稀血とは、読んで字の如く、珍しい稀少な血およびそれの持ち主のことを指す。
それは鬼にとっては垂涎のご馳走であり、稀血一人を食すだけで50、あるいは100人分の血肉を一度に食すのと同じ効果を鬼に与える。
鬼は自身の持つエネルギーを様々な用途で消費する。
血鬼術でも、傷の再生でも、人間離れした身体能力を発揮する時にだって少なからず消費している。
体内に保持するそのエネルギーが多ければ多いほどできることが増えるが、逆に減れば減るほど弱体化する。血鬼術は衰え、再生は遅れ、身体能力は人間に近づいていく。
鬼は人間の血肉を求める。それは強くなるためであり、死なないためであり。鬼舞辻無惨の役に立つためである。
だからこそ鬼は稀血を血眼になって求める。一度に大量のエネルギーを摂取することで、自分の肉体に先天的に課せられたエネルギー許容限界を超えることができるから。
加えて、その価値はただ栄養価が高い、というだけにとどまらない。
ある鬼は言った。
君のいい匂い成分は、体からどれだけ抜いても抜ききることはできない、と。
鬼に集られる体質など嫌だ、とその鬼に相談した時、幾度かの実験の末につけた結論である。
稀血の体内を循環するいい匂い成分は、回復すると。
その身に宿るいい匂い成分を全て取り除いたとしても、一月もすればすっかり回復してしまうだろうと。
稀血の人間を飼えば、その血を半永久的に摂取し続けることができる。元十二鬼月であった響凱も、そのために稀血の少年をすぐに殺さず、自分の屋敷に閉じ込めようとしたのだろう。
では。
稀血を持つ人間が鬼になればどうなるか。
鬼にとって膨大なエネルギー源である稀血を宿し。
どれだけ力を消費しても、生きる限りその血の力、ある社畜の言うところのいい匂い成分が回復し続ける鬼。
それは、一体どれほどの化け物となるのか。
まあ私のことなのだが。
体が勝手に硬直した、と思えば、その衝撃は一瞬で全身に広がった。
呼吸を使って毒の巡りを遅く、なんてことをする暇なんてありはしなかった。
毒、つまりは人間の細胞を改変する働きをするその極小の鬼の群れ、とでもいいのか、それらは私の体内に入ると、私の血中にあるいい匂い成分を貪った。
本来なら、あの特大人面蜘蛛が今解説しているように徐々に変化していくはずだった私の体は、私の血の効果によって活性化した毒素によって過剰とも言える反応を示した。
「なんだ?」
「まれ、ちー?」
周りの音なんて耳に入らない。
書き換えられる体。書き換わる精神。必死に呼吸を整えていないとあっと言う間に呑み込まれそう。
背中の皮膚を何かが突き破る感触。
それが何か、などと思うことすら必要ない。蜘蛛が生まれつき歩き方に惑うことがないように、巣の編み方を熟知しているように。私の背中に生えた四本のそれが蜘蛛の足の残りであることなんて、見るまでもなく私は知っていた。
むしろ、なんで今までの私は手足が四本しかない体に納得していたのだろう。今思うとあまりにも心細いではないか。
視野だってそうだ。たった二つの眼球、二つの瞳孔。こんなか細い視野しか持たなかったくせに『目』が良いと嘯いていただなんて赤面の至りだ。
新たに手にした、否、取り戻した腕から糸を伸ばし、あたりに散らばっていた日輪刀を引き寄せる。五本の刀を構え、幾度かその振り心地を確認する。
「くふふははは! すげえ! なんだこいつ、なんでこんなことになる⁉︎俺の毒と何がどう反応したのか知らないが、関係ない。この毒で蜘蛛になったら俺の奴隷だ!」
「奴隷⁉」
「こんな、父さんより強そうなのが手に入ったら、もう累にデカい顔なんてさせねぇ。すぐにでもあのスカした顔をぺっ」
話が長い。
あと臭い。
我慢できなくて、思わず切ってしまった。
呼吸も何もない、ただ膂力に任せて跳ね、すれ違いざまに巨大人面蜘蛛を八十三の肉片にしただけだ。五本も日輪刀があれば余裕である。一歩踏み込むだけで二十歩の距離を潰し、ただ地面を蹴るだけで地震のように地が揺れた。
