鬼になった社畜【完結】   作:Una

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第31話 決着

 穴の中は完全な闇である。光が差し込む隙などないのだから当然であり、鬼でもなければ視界など全く利かない空間だ。

 その中で紅く輝く八つの球体。

 それらは蠢き、淡く明滅し、さらには堕姫を前にして揺らめきと共に輝きを増した。

 それは地獄にも似た、赤黒い炎の具現だった。

 堕姫が恐慌に陥ったのは、その八つの球体が放つ悍ましい色合いに加えて、それらがかつて自身を焼いた油と炎を想起させたからだ。

 首から下を帯に変えていた堕姫は、その体をくねらせて細い地下道を反転し、悲鳴を上げながら地上を目指した。

 鼓膜に罅が入るほど甲高い悲鳴を地下に反響させながら堕姫は逃げる。

 その背を追う、紅玉の群れ。

 狭苦しく、後退以外に逃げ道のない闇の中で、堕姫は半狂乱になって逃げ惑う。通い慣れた地下道であるにも関わらず幾度も道を間違え、最短経路を大きく逸れながらも、息絶え絶えに地上に転げ出た。

 そこは人気のない、見切り小屋と呼ばれる、使い物にならなくなった遊女の掃溜めである。寒々しい空気が風を遮り、梅毒と結核で腐った肉の悪臭が滞留している。

 死の香りが充満しているあばら家の並びを横目に、堕姫は体を元の瑞々しい色香漂う女体へと再構成し、今自分が這い出た空洞の出口を振り返る。

 がさり、と音がした。

 肩を震わせながらも堕姫は身構え、穴から出るであろう紅玉の正体を見据える。

 まず地上に姿を見せたのは、節足動物が持つ刺々しくも禍々しい、鋭利かつ殺意溢れる脚だった。

 それが二本、さらに四本。穴から出ようと地面を噛む。それらに引かれて現れたそれは、蜘蛛だった。

 胴体は黒を基調とした、装甲染みた外骨格に包まれている。そのどす黒い表面には、肝臓を噛みちぎった時に出てくる褐色を帯びた赤色が白糸の滝のように流れている。ただそこから伸びる十二本の脚は、初めに穴から見えた六本以外は、肉付きの良い女の脚だった。

 その頭部は、美しい少女の顔だったのだろう。

 しかし今では見る影もない。

 少女の面影は残っている。だが巨大な蜘蛛の頭部が、四対の複眼と産毛の生えた粘液を垂らす強靭な蜘蛛の顎が、少女の額から人面疽のように生えているのだ。

 脚といい頭部といい、中途半端に少女の面影を残しているだけなお冒涜的で背筋を凍らせる。

 そんな蜘蛛の怪物が、自分が今まで入っていた地面の細い穴から、脚を前後に揃えながらその八尺を超える身を捩らせて、ぬるり、と這い出てきた。

 鬼である堕姫ですら生理的嫌悪感に眉を潜める光景である。

 

「……なに? この化け物」

 

 自分が焼かれた記憶による混乱から立ち直り、堕姫は自分を脅かした蜘蛛を睨め付ける。

 よくも脅かしやがって。そう呟きざま、堕姫は帯の刃を七本、蜘蛛に向かって飛ばした。

 多くの鬼殺隊士を惨殺してきた斬撃である。常人であれば視認すらさせずに体を両断せしむるそれを同時に七本、確殺の確信をもって差し向け、しかしその蜘蛛は甲殻に覆われた脚を

 同じ数だけ振り回し、帯の進撃を尽く止めた。

 

「な、に……⁉」

 

 堕姫が忌々しげに口元を歪める。醜い者を見下す癖のある彼女にとって、目の前の悍ましい蜘蛛もどきが自分に抗うなど、到底許せることではなかった。ましてこいつはこのアタシを地下でさんざん脅かしてくれやがったのだ。

 

「……殺す!」

 

 四方から対象を包むように帯で囲い、一瞬で対象を細々と切り刻む、脱出不能の斬殺技巧。

 それを、蜘蛛は真上に大きく身を翻すことでかわした。

 地下道を潜ったのと同じ要領で、脚を揃えて伸ばし、通過する面積を限りなく小さくすることで帯の隙間をくぐり抜けたのだ。跳ぶことを想定していなかった堕姫の攻撃は上方への警戒が薄く、申し訳程度の斬撃しか囲いの天井を形成していなかったのだ。

