第二話『再会』
修羅場。一口にそう括ってしまうのは簡単だが、その意味合いは様々な物がある。世間一般的によく言われるのは、やはり男女関係の〝もつれ〟が主になるだろう。ただまぁ、なんの変哲もない普通の学生である五河士道にとっては、修羅場と言ってもよくあるドラマの中の出来事でしか無かった――――ただし1ヶ月前までは、だが。
「お、落ち着けって二人とも」
「ぬ……ではシドーはどちらのクッキィが食べたいのだ?」
「え?」
間の抜けた声を発した士道に対して、刺し殺すような鋭い視線と共に、クッキーの入った容器をズイズイと差し出すのは2人の
「さあシドー!」
片や、腰まであろうかという夜色の髪と水晶のように澄んだ瞳。その顔立ちは正しく絶世という言葉が相応しい――何だかこの前から絶世のバーゲンセールだなと他人事のように士道は思う――美少女、夜刀神十香。
「…………」
片や、肩に届くかと言った短さの髪に色素の薄い肌。そしてその顔立ちは非常に端整であるものの、表情筋というものが死んでいるのではないかと思えるほどに無表情、という印象が強いため人形じみた美しさのある美少女、鳶一折紙。
(こ、これは……!!)
正面から来る刺すような2人の眼光に、士道は脂汗を浮かべて後退り――後ろから来る、文字通り〝殺気〟にまみれたクラスの男子の視線に、彼は瞬時に退路など無いことを悟った。
正しく絵に書いた様な〝修羅場〟だが、これがただの美少女相手だったならば、士道も甘んじてこの殺気を受け入れるしか無かっただろう……当然、この2人はただの美少女などではない。
夜刀神十香。〝臨界〟と呼ばれる異界から現れ、こちら側に顕現する際に空間震を引き起こすとされる特殊災害指定生命体、通称〝精霊〟。
〝霊装〟という通常の兵器では傷をつけることすら叶わぬ、霊力で編み込まれた鎧に加えて〝天使〟と呼ばれる物理法則では計り切れない、正しく異能を顕現させる最強の武器を持ち合わせた、絶対的な存在。世界を殺す災厄と呼ばれた者……それが彼女である。
鳶一折紙。陸上自衛隊、
空間震によって甚大な被害を及ぼし、強大な戦闘能力を有する精霊を
当然、命のやり取りをする関係の2人が、このようにまだ平和な修羅場を演じることなどありえない……のだが、そこでこの修羅場の中心人物である五河士道の存在が、そのありえない事象をありえることにした。
殲滅という手段で精霊と相対するASTとは対照的に、精霊との対話による空間震災害の平和的解決を目指し結成された、その司令官……なんと五河士道の〝妹〟である五河琴里曰く、士道をサポートするために作られた組織――――〈ラタトスク〉
個性豊かな面々が集まる〈ラタトスク〉の全面的なサポートを受け、精霊を唯一〝封印〟出来る五河士道が
精霊の反応が認められない一般人相手では、折紙たちASTも表立って命を狙ってくることはない、と琴里は言っていた。それが、この修羅場を生み出すことが出来た魔法の全容である。つい先月起こったことだが、本当に現実味がないと士道は思う。
話を戻そう。今士道の目の前には十香が持つ、形が歪だったり焦げていたりはするものの、なんとかクッキーと称することが出来なくもない物体……そして折紙が持つ、性格が滲み出る完璧に、一分の隙もなく統一されたクッキーがあった。
(どっち食っても、殺されそうだなぁ)
十香との
「……!!」
躊躇いは、一瞬だった。カッと目を見開き、自らの生存本能に従った彼は、2人がじっと見つめる中素早く
「う、うん!! 美味いぞ、二人とも!!」
これでどうだ、と2人の様子を神妙に見る士道を彼女たちはジッと見つめた後――――
「うむ。私のクッキィを食べる方が、ほんのちょびっとだけ速かったな!!」
「私の方が、0.0二秒速かった」
――――これまた、全く
「……ええと」
静かに顔を見合わせる、否
(……狂三は、元気かなぁ)
拳が彼の頭部と腹部に炸裂するまでの僅かな瞬間、彼の脳裏に走馬灯のように過ぎったのは、〝あの時の約束〟以来会えていない少女の姿だった。
