善逸はその類稀なる聴覚で、無惨の肉体に起きた異変に気付いた。
しかしその異変が何を意味するのかはわからなかった。
体が内側から膨張する音。ぶちぶちという繊維質な音が、細胞間の接着が強制的に千切れていく音だと気付いたのは、無惨が飛散する直前だった。
無惨が弾け散る。
柱もさすが柱としての剣技を持っているが、それぞれ斬ることができた無惨の肉片はせいぜい十かそこらで、千を優に超えて分かれた無惨の肉体のほとんどを見逃してしまった。
これが無惨の逃走であることは、その場にいる全員が気付いていた。
全員の心を絶望が占める。
お館様を、柱を除く鬼殺隊のほぼ全員を犠牲にして得た千年に一度の機会を、こうして無駄にしてしまった。
「そんな……」
「くそが……クソォ!」
恋柱、甘露寺が呆然と呟き、両膝をついた。風柱の不死川が地面に拳を叩きつける。
「……え?」
「……あぁ?」
「なんだ、これは」
その一方で、怪訝な顔で周囲に視線を巡らせているのが、善逸、宇髄、悲鳴嶼といった聴覚に優れた隊士たちだ。それに数瞬遅れて炭治郎や伊之助がその五感でもってそれに気づいた。
「悲鳴嶼さん?」
呟きに反応した胡蝶が悲鳴嶼を見上げて問い掛ければ、彼は首を傾げながら、
「無惨の肉片が、宙に浮いている?」
「というより、細い糸に引っかかっているようです。糸にくっついて振動しています」
善逸が残った方の手を耳に当てて答える。柱たちが目を凝らせば、確かに寒気がする数の細かな肉片が、自分たちを囲むように浮いている。無惨に囲まれているなど吐き気がする。
その後それらは、見ている間にみるみるその大きさを減じさせ、ついにその姿を消した。
同時に、張り巡らされていた糸がほつれ、消滅する。
「今の糸は、無惨とは違う匂いがしました。というか、この通り全体に広がっている匂いと同じ血の匂いが……」
「つまり、別の鬼の血鬼術か」
一体なにが起こったのか。
おそらく、信頼できる配下を使った無惨の逃走手段なのだろう。見晴らしのいいこの大通りでは、ただ飛び散った肉片は全員で探せば、その多くを見つけることができただろう。それを封じるために、糸を繰り出す鬼を配置させていたということか。
ここまで完全に逃げられると、その足取りを追う手段も、時間も彼らにはなかった。
何故なら自分たちは、治療に回っていた胡蝶を除き、全員が無惨の血を身に受けていたのだから。
無惨の語るようにそのまま毒で死ぬのならまだいい。無惨の血によって鬼に転じるようなことがあるのなら、一刻も早く日輪刀で自ら首を切り落とさなければならない。おそらく、すでに鬼になりかけているだろうから。
「首を、斬ろう」
悲鳴嶼の言葉に皆沈痛に俯く。それしかなかった。呼吸を使える自分たちが鬼となれば尋常ではない被害がでる。
傷を負っていない胡蝶を除く、全員がその場に正座した。日輪刀を抜く。
「胡蝶よ」
悲鳴嶼が呼ぶ。
「……はい」
「もし、首を切った後も死体が残ったら埋葬を頼む。そして、あとは任せる。お前一人でも生きていれば、鬼殺隊は終わっていない」
「……」
「胡蝶」
「…………………………は、い」
胡蝶が目を閉じる。涙を堪えているのだ。
鬼殺隊としての矜恃と、救われた恩義の板挟みで、砕けそうになる心を持て余して、彼女の表情は年相応のそれとなっていた。
その傍らでは、体の修復を終え人型になったまれちーが善逸に肩を貸して、耳に向かって小声で話しかける。
「逃げましょう」
「……まれちー」
それはできない、と善逸は首を振った。
「何故ですか。鬼になったから何だというのですか。人間でなくなるのは嫌ですか? 私を守ってくれると約束したじゃないですか。むしろ鬼になった方が死ににくくなって鬼舞辻無惨を殺しやすくなるじゃないですか。鬼になればその腕だって生えてくるでしょうし、何を迷うことがあるのです」
「……」
確かに、と善逸は思う。
痣のことをまれちーは知らないだろうが、おそらく、人外となったまれちーの寿命は人間よりも遥かに長いのだろう。
