冷静に考えれば、人が空を飛ぶには人類の英知が生み出した機械に頼る必要がある。それらの機械に乗ってから、そういえば最近は何かと生身で空を飛んでいたこともあって、こちらの方が珍しい体験なのではないかと思ってしまった。
そんな考えているようで考えていない心情はともかく、今士道はまさにその人類が作り出した空を飛ぶ機械、輸送ヘリに乗せられ長距離移動の真っ只中にいた。
無論、この場にいるのは士道だけではない。向かい合わせになった長い座席には、精霊たちや〈フラクシナス〉のクルーたちが全員座っている。
「……なあ、琴里。結局俺たち、どこに向かってるんだ?」
輸送ヘリに乗せられ、はや数時間。士道の隣に腰掛けた司令官様からは、未だ満足いく説明がなされていない。
十香や耶倶矢など、初めて乗る大きなヘリに気を取られ、楽しんでいる様子は見て取れるが、そうでもない士道は行き先が気になって仕方がないのだ。
「悪いけれど、詳しい場所は言えないの。別にあなたたちを疑ってるわけじゃないんだけど、今から向かう場所は、まさに〈ラタトスク〉の技術の中枢とも言える場所だから」
「――――そのような場所にわたくしを連れていくのは、些か配慮が足りないと言えますわね」
チュッパチャプスの棒をピコピコと揺らした琴里が、真隣から飛んできた苦言に眉をひそめた。
琴里の隣で膝に手を置き、礼儀正しい姿勢でジッと時間が過ぎるのを待っていた狂三。あの場にいた精霊全員を乗せたわけだが、その中には当然のように狂三まで含まれていたのだ。
当然といえば当然であり、今更といえば今更の苦言に、琴里はブスっとした顔を作って言葉を返した。
「仕方ないでしょ。あなただけ置いていったら、私が悪者になるじゃない。それに、あなたから目を離したら逆に不安だわ」
「まあ、信用がありませんのね」
「あるわよ。前にも言ったけど、悪い意味でね。てか、これから行く場所の位置、知ってたりしないでしょうね」
「いたしませんわ。わざわざ意味合いの薄い調べ物をするほど、『わたくしたち』も暇ではありませんもの」
「へえ、〈ラタトスク〉の最重要機密が薄いだなんて、大それたこと言ってくれるじゃないの」
「……どう返しても不機嫌になるではありませんの」
会話は殺伐としているが……何と言うか、以前に比べて二人の表情にどこか柔らかさがあるのは、きっと気のせいではないのだろう。
例えるなら、友人同士が行う軽い冗談を交えた会話とでも言うべきか。仲良くなってくれたのは嬉しいが――――それはそれとして、士道が傍観者に徹するだけなのはちょっとだけ、ほんの少しだけ、寂しい気がした。
いや、まあ? 大事な妹が大切な友人と仲良くするのは大変に嬉しいことなのだが? いつの間にか進展しているのはちょっとだけおにーちゃん寂しいというか? 誰に言い訳するでもなく、一体俺はいつからこんなに心が狭くなったのだろうか、と勝手に頭を抱え込んだ。
すると、士道の百面相に気づいた二人が、訝しげな表情で士道の顔を覗き込んだ。
「何よ士道。この程度で乗り物酔い?」
「あら、あら。大変ですわ。何か気分を良くするものはありましたかしら……」
「え……あ、ああ!! 大丈夫だ、ちょっと考え事してただけだからさ」
まさか、二人にジェラシー的なものを感じていたとか、男として器が知れる情けない考えを見せるわけにはいかず、笑顔を作りながら手を振ってなんでもないと誤魔化した。
加えて、別のことを同時に考えていたのも嘘ではない。この先に、本当に士道の求めるものがあるのなら。
「……琴里。今から行く場所に、六喰のいる所まで行く手段があるんだよな?」
「ええ。もうそろそろ着く頃だと思うけど――――――」
『――――司令、目的地に到着します。準備をしておいてください』
「ビンゴ。私の体内時計も捨てたものじゃないわね」
機内スピーカーからの音声の通り、数分後には軽い衝撃ののち、振動と駆動音が消え、それによって目的地に着いたことが示唆された。
士道の想像では、降り立つ場所はどこかのヘリポートだろうと軽く思っていたのだが、機械後部のハッチから作業員と思しき男に促され、降りた先には全く別の光景が広がっていた。
