鬼になった社畜【完結】   作:Una

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第48話 想い

 肉体を分裂させるのは、無惨にとっては大きな危険を伴う奥の手だった。

 逃げ場がなくなり、日の出も近い、そんな時にとる最終手段。

 1800以上の細かな肉片に別れ、破裂させる。人間では目に追えない速度で放たれるそれらは乱数で八方へと弾け飛び、人の手によって捕らえることも目で追うことすら不可能。

 逃走の成功を確定することと引き換えに大きく力を損なうことになるが。

 それでもあの場に留まっているよりはマシであると、そういう判断だった。

 この手段をとるのはこれで二度目だ。

 一度目は始まりの呼吸の使い手。1800の肉片のうち1500をその場で斬り捨てられた。あの時の恐怖と痛み、力を削がれた虚脱感を思い返すと今でもハラワタが煮え繰り返る。

 そして、今回の二度目。

 斬られた肉片は、ない。全ての細胞が十全な状態で逃げ切れたようだ。

 である以上、さっさと細胞を集合させ、身を潜めなくてはならない。あの場にいた者たちの寿命が尽きるまでの我慢である、今度は大した時間もかかるまい。

 そう、安堵と怒りを胸に燻らせていると、無惨の意識にまたあの耳障りな笑い声が。

 

『ふふふ、あははは、あぁおかしい』

 

 女狐め、未だ吸収しきれていないか。

 この身に取り込んだ細胞の残留思念に過ぎない貴様が何を笑う、往生際の悪い。それとも気でも触れたか、千載一遇の機会を逃して。

 珠世は口元を手の甲で隠して、苛烈なほどの上品さで嗤うことをやめない。

 

『気も触れようというもの。お前が見事に私たちの目論見に嵌ったのだもの。その喜びに、ああ、頭がおかしくなりそう』

 

 ……くだらん。この期に及んで負け惜しみか。

 

『まだ気づかないのですね。お前の細胞が、全てあの男の血鬼術に囚われていることに』

 

 何を言うかと思えば馬鹿馬鹿しい。

 やつの触手は地中に埋まっていた。そこから霧状に血を噴出させていたが、それがなんだ。切り離され霧となればその動きを制御できなくなる。だからただ浮遊させ、私が吸い込むのを待つしかなかったのだ。

 血の霧が私を捕えるような動きをすることなど不可能だ。

 私の言葉に、ふふ、と珠世は嗤う。

 

『あの場には、目に見えないほど細い血の糸が、半径二十メートル。お前を包み込むように半球状に張り巡らされていたのですよ』

 

 戯言を言うな。私の目で見えない糸だと? 細胞も、細菌も私の目を逃れることなどできない。細菌よりも小さい? そんなもの作れるはずがない。

 

『無惨、お前は傲慢だ。自分が正しいと言えば全て正しい、自分は何も間違えない。自分の目に映るものだけが真実で、一度信じてしまえば疑うことをしない。千年以上も生きていながら、その精神のあり方は子供と何も変わらない』

 

 事実だ。

 霧の粒子はその直径をμmの単位で測定する。平均すれば30μmといったところか。

 その程度の大きさの粒を生み出す土台は、直径が1cmもある血の触手だ。

 やつの触手の動く速度、太さは知っていた。どれだけ細くしようとも1mmが限界だ。霧を噴出していた時も、柱どもを治療していた時もその太さだった。触手の動く速度も、飛び散る私の肉片を追えるものではない。

 

『それが限界と誰が言いました? 教えてあげます。彼が作る触手の最小径は、10nm、あなたが識別できると語った細胞や細菌など小さくても10μm前後。その1000分の1の太さの糸です』

 

 ……馬鹿な。

 

『ウイルス、というものをご存知? ほんの数年前に仏蘭西の学者が見つけた、細菌の1000分の1の大きさの病原体です。そんな小さなものまで彼は操作できるようになった』

 

 そんなはずがない。そんな小さなものが病を生じさせるなどありえない。それに、そこまで小さなものを操る力は奴にはなかった。いつそれほど力を付けたというのだ。

 

『ナノレベルの太さで触手を操作することは今までできていませんでした。生体内ならいざ知らず、空気中では直径1μmの太さがせいぜいで、それより細くなると重力に負けて千切れるか、すぐ蒸発してしまうかでした。それが可能になるほど力をつけたのは今日のことです』

 

 今日、だと? 