彼女を孤独にするくらいなら、彼女と共に人外に堕ちて。炭治郎も、伊之助も宇髄さんも、全ての柵を捨てて逃げるのも、
「ほい」
その人? は、いきなり現れた。
周りにいる柱も、善逸の耳でも、誰一人としてそれに反応できなかった。
男は、無惨が着ていたような洋風のキッチリした灰色の服を着ていた。その格好は何故か土汚れでドロドロで、いろんなところが破けていた。まるで瓦礫から這い出てきたような。
その人? が、ほい、なんて間抜けた掛け声で、切断された善逸の腕を持って、善逸の切断面に押し付けていた。
「え、おっさん何してんの」
「いや、くっつくかなって」
「鬼と一緒にすんなよ……」
善逸が戸惑った声をあげる。そこでようやく柱たちも男の存在に気付いた。
いざ首を切らんと日輪刀を首筋に当てていた彼らは、即座に立ち上がり男に対して構えをとった。
男は善逸の腕を押し付けたまま、向けられた刀の切っ先にまるで反応しない。
そのまま数秒、沈黙の時間が過ぎて男が一言、
「え、今なに待ち?」
「おじさんの自己紹介待ちじゃないですかね」
「あ、まれちー久しぶり。というか、え、俺待ち? どうも、私こういう者です」
相変わらずの軽薄な笑みを浮かべながら、男はにゅるりと伸ばした血の触手で、初めてまれちーと出会ったときに渡したものと同じ四角い紙切れを渡した。
「……ここの、これがおっさんの名前なの?」
善逸が紙の表面を指差して問う。
そこには『禾几昊翼』という、判読不能な文字が並んでいた。
「読めないんだけど。なんて読むの?」
「え、読めないの? それはちょっと善逸学がなさすぎじゃない? まあ孤児だししょうがないよね。でも自分の境遇に甘えて無能を享受するのは人としてどうかと思う。向上心が足りないというかさ、礼節くらいは学ぼうよ。教えを乞う時ってそれなりの態度ってあるよね」
「うおお、久しぶりのおっさん節超うざい……教えてくださいお願いします」
「いや俺に聞かれても知らんし。鬼になった時に忘れちゃってさ」
「こいつ……!」
善逸の問いに男はそんなことをこともなげにいう。鬼だ、と。鬼殺隊の敵であると。
無論、柱やそれに準ずる力をもつならば鬼であることなど一目で看破する。それがどの程度の力を持つかも。
今、目の前に唐突に現れた男は、無惨を前にした時と同等かそれ以上の圧がある。
背中にビリビリと、怖気の走るような圧迫感。濁った油の塊が如き重い空気を発している。
その飄々とした馴れ馴れしい口調との差が、より一層嫌悪感を掻き立てる。
「おい善逸、テメェなにまったり鬼と会話してやがる、そいつの派手な強さ気づいてねーのか」
「え、だっておっさんだし。いえ宇髄さんの言うことはわかりますよ、でもこの人? は人間を殺したり食ったりしないんだ」
「善逸、その鬼は、張り巡らされていた糸と同じ匂いがする」
炭治郎の言葉に、柱たちの殺気が高まった。
「つまり、鬼舞辻を逃した鬼ってことかァ……!」
「待て不死川!」
不死川が斬りかかる。その速度はまさしく風のごとし。鬼はなんの抵抗もできず、首を両断された。
もちろん、男の首は斬られた先から回復して、単に刀を素通りさせるに等しい。
「あ、犬鼻少年久しぶり。人間化薬届いた? 無惨にも効いたくらいだし妹さんもきっと人間に戻るよ」
「え……あ、あなたはあの時の、珠世さんのところの」
「ま、待って待って! ほんと、この人? は無害なんだって! 俺もまれちーも何度も助けてもらって。ていうか柱に刀向けられてんのになんでおっさんそんな呑気に話しかけてんの⁉ 首斬られたじゃん!」
「ぜ、善逸……腕が」
「え? あ」
禾几昊翼を名乗る鬼を庇おうと前に出て両手を広げた善逸は、切断され、押し付けられていた左腕が動いていることに、まれちーに指摘されてようやく気づいた。
「おおおおお、おっさん、これ、これ⁉」
「俺の血鬼術でね。細い血の触手で筋肉と神経を繋いだんだ」
男は周りの柱たちを見渡して、
「君たちだって、怪我をした割に出血少ないよね? それ、俺がこっそり血管を繋いで血が出ないようにしてたんだけど知ってた?」