私が着地するまでに、蜘蛛は塵になって消滅した。複眼に映る、小さな毒蜘蛛も消滅したようだ。人面蜘蛛たちが茂みや木の影から戸惑いながらこちらを見ている。
「まれ、ちー……」
善逸の声がした。
振り返れば、先と全く同じ場所で、彼は立ち尽くしていた。
一歩、善逸に近づく。それだけで彼は尻餅をついた。
ひどい顔をしている。
恐怖に歪みきった顔だ。
正直きゅんとくる。
だって善逸は、臆病なだけじゃないから。世界一臆病で、同時に誰よりも優しいから。今彼が何に怯えているのかは知らないけれど、すぐにそれを乗り越え、立ち上がってくれるから。
だから私は待った。震えながらも立ち上がる彼を見たいから。
……。
……………………?
なぜ動かない。
なぜ私から一時も目を逸らそうとしない?
なぜ、そんな怯え切った、瞳孔の開き切った目で私を見つめるんだ?
そして、なぜそんな善逸を見て、私は興奮しているんだ?
この心の奥から込み上げてくる熱い感情はなんだ。
常々私は思っていた。
善逸と一つになりたいと。
結ばれ、その証として子を成し、幸せな家庭を築きたいと。
その欲求がさらに強化されたような、でも違うような。
善逸。
ああ、善逸。善逸。
そんな愛らしい顔を見せないで。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、表情筋を引きつらせて、開き切った瞳で、私を見つめないで。私が一歩近づくごとに、どんどん表情が崩れていく。それでも逃げようとしないのは、腰が抜けてしまっているからか。
そんな表情を見せられたら、ああ、とても、とても美味しそう。
―――まれちーの血はね、とても美味しそうなんだ。
ふと、頭に過ぎるのは、あの男の言葉。
―――他の鬼どもも言ってるけど、本来はとても我慢できるようなものじゃないんだよね。他の鬼を皆殺しにしてでも食べてしまいたい、そんな暴力的な魅力のある匂いなんだよ。ひゅーまれちーったら罪作りー! まじ傾国。
イラっとした。彼が口を開くと、三回に一回はイラッとさせられるのだ。
―――俺の場合はね、そもそも人間の血肉を口に入れるなんてキモい、て気持ちがあるのもあるんだけど、そもそもそういった、外的要因が自分の精神に影響を与えないようにしてるんだよね。外的要因てのは、鬼になったせいで後付けされた鬼の本能的なサムシングなんだけど。
すでに懐かしさすら感じられるその感情に、私の理性が一瞬だけとはいえ戻るのを感じた。
彼がこうしてだらだらと妄言を並べる時は、九割がたその言葉に意味は無いのだ、が。
―――精神を弄る、とはまた違うんだ。変えるんじゃなくて、不変にする。いつでもどこでもどんな状況でも。徹夜7日目だろうが、後ろでパワハラ上司が俺のパソコン覗きながら舌打ちしてようが、ノルマ締め切りギリギリの殺伐とした修羅場だろうが一切をスルーして自分を業務に没頭させる精神。一つの企業で無双を誇るまでに到達した社畜の手練。心技体の完全な合一により、どんな精神的、環境的制約の影響下でも十全の労働力を発揮する。其の名は、
「社畜の呼吸 壱ノ型 無窮」
呼吸を変える。この身に刻んだ水の呼吸でも、善逸が日頃から行う雷の呼吸でもなく。自分をただの社畜に過ぎないと嘯く彼が見せた、コオォオオ、と深く吸い深く吐く、音を立てるあの呼吸。
それを繰り返すことで、自分の精神を冒していた狂気染みた食欲が収まっていく。蜘蛛へと変えられたことで精神に上書きされたその感情が、無窮の社畜によって客観視され、矮小化され、ついには単なる雑音として処理されるようになる。
その奥から顔を出したのは、善逸への想いだった。
善逸を守る。善逸の盾になる。震えながらも立ち上がる彼を支え、背中をそっと押してやる。
そのために自分は生きているのだと、痛みとともに覚えたはずのそれを再び思い出す。
―――もちろん無窮は無休や無給とのトリプルミーニングだよ!
