身を焦がす熱というものは、こういうことを示すのであろうか。
露天風呂の湯船は、冷えた身体を温めてくれる素晴らしいものだ。だからその熱は、熱を持つ感情の正体は――――――
「……ふむ、いい湯だね。それに景色もいい」
「そうですね。雪も残ってて……ッ!?」
咳き込んでしまったのは単純に、恐ろしく興奮を誘いながら目に毒なものを視界に入れてしまったからである。
景色よりも先に目に飛び込んできた、たわわに実った桃源郷。なんと、湯船にぷかぷかと浮いていた。……実のところ、似たようなシチュエーションでこっそり見た記憶は残っているのだが、二度目だろうと驚かない人間はよほど女性をはべらせていることであろう。
士道の視線と反応でこのことに気がついた令音が、視線と下へ、そしてまた上に戻した。
「……ああ。すまないね。どうも浮いてしまうんだ」
「いえ……結構なお点前で」
自分でも何を言っているかわからなかったが、何故か言わなければならない気がした。ちなみに、手を合わせて拝むことは控えておいた。どこからか強烈な殺気が飛んできている気がしたからだ。愛しい女に殺されるのは結構だが、せめて理由は恥ずかしくないものでありたかった。
ともあれ、露天風呂に二人きり。水着などの衣服もなく、浴槽に注がれる湯の音と木々の騒めきは距離を塞ぐものではなく、距離を縮めるものにすらなり得る。
距離はなく。隔てられるは透明な湯のみ。距離を詰めるには、最高のロケーションというもの――――もっとも、普通であれば詰める距離とシチュエーションの順序がおかしくはあるのだが、その辺は狂三で慣れていた。
「――――そういえば令音さんって、いつ頃から〈ラタトスク〉にいるんですか?」
「……ああ、そうだね。今から五、六年ほど前になるかな。琴里が司令官に着任したのとだいたい同じくらいだよ」
「そっか。……なんか、ありがとうございます」
「……何がだい?」
不思議そうに首を傾げた令音に、士道は偽りない本心を口にした。
「いや、ずっと琴里を支えてくれてたわけですし。あの頃――――琴里、大変だったと思うんで」
琴里は精霊化の直後、〈ラタトスク〉に見出され、今の司令官という立場に着いた。創設者のウッドマンの尽力もあったのだろうが、やはり身近に頼れる人がいたというのは、何も知らなかった士道からしてもありがたいことだった。
……その〝結果〟を生んだ〝原因〟が他ならぬ澪であるのだから、美談というわけにはいかないのだが。
「……大したことはしていないさ。私などいなくても、きっと彼女はいい司令官になっただろう」
「まあ、琴里が優秀って点については否定しませんけど」
兄というフィルターを通さずとも、琴里は世界に出しても恥ずかしくない自慢の妹だ。それは、迷いなく誇っていい。
冗談めかして笑いながら言うと、通信機の向こうから小さく噎せるような音と特徴的な笑い声が聞こえてきた。なんか、妹が背中をさすられているような気もした。
「その前は一体何を?」
「……その前、かい。妙なことを聞きたがるんだね」
「――――はい。もっと知りたいんです。令音さんのこと。俺、よく考えたら令音さんのこと、全然知らないから」
知らない。知ろうとしても、やんわりとはぐらかされていたであろう。
――――白い少女の過去を聞いて、感じた。いいや、他の精霊たちもそうだった。過去を知り、感じて、ようやく士道は彼女たちの心に触れられた。触れることを、僅かであっても許された。
救いたいから、そう願うから。何より……知りたかったのだ。『村雨令音』という女性の、
士道の言葉に数秒の無言を挟み、水滴の波紋を広げ令音は声を発した。
「……別に、面白いことは何もないよ?」
「いいんです。それでも」
「……その前は、普通に学生さ。別に特筆すべきこともないが――――ある日〈ラタトスク〉からスカウトを受けてね。どうも、私の書いた空間震に関する論文が、〈ラタトスク〉上層部の目に留まったらしい」
あの少女もそういうきらいがあるのだが、物凄いことをなんてことないように語るよなぁ……と、士道はまた一つ共通点を浮かべながら会話を続ける。
「いや、その時点で普通じゃない気が……ていうか学生って、大学ですか? まさか高校の話じゃないですよね? そもそも令音さんって今……」