四方が壁に囲まれ、上方に目を向ければ空さえも見えない。ヘリポートとは程遠い、作業服姿の機関員たちも含めれば『格納庫』という表現が近しい。
当然、琴里が目指す目的地の終点はここではなかった。迷うことなくクルーを連れて歩いていく琴里に釣られ、士道たちも格納庫を出て長い廊下、厳重なセキュリティが施された扉を何枚も潜り、ようやく大きな入り口の扉が設置された場所へ辿り着く。
「ここよ」
琴里が扉の横に設えられた装置に手のひらを当てると、彼女の掌紋がトリガーとなっていたのか、何を撃ち込まれても平然としていそうな巨大な扉が開かれていき――――〝それ〟は、士道たちの目の前に現れた。
「……!! これは……!!」
目に飛び込んできた〝それ〟を見て、様々なことに慣れていた士道も目を見開く。
士道の後ろにいた精霊たちも、こぞって驚愕を顕にした。
「おお……!!」
「かか、なるほどな。確かにこれであれば、どこへなりと赴けるだろうて」
「ほぁー、すっご。何これ。ねえ妹ちゃん。資料用に写真撮っていい? 写真」
「駄目に決まってるでしょ。最高機密よ」
興奮冷めやらぬ、とはこういうことを言うのだろう。
かくいう士道とて、二亜の反応を笑うことはできない。目の前に広がる特大の建造物は、士道でなくとも興奮を抑えることはできないはずだ。
ゆっくりとした足取りで士道の隣に並ぶ狂三も、どこか心が踊っているように見えた。
「ふた月程度だと言うのに、随分と久しい気持ちですわね」
「……ああ」
久しぶり、と言える時間を離れていたか。だが、そう表現したくなるほど待ち侘びていたのかもしれない。今一度、狂三と共に〝それ〟を見上げた。
それは、『
白と瑠璃色で構成された先鋭的な艦隊。あらゆるものを必滅させる砲門に、大樹の枝のように広がる艦体後部。そこに輝く幾つもの『葉』。
全てを睥睨する
「――――〈フラクシナス〉……!!」
そう。〈ラタトスク〉が所有する空中艦〈フラクシナス〉。反転した折紙との戦いで損傷して以来、改修が続いていたこの艦は完璧な形で――――否、
「形が……少し、違う?」
「よく気がついたわね」
以前の〈フラクシナス〉との違いに気がついた士道に、ふふんと我が子を褒められたような顔で鼻を鳴らした琴里が、高らかにご高説を謳った。
「そう。これは今までの〈フラクシナス〉じゃないわ。〈ラタトスク〉最新鋭の
ばばーん、という音が鳴りそうな解説と共に、神無月が琴里の背後で両手両足を広げ、アルファベットの『X』のようなポーズを取る。あと、その両脇でクルーたちが左右対称のポーズを取ったり、残された令音が無表情でポケットから取り出した紙吹雪を舞い散らせていた。
なお、士道の興味を一番引いたのは、唯一パチパチパチと祝いを込めて手を叩く大変可愛らしい狂三であったのだが、それはそれとして新たな〈フラクシナス〉への反応も行う。
「え、エクス・ケルシオル……?」
「ええ。〈フラクシナス〉が損傷した直接の原因は折紙との戦闘だけど――――『前の世界』で、エレン・メイザースの〈ゲーティア〉に手酷くやられたのも事実だからね。ただ元通りに修理するだけじゃ足りないって思ったの。お陰で、かなり時間かかっちゃったけどね」
自嘲気味に肩を竦めた琴里の言葉に、士道は『前の世界』で起こった出来事を思い起こした。
今、この世界は本来あった歴史を辿った場所ではない。一度、士道と狂三の手によって書き換えられた世界線なのだ。
その書き換える以前、つまりはそれが『前の世界』。そちら側の歴史では、〈フラクシナス〉はDEMの艦に大敗を喫してしまったらしいのである。
今回の改修はそれへの対抗策――――物語的に例えるなら、〈ラタトスク〉による一種のパワーアップイベントのようなものなのだろう。
「なるほど……これなら六喰のいる場所に」
「ええ。ひとっ飛びよ。まだ調整が終わってないから発艦には少し時間がかかるけど、もう艦橋には入れるはずよ――――付いてきて。会わせたい子がいるわ」
指を曲げて士道を呼ぶ仕草をする琴里に、士道は首を傾げた。
「会わせたい子?」
「ええ。まあ、ある意味しょっちゅう会ってはいたけど、こういう形では初めてなんじゃないかしら」
