第百四話『始原の欠片』
悪夢が物語の始まりであるならば、少女が見ている夢は運命の始まりと呼ぶべきもの。
夢を見ていた。運命の始まり。始原の海が見せる、生命の始まり。根源的な存在に意思という物が生まれた瞬間。本当の誕生は、まさにその出逢いから始まった。それが根源にとって置き換えられない大切な瞬間であっても、誰かにとって良いものであったのかは、誰にも出せない答えなのかもしれない。
『――――――君、は……』
「……………………」
視線が動く。微かな意思、存在という衝動のまま、顔を上げる。
そこに、一人の少年がいた。
運命の始まりにして、全ての運命を変えてしまった少年がいた。
根源にとっての救いにして、世界にとっての罰を齎す少年がいた。
出逢ってしまったなら、
「………………っ」
懐かしい記憶を見た。悪夢ではない、純粋なる記憶の閲覧。記憶の結合。記憶の
重い瞼をゆっくりと上げ、まずは正面。自身が横たわっているのがわかる、天井が見える。見たところ、病室のような作りになっている。次に右へ、左へ……そこで、少女は見覚えのある人影を見つけることが出来た。椅子に腰をかけ、見るからに不健康な様相の女性。
「……ぅ、……ぁ」
声をかけようとして、喉の調子がおかしいことに気づく。長い間、声を出していなかったような異物感。それだけではなく、身体も思うように動かない。
だが、その呻き声のお陰か、何かの作業を行っていた女性――――村雨令音が目覚めた少女に気づいて顔を上げた。心なしか、彼女らしくもなく驚きを表に出して、少し動きまで早く見えるものだった。多分……少女がそう思いたかっただけなのかもしれない。
「……目覚めたかい?」
「……ぉ、かげ……さま、で……」
一言を伝えるだけでも苦しい。構わず、起き上がろうとするが、それは素早く駆け寄った令音の手でやんわりと、しかし強く制止させられる。
「……まだ動いてはいけない。君は絶対安静だ――――――何日ぶりの起床か、わかるかい?」
「……わ、かるわけないですけど……数日くらいだと、嬉しいん、ですが……ね」
ようやくまともに発音できた言葉を聞いて、令音はゆっくりとした動作で首を横に振る。そうして出てきたものは、少女に目を見開かせるのに十分なものだった。
「――――――
軽く検査のようなことをさせられ――と言っても〝天使〟の権能が戻った少女に検査が通るわけもないが――ようやく、落ち着いて令音と話をすることができた。結局、目覚めてから体勢は変わらず、令音が椅子を真横に持ってきて座っているくらいだったが。
「……病人が目覚めたら、誰かに知らせるのが普通だと思うんですけど」
「……私が君の主治医のようなものだ、気にすることはない」
「……」
あなたの役職、解析官じゃありませんでしたっけ。そう言いそうになったが、あらゆる分野で下手な本職ところか本気の本職すらも凌駕しそうな彼女のことだ。言うだけ野暮というものだろう。
真顔で冗談を語る令音に、少女はジト目になりながら声を発した。
「……まあ、二人きりの方が都合が良いですけれどね」
「……ああ」
お互いに。暗にそう口にしたのことを令音は否定しない。あまり近づきたくはないのだが、少女としても令音以外に頼れそうな人もおらず、事情の全ては彼女から聞き取る他なかった。
しかし、その前に。少女は自らの状況を省みて、ポツリと言葉を洩らした。
「……よく、生きていたものですね」
二週間。言われた時は驚きがあったが、日数にしてみれば大層なものではない。むしろ、よくその程度で済んだものだと少女は思う。
正直な話、
「……シンたちのお陰だ。それがなければ……どうにもならなかっただろうね」
少女の呟きに眉根を下げた令音がそう言う。なるほど、と納得がいったような声色で言葉を返す。
「……よくも、あの状態から持ち直させましたね。その辺りのお話も、聞く必要がありそうです」
「……なぜ、あんな無茶をしたんだい?」
「……?」
その問いかけの意味が少女にはわからなかった。彼女からすれば、少女の存在など