 

『地上に存在する全ての鬼から貴様の血を奪い、保存していた。稀血の協力で製造した稀血薬の在庫を全て飲み干した。無限城で死んだ千人超の人間たちの血を取り込み、鬼殺隊に倒された上弦も吸収した。彼が今まで築いた全てを今この時のために投入した。そのお陰で、貴様の目にも見えない細さの触手を形成することに成功した』

 

 珠世が、あるはずのない私の頬を撫でた。こちらを見上げる女狐の目には、隠し様のない愉悦が浮かんでいる。こちらが見下ろしているはずなのに、その縦に裂けた瞳孔は、まるで右往左往する鼠の逃げ道を塞いで弄ぶ猫のようだった。

 待て。ではなぜ地面から出ていた血の触手はあの太さだった? 可能な限り細くしていれば、私に見つかることもなかったはずだ。

 

『それはもちろん、お前に分裂という逃亡手段に出てもらうため。言ってみれば油断を誘うためです。

 稀血薬を作ったのも。

 人間に警官隊を組織させたのも。

 柱たちを陰ながら援護したのも。

 全ては貴様を『食べやすくする』ために他ならない』

 

 いきなりだった。

 いきなり、虚脱感が襲ってきた。ただでさえ失っていた力をさらに搾り取られる感覚。

 奪われている。

 自分の血も、細胞も、力も何もかも。

 

『お前が傲慢で良かった。自分の目に見えないものは存在しないと断じる傲慢さが。自分の認識が間違っているかもしれないと、疑う謙虚さを持ち合わせていなくて本当に良かった』

『むーざんが頭無惨で良かったよ、いやほんと』

 

 この、声は。

 忌まわしい、今となっては不倶戴天の敵。

 相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべ、軽薄な声で、こちらを煽る我が仇。

 火に包まれるようにして消えた珠世と入れ替わるように、あの男が私の意識の中に現れた。

 

『初めて会ったその日から、ずっとむーざんを食べることを夢見ていたんだよ。お前をいつか必ず食べる、という想いだ。念願成就。やったね』

 

 夢、だと。

 想いだと。

 私を食べることが、か。

 自分の抱いていた、永遠という夢と比べればまるでとるに足らないそれが。

 そのために、たかがそれだけのために貴様は一体何人の人間を犠牲にした? なぜそんなことを? 

 

『そんなことむーざんには聞かれたくないんですけど……まあ、今日のも入れれば二千人くらいじゃない? 知らんけど。藤の家紋の家の人達とか特高に拷問されてたし、集めた稀血の牧場に鬼が乱入したり伝染病が流行ったりとかいろいろ、うん、いろいろ』

 

 人間は人間を殺すことを忌避するのではなかったのか。貴様は自分を人間だと自負していた。今まで人間を一人も殺さず、稀血薬なるものまで作った。人間を殺すことを厭うていたのではないのか。

 

『え……いや、別に俺が殺したわけじゃないし、そんな責められても』

 

 馬鹿な。

 殺しただろう。

 私とて、殺した人間のことなど誰一人として覚えていない。だが、殺したということを否定しない。何千人と殺して何の天罰も下っていない、と産屋敷に語ったこともある。

 それをこの男は、本気で戸惑っている。直接手をくだしたわけでなくとも、貴様が死に向かって駆り立てたのだろう。なぜそのような戸惑いの表情を浮かべる? 

 

『でもね』

 

 と男は言う。相変わらずの笑顔のまま。

 

『想いや願いを叶えるには犠牲が付き物だ。なんの犠牲も払わずに叶う願いなんてない。だからこそ、人の想いは尊いんだ』

 

 その想いとやらの犠牲を払ったのは貴様ではないだろうが。

 

『そうだね。

 みんな、俺のために犠牲になってくれた。

 だからこそ、俺は彼らの命を、想いを、背負って生きていかなくちゃならないんだ。

 彼らが残してくれたものは、さらに先に進めなければならない。それが生き残った者の役目だから。

 俺は彼らの想い全てを背負う。全てを背負う覚悟を決めたんだ。お前を残さず食べるために』

 

 悍しい。

 意味がわからない。

 正体不明の怪物を目の前にしている感覚。

 お前が想いを背負ったから何だというんだ。

 

 ──意識が遠のく。わずかに残された力が最後の一滴まで搾り取られる。

 

 ──私は、死ぬ。

 

 産屋敷。貴様が言っていたのはこういうことか? 想いは受け継がれると。だから想いは不滅だと。

 こんな悍しいものを、貴様はああも誇らしげに語ったのか。

 

 

 だとすれば、やはり貴様は異常者だ。産屋敷。


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