白日 作:もう戻れないよ
曇り空は綺麗だ。どんよりとしていて、ハッキリとしていなくて、人の世と心模様を写したような歪さと美しさを持っている。
降水確率二十パーセントの金曜日の朝。
グレー色の雲の下、僕はブロック塀に背中を預けていた。ゴツゴツしていて冷たい感触が背中を押す。
新調したスマートフォンでメールアカウントの整理をする。新年毎にクラスが変わるため、毎年四月はメールアカウントが増えて仕方がない。
一回だけ話した後に何のやりとりもしてないアカウントを1番下に、よく話す人は上の方に。
単調な作業を繰り広げていること数分。目の前の玄関扉が控えめに開かれた。
「あ、待ってたの?」
驚いたように僕の顔を見つめるのは風野灯織。中学三年生になった彼女は、とても大人びた容姿となっていた。
「おはよう。うん、待ってた」
「おはよう。ごめんね、待たせちゃって」
「気にしてないよ」
サイズが合ってなく、手の甲の上まで伸びてるワイシャツの袖を引っ張りながら、彼女は僕の隣まで駆け足で寄り添いに来る。
身長が伸びるだろうと少し大きめのサイズの制服を買ったらしいが、意外と伸びなかったとのことだ。
ようやく百六十センチになった僕より、少し低いくらいの背丈だ。
「新しいクラスには慣れた?」
隣を歩く灯織に聞く。
「うん、良い人が多くて、なんとかやっていけてる」
「それならよかった」
「一葉は?」
「こっちもまあまあ。知ってる顔もいたから、上手くやってるよ」
「ならよかった」
灯織は人見知りだ。重度の、というわけではないが、それでも周りに知らない人だらけだと自分から話しかけれない。中学3年生で初めてクラスが別々になって心配だったが、どうやら心配はなさそうだ。
二人で並んで歩く。同じ歩幅、同じスピードで。
学校に近づくにつれて同じ制服を纏った学生の姿が増えていく。イヤホンで気ままに歩く人、歩幅はバラバラながらも纏っている集団、自転車で一人駆け抜けていく人。さまざまだ。
校門をくぐって、下駄箱に着いたところで、僕と灯織は別れる。
「じゃあ、また」
「うん、また」
互いに手短にそう投げかけて、僕らはそれぞれの教室へと足早に向かう。
僕と灯織は幼馴染で、距離感も特別だ。けど、別段、常日頃から一緒にいるというわけではない。
実際、特別な日でもない限り、家が近いからという理由で、こうして登校を一緒にするぐらいだ。
昼食時にもわざわざ互いのクラスに行きはしない。絶妙なラインが僕らの間にはあるのだ。
午前の授業は一時限目に国語、二時限目に数学、三時限目に体育で四時限目に歴史だ。
三時限目に体育をしたせいでいつもの倍はお腹が空いた。盛大にお腹が鳴らないことを祈りながら四時限目をやり過ごした。
昼休みに母が作ってくれた美味しそうなお弁当を食べて、残った時間は友達と進路についてを語り合った。
これといって決めてる高校は無い。やりたいことがこの歳で見つかってる方が凄いというものだ。
約十年も先のビジョンなんて、漠然といいう言葉も霞むほどにイメージ出来てない。
「まあでも、きっと俺とお前も離れ離れになるんだろうな」
本田という男子生徒が、シャープペンシルを指で回しながら、何気なくこぼした言葉だ。
義務教育の範囲外である高校では、おそらくこのメンツの殆どと別れることになるだろう。
あと一年もしないうちに、この見知った顔ぶれとは目と目を合わせて話すことも、声を聞くことも出来なくなるのだろう。
「実感が湧かないね」
僕はそう返した。
心に浮かび上がった言葉を百パーセントに、なんの装飾もつけずに口にした。
「だな。まあどこに行くかにもよるけどさ」
暗示するように、そう言葉を付け足した。
五限目六限目の授業内容が上の空になってしまうほどに、本田の言葉が僕の頭の中で泳いでいた。
離れ離れ、といういつかは来る現象が、少し怖かった。
それはつまり、僕にとっての当たり前が灰となって消えて、新たな灰の山を築くという、十五歳の僕にとっては未知の領域なのだ。
そして、その当たり前の中には、当然、風野灯織が存在する。
登下校を一緒にする程度の、ただの幼馴染だけど、彼女が僕の日常の中から消えてしまうのは、少し悲しいし、怖い。
今もこうして、鞄から紺色の折りたたみ傘を取り出している彼女の後ろ姿を、まるで最期に目にする光景と言わんばかりに目に焼き付けてしまっている。別に、僕は写真機というわけではないのに。
「どうかしたの?」
視線に感づいたのか、何もしない僕を訝しんだのか、定かではないけど、灯織は僕の顔を覗き込んだ。
「ううん、なんでもない」
首を横に振るけど、恐怖心が消えたわけではない。
少し間を置いて、「いや、うん」と濁した声を添え置く。
「少し、怖かったんだ」
恐ろしくストレートで漠然とした言葉だ。「え?」と、彼女が首をかしげるのも無理もない。
「進路の話をしてね。みんな離れ離れになるんじゃないかって」
「ああ、そういうこと」
理由を説明すると、彼女は微笑んだ。夜が眠れない子供をあやすような、母性的な微笑みだ。
「確かに、怖いかもね」
折りたたみ傘を開く。少し小さい紺色の傘布が彼女の背中を覆う。昇降口まで遅いテンポではあるけど歩き出す。
僕も傘を拡げて、彼女の背を覆っている紺色の傘布を追いかける。
「一葉がいなくなるのは寂しいかな」