「……? どういうことだ?」
「来ればわかるわ。ほら」
言うなり、〈フラクシナス〉艦体の真下へと歩いていく琴里。恐らく、機能を受け継いでいるであろう転送装置のためなのだろうが……。
「む? 誰かシドーの知り合いがいるのか?」
「それにしては、士道さんに心当たりがないようですわね」
「ああ……まったくわからん」
とはいえ、会えるのならさすがにわかるだろう。
全員で艦体の真下へ移動すると、それを確かめた琴里が「いいわ。お願い」と誰かに指示を出した。すると、士道たちの身体が淡い光と不思議な浮遊感に包まれ、次の一瞬には格納庫の風景は、〈フラクシナス〉艦内の風景へ変貌していた。
「……っと」
そうなのだろうとは思っていたが、やはり久しぶりに感じる不思議な感覚には、また慣れないものを感じてしまう。
息を整え、
上下2段の艦橋。中心の艦長席と、下部にあるクルーたちの座席や設備は見慣れたもので、それでいて〈フラクシナス〉よりも設備や広さが増設されているように思えた。そして一番の違いは、士道たちがここへ直接転送されたことだ。
「転送、直接艦橋にできるようになったんだな」
「ええ。艦内に幾つかターミナルを作って、どこへ転送するか選べるようになったの。ターミナル間の移動も可能だから、居住エリアから艦橋へも一瞬よ」
「なるほど、そりゃ便利だな……ところで、琴里、会わせたい子って?」
見渡したところで、見つけられるのは新品の艦内だけ。琴里が合図をした時、転送装置を起動したと思われる人物の姿もない。てっきり士道は、その人物こそ会わせたい子だと思っていたのだ。
と。琴里はそんな士道の反応を見て不敵に笑い、軽く顔を上げて声を発した。
「ハロー。久しぶりね、〈フラクシナス〉」
まるで、艦そのものに人格があるかのような言い方――――モニタがぼんやりと点灯し、意思が存在するかのような反応を示したことで、それが間違いではないのだと悟る。
『――――ええ。お久しぶりです、琴里』
「わっ!?」
艦橋に設えられていたスピーカーから、少女のような声が響く。想像の上をいく現象に士道は思わず身を反らし、精霊たちも驚きの顔で少女の声を出迎えた。
「な、何ですかー?」
「びっくり……です」
『失礼な反応ですよ、士道。相手が精霊ならそれだけで減点です』
感情の篭った声が響く。まるで艦そのものに説教をされたような感覚に、士道は心がけている冷静さをなくし目を白黒させた。
「こ、これは……」
「何を驚いてるのよ、士道。彼女にはいつもお世話になってるじゃない――――〈フラクシナス〉のAIよ。今回の改修にあたり、対話式のコミュニュケーションが可能になったの」
『こんにちは。お久しぶりです……というのもおかしいですね。いつもお世話をしています。コールサインは「マリア」です。これからまた、よろしくお願いします、士道』
合わせるように続いたその声に、士道は奇妙な感慨と、どこかに懐かしさすら覚えながら、長い付き合いとなった彼女へ笑顔を返してみせた。
「――――――、ああ……よろしく、マリア」
と。士道の挨拶を皮切りにして、精霊たちがモニタの前へなだれ込むように押しかけた。
別にモニタにマリアの顔や人格があるわけではないのだが、そこには『MARIA』とわかりやすい文字が表記されていたため、標識として単純だったのだろう。
「皆様、長時間の移動のあとだというのに、お元気ですわねぇ」
「まあ、気持ちはわかるけどな」
旧知であり、同時に新しい仲間を歓迎するという意味では良いのかもしれない。マリアを囲んでワイワイと騒ぐ精霊たちを、狂三と保護者気分で苦笑気味に見守っていると、琴里がやれやれという様相で手を叩いた。
「ほらほら、あんまりマリアを困らせないの。まだ仕事が残ってるんだから――――それで、発艦までどれくらいかかりそう?」
『機体調整にあと九十分は欲しいところです』
「時間がないわ。一時間で終わらせて」
『相変わらず容赦がないですね。将来の旦那さんが気の毒でなりません』
「……機体性能は上がっても、冗談のセンスは今ひとつのようね。今回の調整が終わったら再調整してもらおうかしら」