「……くしゅん!!」
「おや、風邪ですか? 珍しい事もあるものですね」
「精霊が風邪を引くわけがございませんでしょう……大方、誰かに噂でもされたのですわ」
十中八九、どこかのしつこい〝子犬〟でしょうけど、となんと言うことはないといった表情で付け加える狂三。テーブル越しに座るローブの少女も、狂三の表現で察したのか、あぁなるほどと頷いた。
2人の少女が優雅な団欒、といった様子で語らう場所はマンションの一室。天宮市に活動場所を移してから、いくつも用意した拠点の〝メイン〟とも言うべき部屋だ。
「そう言えば
「……藪から棒ですのね」
「だって気になるじゃないですか。私は〝彼〟の容姿も名前も教えていなかったのに、
「別に、何もありませんわ。ただ、偶然出会って顔見知りだっただけ……それにこの1ヶ月、会ってもいませんもの。士道さんの霊力をわたくしが〝喰らう〟――――それだけの関係ですわ」
平然と、何も思っていないと言わんばかりに狂三はそう断言した。そこには欠片も動揺は見られない、表情に感情の動きも感じられない。が、ローブの少女はふーん、と面白がるような声色で会話を続ける。
「それにしては、五河士道が撃たれて
「ッ……! わたくしの目的はお分かりでしょう。士道さんに死なれては困るだけですわ!!」
「そうそう、ちょうどこれくらい分かりやすく、とてもとても焦った様子でしたね」
「くっ……!!」
先程までの鮮やかなポーカーフェイスは何処へやら、険しい表情で――微かに顔に赤みがあるが――悔しげにローブの少女を睨みつける。
表情こそローブに隠れて分からないが、確実に面白がって笑っているといった様子で肩を震わせる少女……狂三と少女はそれなりに長い付き合いになるが、
とはいえ、あまりからかい過ぎるのも少女の趣味ではない。それに、その後の士道と〈プリンセス〉が行った、
「ふふ……でも気になりますね。数度の邂逅で、狂三にここまで想ってもらえる五河士道の人柄、というものが」
「ですから! わたくしはその様な事は……大体、貴方は士道さんのこと、知っていたのではありませんの?」
狂三が話を切り替え、怪訝そうな表情で言う。狂三がここにいるのも、彼女の〝悲願〟の為に士道という存在が必要だと少女に教えられたからだ。当然、士道という人物を狂三より知っていると思っていたが、違うというのだから疑問にも思う。
「……〝彼〟がどういう存在かは知っています。しかし〝五河士道〟という少年の事は、私も知りません――――それだけの話ですよ」
「これはまた、嫌に含みのある言い方をしますのね」
「そのうち分かる時が来ますよ。――――知らないからこそ、気になるんです。精霊を相手に恐れることなく、あの荒んだ心の〈プリンセス〉を救った彼の、その性根というものがね」
「…………」
精霊という存在は、脅威だ。ほんの1か月前まで、普通の高校生だった五河士道にしてみれば、それは揺るぎのない事実である筈なのだ。
なのに彼は、その身一つで精霊の前に立つどころか、その隣に並び立ち〝デート〟というふざけているとしか思えない方法で、少女を攻略して見せた。幾ら〈プリンセス〉に
(既に
思案するローブの少女の脳裏に浮かんだのは、つい先程言及した腹に風穴が空いた……その後の出来事。
〝再生〟した。何の比喩でもなく、彼を炎の〝霊力〟が包み込みその強大な傷を跡形もなく消し去ったのだ。
狂三でも気づかなかった事を見るに、長期間の間使われることがなかった霊力は、半ば休眠に近い状態だったのだろうが……起き上がった士道の焦った様子から、彼は再生能力については知らされていなかったと見るべきだろう。
下手をすれば、精霊を封印できるという自身の能力についても知らなかったと思われるが――――彼は、世界中の誰が少女の存在を否定しようと、持てる自身の全てで少女という存在を肯定すると言った。精霊という脅威を全力で受け入れ、世界中を相手取った〝戦争〟をふっかけたに等しい。封印という方法を知らない中で行ったのなら、無茶としか思えない男らしすぎる〝宣言〟だった。