「僕も灯織と離れ離れになってしまうのは悲しいよ」
「まだ確定したわけじゃないけどね」
さっきの本田の言葉のように、灯織はそう呟く。「そうだね」と、相槌を打つ。
「灯織はやりたいこととか決まってるの?」
「うーん」
顎に人差し指と親指を当てて、雨空を見上げて思案する。一粒の雨粒が彼女の目元に跳ねて、涙のように頬を伝った。
「特に、無いかも」
頬を伝った雨粒をブレザーの袖で拭う。
「そっか、無いんだ」
「うん、無い。一葉はあるの?」
「僕も特に」
その言葉を聞いた灯織は、安堵したように見える笑みを浮かべた。
「将来の夢を書いてとか言われるけど、今の時点じゃ全くわかんないのに」
「だね。イメージなんて出来てないのを捻り出すなんて無理だ」
どうやら灯織も僕と同じで、将来の自分の姿をイメージできていないらしい。
「でも、私達、いつかは離れ離れになるんだよね」
降りしきる雨音に混じって呟く。
「高校で一緒だったとしても、五年後十年後には……さ」
まあ、そんな先なら、離れ離れになるのも無理もないだろう。
学生生活内ならまだしも、社会人ともなれば、自分の都合なんて存在しないに等しい。社会の波に揉まれて、ただ疲弊するだけだろう。
「出来れば長く一緒にいたいね」
「うん、出来ることならね」
僕の言葉に彼女も頷く。
「どうしたら、長く一緒に入れるんだろうね」
「友達じゃ無理があるかもね」
「限界がね」
「んー……恋人、とか」
再び、雨粒に混じって呟く。
けどそれは、僕にとっては大粒の、それも飛びっきり冷たい雨粒だった。
「恋人、か」
「それぐらいしか思い浮かばない」
「まあ、そうだよね」
恋人という関係は、他よりも特別だ。友人よりも家族よりも、距離感は特殊な近さで、独特な距離感がある。
その恋人同士の馬があってたりすれば、生涯を共にするパートナーになり得る。
「どうなの?」
「え?」
「いや、灯織はさ、僕が恋人だったら」
曖昧な言葉の節を受け取った灯織は、戸惑ったような表情を浮かべた後、静かに顎に指を添えて思案する。
「一葉から告白されないとわからないから、あまりハッキリと答えれないけどさ」
そう前置きをして。
「嬉しいよ。一葉に好意を持たれてるってことは」
特に表情にアクションが起こったわけでもなく、降りしきる雨音の中でもよく通る低い声で、そう答えた。
「そっか。それは嬉しいね」
「でも、一葉とは恋人じゃないにしても、長く一緒にいたいと思うよ。他の人と比べると、余計にそう感じる」
「…そっか」
どうやら僕は彼女には他の人達よりも少し近い距離感で見てもらえているらしい。それは素直に嬉しい。
降りしきる雨音がより激しく聞こえた。
糸が切れたようにポツリと言葉の応酬は止まってしまい、風景が音となって僕らを包んでいた。
気がつけば灯織の家の前まで来ていた。彼女も気づいてなかったのか、自分の苗字が彫られた表札を目にして「あっ」とこぼした。
「ここまでだね」
「うん」
「雨、止むかな」
「今日中には止むらしいよ」
「明日には止んでる?」
「かもね」
「よかった」
門扉の向こう側へと渡ったが、灯織は何故か玄関の扉を開けようとしない。僕もそんな彼女の行動に倣ってしまって、何故か歩き出せない。
再び風景が音となって僕らを包んだ。いや、僕に関しては、背中を押されたと言ってもいいのかもしれない。
「覚えてる?」
「え?」
唐突に切り出す。
当然、彼女は首をかしげる。
「10年前、僕が雨男だったときのこと」
「……あの動物園のこと、か」
10年前のあの日。
彼女が僕を否定してくれた日。
僕が彼女を殺してしまった日。
「それがどうしたの?」
「……いや」
聞いた意味なんて特になかった。ただ何か言わないと互いに帰れない気がしたから、口から出まかせに言っただけだ。
「灯織、今日のラッキーアイテムは?」
「紺色の布。ハンカチにしようと思ったけどなくて、布だからってことで折りたたみ傘にした」
「……効き目は?」
「雨が今日中に止むって。明日は友達と出かける用事があるから、よかったよ」
「そっか」
そう語る彼女の顔は、いつもよりどこか明るく、そして安堵しているようだった。
「じゃあ、また来週」
「うん、またね」
そう手短に言葉を交わせて、軽く手を振って背を向ける。玄関扉が開かれて、閉じられたのを確認してから、僕は歩き出した。
灯織は、とてもネガティヴな少女だ。
自分に自信が無くて、何事にも占いやジンクスを重要視する傾向がある。
もともとそういう性質だったのかもしれないが、それでも、毎朝家を出る前にテレビの占いのコーナーを見てしまうほどにまでなってしまったのは、僕のせいなのだ。
動物園に雨が降ったあの日。
僕のあの一言は、刺さっていたナイフが更に心臓に達しさせる一押しには十分すぎる強さだったのだ。
あの日を日切に、僕の中から生意気な自己犠牲精神は薄れていった。
けど、それと同時に彼女の本来の明るさや自信も薄れていってしまったのだろう。
空を見上げると、雨は止みそうにない。
それでも明日には止んでいる。
それが灯織の紺色の折りたたみ傘によるものなら。
彼女が僕の世界を変えてくれたのは、紛れも無い事実だということになる。
グレーの空へ向けて息を吐く。
灯織への感謝と後悔を滲ませた白い吐息は、少しのうねり混ぜながらも、なかなか消えなかった。