琴里から半目で放たれた脅しのようなジョークを気にした様子もなく、マリアはそのままクルーたちへ言葉を投げかけた。
『パーソナルコンソールのカスタマイズは前と同じ設定にしてありますが、一応念の為、各々確認しておいてください。この作業はこちらの調整と並行できますので』
クルーたちがマリアの言葉にそれぞれ頷く――――と、マリアは続けざまに声を発した。
『それと、艦橋への私物の持ち込みは最低限にしてください。居住エリアはプライベートな空間なのでそこまでうるさいことを言うつもりはありませんが、艦橋に藁人形や美少女のフィギュアが必要とは思えません』
……そういえば、あったなぁ。とか士道が呆れていると、当事者の〈
「そ、そんな!?」
「今までは何も言わなかったではありませぬかっ!!」
『伝える手段がなかっただけです。もしどうしても必要と仰るなら、理由を1200文字以内に纏めて提出してください』
「こ、これは敵の襲撃があった時、相手に呪いをかけられるように……」
「私は嫁たちが近くにいないとパフォーマンスをフルに発揮できないのでありますよっ!!」
『却下です』
鮸膠も無く、是非もなし。無慈悲な宣告に悲痛な叫びを上げる二人だったが、救いの女神はまさかの士道の隣から現れた。
「まあまあ、お二人の仰ることにも一理ありますわ……敵を呪う環境が来るかはともかく、中津川さんのモチベーションを低下させるのは、少しばかりナンセンスですわ。その程度は、許容して差し上げてくださいまし」
『……ふむ。狂三がそういうのであれば、多少は検討の余地がありますね』
さすがは狂三。AIにも見事な人望である。実のところ、藁人形に関しては適当なフォローに見えたので検討されるかは怪しいのだが、二人が狂三を崇め奉るように拝んでいたので良しとしよう。士道の目には、微笑む狂三から後光が差してる気がしてならない。というか差している。
「ああ、ああ。ですけど、その他のお方は擁護できかねますわねぇ、マリアさん」
『はい。別れた奥様やお店の女の子への私用電話はこれから一切取り次ぎませんのであしからず。自律カメラを昔の恋人のところへ飛ばしてくれないかなどというのは論外です』
『……えッ!?』
拾う神あれば捨てる神あり。他人事のように笑っていた〈
今更に今更を重ねたことだし、士道も日頃から助けられている以上あまり強くは言えないのだが、
「あなたたち……〈フラクシナス〉の設備をそんなことに使ってたの?」
「あ、いえ、その」
「ご、誤解です!! 私たちは常に真剣に任務と向き合って……」
必死の弁解も、〈フラクシナス〉の意思そのものと言えるマリアによる証言がある以上、全くもって説得力が皆無だった。というか、この調子だと罪状はまだまだあるのだろうなと、士道は呆れながら頬をかいた。
「はあ……とにかく、今は時間がないわ。マリアと一緒に調整を済ませておいてちょうだい」
『はっ!!』
敬礼を見て、満足げに頷いた琴里は、続けて次の言葉を発した。
「さて、じゃあ私たちは……」
『琴里。そういえば基地内に、琴里たちとの面会を希望している方がいらっしゃるのですが、いかがいたしますか』
すると、マリアが遮るようにそれを報告してくる。
琴里
「面会希望? 一体誰よ」
『はい――――――エリオット・ウッドマン議長です』
「……は?」
士道の聞き慣れない名前に、しかし琴里はポカンと口を開けた。
「……シドー、シドー」
「ん、どうした、十香」
「いや、そのウッドマンというのは何者なのだ? 琴里が随分と畏まっているようだが……」
確かに、相当珍しい光景がそこにはあった。
艦橋で調整を進めるクルーたちと別れ、〈フラクシナス〉から出た士道と精霊たちは再び長い廊下を歩いていた。
その先頭。琴里はマリアから『ウッドマン』という名を聞いた途端、慌てて肩掛けにしていたジャケットに袖を通し、ボタンまで閉めたのだ。普段の威厳を保つ司令官の琴里を見ていれば、まずありえない畏まり方。十香の疑問に答えたのは、まさにその琴里だった。
