤い髪、赤を基調としたドレス。
(そう…これが私の姿だ)
「遅くなるかもしれないから、夕食はなしでいいわ」
「かしこまりました」
執事にあれこれ告げていると、ぽふっと足元に小さな赤いものがしがみつく。
視線を下ろすと、そこには3歳の息子がいた。
じぃーと訴えかけるようなまなざしを送る息子に、アンジェリーナは苦笑すると同じ赤い髪を優しく撫でる。
「できるだけ早めに帰ってくるから。いい子で待ってなさい」
「! ……うん!」
母の言葉に満足したのか、ぱぁ…と目を輝かせて頷いた。
乳母に預けると、アンジェリーナ…マダム・レッドは馬車に乗って出かけた。
…ロンドンに住むある知人に会うために。
【つづく】