 堕姫が顔を上げ、蜘蛛の行く先を目で追う。

 高い。

 月を背景に脚を広げた蜘蛛が、まるで空を舞う鳥に見える。

 数秒の滞空時間を経て、蜘蛛が堕姫目掛けて落ちてきた。

 それを帯の斬撃で迎え撃つも、それを硬化した脚でさらに撃ち落としながら蜘蛛が迫る。

 その額に生えた頑強な蜘蛛の顎を堕姫に向けて迫るそれに、堕姫は怖気を覚えながら大きく避けた。

 帯をバネのようにたたみ、縮ませることで生じる弾性力を利用した跳躍は先の蜘蛛が披露したそれより一段高く、速い。制空権を維持しつつ堕姫は帯を三本同時に上段から振り下ろした。

 蜘蛛はそれを横に飛ぶことで回避する。蜘蛛の脚から射出した赤い糸が通りを挟んだあばら家の柱に結びつき、その巨体を一瞬で巻き取ったのだ。帯は直撃した地面に皹を入れ、地を揺らして崩れかけの長屋を一つ完全に倒壊させた。

 ち、と堕姫は舌打ち一つ挟みながらも追撃を加えようとして、ぐいと強く自分が引かれるのを感じた。

 何事かと帯の先端を見れば、そこには赤い糸が絡み、ベッタリとへばりついていた。糸の先は蜘蛛の脚の一本に繋がっていて、それを認識すると同時、堕姫はハンマーの様に振り回されて、長屋の側面に叩き込まれた。木造の壁が砕け、四つの部屋を貫通したその衝撃に堕姫は首の骨が折れ、折れた先端が頚部の筋と皮膚を突き破って露出した。その傷口を目指して赤い糸が迫る。忌々しい。糸を帯で絡みとり、計2カ所の糸が付着した部分の帯を切り離す。もうもうと砂埃の舞い上がる瓦礫の中から再び帯の弾性力を利用して跳躍、今度は水平に、蜘蛛のいる方向へと一直線に突き進む。

 それを予見していたのか、蜘蛛は二階のある屋敷の屋根に糸を伸ばし、一瞬で上空へと体を跳ねあげる。すれ違うように蜘蛛のいた場所を通過した堕姫は、即座に反転して蜘蛛同様に帯を屋根へと伸ばして跡を追う。

 

「待ちなさいよこの化け物が!」

 

 人間や建物への被害を全く頓着せずに、幾本もの帯で斬撃を撒き散らしながら、屋根から屋根へと高速で逃げていく蜘蛛を追う。

 二人の巻き起こす風圧で瓦が根こそぎ吹き飛び、別の家屋に叩き込まれて壁を粉砕する。

 それだけの速度で移動しながらも、二者の間が徐々に詰まってきた。糸を活用し、自身を振り子の重りにして次々と屋根を渡っていく蜘蛛に対し、堕姫はほぼ水平に体を飛ばしていくのだ。軌道が直線に近い堕姫の方が、移動においては有利なのだった。

 

「死ね」

 

 

 血鬼術・八重帯斬り

 

 蜘蛛に追いつき、帯の射程の内へと充分に捉えたと判断するや、堕姫は自身の血鬼術を発動させた。

 四方はおろか、上下まで含めた3次元的なそれ。先に蜘蛛を囲んだものより、遥かに密度と速度が高い。

 それに対し、蜘蛛は自身を支える脚のうち八本をただ帯の斬撃に晒した。

 蜘蛛の脚と女性の脚、それぞれが何本も斬り飛ばされ、あたりに血をばら撒いた。

 同時に蜘蛛はその巨体を跳ね上げることで、迫り来る帯の牢獄の、子供一人がかろうじて通れようかという隙間を空中でくぐり抜けた。

 しかし脚がなければ糸は出せない。宙に身を投げた蜘蛛の怪物は、どう、と屋根から雑草と砂利が這う地面へと落ちる。

 堕姫の血鬼術の余波で周囲の荒れた長屋が二つ切り刻まれ、瓦礫となって崩れ落ちた。

 屋根より高く斬り飛ばされた蜘蛛の脚がくるくると、膨大な量の血を風車のように撒き散らしながら瓦礫の山に落ちる。

 ふん、と堕姫は、地に這い悶える蜘蛛を屋根から見下ろし、傲慢に鼻で笑った。

 

