私は何か、気にくわないことを言っただろうか。
だって、少し考えればわかることだ。
これで私たちの関係は終わると。
「……俺は?」
「え?」
「二人ってなんだよ。俺は、そこにいないのか?」
一瞬何を言われているのかわからなかった。
そんなことできるはずないではないか。
私は人間ではなくなってしまった。鬼殺隊の滅殺対象だ。人間を食べていない、なんてことは言い訳にならない。おじさんだって誰も食べていないのに藤の山に閉じ込められた。
おじさんはまだ胡散臭いだけで限りなく人間に近い外見をしていたし、その時おじさんは鬼になったばかりでクソザコナメクジ状態だったらしい。だから脅威と看做されなくて、その場で殺されなくてすんだのだ。
でも私は違う。呼吸で体をある程度操作できると言っても、鬼らしさ、蜘蛛らしさを完全に抜くことができない。どこか悍ましい外見のままで、しかも私の稀血が反応したためかそこらの鬼よりずっと強い。私を前にすれば、善逸以外の全ての鬼殺隊員が刀を抜くだろう。そして私はそのほとんどを返り討ちにしてしまう。今は善逸への想いがあるから化け物としての本能を社畜の呼吸で抑えてられるが、まだ未熟な私では、死の危険が目の前に迫れば応戦せずにはいられないのだ。
しかも、私の烏である鶏助が先ほど山から飛び立ったのを見た。恐らく私が人間でなくなったことを上層部に知らせに行ったのだろう。
さらに、周りにいた小さな人面蜘蛛たちが去っていった。きっとこの山にいる鬼たちに私の存在を伝えるのだろう。
先ほどあの巨大人面蜘蛛は言っていた。父さん、累、と。この山にはあの蜘蛛より上位の鬼が複数存在するのだ。そいつらに私の存在が知られたのなら、きっと鬼たちが私を殺しにくる。
今後さらなる鬼殺隊員が投入されることだろう。もしかしたら柱が派遣されるかもしれない。
「無理でしょう。善逸は鬼殺隊ですよ? 鬼と行動なんて不可能でしょう。だから私は逃げます」
私はここで死ぬ。
鬼と、鬼殺隊の両方が私を狙いに来るのだ。逃げられないだろうし、逃げられたとしても私の顔は割れている。おじさんとは違い、私に安息の地はない。
「おっさんは付いてくるって言ってたじゃないか」
「あれはあの、人? が勝手に付いてくると言ってただけです。多分それを実現する方法があるんでしょう、穴を掘ってついてくるとか。私にはできません」
「で、でもさ、でもさ、炭治郎だって禰豆子ちゃんを連れてるじゃんか」
「うまく鬼殺隊から隠せているんでしょう、日頃から箱の中に大切にしまっているようですし。でも私は無理ですよ。だから、まあここから逃げて、のんきに旅をします。善逸とはここでお別れですね。鬼殺隊には私は鬼に食われて死体も残らなかったと言っておいてください」
善逸が泣きそうな顔をした。普段であれば、泣きそうになればそのまま涙を滝のように流して泣きわめくことに躊躇しないはずなのに。一体何を耐えているのか。
「化け物と一緒に旅なんて御法度でしょう、首を切られても文句は言えないですよ?」
「わかってる、わかってるんだよそんなこと。でも、事情を話せば」
「鬼殺隊に受け入れられる、と? なるほど、それもいいかもしれませんね。まあいきなり私が現れたら混乱するでしょうし、まずは善逸が鬼殺隊の上の人に話をしておいてくれませんか」
受け入れられるだなんて、そんなこと、ありうるはずがない。私を含め、鬼殺隊には鬼に対し並ならぬ憎悪を抱く人間が大半だ。例外として、私に刀をくれた彼女は『自分より強い男性を伴侶にするため』と、なんともな理由だったがそれはともかく。
鬼殺隊として認められるだの、無理なら逃げるだの。口ではそんな気楽なことを言いながら、その実私自身が自分の言葉を全く信じていないのだ。
この山に巣食う鬼と、山に突入してくる鬼殺隊。この両方から逃げ、山から脱出することは、私には恐らく無理だ。
覚悟はしていた。善逸との明確な関係を持てない自分では、いつか別れる時が来ると。
その時が、思っていたよりも早く訪れただけ。
そんな割り切りを、実はすでにしていた。私はこんなに思い切りの良い性格ではなかったはずだ。もっともっと、未練たらしく、執着がましい女だったと思っていたけれど、これも社畜の呼吸の効果なのかもしれない。
「なんで、嘘つくんだよ!」
「ぜ、善逸?」
突然の剣幕だった。堪え兼ねていたものが溢れ出た、決壊とでも言うべき感情の爆発だった。
「嘘吐くなよ、なんでまれちーが嘘吐くんだよ! そんな、悲しい心音で、諦めた声で、どうして平気そうな顔してんだよ!」
バレていた。
善逸の聴覚については分かっていたつもりだったが、まさか、そこまで感情について把握できるものだとは知らなかった。
「ずっと不思議だった」
そう、善逸は言う。
「人によって音は違うんだ。喜怒哀楽で音が変わるのは一緒なんだけど、どの音がどの感情の音なのかは初めてあったときにはわかんないんだ。一緒に過ごす時間が長いほど、精度が上がるんだけど」