「……女性に歳を尋ねるのは野暮というものだよ」
当人にそれを言われては、士道も追求を止める他ない。人差し指を口元に当てる令音に、苦笑しながら肩を竦めた。
精霊という存在に、実年齢が意味を成さないことを知っている――――確か以前、狂三が提唱した〝精神が肉体の状態に引っ張られる〟という理論も関係しているのかもしれない。
ただ、それを差し引いても、令音の過去は上っ面だけではなく実際に〝あったこと〟なのだろう。
令音は狂三同様頭のキレる精霊だ。〈ラタトスク〉に入るため、偽の経歴を用意する程度は惜しまなかったはずだ。詳細な調査に耐えうる戸籍と実際の生活。長い時を、耐え忍んできた。
全ては、無関係な人間として士道と再び会うために。
その側で、真士の覚醒を待つために――――白い少女が狂三を生かすためだけに『女王の従者』を作り上げたように、『村雨令音』として、必要な人生を作り上げた。
「…………」
悲痛すぎる覚悟が胸を痛めつける。狂三のことを想い、士道が涙するように。澪のことを想い、真士が涙する。
自分が死んでしまったばかりに、澪に歩ませてしまった悲愴の道行き。零れそうになる涙を誤魔化すように、士道はぱしゃんと顔に湯をかけた。
「……シン?」
「……、もっと聞きたいです。令音さんの――――昔の話。教えてくれませんか?」
「……それは、構わないが」
――――滔々と語られる。白い少女と同じように、過去を。
幼い頃両親と死別したこと。少ないながら仲のよい友だちと過ごしたこと。学生時代は科学部に所属していたこと。常に寝不足で青白い顔をしていたものだから、昔のあだ名が吸血鬼だったこと――――
全てが本当、というわけではない。誇張や冗談も当然含まれてはいた。けれど、『崇宮澪』ではない人間の、紛れもない履歴だった。
「……と、まあ、そんなところさ。――――退屈な話だろう?」
「いえ……そんなことはないです。そんなこと……ありません」
首を横に振り、退屈という言葉を否定する。
退屈なものか。彼女の人生を、士道はもっと聞いていたかった。
――――令音の過去から抜け落ちた、最も重要な存在のことも。
「もう一つ……いいですか?」
「……ん、なんだい?」
「令音さんは――――好きな人とか、いたんですか?」
それは、令音が口を噤むには十分な問いかけだったのだろう。しばしの間沈黙を挟み、だが数秒をして令音は普段の声音で返してくる。
「……あいにく色恋沙汰にはとんと縁がなくてね。ただ――――――」
ただ。そう、令音は深い一泊を起き、ふっと顔を上げた。
「……そうだね。一人だけ、いたよ――――君が狂三を想う気持ちと同じくらい、大切な人が」
「――――っ」
小さく、士道は息を詰まらせる。
『一人だけ』。そして、士道にとっての狂三と、同じだけ。それは『令音』として愛した誰かではなく、真士を示しているのだと、士道には理解できてしまった。
ああ、そうだろうとも。澪にとって真士がそうであったように、士道にとっては狂三がそうなのだ。
もし、もしも、狂三が真士のように――――そうなった時、きっと士道は士道ではなくなる。『五河士道』ではない
同時に、士道は真士としての記憶がある。だから、感じる。自分の死後、澪を縛り続けてしまった悔恨。死してなお、自分を想い続けてくれた複雑な歓喜。
士道と真士。複雑な記憶と感情――――抑え込むために、咄嗟のことであった。
「令音、さんは……」
「……うん?」
「――――狂三のこと、好きですか?」
士道の問いは、令音の目を見開かせる。驚くに、決まっている。令音にとってそれは――――
その問いに意味はあるのか。その問いは、ただ士道の自己満足なのだろう。二人きりで、他の女の名を出す。それだけで、決して良いことではない。それでも、誰より彼女から聞きたかった。
士道の意図を……いいや、そのようなものは、わかりきっていると言わんばかりに微笑んで、令音は唇を震わせた。
「……好きだよ。とても、好ましく思う――――彼女には
「ああ――――良かった」
不思議と、そんな言葉が零れ落ちていた。
令音の感じる狂三への情は、単純なものではない。