「……あの場で、一番可能性があった方法があれだったんですよ。優先順位の問題です。あの場で精霊の誰かを失うわけにはいかないなら、一番に切り捨てるのは私でしょう」
「……君も、精霊だ」
「――――はっ、笑わせてくれますね。こんな出来損ないの、どこが
吐き捨てるように、少女は言った。
ああ、そうとも。あの場面では、一番合理的な判断だった。同じ精霊? 馬鹿を言ってくれるな。ただ精霊を名乗るだけの生まれを持つにすぎない出来損ない。それが少女だ。愚かしい、おこがましい。これが、〝彼女〟から生まれた存在だと言い張れるだけの存在だと、誰が言える。こんな、出来損ないが――――――
「っ……」
「……もう少し、休むといい」
ふわり。柔らかい手が少女を包む。ローブの上からでも、令音の手の温もりが伝わってくる。
「……
「……身の程を知れ、って意味ですか?」
「……ほらね?」
微笑む令音に何か言い返してやりたいが、特に言葉が思い浮かばない。というより、今口を開けばさっきのような言葉しか飛ばせない気がしてならない。
己の感情が、濁流のように押し寄せる〝何か〟に侵食されている。否、〝何か〟など言葉を濁す必要はない。それが何なのか、少女はよく知っている。己が――――――己でなくなる。
それは、
「……黙っているだけだと休める気がしませんね。私が倒れたあとのこと……聞かせてもらえませんか」
「……わかった」
このままだと、気が狂いそうだった。眠ったところで、ろくな悪夢を見やしない。それを紛らわすための方便――――同時に、狂三、そして折紙がどうなったのかを知りたい気持ちもあった。
頷いた令音が、唇を動かし、空白となった二週間前。少女の世界が解けて、二度と目覚めないはずだった……あの時の出来事から。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
血。夥しい血溜まり。長い年月を渡り歩いた狂三にとっては、特別動揺を誘うものではない。なかった、はずだ。なのに、どうして。
「……い、や」
どうして、こんなにも時崎狂三は思考を止めている。
わかっていたはずだろう? 時崎狂三に付き添うということは、こういうことなのだと。
わかっていたはずだろう? この子は絶対無敵の存在ではないと。
わかっていて、連れていたのは誰だ。わかっていて、見て見ぬふりをしていたのは誰だ。少女が己を顧みないことを、わかっていた
「……っぁ」
止まらない。血溜まりを作ってなお、その血みどろは止まらない。未来が視えると、思い上がった少女に罰を下すように。狂三の全身を、座り込む地面を、霊装をただひたすらに濡らし続ける。
失えない存在だった。目的のために、失うわけにはいかない存在だった。それだけでは、いつの間にかなくなっていた存在だった。それが今、狂三の手の中で、死――――――
「――――〈
焔が、少女の身体から迸った。
「……士道、さん」
違う。彼が、五河士道がその腕から焔を与えている。それは、人を焼く焔ではなく、人智を超えた究極の治癒。
「狂三ッ!!」
「っ!!」
焔の制御のためか苦しさを滲ませた士道の呼び声に、狂三はようやく目の焦点が合う。
「っ、琴里に、みんなに……助けを……っ!!」
「――――ッ」
やはり、己を癒すことより遥かに反動が大きいのか、途切れ途切れの声。だが、士道の言葉でようやく狂三は己を取り戻した。
何を、している。何を
「――――七罪さんッ!!」
「ぁ……っ、私は何をすればいい!?」
まだ霊力が残っているのか、大人の姿の七罪だったのが幸いしたのか、すぐに狂三の呼び掛けに応じて駆け寄ってきてくれる。すぐさま、少女の状態を一瞬で確認して声を発する。
「〈
「わかったわ。通りづらくても、お姉さんの気合いで何とかしちゃうんだから!!」
言って、箒型の〈
「琴里さん!! 琴里さんッ!!」
だがそれだけではダメだ。本来の持ち主でない士道では、無理を続けていれば限界が来てしまう。常に意識する嗜みも、相手に舐められないための余裕すらも今この時はかなぐり捨て叫び上げる。
