「やー……俺ああいう本格的なマッサージって初めてだったんですけど、気持ちいいもんですね」
「……ああ、そうだね。肩の凝りが軽くなった気がするよ。それに、宿の近くで売っていた酒まんじゅうも中々の味だった。蒸し立てというのはああも違うものなんだね」
「ですよね!! 十香たちに買っていってあげたら喜びそうです」
「……ふ、今日のことは精霊たちには秘密ではなかったのかな?」
「あ……そうでした」
すっかり忘れてた、というように士道が苦笑して、何かに気がついたように「あ」と続けてきた。
「令音さん、そこ段差ありますんで気を付けてください」
「……ん、すまないね」
慎重を期した足取り――――令音は今、目を瞑り、士道に手を引かれながら外の道を歩いていた。
「……にしても、見せたいものとは何だい? 随分宿から歩いたようだが」
「それは見てのお楽しみです。でも……きっと気に入ると思いますよ」
「……ふむ。ならば楽しみにしておこう」
目を開けず、士道の手を頼りに歩き続ける。その行動に、令音が感慨を覚えないはずがない。
なぜなら、その願いは、この行動は――――
真士の記憶が士道の人格に影響を与えているのか。それとも、士道もまた真士である以上――あの子のように――似たような発想をするということなのか。どちらにしろ、令音はこのお願いをされた時、内心で大層驚いてしまった。
ただ、今日の驚きがそれだけだったのか……そう問うたならば、否定を乗せて首を横に振る他ない。突然デートに誘われたことはもちろんだが、行き先が旅館だったこと、そして令音の過去を知りたがったことも驚きだったからだ。
何か士道に心境の変化があったのか。それとも、狂三との決着を前に、常日頃から抱いていた欲求や疑問を解消したいと思い立ったのだろうか。
前者であるならば、一つの推測を立てるのは簡単だ。士道の中にある真士の記憶が、段々と表面化し彼へ影響を及ぼしている可能性。
必要な
そうして士道が
だが、もしそうでなかったとしたら。つまりは後者――――狂三との決着を前にして、士道が令音に何かしらの興味を抱き、それを表面化させていたのだとしたならば。
そうであった場合、令音の感情は〝喜び〟から〝複雑〟という意向を示すことになる。
五河士道は崇宮真士に至るための仮の人格であり、村雨令音は崇宮澪の仮の姿――――――ならば、
澪から生まれ、けれど澪が認知しなかった存在。そんな『私』の知らない『私』を、令音は
「令音さん」
「――――っ」
思考を巡らせていたの思考が、士道の声で現実へ帰る。一瞬、無言での思案が悟られたのかとも考えたが、士道はその考えを否定するように次いで言葉を使った。
「着きました。もう目を開けてもいいですよ」
「……ん――――」
士道の言葉に従い、ゆっくりと目を開ける。
そう、
「――――――」
故に、言葉を失う。壮大な光景に、目を奪われる。
視界の全てを呑み込む水平線。それは陽光を浴びて輝く、水面。
砂浜に寄せては返す波。潮騒が音楽のように穏やかで。海猫の声、磯の香り。普段の令音ならば、手を引かれていた段階で気がついていたはずなのに。思考に気を取られ、気がつくことが出来なかった。
だからか、その景色を構成するあらゆる情報が、かつてと同じように五感に叩きつけられる。
「……っ」
それは――――海と呼ぶものだった。
そして、何よりも、この場所は――――三十年前、
「……無茶、しますね」
自然と零れ落ちた言葉は、自覚をするほどに震えていた。
当たり前だ。モニタに映し出された光景は、それほど少女に衝撃を与えるものだった。
少女にわからないはずがない。少女が知らないはずが、ない。少女は『崇宮澪』の記憶を所持している。主観ではないにしろ、強く、恐ろしく、そして少女へ影響を及ぼす記憶。
その記憶の最たるもの。その記憶が決して忘れ得ぬもの。見紛うことなどありえず、否定することもまた、ありえない。
――――士道と令音が訪れた場所は、少女の記憶領域に収められた中で、時崎狂三を除き最も強烈な残滓の一つである、澪と真士の思い出の海そのものなのだから。
この場所を使うということは、即ち真士を連想させるということ。士道と真士――――片時も忘れることのなかった澪にとっての愛しい人を、どこまでも意識させることに他ならない。
「ええ……これは、危険な賭けよ。石橋を叩いて渡るどころか、石橋を壊しかねないやり方」
モニタに注視しながら、琴里は額に汗を滲ませ少女の呟きに答えた。他の精霊に関しても、皆一様に固唾を飲んで見守る、という表現が適切な顔をしている。
無茶、無謀……恐らく、彼女たちは
