白日 作:もう戻れないよ
涙は熱いのに、雨は冷たい。
僕が雨男なのだと初めて自覚したのは、五歳の頃のことだ。
幼稚園の遠足で、少し都心の方にある動物園に行った。レッサーパンダがその園のアイドル的存在だった記憶がある。
幼稚園に集まって、路線バスよりも少し大きい青と白のバスに乗って行った。背もたれにテーブルがあって、子供ながらも、自分は贅沢をしているんだなと感じた。
高速道路に乗って、動物園まで一直線。
みんなと歌を歌ったり、ちょっとしたゲームをしていたら、すぐに着いた。
大きな駐車場に停まって、先生に見送られながらバスを降りる。降りて、降りて、予め決めれた班に分かれた。
先生から園内の地図付きのパンフレットを渡された時だ。
一粒の雫が手の甲に落ちた。冷たさは一瞬で無くなって、すぐに体温と同化した。やがて雫は数を増し、手の甲も鳥肌みたいに雫でいっぱいになった。
そこでやっと、雨が降ってきたのだと気づいた。
周りの子たちは悲鳴をあげたり、ガックリとしたような低いため息をこぼしたり、突然の雨にはしゃいでいたり。
僕はというと、不思議と、自責の念に駆られた。
涙を流さなかったが、ただただごめんなさい、と呟いていた。
先生が僕の背中をさする。でも、僕はごめんなさいを止めなかった。
みんな持ってきていた折り畳み傘を広げたり、カッパを被ったりしていた。
そんな中で、僕は、ただ冷たい雨に濡れていた。
帰りのバスのことだ。
行きと席は違くて、僕は前から四番目の、右窓側の席に座って、頬杖をついていた。駆られていた自責の念は薄れて、水溜りの出来た道路をただ眺めていた。
これで四つ目の、大きな水溜りだ。
そう思いふけっていると、誰かが僕の隣に座った。
女の子だった。黒い髪をポニーテールでまとめて、右口元にある黒子が特徴的だった。
「動物園、残念だったね」
僕のことを覗き込むように言う。
「うん、そうだね」
味気ないアスファルトを眺めながら僕は答えた。
名前は知らない子だった。
「なんで隣に?」
「気分が悪くて、前の方に来た」
「大丈夫なの?」
「大丈夫。少し楽になった」
今思えば、彼女は小学生にもなってない子供ながら、とても大人びた言葉を扱っていた。
赤色のチェック柄のスカートのシワを両手で伸ばす。
「雨、ずっと降ってるね」
「うん」
僕は再び外を見る。相変わらず雨は降っていた。梅雨でもないというのに、我が物顔で雲は黒かった。
「僕のせいなんだ」
「え?」
僕は言葉をこぼしていた。薄くなっていた自責の念は、また少しずつ濃くなっていて、僕の心から溢れ出てしまっていたのかもしれない。
はたまた、当時の僕には、彼女は教会で祈りを捧げるシスターにでも見えていたのだろう。
どちらにせよ、僕は言葉をこぼしていた。僕の心の内なんか気にかけずに。
「わかんないけど、僕が雨を降らしたんだと思う」
「そんなことないよ」
「いや、多分、僕なんだ」
余談になるが、当時の僕にはある種の自己犠牲な面があった。自己犠牲、といえば聞こえはいいが、要はただの自己中心的な自己満足だ。
僕の周りで起こるネガティブなこと全ては、僕のせい。そう定義することで、みんなのヘイトを受けて、雰囲気をマイルドにする。
実際に雰囲気がマイルドになっている確信なんてなかったし、実際は大したことはなかったのかもしれない。
神経質な親元で暮らしていたことにより身についた、無意味で愚かなスキルなのだろう。
「あなたのせいじゃないよ」
「じゃあ、誰のせいなの?」
当時の僕でも、これは失言だとわかった。けど、当時の僕にその失言を正す言葉は出せなかった。
彼女はその言葉を飲むこむように息を吸って、再びスカートのシワを正す。
「私のせいなの」
ポツリと、大粒の涙のようにその一言は落ちた。
「私、今日、朝の占い見るの忘れちゃった。ラッキーアイテムを持ってこれてないから、私のせい」
呆気にとられたのを覚えている。
バスのエンジン音も、タイヤで水溜りを蹴飛ばす音も、窓に打ち付けられる音も、全てが吹き飛んでいた。
頬を熱い何かが伝い、手の甲に落ちた。
それは熱くて、体温とはなかなか同化せず、ずっと感触が残っていた。
涙なんて、場違いだ。
シャツの裾で乱暴に擦るが、いくら擦って拭っても、涙は止まらなかった。嗚咽も漏れず、グラスを逆さにして溢れる水のように、止めどなく、静かに涙は流れた。
その時は、涙が勝手に流れた理由なんて全くわからなかった。
でも、十年が経った今ならわかる。
あの時の僕は、嬉しくて、悲しかったのだ。
生まれて初めて僕の戯言を否定されたという、生意気な喜び。
そして、目の前で、僕を否定して、自分のせいだと言い張る彼女のことが、悲しくなったのだ。
「はい、ハンカチ」
ポケットから取り出されたハイビスカスの柄のハンカチを手渡される。
使うのを躊躇ったけど、涙は止まらない。僕はハンカチで、涙をせき止めた。
「風野灯織」
「え?」
「私の名前。あなたは?」
彼女……灯織は自分の名前を名乗った。
バスのエンジン音が、タイヤで水溜りを蹴飛ばす音が、窓に打ち付けられる音が、全てが蘇って僕の耳元で踊っていた。
「僕は、
「一葉、よろしく」
ぎこちないハニカミで、彼女は僕の名前を呼んだ。
雨音は強くなる。
涙は相変わらず熱い。
ああ、やっぱり。
反吐が出るほどに、僕は雨男だ。
みなさんは雨男と雨女を信じますか?