「ああ気持ち悪い。芋虫みたいにもぞもぞと。こんな鳥肌の立つ蟲、細切れにして肥溜めに捨、て……?」

 

 くらり、と。堕姫は足元が傾くのを感じた。

 堪えようと脚に力を入れるも、入れれば入れるほど足元の屋根と、さらにその下にある地面の傾きは大きくなり、ついには垂直に立ち上がった屋根から滑り落ちて、彼女は地面に全身を打ち付けてしまった。

 なんだこれは。

 混乱の中に嵌り込んだ堕姫は、必死に手足をバタつかせながら視線を巡らせる。

 傾いたのは地面だけではない。真円であった月もなぜか歪んでいる。自分を残して世界が姿を変貌させていく感覚。

 違う。

 堕姫は自分が寝そべる地面に掌を叩きつけ、苛立たしげに爪を立てた。

 

「……地面じゃない、アタシが、ぶっ倒れただけ」

 

 酩酊している。地面に立てた右腕に力を入れて起き上がろうとするも、筋肉が自分に叛旗を翻したかのように体が持ち上がらない。

 

「なにをしたの、この化け物が!」

 

 堕姫が吠える。霞む視界の先にあの悍ましい蜘蛛を捉えれば、芋虫のようになっていたそれは、いつの間にか欠損していた脚を生やし、その身を堕姫へと向けていた。

 まずい。

 焦燥と怒りを帯に込めて、堕姫は自由の利かない体を帯の力で無理やり立たせる。直後、自分の頭があった位置に蜘蛛の鋭い脚が突き立てられ、踏みしめられた土を深く抉った。

 

「くっ」

 

 距離を取らねば。そう判断し帯を操るも、すっかり酩酊した堕姫は帯にも力を加えることができない。踏み込んできた大蜘蛛の巨体に無様にも押し倒され、四肢と帯の先端が全て凶器よりも凶悪な蜘蛛の脚を突き立てられ、地面に縫いとめられた。

 

「はな、放せ気持ち悪い!」

 

 蜘蛛と少女を煮詰めてかき回したかのようなその醜悪な容貌を、接吻時の距離で直視することを強いられる。その距離まで近づいて、堕姫はようやく自分の異常な状態について理解が及んだ。

 稀血だ。

 周囲にばらまかれた血と、この蜘蛛の傷口から漂う香り。その濃厚な匂いは、あの最近作られるようになった稀血薬と近いものだった。あの薬の香りを何千倍にも濃縮したような匂い。深く呼吸をすればそれだけで脳の奥までが痺れに襲われる。

 ハアアアア、と、生臭い吐息が蜘蛛の口から溢れた。

 額に生える、巨大な蜘蛛の顎が開く。下顎から垂れた唾液が堕姫の首元を濡らす。あまりのおぞましさに怖気立つも、堕姫が真に顔面を蒼白に染めたのは、その口腔からずるり、と吐き出されたそれを見た時だった。

 それは、刀だった。

 青みがかった刀身を持つ、唯一鬼を殺しうる、日輪刀の一振り。

 

「な、なんでそんなものが」

 

 刀身だけが吐き出された状態で、蜘蛛はその横に開閉する顎を使って器用に刀を固定した。

 その位置で頭部を動かし、切っ先が堕姫の首へと添えられる。

 

「ちょ、助けてお兄ちゃん! なんとかして!」

 

 普段なら呼べば出てきてくれるはずの兄が、この絶体絶命の時を迎えてなお現れない。

 この時彼女の胸の内に湧いた感情は、悔しさだった。

 こんな醜い化け物に首を切られる羽目になるなんて、なんたる屈辱。

 ちくしょう、くそう。

 

「あんた覚悟しなさいよ! 絶対あとでお兄ちゃんに殺されるんだから!」

 

 それが、上弦の陸が片割れ、堕姫の最期の言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 以上、監視ちゃん☆ こと社畜鬼のお目付役の実況でお送りしたぞ。


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