「……士道さんは――――」
「あら、随分と楽しそうなお話をなされていますのね『わたくし』」
狂三の言葉を遮ったのは、その
そう――――何故か、ティーカップを乗せたトレイに、
「……『わたくし』こそ、随分と
「うふふ、お褒めいただき、恐悦至極にございますわ」
「なにも褒めていませんわよ……!!」
「あら、あら、残念ですわぁ……では、紅茶でもいかがでして?」
「答えを聞く前にもう入れていますわね!!」
額に血管が浮かび上がるのではないか……というほど睨みつける狂三もなんのその、〝もう1人の狂三〟は涼し気な顔でティーカップをテーブルに置き、完璧な動きと作法で紅茶を注ぎ始めた。先程の空気は何処へやら、服装も相まって、完全に
知らない人が見れば、同じ顔を持った双子が話しているとも思えるだろうが、無論狂三の場合は違う。〝もう1人の狂三〟は寸分たがわず狂三だ。
「全く……付き合っていられませんわ」
「あら、どちらへ行かれますの『わたくし』?」
「何かを話す気分では無くなりましたの。夕方までには戻りますわ」
返事を待たずに開けたドアを潜りバタン、と閉めにべもなくそのまま部屋を出て行った狂三。そんな機嫌を損ねたと見える
「うふふ、荒れていますわねぇ『わたくし』は」
「今のは、大半が貴方のせいだと思いますけどね……」
「それで? 貴方はどうなさいますの?」
「何がです、藪から棒に」
「『わたくし』の事ですわよ。それとも、士道さんとの事、と言い換えた方がよろしいですこと?」
カチャリ、僅かにカップとソーサーが擦れる音が部屋に響く。先程までの狂三とローブの少女との会談とは、また意味合いが違う空気が辺りを包み込む。
「わたくし〝達〟の目的……それを果たす為に、『わたくし』は耐え忍び、息を潜め、そして貴方の言う〝その時〟まで時間を蓄え、待ち続けましたわ」
「そうですね……だから、その〝時〟が満ちたからこそ、私は狂三を五河士道の元へ案内しました」
「えぇ、えぇ。彼は素敵ですわ、最高ですわ――――すぐに、食べてしまいたくなるくらいに」
舌を舐める仕草と、狂気的な笑み。それは言葉通りの意味であり、狂三の最終目的の為に必要な〝物〟だ。だから、士道に対する感情など必要ない――――筈だった。
「とても残念ですけど、それを成すのはわたくしではなく『わたくし』の役目……しかし、その『わたくし』は士道さんに、随分とご執心のご様子ではありませんの」
無論、メイド狂三が言った意味合いは、先程の〝物〟とは異なる。
「『わたくし』に限って、とは思いますが……〝喰らう〟対象に情が移るなど、ミイラ取りがミイラになるようなものですわ。まさか、こうなる事を想定していたのでして?」
「それこそ、まさか、ですよ。さっき狂三にも言いましたが、私は〝彼〟を知っていても五河士道という少年の事は知らなかったんですから」
ローブの少女としても、狂三が士道に対して
「巡り合わせ、とでも言うのでしょうか。五河士道には、精霊と巡り会う〝運命〟みたいなものがあるんじゃないですか? じゃなければ
「ここへ連れてきたのは貴方ですのに、随分と適当なものですのね。まぁ、『わたくし』が強情という点については、同意いたしますわ」
「ふふ、でしょう?」
ある意味、自分自身の事とはいえ
分身も認めるほど、強情なところがあるのが時崎狂三という精霊だ。だが、その狂三の心にスルりといつの間にか入り込んでいた、士道という少年は一体
「若いわたくしならいざ知らず、『わたくし』が普通の人間に心を許すなど有り得ませんわ」
「そうでしょうね。気まぐれでも、せいぜい〝時〟を吸い取るか――――それこそ、狂三から相手を明確に拒絶して終わりだと思いますよ」
「気になりますわ、気になりますわ……『わたくし』の感情を掻き乱した、士道さんという存在が」
ただのお人好しというだけで彼女に入り込めるほど、時崎狂三という少女は生易しい存在では無い。