「……リスクは承知の上、なのですね」
「この作戦で一番紛糾した場所だもの。でも、ここしかないのよ。令音に――――澪に、心を開いてもらうには」
崇宮澪が、神と見紛う存在が永劫記憶に刻む地平。そこを敢えて選ぶという、多大なリスクを背負う選択。しかし、だとしても
「あなたが
「……ええ」
「だからこそ、よ。……それほどの場所があるなら、使わないわけにはいかないわ。いいえ、
唇を引きしめ、祈るように手を握る琴里を見て、少女は彼女たちの意図を……士道の意図を理解した。
士道はこの場所で、
崇宮澪が大切だと語る存在を。嘘偽りのなかった時間を。士道たちと令音の〝時間〟を――――今、ここで。
士道と澪の動向を唾を飲んで見守る精霊たちから、懸念と不安の声は当然上がってくる。
「むん。とはいえ……主様の目的を悟られてしまえば、一巻の終わりじゃ」
「つっても……今のあたしらには、少年を信じて見守ることしか出来なそうだねぇ。割り込める雰囲気じゃないし」
「はい。……けど、令音さんは、とても楽しそう……です」
四糸乃が告げた
そうだ。モニタ越しに見る彼女は――――他者にさえわかるほど、感情を表に見せていた。それを聞いた琴里が、観測機の波長に目を向けた。
「少なくない困惑……それを上回る強い喜び。凄いわね。今日一番、だけど……封印までは、まだ足りていないわ」
あと一手先が届かない。切り札を使用してなお届かぬ状況に、渋面を作る琴里。
だが、効いている。彼女の心に何かしらの影響を与えていることは、誰の目から見ても明らかだった。琴里たちの懸念は、令音に事を悟られてしまうかどうか――――少女には、その事象への否定を告げることが出来た。
「……あの人は気が付きませんよ。
「…………」
この場において、正確に少女の意図を読み取れたのは、無言を貫く狂三だけだったのだろう。事実、二亜は首を捻って疑問を投げかけてきた。
「でも、れーにゃんは頭もいいし察しもいいんだぜ? くるみん絡みなら、何か閃いちゃう可能性だってあるんじゃない?」
「……そうですね。我が女王を警戒しているからこそ、もう一人の『私』も接近を避けている。あの人なら〈
――――普通でないから、少女は確信している。
「……これは、
少女なら、気がついてしまうかもしれない。少女は澪の記憶を持ち、澪に近い感性や性格を持つかもしれない。
けれど、
少女は、
「……あなたたちには、出来ますか? かけがえのない人と……大切な人と過ごす失われた時間を、
精霊たちを見渡して、少女はそう問うた。誰もが息を詰まらせ、そして一瞬の躊躇を見せる――――――
「――――不可能ですわ」
ただ一人、時崎狂三の回答を除いては。
ただ一人、彼女の気持ちに〝共感〟を行える時崎狂三だけは。
「出来ませんわ。終わらせませんわ。不合理だとしても、目的に反することだとしても……核心へ至る事象がないのなら、その事実を突きつけられるまでは――――決して、手放すことができませんの」
狂三の表情が歪む。それは澪だけではない、
誰より、あのデートを終わらせることを拒んだ時崎狂三は、故に澪の心に触れることが叶う。
「澪さんは、とっくに気が付いていますわ。気が付かないふりをしているだけ――――合理的であれば、そのような結果には至らない。しかし、
独白のように零れ落ちる狂三の語らいは、自然と精霊たちから言葉を奪い去っていた。
ああ、そうだとも。気が付くことが出来るのなら、終わらせることが出来るのなら――――彼女たちは、失われたものを取り戻そうなどと思わなかった。
優しくなければ、狂気には至れない。他者を踏み躙ることを厭わない彼女たちは、悲しいほどに矛盾している。
「澪さんならば? いいえ――――澪さんだから、目を背ける。精霊とは得てして、そういう生き物なのかもしれませんわね」
矛盾を孕んだ心は、乖離する。矛盾から目を逸らす心は――――なればこそ、
被害者と加害者でありながら、親友であり理解者である。大事なものを奪われた者でありながら、奪ってしまった者でもある。同じ人を見ているのに、違う人を見ている。
酷く捻じ曲がった関係にこそ起こる矛盾。ならば、この二人は――――一人の少年に繋がれた狂三と澪の運命は、どこへ向かうのだろうか。
「……ん、本当に――――綺麗な場所だね。陳腐な表現だが、心が洗われるようだよ」
「あはは、大げさですって。でも、気に入ってくれたなら何よりです」
「……しかし、一体なぜここを?」
「令音さんはこういう場所、好きかなって。何となくなんですけど」
「……そうか。ならば君の勘は非常に冴えているよ」
