『士道さん』
呼んでいる。呼ばれている。誰よりも愛しい声。何よりも、大切な人。
――――――どうして、そこまでできるのか。
いつだったか、誰であったか。まあ、今となってはどちらでもいいことだろう。あったかもしれないし、もっと違う言葉だったかもしれない。
士道は精霊を救いたいと願った。迫られた、ということも嘘ではない。士道しかやる人間がいないのだから、と。ただ、それだけで命懸けの事を成し遂げられるかと言われれば、士道は首を横に振る。何せ、自らの命がかかっているのだ。誰だって、命が惜しいと思う――――――その価値観を差し引いて、それ以上に士道は精霊を笑顔にしたいと思った。自分が命を懸けてそれを成せたのなら、この価値観以上に対価はないと思ったから。
けれど、それは、士道の命を狙っている精霊となれば話は別になるだろうと言われてしまう。
『士道さん?』
小首を傾げて士道の名を呼んでいる。士道が好きな狂三の仕草だ。
時崎狂三という女の子の第一印象は、心臓が止まりかけるほど綺麗な子、というものだった。とどのつまり、有り体な言い方をすれば、まあなんだ――――――一目惚れ、だった。
特別な理由があったわけじゃない。強いて言えば、一目惚れ自体が特別な理由だ。そのことに気づけたのは、狂三が本当の目的を明かしてからではあったのだが。
一目惚れをした女の子が、自分の命を狙う精霊だった。恐ろしい偶然があったものだ。士道が運命というものを信じているのなら、必然とも言うべき運命か。結果、士道は自らの命を欲する精霊に無謀にも人生をかけた告白をし、どういう因果か狂三と並び立って精霊を救って行った。
『士道さん!!』
怒った顔を作り、揶揄う士道を狂三が叱る。実は、士道が特別なのだと思わせてくれて、好きだ。
そこからは激動に激動を重ねたような日々だ。非日常を狂三と駆け抜け、戻る日常のたまに狂三が現れ、また非日常が始まり狂三が現れる。
ここではささやかな愚痴をこぼすが、士道にやれ自分を気遣え、やれ危険なことばかりするなと言う割には、狂三自身が全くもって自分を大事にしないのは本当にどうかと思う。こればかりは、初めの頃の冷静沈着で無理をしなさそうなイメージからかけ離れていると思うのだ。……本人に言うと、口喧嘩では勝てそうにないからたまに挟む程度に留めている。
『士道さん……』
優しい顔で、甘い吐息のような声色で名を呼ぶ。そんな優しい彼女が、好きだ。
そんな危険で幸せな繰り返しの中で、士道は狂三が抱えている大きなものを知った。
苦しみであり、祈りであり、願いである。時崎狂三が時崎狂三たる所以であり、誰よりも優しい少女が気高い精霊でいる理由。偽悪を貫こうとした目的。彼女はそれを最後まで諦めない。諦めないから狂三は生きているし、諦めなかったからこそ士道と出逢い、恋をして、悩む。
士道は狂三を救いたいと願った。理由はたった一つ。彼女が他の皆と同じ精霊だから? 否、それだけであれば士道はとっくに狂三に喰われている――――――好きだから。それ以外に、理由なんていらない。
狂三に恋をして、狂三を欲して、狂三が
そうであるから士道は苦悩した。戸惑い、立ち止まり――――――結局のところ、諦められないのだ。
最終的に行き着く答えは、そんな在り来りで平凡なものだった。最後まで、狂三の手を取ることを諦めない。往生際が悪く、勝算がなくても勝算を作る努力をする。
ああ、そうだとも。五河士道という男は、誰よりも欲にまみれた我儘な人間だ。今の士道の〝答え〟では、狂三を頷かせることはできない。だから、狂三を手にすることができるだけの〝答え〟を見つける。
なら、いつまで目を閉じている? 悩む時間は終わり。考える時間はお終い。そんなことをしている時間があるなら、少しでも狂三を笑顔にさせることに時間を使った方が遥かに有意義だ。狂三が呼んでいる。愛おしい人が、自らの名前を呼んでいる。それが堪らなく、好きだ。彼女に名前を呼ばれることが、彼女の名前を呼ぶことが。士道は心が打ち震え、この世に彼女という存在が生まれたことに感謝を示すほどに、好きだ。
好きだ、好きだ。好きだ好きだ好きだ――――――だから、たとえ相手が自分自身でも、狂三を傷つける存在を士道は許さない。
「――――――狂三」
たったそれだけの理由で、五河士道は瞳を開く。
ただ一人、愛しい人のために――――――士道は未来を捻じ曲げた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「…………え?」
瞳を閉じた狂三に訪れた感覚は、己が身体を切り裂かれたものではなかった。そのことに眉をひそめ、その感覚に狂三は温かな気持ちを感じ取る――――――狂三は、士道に抱きとめられていた。
「う……そ」
士道の瞳は未だ狂三を捉えてはいない。でも、この胸板が狂三を抱きとめ、彼の両腕が狂三の身体を抱きしめている。