決意、執念、その身を焦がす――――憎悪。絶望を超え、時崎狂三は歩き続ける。止まることが罪だと、そんな資格はないと言うように、少女は罪を背負ってここまで歩き続けた。
〝悲願〟の為に全てを捨て、地獄の底へと堕ちる覚悟がある少女が、僅かでも士道に心を許している要因が狂三の分身ですら分からない。だとしたらそれは――――
「それこそ――――――一目惚れでもしたんじゃないですか?」
どちらが、とは言わなかった。
なんてことは無いように、本当に軽く言い紅茶を口へ運ぶローブの少女。その言葉に、ポカン、と鳩が豆鉄砲を食ったような表情になったメイド狂三は、次の瞬間……心底おかしいといった様に笑いだした。
「ふふ……あはははははははははっ!!!! そうだとしたら傑作ですわ!! 傑作ですわぁ!! えぇ、えぇ、最っ高に面白いですわよ!!」
「そんなにツボるほどですか……まぁ、結局は
「あら、でしたら貴方はどうなさいますの?」
「私?」
「えぇ、最初の質問に戻りますわ。貴方には貴方の〝計画〟とやらがあるのでしょう? 『わたくし』と士道さんが予想外の形で出会ってしまった今、貴方はどうされるおつもりですの? ――――名無しの精霊さん?」
テーブルに立てた腕に顔を置き、小首を傾げた可愛らしい仕草でローブの少女に問い掛ける。
メイド狂三より小柄な少女と、真正面から視線を交わす形になるが、紅の瞳に映るのはローブに包まれた不自然なほどの暗闇だけ。その真意は、メイドの狂三にも分からなかった。
「変わりませんよ、なにも。私はただ――――
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「…………」
果たして、自分は何を言おうとしたのか。どこへともなく歩みを進める狂三の胸の内に去来するのは、数刻前の言葉の続きのことだった。
士道さんは――――果たして、その先の言葉はなんだったのだろうか? 正直な話、狂三にもそれは分からなかった。いや、分からないように誤魔化したのかもしれない。
『俺に協力出来ることなら、狂三の力になる!! どんな小さなことだっていい!! だからいつでも――――俺を頼ってくれ!!!!』
何も知らないおバカな少年の愚直な、でも狂三はそれを切って捨てることが出来なかった、言葉。
五河士道。自身の〝悲願〟の為に必要な存在。そして、精霊ですら救いたいと、その手を差し伸べた
「関係、ありませんわ」
目を瞑り、余計な思考を追い出す。そうだ、誰であろうと、なんであろうと関係ない。今までと変わらない……この血塗られた手で、時崎狂三は五河士道を必ず――――
「……っ。雨、ですわね」
首筋に冷たい感覚が走り、狂三の思考を遮る。他人事のような呟きからそう時を置かずに、大粒の雫が淀んだ雲から一気に降り注ぎ始める。
あっという間に辺りの道に染みを作り、狂三の全身も容赦なく雨に晒されていく。しかし、そんな状態になっても狂三は焦る事もせず、更には何かを感じ取ったように足を止めた。
(近くに、いますわね……)
いる。近くに、自身と同じ〝力〟を持った存在が。長年の経験や感覚で、彼女にはそれが分かった。その感覚の導くまま、狂三は足を再び動かし歩き始める。
〈プリンセス〉はその力を既に封印されている……ならこの先にいるのは彼女ではなく、現在把握しているもう1人の〝精霊〟だ。なら、様子を見ておくのも悪くは無いだろう。基本的に〝自分達〟か〝あの子〟に、こういった偵察のような事は任せてしまっているので、ちょっとした好奇心という物もあった。
簡単に察知できたということもあり、目的の場所にたどり着くのに時間は必要なかった。そうして、狂三の視界に入ってきたのは――――
「いたく、しないで……ください……」
「ええっと……」
――――いたいけな少女に迫っているようにしか見えない、
「…………あら、あら」
流石の狂三もその光景に戸惑いを隠せなかったが、すぐに冷静になり状況を把握し始める。見た限り、空間震による現界ではないので士道は偶然にもこの場に居合わせた……という事になるのだろう。