のんびりとした会話を交わしながら、ゆったりとした足取りで海岸を歩く。
思案など、もう必要なかった。多くの語らうべき言葉は、日常、これから、目先のこと、誰かのこと――――そんな、他愛もない会話だ。
ああ、ああ。それがいい。
思い出の海を彼と二人で歩きながら、言葉を交わす。
欲しかったものは――――たった、それだけだった。
やがて、傾きかけた陽が赤く海を照らし始める。
令音と士道は、堤防の上に並んで腰を掛けていた。漣の音だけが、緩やかな音色として耳を震わせる。
「……シン」
「はい」
「……ん、いや、何だっかな」
「はは……何ですかそれ」
ああ――――心地がいい。
何と表現すればよいのか。少なくとも、この三十年、感じたことのない感覚だった。もっと、正確に表現するのであれば、
けれど、嫌なものではない。本当に、心地がいい。ゆっくり、ゆっくりと、意識が溶けていくような――――――
「……ん……」
それが三十年ぶりの微睡みであることに気が付く前に、令音の意識は優しい闇に沈んでいた。
「……令音さん?」
士道が不思議そうな声を発したのは、無理もないことだった。令音が、不意に肩にもたれかかってきたのである。
――――眠っている。両の目を閉じ、穏やかな寝息を立てていた。まあ、それも無理はない。朝からの遠出に加え、色々と付き合わせてしまったのだ。このまま出来るだけ寝かせてあげよう……そう考えた士道の耳に、突如としてある人物の声が飛び込んできた。
『……眠って、る?』
「っ、〈アンノウン〉……?」
僅かに言葉を詰まらせた理由は二つ。一つは、少女がこのデートで初めて、明確な意志でこちらに届く声を発したこと。もう一つは単純な理由――――少女が意図して変えていなければ、その声音が
つまり、今の少女はこちらの驚きを気にかける余裕がないほど、
『……士道。本当に、あの人は……眠って、いるの?』
「え……あ、ああ。それが、どうかしたのか?」
念の為、令音を気遣う小さな声でそう返した。よく聞くと、〈フラクシナス〉側でも少女に何があったのか問うような声が上がっているらしい。
何があったのだろう。少女を動揺させるほどのもの……
思案を巡らせ、表情を硬くする士道。次に飛び込んできたのは。
『――――そっか。うん……そう、なんだね』
微睡むような、全身から安堵したような……そんな、優しい声音だった。
「〈アンノウン〉?」
『……気を付けて。あの人が起きた時が、
「何……?」
意味深な忠告に訝しむように返す――――と、士道の肩に微かな揺れが生じた。
「おはようございます、令音さん」
思いの外、浅い眠りだったようだ。軽く顔を上げた令音に、士道は驚かさない程度の大きさで挨拶をする。
「…………、…………」
その挨拶が届いているのかどうか。それさえも曖昧なほど、令音は不思議そうに目を数度瞬かせた。
そうして数秒ののち、この状況を呑み込んだように小さく目を見開いた。
「……まさか、私は――――――」
「はい。眠ってました。……って言っても、少しだけですけどね。たぶん五分も経ってませんよ」
「…………」
しばしの沈黙を返した令音だったが、おもむろに自分の額や頬に触れ始めた。その仕草はまるで、そこにあるべきものがない、というふうに士道の目には映った。
「令音さん……?」
「…………ふ」
その行動を不思議に思い、首を捻った士道を迎えたのは、
「……ふふ、ふふ、あははははは……」
――――令音の、笑い声だった。
笑う。人は誰しも、嬉しいことがあれば笑うものだ。それは当然の権利であり、別段珍しいものではない。
だが、令音が……あの村雨令音がこんな風に笑うところを、士道は初めて見たのだ。士道だけでなく、琴里たちだってそうであろう。
「……そうか、私がね。はは……なるほど、これは参った」
唖然とする士道の前で、ひとしきり笑い続ける令音。その声音には、いつになく穏やかな喜びがあった。
「……礼を言うよ。久しぶりに心地のよい眠りにつけた。よほど、君の肩の寝心地がよかったようだ」
士道の肩に手を置き、表情もまた優しげな笑みを浮かべる令音。それは、士道の息が詰まるほどの美しさ――――魅力の変化。憂いを帯びた美しい貌が、柔らかな印象を持つ。多少のことでは揺るがない士道ですら、思わずどきりとしてしまう魅力を纏っていた。
瞬間――――――
『……!! 士道!!』
興奮と焦燥。二つを綯い交ぜにした琴里の声とブザーが、鼓膜を鋭く震わせた。
『令音の好感度及び精神状態に変化あり!! 今よ……!!』
「……!!」