呆然と声を震わせ、狂三は起こった事象を反復する。ただ単に狂三が士道を抱きとめただけならば、こんな驚きはしない。けれど彼は、霊力の暴走で狂三を個体として認識すらしていなかった。だからこそ、〈
「――――――き、ひひひ」
笑う。狂三が笑う――――――
〈
嗚呼、嗚呼。言ったばかりではないか。確定した未来など、ないのかもしれないと――――――たった今、それが証明されたのだ。
これを笑わずして何を笑う。霊力も何も関わらない部分で、奇跡の体現である〈
一体、どれほど流していなかったものだろうか。とうの昔に捨て去ったと思っていた。悲しみと嘆きの涙と共に。どちらも、もたらしたのは五河士道という精霊ですらない少年。
何よりも愛おしい。誰よりも
「……二度目の泣き顔まで見られないなんて、不運なお方」
彼の背に手を回し抱き返す。三度目はないか。はたまた、二度あることは三度ある、となってしまうのか。それは、
「さあ、帰りましょう士道さん。皆様のもとへ。皆様との日常へ――――――わたくしは、あなた様にそう望みますわ」
大層な願いなど必要ない。何よりも、狂三が士道へ望むもの。人という生き物は、失わなければ当たり前の価値に気づけない――――――時崎狂三は、五河士道へ平凡な日常を望む。
世界を壊し、その果てに。たとえその中に、時崎狂三という存在がいなくなろうとも。僅かに狂三は欲を張ってしまおう。何もかもを〝なかったこと〟にして、彼らが笑っていられる未来を。
それを想うだけで、狂三は救われている。それだけで十分なのだ。
触れて、撫でて。士道の頬に手を当て、薄れ行く意識で狂三は無意識のうちに導かれる。
「士道さん、愛しています」
そんな一言が、堪らなく胸を熱く焦がす。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「う――――――おぉぉぉぉぉぉぉッ!?」
自身のことながら情けない叫びだと思うが、意識が鮮明になった瞬間空中ダイブを試みている状況であれば、誰だってそうなるはずだ。別に、非日常での体験が多いからと言って驚く驚かないはまた話が別なのだ。
「っ、狂三!?」
狂乱に陥りかけた士道だったが、己が強く抱きしめている少女を見てすぐさま正気を取り戻す。
霊装を纏った狂三が士道の腕に抱かれ、ぐったりと意識を失っている。
「狂三、しっかりしろ!! 狂三……ッ!?」
視界に光が瞬いたかと思うと、その光景を見て士道は目を見開いた。狂三の霊装が消えていき、土埃と地面に転がって裂かれてしまったような傷が残る彼女の私服が姿を現す。
まるで、霊装を維持することが狂三への負担とでも言うかのような現象。今は、そんなことよりもこの状況の方が問題だ。
「くそ……っ」
士道だけならばまだいい。士道には〈
「このままじゃ……っ!!」
何か、何かないのか。そう焦る士道の胸に、かつての助言が去来した。
何かではない、明確なものがある。たった今、士道は考えた。天使を持つ士道は、と。ならば、願えばいい。自然と、その行為が当たり前であるように、奇跡を詠う。
「頼む――――〈
軍神と称する神風。颶風の力。士道の内より溢れ出す八舞姉妹の霊力が、余すことなく二人を包み込んだ。
しかも――――――
「え……?」
おかしなことに、
今は、それがない。身体が覚えているとでも言うのか、ごく自然な流れで士道は飛翔し、空中で体勢を立て直した。困惑する士道だったが、とにかく狂三の安全を優先し風を制御しながら彼女を抱え直す――――――一番安全だと思える、お姫様抱っこという形で。
「狂三……」
落ち着いてみれば、安らかな顔で吐息を零す狂三にほっと一息が出た。同時に、奇妙……というより、不思議な感覚があった。
そう。今の今まで、こうして空を飛ぶ時は必ず狂三の手の中だった。いつも士道は助け起こされる側で、彼女をこうして抱えて飛ぶというのは初めての経験だった。人間なのだから当たり前なのだが、精霊と関わって感覚がズレているのかもしれない。
初めて抱えた感想は――――――恐ろしく軽かった。なんというか、彼女の食生活が非常に心配になるくらいには。最近は鍛え始めているとはいえ、それを差し引いても異常な軽さだ。あと、触り心地が最高にいい。色々なところが柔らかすぎ――――――これ以上はあとが怖いなと、士道は顔を赤くして狂三評論会を締めくくった。
「士道――――!!」
これからどうするべきか。というより、どういう状況なのか全くわからず途方に暮れていた士道の鼓膜に、聞き慣れた妹の声が飛び込んできた。
声の方向を振り向くと、離れた場所から限定霊装を纏った琴里の姿を見つけられた。琴里だけではなく、精霊たち全員が霊装を纏って士道のもとへ集まってくる。
「琴里!? それにみんなも……」
「身体は大丈夫!? 天使を使ってるの!? ちゃんと元に戻れたんでしょうね!?」