数々の激動から士道を守り、士道の生きる世界を繋ぎ止めた精霊。士道の生きる活力となり、ここまで道を切り開いた精霊、時崎狂三。
精霊を産み落とすという罪過。その過程にて、恐らくは唯一、
言わば、誰より澪の道を繋ぎ、澪を真士へと導いた特別な精霊。それが、狂三という少女だったのだ。……まあ、もしこれが狂三に聞かれていたら〝反吐が出る〟やら〝クソ喰らえ〟などの普段は聞けない罵詈雑言の嵐なのだろうけれど、と想像に容易く士道は内心で苦笑を浮かべた。
だから、〝良かった〟のだ。澪が誰かを想う気持ちは嘘なんかじゃない。誰かを想い、優しさと慈愛に満ちた精霊。澪がそれを捨ててしまっていたならば、士道と狂三もまた
そんな士道の心からの安堵を、どうやら
「……安心したまえ。皆、同じ気持ちさ……君がどのような答えを出そうと、
「っ……はい、ありがとうございます」
強い親愛の念。そこに、歪なものを感じざるを得ない理由。それは……。
「……ところで、先程から私ばかり話しているのは不公平ではないかな」
「へ……?」
「……少し、君の話を聞かせてくれないか?」
言われてみれば、令音にばかり話をさせていたのはもっともなこと。だが、士道の話と言っても……そんな意味を込めて、士道は戸惑いの声を返す。
「って言っても……俺のことなんて、大体〈ラタトスク〉が調べているでしょう?」
それこそ、黒歴史から士道の知らない士道のことまで、隅々と。〈ラタトスク〉の力を駆使すれば、士道一人のプライバシーをフリー素材に貶めるのに実力の二割と必要なかったであろう。
しかし、令音は乾いた笑みを浮かべる士道へ首を振って否定した。
「……それはあくまで文字の羅列、外面的な事実のみさ」
外面的な事実があるなら十分なのでは……と、以前までなら考えていたかもしれない。
外面的な事実が、その人の全てではない――――少なくとも〝最悪の精霊〟と呼ばれた彼女に関しては、事実が真実ではなかった。
「……私も前から、君の昔の話を聞いてみたかったんだ」
「昔の話……ですか?」
「……ああ。君は――――五河家に引き取られる前のことを覚えているかい?」
「……!!」
――――興味と好奇心、そして不安感。
令音の双眸から感じ取ったものから、士道はその問いかけが純粋に『士道』へ向けられているものだと悟る。
真士ではなく、十七年……『五河士道』としての記憶を頼りに、答えた。
「……正直、あんまりはっきりとした記憶はないですね。覚えているのは、温かい手に抱かれる感覚と……その手が、どこかへ行ってしまうような喪失感……ですかね。きっとそれが……俺のは母親だったんだと思います」
「…………」
その答えに数瞬の間を使い、令音は続けた。
「……君は、自分を捨てた母親を恨んでいるかい?」
「え……?」
驚くべき問い――――否。令音にとっては、当然の問いかけなのかもしれない。
『五河士道』は崇宮真士の器となるべく、精霊の力を付与され、産み直された存在である。そんな士道にとって令音は母親と言っても差し支えない対象であるし、令音にとっても士道は子供という側面を持つ。……その意図に、士道が気がついていると令音は知る由もないのだろうけれど。
十七年に及ぶ己の生。士道は、記憶に従う本心だけを顕にした
「恨んでなんて……いませんよ」
「……ほう。そうなのかい?」
興味深そうなその声音には、真実を知った今だからこそ感じられる、僅かな安堵が含まれている気がした。
「……はい。確かに今の家に引き取られたばかりのときは、泣いてばかりいた気がします。でもそれは、それだけ母親が好きだったから……なんじゃないかって思います。それに……覚えてるんです。俺を抱く手が、どんなに優しかったかを」
「…………」
「――――きっと、何か事情があったんだと思います。捨てたくて捨てたはず、ありません。そんな人を……恨んだりなんか、できませんよ」
「…………そうか」
言霊を噛み締めるかのように、令音が深く目を伏せる。
士道は、「それに……」と付け加えるように、もう一つの隠された感謝を彼女へ告げた。
「俺を産んで、狂三と出逢わせてくれた――――どんな事情があっても、そのことだけは絶対に変わらない。ありがとう……って、伝えたいです」
「――――――」