「――――ウッドマン卿は、〈ラタトスク〉の意思決定機関である円卓会議の議長よ。……実質的な〈ラタトスク〉のトップにして、創設者。彼なくして〈ラタトスク〉は生まれなかったといっていいわ」
「……!!」
〈ラタトスク〉の実質的なトップ。なるほど、琴里が畏まるのも頷ける――――同時に、士道は六喰の言葉を思い起こした。
知的好奇心とでもいうのか。それを知ったからと言って、士道の信念が変わることはない。けれど、
「――――くるみん、ウッドマンって……」
「……二亜さんのご想像通りですわ」
と、士道はひっそりと会話をする二人に気づく。士道たちからほんの少し距離を取り、狂三と二亜が難しげな顔をして会話をしていた。
「……どうした、二人とも。随分と怖い顔してるけど」
「……!!――――んー? 少年の顔はいつ見てもかっこいいなぁって話をしてただけだよん。ねーくるみん」
「ええ、ええ。本日も整ったお顔ですわ。とても女装が似合うくらいに」
「え、だーりんが士織さんに!?」
「ならんわ!!」
「えー、残念ですぅ。次の機会を期待しまーす」
「たくっ……」
息を吐いて視線を前に戻す――――フリをして、チラリと後ろへ目を向ける。
そこには相変わらず、冗談とはかけ離れた顔で会話する狂三と二亜がいた。誤魔化されこそしたが、二人にしてはかなりわかりやすい。それだけ、
が、士道が二人の会話の全貌を知るより前に、目的地に辿り着くのが先だったようだ。
「さ、入って」
「……失礼します」
扉の横に付いていたインターホンのような装置のボタンを押し、来訪を報せた琴里が扉を開け、僅かな緊張を保ちながら士道たちは部屋に入っていった。
先程までの機械的な建物の風景とは違い、そこは一つの書斎のような印象を抱かせる一室。その最奥、執務机の奥に、二人の人物がいた。
一人は、車椅子に座った初老の男。縁の細い眼鏡に、長い髪を一つに結わえた温厚そうな男。その脇には、眼鏡をかけたまさに出来る女、という雰囲気のスーツ姿をした女性が控えている。
「え……?」
「む?」
二人の姿に疑問を持ったわけではない。が、士道と十香は眉根を寄せて二人の姿をよく観察する。
見間違いなどでは、ない。士道たちは一度、
「ぼ、ボールドウィンさん……?」
事は、数ヶ月前。ちょうど、七罪と出会う直前のこと。街に買い出しへ出かけていた士道と十香は、今目の前にいる
確かあの時は、病院の場所を知りたいと士道たちに道案内を頼み、士道もそれを快く受け入れたのだが――――彼が見せる年齢に似合わぬ悪戯者の少年のような表情から察するに、どうやら出会いは偶然などではなかったようだ。
「やあ、久しいね。そちらのお嬢さんも、元気そうでなによりだ――――改めて自己紹介をさせてもらおう。エリオット・ボールドウィン・ウッドマンだ」
街で会った人が、まさか自分たちが世話になっている組織のトップだった。思わず、士道と十香は目を丸くして顔を見合せた。
「……!! ウッドマン卿、二人と会ったことが?」
「前に天宮市に行ったとき、少しね」
「お戯れを……!! 何かあったらどうするつもりですか!!」
「はは、悪かったね。以後気をつけるよ」
言葉ほど悪びれた様子がないところを見るに、想像していたようなお堅い人という印象は見られない。むしろ、以前出会った時に見せていたプレイボーイな一面も合わせ、とても気さくな人という印象を抱かせる。
……まあ、額に手を当ててため息を吐く琴里を見るに、部下からすれば少し困りものなお茶目な性格をしているのだろうけど。
と、ウッドマンがそれまでの表情から変わり、真剣な顔で士道の方へ向き直った。
「さて、今日は突然すまなかったね。本来ならこちらから出向かねばならなかったのだが……」
「いえ、そんな」
「――――まずは、感謝を。精霊たちを救ってくれて、本当にありがとう」
「え、あ、いや」
改めて、礼を言われると戸惑いが先行してしまう。士道は士道のしたいことをしたに過ぎないし、そのことに関してこんな誠実に礼を尽くされては、何とも照れくさくなってしまう。
「お礼を言いたいのはこっちも同じですよ。〈ラタトスク〉がなかったら、俺は精霊って存在がいることすら知らなかったかもしれないんです。何も知らないまま……みんながDEMやASTに攻撃され続けてたかもしれないなんて、考えただけでも、辛くて仕方ない」