どやさ、という効果音がぴったりと当てはまりそうな表情で、なんか上手いこと言ってるつもりなのだろう、そんな意味不明なことを言っていたの思い出して、私は一人軽く笑った。
「まれちー、大丈夫か?」
笑い、理性が戻ったことが善逸にはわかったのだろう。顔を袖でぬぐいながら、彼は私に声をかけてきた。それは未だに少し震えているが、それでもなんとか平素と変わらぬ声を出そうと努力してくれているのはわかった。
「すみません善逸、取り乱しました」
言いながら私は背に生えた蜘蛛の足を体内にしまっていく。額に生えた八つの複眼を閉じ、牙を歯茎に収めていく。このあたりは呼吸の応用だ。血管や神経を操作するよりも楽だ。それは、私がこの体に既に適応してしまっているということだけれど。
「申し訳ありません善逸、随分と脅かしてしまいました」
「え、いや。怖くは、ないし」
善逸が土を叩きながら立ち上がった。腰が抜けていたわけではなかったようだ。
ということは、彼が尻餅をつきながらも動かなかったのは。
「今の呼吸、おっさんと同じだよな」
「え、ええ。あの人もたまには役に立つことを言いますね。五分吸って五分吐く、なんて人間だった時には不可能でしたが、今ではこうしてできるようになりました。おかげでどうにか自分を取り戻せて……」
努めて明るく振る舞うも続かず、声が尻すぼみになっていく。
一拍の沈黙を経て、善逸が意を決したように口を開いた。
「まれちーは、鬼になったのか?」
「どうでしょう? 鬼とはまた違う気もしますが」
だが、鬼に連なる何かであることは確かだ。
つまりは、鬼殺隊の滅殺対象。いや、鬼じゃない、人も食べてない、と訴えれば可能性は無いだろうか。
「ところで、今の私の外見はどんな感じですか?」
「え、どんなって? いや、その、きれい」
「人間に擬態できてますか?」
「……あ、そういう。まあ、さっきの蜘蛛よりは」
「わかりやすい回答ありがとうございます」
鬼殺隊を誤魔化せるほどではない、か。まあ人間離れした感覚で鬼の存在を看破できる存在が身近に三人もいるのだ。これ以上いない、なんて憶測は楽観的を通り越してただの馬鹿だろう。
ならば、どうする。
「確かに人間ではなくなってしまいましたが、鬼の定義からは外れているはずです。鬼とは鬼舞辻無惨の血を受けて変貌したもの、ですから」
「あ、ああ。というかまれちー無闇に冷静だな」
「あの、人? の教えが生きてますね。つまりですね、鬼殺隊には私が鬼とは違い、人も襲わず、なにより鬼殺隊として役に立つ、ということを主張できれば良いわけです。手始めにこの山の鬼を私たちで全滅させましょう、そうすれば彼らの滅殺対象から外れる、はずです」
もちろん、そんな自信なんてないけれど。
「……滅殺対象にされたら?」
「その時は逃げるしかないですね。おじさんと合流して逃げ回るしかないでしょう、二人で鬼を殺しながら旅をしますよ」
「二人?」
善逸の表情が厳しいものになった。なんだろうか、突然。何か気に触るようなことを言っただろうか。こんな表情を私に向けるなんて初めてだ。