その表情は、未来で見てきた中にあったもの。どんなことがあろうと、士道と狂三の気持ちは同じだった。たとえ間接的だとしても、士道は士道の言葉で改めて、その感謝を伝えておきたかった。
ただ、目を丸くした令音に士道は苦笑しながら続けた。
「すみません。また狂三のことで……今日は令音さんとのデートなのに、不誠実だな」
「……いや、構わない。むしろ、君のそういったところを好ましく思うよ。……〈ラタトスク〉としても、好ましい選択かな?」
「あ、あはは……」
これまた、笑いづらい冗句である。頬をかいて曖昧に笑いながら、士道はもう一つ付け加えるように言葉を発する。
「まあ……できることなら、もう一度抱いてくれたらと……思わなくはないですけどね。……こんな歳になっておかしな話かもしれませんけど」
「……ふむ」
見慣れた思案顔であごに手を当てた令音が、しばしその仕草を継続したと思ったら、ちょいちょい、と士道を手招きし始めた。
「……おいで、シン」
「………………へ?」
困惑する士道を他所に、令音は士道の手を引っ張り、引き寄せた背中へ覆い被さるように手を回し、ぎゅうと抱きしめた。
「……よし、よし」
柔らかな感触が二つ――――あ、マジで狂三と渡り合えるくらいあるな、とか妹にぶん殴られそうなことを現実逃避として考えながら、士道は真っ赤にした顔のまま悲鳴の如く声を絞り出した。
「ちょ……令音さん!?」
「……何もおかしくはないさ。少しくらいいいじゃあないか。――――私では代わりにならないかもしれないけれどね」
「令音さん……」
強ばっていた身体から、自然と力が抜けていく。
その温もりは、士道の記憶の奥底にあるものと相違ない――――そう、思いたかった。
「…………」
微睡みの中で、士道は小さく唇を噛んだ。
崇宮澪は、無慈悲な虐殺者でも、狂った殺戮者でもない。
未来の世界で聞いた澪の言葉。令音と過ごした十ヶ月の記憶。
士道を思いやり、精霊たちを慈しみ、自らが犠牲にしてきた人々を悼む心を持つ。三十年前と変わらない。否、より一層強くなっている優しさと慈愛がそこにはあった。
ただ――――
悲愴なる覚悟と、修羅の道――――それを知っていた少女は、澪に対してどのような感情を抱いていたのであろうか。あの少女にとって、崇宮澪とは、何者なのか。
『私は――――崇宮澪から望まれなかった、崇宮澪の
あの時の表情は、感情は――――ただ
澪であって澪ではない。澪と同じ道を選びながら、交わらない道を歩んだ精霊。
彼女たちの歩みを、心を思うと、士道は胸が張り裂けるような錯覚を覚えてしまう。
「――――――」
だから、
どの選択が正しいのかはわからない。けれど、彼女を止められる可能性があるとすれば――――一つ、賭けるべきものがあった。
「――――令音さん」
「……ん、なんだい、シン」
自分を抱きしめる令音の手を握り、囁くように問う彼女へ、意を決して士道は言葉を続けた。
「あとで……見せたいものがあるんです。付き合ってくれますか?」
これは、命運を分かつ賭け。だが、士道はその賭けに勝算を見出した――――澪の記憶を知る白い少女が
令音は不思議そうな顔をしながらも、
「……ああ。もちろん」
そう、頷いた。
三十年、精霊を縛り付けた宿命――――ここに因果は、巡る。
令音としてならば琴里がいたのでしょうが、澪としては生きている親友は狂三しかいないんですよね。まあ、親友と呼ぶには些か歪なものなのでしょうけれど。
澪は狂三のことが好き。そこに偽りはない。ないからこそ、澪の覚悟が目に見えるというもの。狂三側は……めちゃくちゃ複雑、だとは。特にリビルド内では〈アンノウン〉の存在で拗れが加速してますし。
ところでこの士道、肝が据わっていらっしゃる。やっぱ大人の階段を登って強くなry
高評価ありがとうございます!!いや本当に!!活力になります!!これからもよろしくお願いします!!
自分でもどうかと思うくらい評価とか感想が好きなんですけど、俗物な分、私なりに物語で返していけたらなと。ここまで一度も失踪してないの我ながら褒めたいです。まさか本当にこのペースで最終章まで来れると思わなんだ。
感想、評価、お気に入りなどなどお待ちしておりますー。次回をお楽しみに!!