なんともまぁ本当に――出来すぎているとしか思えない〝偶然〟もあったものだ。
「――――士道さんにそういう〝ご趣味〟があったというのは、意外ですわねぇ」
「え? …………く、狂三ぃ!?」
わざと気配を殺して近づいたのもあって、直ぐには反応出来なかったのだろう。雨の騒音の中でも、その声は確かに士道の耳に届き、そして振り向いた目の前に彼女が――時崎狂三がいた。
「士道さんがそのようなお方でしたなんて……わたくし悲しいですわぁ、泣いてしまいそうですわぁ」
「な、なんでこんなところに……い、いやそんな事より違うぞ!? 俺は
あたふたと矢継ぎ早に弁解する士道。その動揺っぷりは、彼の足元にある水溜りの揺らめきを見れば言葉がなくても分かる程だった。1か月前と何も変わらぬその姿に、狂三は目的も忘れて頬を緩ませ笑ってしまう。
「うふふ、冗談ですわよ。士道さんがそのようなお方でないことくらい、わたくし知っていますもの」
「……し、心臓に悪い冗談は止めてくれよ。シャレにならないぞ本当に」
このご時世、本当にシャレにならない冗談だ、と再会を喜ぶ暇もなく、狂三に誤解されずに済んで胸を撫で下ろす士道。そして、先ほど助け起こした少女の方へと振り返り、
「……!!」
しゅたたたた、という可愛い足音では当然なかったが、小動物のようにウサギ耳のフードで顔を覆い隠した少女が後退りする姿を見た。
「えーっと……」
「士道さん、あれを」
「えっ――――あ」
いつの間にか真横に来ていた狂三に、ドキッと心臓が高鳴るが……今はそんな場合ではないと無理やり押さえつけ、狂三が指で差し示した場所にあった物を確かめた。
落ちているのは、白いパペット。確か、少女が足を滑らせて盛大にコケるまで、少女が左腕に付けていたものだと士道は確信を得る。さっき士道が振り返るまで近くに寄ってきたのも、恐らくはこのパペットを拾うためだったのだろう。
ならば、と士道は少女を怖がらせないよう、ゆっくりとパペットを拾い上げ少女に差し出すように示してやった。
「これ、君のだろ?」
「……!」
士道の行動に目を見開いた少女は、一度は駆け寄って来ようとしたが――――ピタッと足を止め、ジリジリと間合いを計り始めてしまった。
その小動物のような様子に、思わず苦笑してしまう士道。それは狂三も同じだったようで、優しく言葉で助け舟を出してくれた。
「大丈夫ですわ――――この方は、貴方を
目線を合わせ、少女の警戒心を解くようににこりと微笑みかける。
同性というのもあってか――はたまた何か別の理由か――ビクリ、と肩を揺らしこそしたものの、心なしか先程よりは警戒が薄らいだように見える。すり足で恐る恐る近づく少女を、士道も根気強く待ち続ける。
ここで余計な事をして、少女の警戒心を深めてしまっては元の木阿弥。そうして辛抱強く堪えたかいがあってか、少女は士道の手からパペットを奪い取るように掴み取り、それを左手に装着。すると、まるで腹話術のようにパペットの口をパクパクと動かし始めた。
『やっはー、悪いねおにーさんに美人なおねーさん。たーすかったよー』
少女が腹話術を使って出しているにしては、妙に甲高い声をウサギが発している。というか、ちゃっかり狂三にだけ〝美人〟と付ける――美人なのは全面的に同意しかないが――調子の良さに、本当に目の前の少女が発しているのかと首を傾げるが、確かめるより先にパペットが言葉を続ける。
『ぅんでさー、起こしたときにー、よしのんのいろんなトコ触ってくれちゃったみたいだけど……どーだったん? 正直、どーだったん?』
「は…………はぁ!?」
とてもとても、目の前の少女が出しているとは思えない言葉に唖然とするが、士道1人だけならば困惑だけで終わっただろう。だが、士道の隣には今狂三がいるのだ……バッと彼女に視線を向けると、そこにはパペットの発言を聞いて士道を蔑むような目を向ける狂三――――では勿論なく、少し困ったような表情の狂三。