「では、私の感情は全て筒抜けだったと言うことですか。まあ、別に妻ですから特に気にするようなことでもないですけど」
「でも、まれちーの『嘘』の音だけは分からなかった」
「なぜですか?」
これまで一緒に戦って来た時間ではまだ足りないということだろうか。
「だって、まれちーは俺に嘘をついたことがなかったから」
ああ、確かに。言われてみれば私は今まで一度も嘘をついたことがない。
つく必要がなかったのもあるし、夫である善逸にはできる限り誠実でありたいと思っていたから。そのせいで随分とキツい言葉を言ってしまったこともあったけれど。
「まれちーが裏表のない人間だってことはわかってたんだ。でもまれちーの言葉や態度が全部本当か、逆に全部嘘なのか、俺には判断できなかった」
そういうものなのか。言われてみれば、物事を判断するには比較対象が必要だ。
「俺のことを持ち上げて、強いだの優しいだの言って、その間も全く音に変化がなくて、もしかしてこの女は生粋の嘘つきで、生まれてからずっと嘘しかついていないんじゃないかって」
でも、と善逸は私に詰め寄った。私の肩を掴み、真正面から私の目を見据えて。落ち着いた瞳孔と、微動だにしない眼球で。
「それが、やっとわかった。まれちーが嘘をつくときの音をやっと聞くことができた。すごい、悲しい音だ。聞いてるだけで泣きそうになる」
善逸は本当に涙を溢れさせながら、言った。
「だから、もう嘘をつかないでくれよ。悲しい嘘なんてやめてくれよ」
頼むから、と。そう懇願された。
そんなことを言われてしまえば、妻として応えないわけにはいかないだろう。
「……正直に言えば、私はここで死ぬ可能性が高いです。鬼と鬼殺隊に狙われて、上層部に顔も割れてて、彼らが化け物の隊員を認める可能性なんて万に一つも無くて」
「だから、俺から離れるために?」
こくり、と頷く。
「だって、もう無理じゃないですか。こんな私の近くにいたら絶対巻き込まれますし、どころか鬼殺隊からすれば化け物と交流があるなんて御法度もいいところじゃないですか」
「そんな話をしてるんじゃない」
善逸はいつになく情けない顔で、こう言った。
「俺を守るって、言ったじゃないか」
「は?」
それは、いつもの弱音とは違った。普段なら泣き喚き、必死にすがるようにそして無駄に力強く吐き出されるそれは、今回は驚くほど静かで、弱々しかった。こんな弱音らしい弱音を吐けたのかこの男は。
「俺は弱いんだぜ、まれちーが守ってくれなかったらすぐ死んじゃうぜ、いいのかよ」
「自分を人質に取ってるつもりですか?」
斬新すぎるわ。
「何いつまでも情けないことを言っているのですか」
「守ってくれよ、一緒にいてくれよ」
「だから、もうそれはできないんですって」
善逸だっていつまでも誰かに守られているわけにはいかないだろう。すぐには無理でも、幸い善逸は炭治郎や伊之助と出会った。彼らとともにいればきっと彼は死なずに済むだろう。
「まれちーに危険が近づいてるってなら!」
そんな私の思考を吹き飛ばすような大声で、
「俺がまれちーを守るから!」
善逸は叫んだ。
「鬼からも、鬼殺隊からも守るから。だから、俺を守ってくれよ」
……なんだ、それ。
この男は自分がどれだけとんでもないことを言っているのかわかっているのか。
この山の被害を考えれば、ここにはもしかしたら十二鬼月がいるのかもしれないし、その討伐に柱が出向いてくる可能性がある。それらを相手に私を守るなんて、その危険性を理解していないのか。
しかし善逸は顔を真っ赤にして、肩に触れる両手の指は震えが止まらなくて、それでも目を私から逸らさないで。
なんなんですかあなたは。
どうしていつも、あなたはそんなにも愛らしいのか。
すでに夫婦の関係であるのに、これ以上私を惚れさせてどうするのか。
「ほんと、最低ですね善逸」
「な、なにがだよ! 俺はただ、まれちーに俺とした約束を果たすように釘を刺してるだけで」
「善逸」
彼の目を覗き見る。瞳孔に映る私は、瞳が赤く裂け、口の端からは牙がわずかに覗き、肌には地割れのような黒い亀裂状の痣が幾本も走っている。額にはうっすらとした裂け目がいくつもあり、その下には蜘蛛の複眼が隠れているのだ。
およそ人間のものとは思えない。顔形は人間の頃とさして違いはなく面影もしっかりと残っているがそれだけだ。どう言い繕っても人間とはかけ離れていて、見るものに恐怖を与えるものであった。
善逸の頬を両手で優しく挟む。
私の指が触れても、善逸は身じろぎもしない。なに、どういう意図? というわずかな戸惑いと照れ臭さがあるだけだ。
善逸。
善逸。善逸。善逸。
愛してる。
あなたの瞳に映る私の姿が、恐ろしければ恐ろしいほど、あなたへの愛おしさが募る。
「大丈夫ですよ、善逸。私があなたを守ります。だから私を守ってください」
約束ですよ、と言いながら。
私は軽く、額と額をコツンと合わせた。