柱の視線が胡蝶に集まる。治療に専念していたのは彼女だからだ。
「……そう、ですね。私が止血処置をしようとした時には、ほとんど出血が止まっていました」
「でっしょー?」
「ですが、いつそんなことを? たった今まで私たちは鬼舞辻無惨と戦っていました」
疑問を呈する胡蝶が一度、瞬きをした。瞳を閉じて、開く。その一瞬にも満たない時間で、男の触手が一本胡蝶までの距離を詰め、先端が彼女の長いまつ毛を一本抜いた。ぱちん、と目蓋が音を立てた。
「いった……!」
「多少動き回る程度で俺の触手からは逃げられないよ。腕丸ごとならともかく、血管程度なら一瞬だし。まあ、直した対価に、体の中に入ってた無惨の血を貰っちゃったけど……」
だめだった? と首を傾げて親しみやすさを演出しようとして失敗している鬼の言葉に、柱たちは目を見開いた。
「待て。無惨の血を貰う、とはどういう意味だ?」
皆を代表して悲鳴嶼が問いかける。
「どういうも何も、そのままだよ」
鬼は手のひらから髪より細い触手の束をわっさあと出した。
「うわきっしょ」
「この触手を血管に侵入させて無惨の血だけを吸い取ったんだよ。だから誰も死ぬどころか痛みもないでしょ? あときしょいって言った奴あとで尿道塞ぐから」
すぐ隣にいる善逸が真っ青な顔をした。
それを無視して悲鳴嶼が、
「なぜ我々を助ける。目的はなんだ?」
「恩返し」
鬼は、満面の笑みで言った。
うっさんくせぇ。柱の心が一つになった。
「俺には夢があった。それは、俺を鬼にしやがった挙句にこき使ってくれちゃった無惨を食ってやることさ。それが成功したのは、君たちの頑張りが大きい」
君たちには感謝しているんだよ、と。
「君たちが無惨を追い詰めてくれたから、無惨を食べることができたんだ」
その言葉は、真偽を嗅ぎ分ける竈門炭治郎の鼻を誤魔化し。
嘘を聴き分ける善逸の耳からも真意を隠した。
無惨との会話で学んだのだ。
自分の今までの行動って、もしかしてヤバいかな? ヤバいのかな? と。
確かに女医さんだってこの計画を語った時に強い拒絶を示したのだ。でも人間化薬を作ってくれないとどうしようもないので、下弦の壱に協力してもらってね。女医さんが自分の夫と子供を食い殺す場面の夢を十万回くらい見せ続けてね。味や匂い、食感まで再現してさ。精神壊れる寸前まで追い詰めてからお子さんの声で「お母様は悪くないよ、悪いのは無惨だよ」って言わせたらね。無惨を殺す以外どうなってもいい絶対無惨殺すウーマンにメガ進化してね。
つまり、一般的にはそれだけ嫌がられる計画だった、てことは学習したんだよ俺は。
何がそんなにヤバいのかはわかんないから、とりあえず他の人には詳細を語らず『無惨を食べるために頑張った』で押し通す。
ただ、この場にはパンクがいる。嘘はバレる。いかに嘘を吐かずに誤魔化すかの勝負である。
ここにいる優秀な鬼殺隊の皆さんには、今後とも良いビジネスをしていきたいからね。
うんうんと頭で方針を確認している俺に、なんか泣いてる大男が、
「食べる、とは? 鬼舞辻は死んだのか。逃げたのではなく」
「死んだよ。張り巡らせていた糸で全部吸収してやったんだ。濃厚過ぎてちょっと胸焼けしてるんだけど」
「おっさん、なんでここにいたんだよ。糸を張ってたのもおっさんだろ? 今回の作戦知ってたのか?」
「警察の偉い人と知り合いでね。今回警察が突入する作戦についてその人が話してたんだ」
「警察って、おっさんマジで人間なんだな」
善逸の言葉に俺は笑みを浮かべた。
もちろん無言である。
「あの、あなたは本当に人間を食べていないんですか?」
「もちろん」
「でも匂いが。とても血の匂いが強いんですが」
「んー、匂いと言われてもね。無惨を食べたからじゃないかな」
こんな調子で質疑応答をしているうちに、日の出が近づいてきたのである。
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