令音に、澪にとって、人に寝姿を晒すということはそれほどの意味を持っていたのだ。それこそ、こうして封印のチャンスが巡ってくるほど、士道たちの予想を大きく上回る重要な意味が。
「――――令音さん」
士道の心に、迷いはない。故に静かに、落ち着きを払い令音の名を呼ぶ。
封印可能領域に至った。ならば、士道は言葉を伝えるのみ。士道が自分自身の意志に基づく、自分だけの言の葉を。
「……ん。何だい、あらたまって」
「いえ……さっきの、露天風呂でのことなんですけど」
「……ああ、安心してくれ。皆には内緒にしておくよ」
「そうじゃなくて……いや、内緒にはしておいてほしいですけど」
妙に締まらないなぁ、と頬をかいた士道は……それでも自分らしく真っ直ぐ、気を取り直すように続けた。
「令音さんの――――好きな人の話です」
「…………、それがどうかしたのかい?」
躊躇いを含んだ数瞬の間。それを逃さない、逃してはならないと、士道は意を決して令音と瞳を合わせた。
「――――俺じゃあ、駄目なんですか?」
「…………」
返される沈黙。しかし、今の士道にはわかる。令音の瞳にあるものが。拒絶や嫌悪ではない、逡巡と困惑――――罪悪感。
それらを押し流し……いいや、士道という存在で呑み込むような勢いを以て、続けた。
「何も俺が、その人の代わりになれるとか、その人を忘れさせられるだなんて思ってません。でも……俺は俺として、その人とは違う形で、令音さんを想うのは……駄目ですか?」
「…………」
否定と肯定の狭間で、揺れ動いている。ここに至って、躊躇いは必要ない。後の先すら呑み込む行動を取り、士道は令音の肩に手を置いた。
「俺、すごい我が儘です。でも、他のことを言い訳にして、諦めたくない。狂三のことも、令音さんのことも。だから――――――」
「……シン。私は――――――」
これは、士道の
拒絶は、なかった。瞼を閉じた二人の距離は、夕日に彩られた海色の中で――――やがて、零になった。
士道と令音は、三十年前の再現ではなく――――三十年前に交わせなかったものを、交わしたのだ。
「あ――――」
伝わってくる。士道ではなく、令音を通して。その想い、その感情――――――それは、蓋をされているだけ。
崇宮澪は、弱い。その心は、強くあれなかった。
だから、だから――――だから。
「――――私が、言わなきゃだね」
その役目を、誰かに押し付けてはいけない。
少女は、『私』にはなれなかった。けれど、だからこそ――――――その破滅を、告げねばならなかった。
時間が止まるかのような錯覚を覚えた回数は、士道の中で未だ数えられる範囲だ。それ故に、その衝撃は恐ろしいほど強く響く。
士道の中の真士の記憶が、令音の肩を抱く腕に力を込めて止まらない。
あまりにも長い、時の果て。澪を抱きしめるのに、これほどの時間を要してしまった。
この情動は士道のものではない。けれど、士道の意識を塗り替えてしまうのではないかと思えるほどに、燃え盛る情動だった。
真士の渇望を抑え込み、士道は令音と愛を語らう。そうして、士道の中に温かな光が流れて――――――
「――――――」
――――
「……っ」
あるのは燃え盛る情動と、激しい心臓の高鳴り。そこに、
息を詰まらせ、思考を早める。幾つもの可能性が浮かんでは消え、自問は数秒の時間を生み出す。
「…………」
それは令音に、僅かな距離を開ける時間を与える。
微かに濡れた唇を指でなぞり――――――
「……なるほど。君は――――
衝撃で、士道たちを撃ち抜いた。
「――――ッ!?」
『な――――』
肩を震わせた士道と、その士道の頭蓋に琴里の驚愕が響く。
だが、それを成し遂げた令音は、至極落ち着いた様子を崩さず続けた。
「……何を驚いているんだい?
そこに恨みはなく、そこに怒りはない。ただ、慈しむように令音は士道の頭を撫でた。
「……今日一日の不思議な出来事の謎が解けたよ。……ああ、いや、もしかしたら薄々勘付いていたのかもしれないな。けれど、きっと理解したくなかったんだ。君がデートに誘ってくれたことが、とても嬉しかったから――――私も、狂三のことを言えないね」
そうして。
「……本当に楽しかったよ。ほんのひととき、辛い過去を忘れてしまえるほどに――――けれど、夢はいつか覚めるものだ」
耳元で、優しく囁くように。
「そうだろう――――
優しい夢の終わりを、告げた。
できないんですよ。できるわけがない。その愛が深ければ深いほど、悲願を叶えるために邁進していた精霊は矛盾する。
愛の矛盾を、目を背ける真実を。その
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