無理を押し通しているのはわかる。無理を押し通さなければ、少女の命が消えてしまうのも、わかる。だから今は、狂三以外の力が必要なのだ。
あまりに身勝手で、自分勝手な願いなのは承知の上。それでも狂三は、声が枯れそうなほどそのインカムに呼びかけ続け――――ノイズ混じりの機械音が、響いた。
『――――――三分ッ!! 三分で転送装置を最低限なんとかするわ!! それまで絶対、その子を死なせるんじゃないわよ!!』
「っ、ぁ……ありがとうございます……!!」
――――――後で思い返せば、涙ながらの声色だったと思う。そうして、他の皆にも気を失った折紙のことを含めた指示を飛ばす中。
「消えるんじゃねぇ……ッ!! 絶対に、死なせないからな……ッ!!」
士道が、ひたすら強く呼びかけるのを聞いていた。
誰かが消えることを誰より恐れる少年の、優しくも熱い激情を聞いていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
どんなに流れを惜しんでも、時間は無機質に流れゆく。無慈悲なまでに、平等に。士道にとっても、狂三にとっても、それは例外ではない。
「狂三……少し休もう」
〈アンノウン〉の治療が始まって、丸一日が経とうかという時間。士道は〈ラタトスク〉地下施設の休憩室で、ずっとここにとどまっている狂三に何度目かの提案をした。
「いえ、わたくしは平気ですわ」
けれど、彼女は何度言っても首を縦に振ることはない。かと言って士道も、はいそうですかと言葉をやめることができず、何度やっても平行線の一途を辿っていた。
「……平気なわけないだろ。丸一日そうしてるじゃないか」
「士道さんは――――」
「俺は休ませてもらったよ。だから狂三も……」
「わたくしは精霊ですわ。睡眠を取らずとも問題はございません」
「精霊だって疲れるのは同じだろ!! 狂三がこうしてたって――――――悪い」
思わず、口にしてしまった言葉を即座に謝罪する。自己嫌悪で顔が歪む。少女のことを思ってここにいる狂三に、なんという言葉を突きつけている。ここにいるだけでは何も出来ないのは、士道だって同じことだ。
「……いいえ、事実ですわ。こうしていても、ただ無為に時間の浪費だとわかっていますの。わたくしが一番嫌う行為だと、理解はしていますの」
「…………」
理解していようとも、考えと心が必ずしも一致はしない。そんな狂三に、気休めの言葉をかけてやることなど出来はしない。少しでも彼女の助けになりたいと思っているのに、士道一人にやれることは思い浮かびもしない。正確には、散々試したあとなのだ。
「無様なものですわ。時を操る精霊が、時が進むことをただ祈るだけだなんて」
「……誰だって同じだろ。時間を完全に支配することなんて、人類にはまだ早いってことさ」
「あら、哲学的ですこと」
「茶化すなよ。……わかった。お前の気が済むまで、俺も付き合う」
言って、士道は狂三の隣に座り腕を組んでどっしりと構える。正直もう、この頑固者を説得できるだけの言葉が士道一人では見つかりそうもない。なら、できる限り傍にいてやることが唯一自身にできることだと思ったのだ。
そんな不器用な士道のやり方に、狂三がようやく微笑みらしい微笑みを見せた。
「……物好きな人」
「おう。なんとでも言え」
ふんすっ、と開き直る士道。けど、狂三は何も言わなかった。寄り添われることを、否定しない。素直じゃない彼女なりの素直さだと、思った。
精霊たちは既に帰した。全員、まだここにいると言って聞かなかったのだが、あの激闘を超えたあとで疲労も限界に達していたのだろう。長い説得をかけ、渋々といった様子で全員それぞれ帰っていった。士道だけは、地下施設の仮眠室でこっそりと休ませてもらったが。
そのやり取りがあった間、狂三だけはテコでも動かなかった。純粋な精霊として力を残す狂三に、人間的な疲労が少ないのはわかっている。それでも、彼女らしくない非効率的な行動――――――当たり前だ。ずっと一緒にいた少女のことを心配しない者がどこにいる。