「心配せずとも、士道さんにそういった意図がないことくらい分かっていますわ。先程、冗談だと申し上げたではありませんの」
「そ、そうだな、すまん」
「それに、今の士道さんにその様な甲斐性があるとは、思えませんもの」
「……それはそれで傷つくぞ」
「ふふっ、これも冗談、ですわよ」
士道をからかいながら、コロコロと表情を変える狂三。1ヶ月ぶりに見たその姿は、やはり士道の目にはこれ以上ないほど愛らしく映ってしまう――――どうしてか、彼女には誤解されて欲しくなくて焦ってしまった、となんだか気恥ずかしくなり頭を搔く。
『たっはー!! 見せつけてくれるねーお二人さん』
そんな2人のやり取りを見ていた少女が、またパペットから甲高い声で、2人を茶化すように言葉を発した。
「お、おう……?」
『そんな理解ある美人なカノジョに免じてー、さっきのラッキースケベは特別にサービスにしといてア・ゲ・ル』
「か、かの……!?」
『ぅんじゃね。ありがとさん!!』
動揺させられっぱなしの士道を後目に――残念ながら、狂三がどう反応したかを士道は見逃してしまった――少女は言うだけ言って踵を返して、あっという間に走り去ってしまった。士道も咄嗟に声をかけたが、反応すること無くその姿は見えなくなってしまう。
「……なんだったんだ、ありゃあ」
「さぁ? 可愛らしい妖精さん、だったのかもしれませんわねぇ」
「妖精……か」
精霊なんて存在を実際に見てしまっているので、一概に冗談とは言い切れないんだよなぁと思う。
「……久しぶり、だな。元気だったか、狂三?」
「えぇ、見ての通り息災ですわ。士道さんもお変わりなく――――いえ、少し変わりましたわね」
「え?」
どうにか平静を保ち、絞り出した挨拶にそう言葉を返され、思わずそうか?と士道は顔に手を当て確かめる。多分、狂三の言った事はそういう意味じゃないな……とやってから思ったが案の定、クス、と隣から笑い声が聞こえてきた。
「そういう意味ではありませんわ。何やら、雰囲気が少し変わった……と士道さんを拝見して、ふと思ってしまいましたの。この1ヶ月の間に、
「あぁ……まぁ……色々あった、かなぁ」
それはもう、語り尽くせないほどに濃い出来事しか無かったと、遠い目をしてしまう。
比べるのはナンセンスだと思うが、狂三と良い勝負が出来る美少女が空間震の中心にいたかと思えば、その少女にいきなり殺されかかったり、その精霊を〝攻略〟する為に〈ラタトスク〉総監修のギャルゲーを訓練としてやらされた挙句、自身の忘れたい
(くっ、いかん忘れろ俺!!)
〝あれ〟は十香を助けるため、必要な事だったのだ。十香の霊力が封印された以上、二度目はないと思っていい。何も知らない純真な少女の最初を奪ってしまった罪悪感と、何故か狂三に対して感じる一方的な罪悪感を振り払うよう首をブンブンと振る。
「どうかなさいまして?」
「い、いやなんでもない。それより狂三、どうしてこんなところに――――」
士道にも色々あったとはいえ、1ヶ月も会わなかったのにここで偶然出会うなんて、とそんな事を聞こうと狂三を見て、今の状況を思い出す。
土砂降りの雨……突然黙り込んで自身を見つめる士道を見て、こてんと可愛らしく小首を傾げる狂三は当たり前のように傘など差しておらず、現在進行形で雨に濡れるがままになっていた。
「おい狂三? 傘はどうしたんだよ、風邪引いちまうぞ」
「え? ……あぁ、突然の雨でしたので。でも大丈夫ですわ、わたくし昔から風邪を引いた事がありませんもの」
「そういう問題じゃないだろ……」
たとえ過去に風邪を引いていなくても、ここまでずぶ濡れになっていては影響がないという保証はない。相手が狂三だろうがそうでなかろうが、士道としては雨に濡れる少女を――服が雨に濡れて張り付き、大変目に悪い――はいそうですかと放って置けるほどろくでなしではない。
とはいえ、士道も雨でずぶ濡れになってしまっているので、ブレザーを貸して取り敢えず雨を凌ぐ、というその場しのぎも出来そうにはなかった。それならば――――
「じゃあ、俺の家に来るか?」