〈ラタトスク〉がいなければ――――狂三の心を知ることすらなかったかもしれないのだ。それだけは、嫌だ。そして、もう一つ。
「それに、五年前、〈ファントム〉の手で精霊にされた琴里を助けてくれたことも、感謝してます。ありがとうございます」
それは、士道では出来なかったことだから。ずっと言いたかった謝礼を頭を下げることで表し、ウッドマンはそれを素直に受け取るように頷いてから、士道の目をジッと見つめてきた。
「――――では、次は謝罪を。こんなことに巻き込んでしまって、本当にすまない。そして、先の〈ダインスレイフ〉の件についても、謝らせてくれ。今後ああいったことは絶対に起こらないよう、厳命を下した」
「……気にしてない、って言ったら嘘になります。けど、暴走の危険がある以上、それに備えることは必要です――――それに、事前に説明されてても、多分俺は、精霊たちを助けたいって馬鹿正直に言ってたと思うから……」
「シドー……」
それはきっと、間違いなんかじゃない。少なくとも、士道の中では正しい感情だ。
十香が歓喜の中に、士道の危うさを感じ取っている声を発した。それを安心させるように、彼女の頭をぐりぐりと撫でた。
この優しい精霊たちを救うことができたのなら、士道のがむしゃらに走ってきた道も間違えではないと胸を張れる。
だから、こそ。気づけば士道は、その問いを口にしていた。
「……あの、一ついいですか」
「なんだね?」
「〈ラタトスク〉には、凄く感謝してます。……でも、どうして〈ラタトスク〉は、精霊を助けようとするんですか?」
「……ふむ」
士道の問いに、ウッドマンは僅かに首を傾げて声を返す。
「何か……迷うようなことがあったのかな?」
「……迷い、ってほどじゃないです。でも、自分たちを助けてくれる組織が、何を考えているのか、今だからこそ知っておきたいと思いました――――何も知らないで、大事な時に後悔はしたくないんです」
士道の言葉に、部屋の反対で二亜と共にいた狂三の眉の端が僅かに動いた、気がした。
すると士道とウッドマンの会話を見ていた折紙が、同調するように言葉を続ける。
「それは、私も気になっていた。〈ラタトスク〉が精霊を救う。それはいい。その点については私も感謝している。でも、その先に、何があるの。莫大な予算を使ってまで精霊を集める理由は、何」
「それを気にするのは当然だ。確かに〈ラタトスク〉という組織は、君たち精霊にとって『都合が良すぎる』。不審に思うのも無理のないことだ」
しかし、そう自ら納得しながら、ウッドマンは苦笑をもらした。
「だが……困ったな。君たちがすんなり納得してくれるような理由を、私は用意できないかもしれない」
「……、どういうこと?」
「『精霊を救うこと』。……それが、私の最大の目的なんだ」
「…………」
具体性のない答えに、折紙が訝しむように眉根を寄せた。
そこで、折紙が言葉を紡ぐよりも早く、ことの成り行きを見守っていた二亜が声を上げた。
「さっすがに……聖人君子過ぎるんじゃない? 水清ければなんとやら。そこまでいくとちょっと胡散臭いよ」
「二亜……?」
いつもの気のいいお姉さんではなく、鋭い刃物を突きつけるような声色。それを突きつけたまま、二亜は続けて声を発した。
「ウッドマン。エリオット・ボールドウィン・ウッドマン。それがあんたの名前。……間違いないよね?」
「ああ。間違いない」
「――――そ。じゃ、あたしからはここまで。あとはよろしくね、くるみん」
言って、仕草だけは軽い調子で手を振って士道たちの元へ合流する二亜。彼女が離れたことで、ウッドマンともう一人――――時崎狂三が、視線を交わらせた。
「君が、時崎狂三か」
「ええ、ええ。まずは、わたくしも感謝を述べるべきなのでしょうね。あなたがいなければ、わたくしはこうも自由に動くことはできなかった」
「え?」
狂三はまだ、〈ラタトスク〉の庇護下に入っていない精霊だ。それなのに、狂三とウッドマンにどういう関係があるのか。
士道が意外そうな声を上げると、ゆっくりと足を運ぶ狂三がその理由を続けた。