〈フラクシナス〉に収容された〈アンノウン〉は、続けてこの地下施設へ緊急搬送された。容態は、気休めで物が言える状態ではないと聞いた。あの瞬間、咄嗟に士道が琴里の真似事をしなければ、今頃少女の命はなかっただろうとも。
今でも、士道の中に信じられない想いがあった。あの飄々とした少女が、死の淵に立っているなど。少女が自身の命を軽んじる傾向にあったのは知っていたが、知っていただけだった。どこか……あれほどの力を持つ精霊なら、狂三も一緒なら大丈夫だと慢心していた。
――――――言い訳になるかもしれないが、それ以上に〈アンノウン〉の余裕が上手かった。少女は、一度たりとも士道たちの前で傷を負わなかった。あの恐ろしい『無』の力の反動が、唯一該当し得るものと言えたのだ。あの時でさえ、命に別状はないと言われて、いつの間にか少女なら大丈夫という気持ちを持っていた。
士道は、そして狂三も、いいや誰しもが少女に頼っていた。いつも、いつの間にか傍にいて。いつの間にか皆を助けてくれて。少女のことを、あらゆることを知っている心強い精霊だと――――――あの白い外装の下に、何を隠しているか知ろうともせずに。
「……」
「……」
会話が途切れて、長い時間が経つ。一時間、二時間……待って、待ち続けることしか士道たちにはできない。そうして、三時間に差し掛かったその時――――――沈黙を保っていた部屋の扉が、開いた。
『っ……!!』
狂三とほぼ同時に立ち上がり、来客の姿を確認する。入ってきたのは精霊たちでも、琴里でもなく……〈ラタトスク〉の制服に身を包んだ村雨令音だった。心なしか、いつも以上に倒れそうな足取りで、胸ポケットにいるボロボロの人形もくたびれた様子を見せている気がした。
「令音さん!!」
「……余談は許さないが、峠は越えた。ひとまずは、安心していい」
それは、短くも士道と狂三が一番に求めていたものだった。
「……よ、よかった……」
へなへなと身体の力が抜け、再び座り込んでしまう。人間、心の底から安心すると他に言葉がでないらしく、それだけを言葉にして放心してしまう。
何とか狂三を見やると、士道のように脱力こそしていないものの、普通の少女が見せる安堵し切った顔をしている。形こそ違うが、その気持ちは士道以上だと感じて、令音が言うように一晩明けてようやく安心できた思いだ。
「……君たちだけなら、丁度いい」
「え……?」
しかし、そんな安堵を断ち切るように令音は淡々とそう言った。聞き返すように士道が声をもらすと、令音は士道と狂三を見つめて普段と同じ……いや、普段以上に感情の読めない表情で声を発した。
「……疲れはあるだろうが、着いてきてくれたまえ――――――シン、狂三。君たちだけに、話したいことがある」
「話したいこと? 一体、何を……」
「――――――あの子のこと、ですわね」
ドクンと、士道の心臓が強く高鳴った。鋭く、確信に満ちた狂三の、しかしどこか恐れるような狂三の言葉と、告げられた令音の首肯によって。
「……その通りだ。あの子のこと――――――あの子の身体のことを、君たちには知ってもらいたい」
それはきっと――――――望みながらも届かなかった扉の鍵が、開いてしまった音だったのかもしれない。
あれほどの力を持つ精霊――――――誰もがそう誤認するよう少女は演じ続けた。かの、時崎狂三でさえも騙して。
さあ、真実の一欠片を閲覧しよう。というお話。五河ディザスター前哨戦。〈アンノウン〉編となります。具体的な進行もなく、牽制にも似た状態になっていた狂三と〈アンノウン〉の関係性がどうなるのか……正直、複雑に絡み合った爆弾みたいなものですけどね、この二人の関係って。それに影響を及ぼし、及ぼされる士道もまた、物語の終わりへ向けて動き出します。
存在する矛盾に、ローブの裏に隠された秘密。狂三が知れば撃ち殺したくなると語る少女の正体は……ただ、これだけは言えます。『全ては我が女王のために』。この言葉だけは、たとえどれだけ中身が歪であろうと嘘偽りのない真実です。それを考えながら、どうかお楽しみいただければ幸いです。
感想、評価、お気に入りなどなどお待ちしておりますー。では次は木曜日にお会いいたしましょう。次回をお楽しみに!!