言ってから、急ぎ過ぎて言葉が足りな過ぎたなと思ったが一度出した言葉は覆せない。狂三の色白い肌が見ていて分かるほどに赤くなり、動揺を見せた事で士道も己の失言に気づき焦り始める。
「し、士道さん…………?」
「違う違う違う!! 違わないけど違うぞ!! 風邪を引くと悪いから、俺の家で雨宿りみたいなことすれば良いって事だから!! やましい気持ちはない!!」
「っ、そうですわね。早とちりしてしまって、申し訳ありませんわ」
「勘違いされるような言い方しちまったのは俺だからな……俺の方こそすまん」
らしくない。本当にらしくない、と狂三は己を恥じる。突然の事とはいえ、士道の善意を一瞬でも勘違いするなど、一体自分はどうしてしまったのか。士道と話すと、どうにもペースを掴めない時がある……初めての経験に戸惑いながらも、狂三は心臓の高鳴りを無理やり抑え込んだ。
あくまで、自分のペースで彼の懐に入り込む、その方が
「……士道さんの申し出はありがたいのですけれど、今日の所は遠慮させていただきますわ」
「そう、か……」
狂三の言葉に、そりゃそうだと納得する。いくら善意でも、男が家に女をいきなり誘うなど流石に常識がないと思われかねない。それでも、少し残念だと思ってしまうのは、せっかく出会えた狂三と会話出来る時間を、少しでも引き伸ばしたかったからか……と何が善意だと己の浅はかな考えを自嘲する。
「別に士道さんを信用していない、という訳ではありませんのよ? 今日は夕方までに帰る……と家の者に言いましたから、遅くなると心配されてしまいますわ」
暗にそれがなければ誘いを受け取っていた、と狂三なりのフォローなのだろうが、それはそれで複雑だった。
「そういう事か……いや、俺のこと信用してくれるのは嬉しいけど、仮に約束がなくても家に来るかー、なんて男の誘いを簡単に受けない方が良いと思うぜ」
「うふふ、そういうお優しい士道さんだからこそですわ。特別、ですのよ」
人差し指を唇に当て、妖艶に微笑む狂三に今度は士道が、赤くなった頬を隠す事が出来なかった。
特別、などと言われたら勘違いしそうになるがそういう意味合いではないのは分かる。単純に良い人止まりの意味だし、自分から誘っておいて矛盾することを言いそれを少女にフォローされる、という男としてどうなのかと思わざるを得ない状況に、特訓の意味なかったなぁと士道は内心肩を落とした。
「それでは、わたくしはこれで失礼致しますわ」
雨の中でも優雅に一礼し、士道に背を向け去っていく狂三。名残惜しいが、自分の都合で引き止めていては本当に風邪を引いてしまう、と別れの言葉をかけようとした時、狂三がその身を翻し――――
「あぁ、1番肝心な事を言い忘れていましたわ――――また会えて嬉しいですわ、士道さん」
――――花咲くような笑みで、そんな言葉を放った。たったそれだけなのに、今日1番で思わず舞い上がってしまいそうになる。
「あぁ!! 俺も会えて嬉しいよ、狂三」
勝手に変な顔になってないか、不安になりそうな程に気持ちは高ぶっていたが、返した言葉と振り返された手にどうやら上手く返せたようだと安心する。
曲がり角でお互いが見えなくなるまで、手を振り合って別れた。しかし、士道の心から名残惜しさは消えている。それほどまでに、先程の狂三の言葉は嬉しかったのだと思う。好意を抱く少女から受けた言葉だ、青少年の士道には単純ながらよく効いていた。
「ほんと、我ながら単純だな俺」
ニヤついた表情を誤魔化すように髪を掻き毟ると、水滴が弾けるように舞い散る。狂三を心配しておいて、自分が風邪を引いてしまっては世話がないと、士道は日頃の疲れを忘れて上機嫌で帰路へつく。
……結局、狂三がどうしてこんな場所にいたのか、聞きそびれていた事はこの後襲い掛かる〝訓練〟によってどこかへ飛んでいってしまったのは、また別のお話である。
本日はここまで。明日以降順次続きを投稿して行く形になります。感想などありましたら書いていただけると作者が感涙に咽び大喜びするのでよろしくお願いします