「あら、お気づきになられませんでしたの。無害な士道さんお一人を恐れるような愚か者を抱える組織が、封印のなされていない精霊を〈ラタトスク〉の施設に自由に出入りさせるなど、ありえない選択だとは思いませんこと?」
「あ……」
「きひひ。まあ、わたくしが何か粗相をしてしまった時は、もちろん琴里さんの首一つでは済まなかったのでしょうが……わたくし、淑女の嗜みは心得ていますので」
「……ふん。借りてきた猫みたいにしてた理由はそれ? 可愛げがないわね」
腕を組んで憎まれ口を叩く琴里に、狂三はフッと微笑んで肩を竦めた。
指摘されてみれば、その通りだ。七罪の一件からわかる通り、力を持った精霊に自由にされては、莫大な資産と技術力を持つ〈ラタトスク〉といえどひとたまりもない。
だと言うのに、〈アンノウン〉の件を含めて狂三は施設内で比較的自由な行動を許されていた。その理由は、一重にウッドマンが琴里を信頼して裁量を与えていたことが要因なのだろう。
結果として、それらは士道たちに良い動向をもたらした……が、狂三の表情はとても感謝しているだけとは思えない。そう……まるで何かを抑え込むような微笑みに、士道は嫌な予感から眉をひそめた。
琴里の隣についた二亜が、声を発したのはその時だった。
「ああ、少年。言い忘れてたけど――――くるみんの手綱、ちゃんと握っといてね?」
「な――――――ッ!!」
その声から、駆け出すまで、一秒と必要としない。
全力で狂三へ駆け寄り、半ば直感で手を伸ばす。ひたすら、愚直なまでに狂三のことを見てきたからこそ、彼女の癖は読めているつもりだ。
伸ばした先で、イメージ通り狂三の指と接触させる――――ただ、いつものような高鳴りがないのは、挟み込んだ士道の指の裏側に、
ドっと汗が流れるのを実感しながら、士道は強がって笑い、冷たい微笑みを見せる狂三と接的する。
「……お転婆がすぎるぜ、お嬢様」
「ああ、ああ。士道さんなら、必ず止めてくださると信じていましたわ」
「悪いが左手は、なしだ――――二つは、止めれそうにない」
言って、下げられた狂三の左手を自身の右手と絡ませる。
二つ目はこれで封じた。しかし依然として――――ウッドマンに向けられた右手の銃口は、下げられていない。
喪服すら連想させる黒の衣装は、一瞬にして
誰もが呆気に取られる中、狂三は明確な殺意を込めた瞳で、ジッと彼女を見据えるウッドマンを睨みつけた。
「エリオット・ボールドウィン・ウッドマン。知っていますわ、識っていますわ。〈ラタトスク〉の創設者にして――――――DEMインダストリーの生みの親」
「な……!?」
狂三の言葉に思わず息を詰まらせ、指が引き金に微かに触れ、嫌な音を立てた。士道たちだけではなく、二亜を除く精霊たちも皆一様に息を詰まらせる。
DEMインダストリー。それは、〈ラタトスク〉の対極に位置する組織の名。さらに狂三は、それを超える言葉を、酷く感情の篭った声で吐き出した。
「そして、アイザック・レイ・ペラム・ウェストコット。エレン・ミラ・メイザース。DEMを創り上げたこの二人と共に――――――三十年前、因果の始まり、
氷帝を思わせる零度は、されど憎しみの炎の如く。
激情と、憎悪と、何もかもを乗せた時崎狂三の眼は、冷たすぎる微笑みと共にウッドマンを射抜いた。
因果の始まりを引き起こした罪人と相対した復讐鬼は、何を選ぶのか。
まあ、原作にないタイミングで狂三がいたら……次に会ったら殺してしまいそう、と原作でもらしていたのは当然のこと。
もしかして完全に狂三から問題起こしたのは狂三フェイカー以来なのでは。ここまで解決側に回っていましたし、主な問題の士道部分がデートによって進退繰り返していたのでそらそうなるわ。だからこそ、今回ばかりは狂三がスルーできることではないんですよねぇ。
さあ、無慈悲にして無意味な復讐を、それでも止められない衝動を、士道はどう受け止めるのか。今の彼らしいといえば、彼らしいものが見られるかもしれませんね。
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