(1)の続き。
あれは忘れられない。
当時の夫人は、現在のように濃いメイクではなく、流行のドレスを纏った華やかな雰囲気の美女だった。滅多に出席しない夫人の姿に目を奪われる殿方もいたが、それ以上に眉を顰める者
…特に年長者の紳士・淑女…がちらほらいた。
まだ若輩者であったアンジェリーナは、周囲の異変に疑問を感じていたが、その原因は
そんなに時間が経たない内に判明した。
「スピアリンク夫人は、かなり強烈な人柄だったのよ。
…ドン引きするくらいのね」
夫人は自己中心的な性格だった。
そういうタイプの人物は貴族では珍しくないが、彼女の場合はかなり顕著であった。
踊りはうまいが、協調性がなく、社交界の情勢を把握するための情報収集も得意でない。
親しい付き合いのある婦人から聞いた話では、上位貴族の顔と名前も正しく理解していないらしく、スピアリンク子爵が別室で相手に頭を下げる場面が何度かあったらしい。
貴族に必要なスキルが中途半端だった所為で、アドリアナが他の出席者から遠巻きで見られるのに時間はかからなかった。
「その上、当の本人は常に自分が主役でないと満足しない性質でね…
社交界で人気がある淑女達に因縁をつける問題行動も起こしてるの」
「アンさんも、その被害にあわれたと?」
「ええまあね…」
特徴的な真紅の髪とドレスを纏うアンジェリーナは、今や社交界の華と言われ、幅広い階層との間にコネを築いている。それが気に食わないのか、時折顔を合わせるたびに、彼女からストレートな嫌味を言われる事がある。禍根にならないように、適度に受け流す感じで対応しているが、
アンジェリーナの中では彼女はお目にかかりたくない人物リストの上位にいる。
「ジェームズの母親だと知った時は、耳を疑ったわよ。
…性格が似なくてよかったとも思ったけどね」
「反面教師にしたのでは?
もしくは世話係や教育係の方の影響もあるかもしれませんね」
小声で話しながら、二人は部屋の状況を逐次観察する。
夫人と家令との押し問答は、以前として膠着状態が続いている。
これが継続するのか…と思われたが、近づいてくる気配にその懸念は払拭された。
「アンさん、誰か来ます」
リエは耳元でそう囁くと、アンジェリーナの手を引いて扉から少し離れた。
すると、早足で二人の人物が階段を昇り、部屋の中へ入った。
「ジェームズ…」
「サトクリフさん…執事の方も一緒でしたね」
離れたとはいえ、すぐに視界にいる場所にいたにも関わらず、ジェームズ達はこちらに
全く気付いていなかった。もらったアイテムの効果が発揮されているようだ。
すると、部屋から激しい怒声があがった。
「私は貴方のためを思って…!」
「本当にそう思うなら、これ以上使用人を無断で解雇するな!」
再び扉の隙間から中を見て、アンジェリーナは息を呑んだ。
ジェームズが険しい形相で、実の母親を叱責していたのだ。
鬼気迫るその姿に…あの夫人が怯んでいる。
執事であるグレルはびくびくしつつも、家令に指示されてハウスメイドの女の子を
連れて部屋から速やかに退室した。
「ささっ、早く安全圏内へ…」
「す、すみません…グレルさん」
グレルは、涙を流すハウスメイドを慰めながら一階へそそくさと急ぐ。
その数分後、「勝手になさい!」と言い残し、悔し気に下唇を噛み締めた夫人が
逃げるように部屋から出て行った。
「モーリス、すまない…」
「いいえ、ジェームズ様がいらっしゃらなければ…奥様の暴走を止められませんでした」
疲れた顔のジェームズを、モーリスが気遣っている。
「アンさん…エレオノーラさんの部屋へ行きませんか?」
リエの提案に、アンジェリーナは「…そうね」と頷いた。
友人に対して何もできない歯痒さ、哀しさに、アンジェリーナは持っていたバッグを
力強く握りしめる。
「お気持ちお察しいたします」
「リエ…」
「私も同じですよ」
エレオノーラの部屋へ歩を進めている時に、アンジェリーナの内心を察知したように、リエは言った。平静な表情をしているようで…違った。
アンジェリーナは感じ取っていた。
…リエが怒っている事を。
さっきのアドリアナのような荒れ狂い、全てを破壊するような分かり易いものでない。
あたかも、すべてを飲みこむ深海のような静寂な怒り。
その瞳の底に嵐が潜んでいる事に、アンジェリーナは形容しがたい怖さを感じた。
「もうしわけ…ありません」
部屋を訪れるや、エレオノーラが深々と頭を下げて謝罪してきた。
「お見苦しいところを見せてしまいました…」
「いいえ、気になさらないで」
顔色の悪いエレオノーラに、アンジェリーナは気遣いの言葉を送った。
その傍らで、世話係のメリッサがお茶菓子と紅茶を用意した。
「エレオノーラさん、お加減はいかがですか?」
「はい…リエさん。ありがとう…ございます」
リエの判断で、自室に身を隠したおかげでエレオノーラは心を落ち着かせる事ができた。
彼女のあの反応から、母親が日常的に癇癪を起こしているのが簡単に想像できる。
「お嬢様、アッサムのミルクティーでございます」
メリッサの淹れたミルクティーを、一口飲むとエレオノーラはほっ…と安堵の息を漏らす。
「…あの…マダム・レッド。質問をしても…よろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
「リエさんと…マダム・レッドは…その…どういったご関係…なのですか?」
アンジェリーナは「あっ」とうっかり声を漏らした。
そういえば、依頼人である目の前の御令嬢は、こちらの関係をまだ知らなかった。