「い、いきなりなんだよ。てか元に戻ったって一体……そうだ、俺のことより狂三を!! 寝てるだけみたいだけど、俺が見ただけじゃわからないし……」
何が何だかわからないが、何より最優先は狂三のことだ。そんな思いで拙くもしっかりと言葉を伝えたつもりだったのだが、琴里たちは一瞬呆気に取られたような表情を見せると――――――全員残らず、安心しきったような微笑みを浮かべた。
「な、なんだよみんなして……」
何だろうか。
その中で一人、何かを堪えるような顔で微笑む琴里が声を発した。
「いいから。事情はあとで説明するわ。今は二人揃って検査行きよ。それと――――――その子が一番苦労したんだから、ちゃんと離さないであげるのよ」
「……ああ。そういう、ことか」
何が何だか、わかったわけではない。でも、これだけは理解できる。琴里の言葉を聞いて、士道は心にストンと事実が落ちてきた。
「また、お前に助けられたんだな――――――」
狂三がいるから、士道はここにいる。それだけは、間違えようのない真実だ。
「ありがとう、狂三」
この世で最も愛おしいと思える彼女を、心の裡にある気持ちを最大限現すように万感の思いを込めて、士道は強く抱きしめた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
油にまみれた燃え盛る炎。劈くような焔の香りは、薬莢の硝煙より激しく影の精霊の鼻腔を刺激し、煤ける灰が彼女のお気に入りの服を汚す。そのことに思わず眉をひそめ、汚れを軽く払い落とす。
「いやですわ。わたくしばかり、このような役回りですのね」
あーあ、悲しいですわぁ。と、誰に言うわけでもなく、本当に思っているわけでもない言葉を吐いて狂三は散らばった
外壁を自身を通すように挟み込み、そこへ狂三は迷うことなく銃弾の引き金を引いた。
「〈
既に装填された影の弾丸が外壁を、そして狂三までも貫きその役割を果たす。
回顧の銃弾。
後者に関しては、行き過ぎた個人的感情もあるのだろうが、狂三にとっては多少の微笑ましさを感じる程度だ。別に狂三は、乙女の心をわかっていないわけではないのだから。
【
「なるほど。どうしてこのようなところに落ちたのかと思えば……直接の原因が士道さんと『わたくし』とは、因果なものですわね」
輸送機で運ばれていた『資材A』。その中身は、狂三たちが求めていた〝精霊〟。DEM側も貴重な実験体というのがあってか、厳重な保管状況からなかなか尻尾を掴むことができなかった上に、狂三も白い少女・〈アンノウン〉の協力があるということで無理はしていなかった。
無論、機会があれば優先していた――狂三が人体実験に顔を顰めていた、誰かさんの影響による個人的感情もありそうだが――し、今回の件がまさに絶好の機会だった。
「……協力を求めたのはわたくしたちからとはいえ、琴里さんたちにとっては何とも迷惑な話ですこと。まあ、責められるものでもないでしょうけれど」
まさか、
とはいえ、第二の精霊にとっては命からがら、というものであろうし、狂三側も悪いことばかりではない。
「ま、『わたくし』の気苦労のケアは士道さんに押し付けてしまいましょう」
火炎の光に似合わないフリルのスカートをヒラヒラと揺らし、軽々と残骸を乗り越え輸送機の後方へと向かう。
「さあ、精霊さん? お顔を見せて――――――あら?」
半壊した輸送機から落ちたコンテナを覗き込み、狂三は目を丸くした。何度目をぱちぱちと瞬かせたところで、眼前に広がる光景は変わりようがない。
「き、ひひ。きひひひひひひひッ!! ああ、ああ。これは、これは――――――また、面白いことになりそうですわ」
この場には、もう用事はなくなった。差し当っては、あの子に報告するべきか。嗚呼、嗚呼。楽しい、楽しい――――――悲願への道は、既に見えている。
トン。と、つま先で地面を叩き、正常化した影の中へ狂三は消える。
第二の精霊。物語を終幕へと誘う残る力の一つ。既に次章への
有り体な言い方をすれば、まあなんだ――――一目惚れだった。は、実は自分で割と気に入ってる一文。君こういう表現好きね。主人公による全身全霊のスーパー惚気タイムでした。やっぱこうじゃないとね。
結局、今出せる答えは最初から変わらないんですよ、二人ともね。散々悩んで、これでいいのかと自問自答して、叶わない平穏をお互いに望むんです。士道にとってはもちろんのこと、狂三にとっても日常は過去で無くした奇跡のような時間。神様に抗う愚か者たちが、この
ちなみにお姫様抱っこは私の趣味でずっとさせてあげたかったやつです。私の趣味だ(以下省略)
次なるページは描かれて、けれど今は余韻に浸るといたしましょう。というわけで、次回はエピローグその一です。
感想、評価、お気に入りなどなどお待ちしておりますー。次回をお楽しみに!!