白日 作:もう戻れないよ
九月には優しい風が吹く。
暖かく、髪を軽く揺らす程度の、とても優しい風。
そんな優しい風が、落ち葉を泳がせていたのを目で追いかけながら、僕は彼女の言葉を聞いていた。
「渋谷凛だって」
「アイドルの?」
「うん。来るらしいよ、ウチに」
彼女が話す渋谷凛というのは、いま人気のアイドルだ。
端正な顔立ちに、クールな風貌。少なくとも、僕らと同世代なら知らない人間などはいないだろう、というほどの人気を持っている。
そんな人気アイドルが、我が校の文化祭にゲストとして出演するというのだ。
「すごいね。それならウチの学校は大盛況だ」
「たぶん、そうなるね」
きっと例年以上に人がたくさん来るのだろう。それこそロックフェスなんかのように。
「でも、アイドルかぁ」
「灯織は興味あるの?」
「わからない」
曇り空を見上げてそう浮かす。
「アイドルって、キラキラしてるからさ。ドヨドヨしてる私には、眩しすぎる」
そうしてブレザーのポケットに手を突っ込む。
「でも、良いなぁ、とも思う」
「それはどうして?」
「私と正反対だからかな。月が太陽を求めて、太陽が月を求めるみたいなさ」
灯織らしい詩的な表現だ。でも、彼女の伝えたいことは、手に取るようにわかった。
「目指してみたら、アイドル」
野球ボールを投げるように、軽く、特に深い意味もなく言う。
「……話聞いてた?ドヨドヨしてる私には眩しすぎるって言ったけど」
口を尖らせてそう返す。
「ああごめん」と紙飛行機を飛ばすような軽さでそう付け足す。
「でも、アイドルかぁ…」
考え耽る合図というように立ち止まる。曇り空を見上げて、無防備に整った顔を晒している。
やがて視線を僕に一瞬向けて、また歩き出す。僕はその一歩後ろを追う。
「考えはまとまった?」
「まさか」
表情は伺えないが、声音からして、三割ぐらいの満更でもない感情を握りしめているのだろう。
そんな、十四歳の少女の腕時計のねじまきのような心情を少し微笑ましく思いながら、いつもの学校へと向かった。
そろそろ秋は本番を迎える。
僕ら中学三年生にとって受験前最後の学校行事は、思っていたよりも早くやってきた。
これまで何枚も書いていた進路希望調査書も、気づけば最終確認一歩手前となっていた。
僕らのクラスの出し物は輪投げだ。とてもシンプルで質素だけれど、子供も大人も老人も、誰でもが楽しめる不思議なゲームだ。
新聞紙を何枚も重ねて丸めて、輪の形にしてガムテープでくっつける作業は難しかったけど楽しかった。
景品は担任の先生が自腹で袋にパンパンに詰め込んだお菓子だ。
それぞれシフト(暫定的だけど)を組んで、自由時間には遊び回って、時間が来たら教室に戻って客呼びのサイクルを繰り広げた。ちなみに僕は午前中で客呼びは終わりだ。
僕は灯織と一緒に回って、保護者のボランティアが作った揚げパンを昼食にしてライブ会場……もとい、体育館へと足早に向かった。
午後。正確にいうと午後二時が渋谷凛のライブの開始だ。会場の出入り口は中学校とは思えなぐらいに厳重で、学校が配ったチケットが無いと入れないようになってる。限定的なチケットだったのに中は大盛況で、僕と灯織は酷く困惑して、そのお祭り騒ぎっぷりに締まりが切れて笑みがこぼれた。
座席は指定されてるけど、早い者勝ちで、僕らは最後方のスタンディング席になった。二人とも背は高く無いので、体育の授業のバスケットボールでもしないようなジャンプをして、ようやく舞台袖が見えるぐらいだ。
ステージは本物のライブ会場に比べると酷くチープで渋谷凛の実力と人気に比例してない。そもそも、彼女はなぜこんなありきたりな学校の文化祭のゲストに来たのだろうか。
「ねぇ」
隣で一生懸命つま先出しをする灯織に、いつもより少し声を張って声をかけてみる。
「なんで渋谷凛はこんなとこに来るんだろうね」
灯織は僕の言葉を一個一個確認するように口を動かして、口元に人差し指を付けて考える。つま先立ちをやめて、少しだけ胸を張った。
「わかんない」
灯織にしてはとても大きい声だったのだろうけれど、この喧騒の中では冬の教室内で聞こえるツグミの囀りのように小さい。
僕は「やっぱりか」と頷いて、僕はまた前のステージに目をやった。
するとゆっくりと舞台袖が逃げるように捌けていく。まるでメインの登場かと高らかに謳うように。
照明は消えて、それと同時にドワァッと観客たちが湧き始める。普段、ライブに行かない僕でも、”彼女”が登場するのだとわかった。灯織もそう感じたのか、自然と笑みがこぼれていた。
スポットライトが白々しく浴びせるのは、渋谷凛の姿。
黒いニーハイソックスに赤いチェック柄のスカート。制服を思わせるワイシャツの上には、場違いなライダースジャケットを着ていた。
僅かにしか見えないが、そのアンバランスな衣装は、しかし渋谷凛には赤い女王に抗えないトランプ兵のように着こなしていた。
圧巻に取られていると、ライブは始まった。聞いたことのあるイントロ。”
身体が揺さぶられる。心臓が力強く握られる。内臓が震える。足に衝撃が走る。鼻先がピリピリする。目に光が焼き付けられる。
そこはライブ会場だった。体育館だなんて、アリーナに比べたら酷く小さくて惨めな所だけど、渋谷凛の歌でそこはライブ会場へと変貌する。
そしてファンでもない僕は、彼女のトランプ兵となっていた。
ライブの終わり、僕ら二人は体育館から少し離れた、黄色い菊の咲く花壇の道の付近で余韻を感じていた。
「凄かったね」
陳腐でありきたりだけど、素直な感想を僕は言う。灯織はそれに頷いて、ゆっくりと息を吐く。
「なんだか、襲われてるみたいでよかったなぁ」
「襲われてる?」
「うん。心臓を鷲掴みされてるみたい」
灯織のそれに近い感想を僕も抱いていたので、「うん」と僕は肯いた。
灯織は、普段はあまり見せることのない、満ち足りていて、どこか2歩先の景色を見ているような目をしていた。その姿が、やけに眩しくて、少し眩しく見えた。
「アイドルって、良いね」
「目指す気になった?」
「少し、ね」
空を見上げていた灯織の目は、小さじいっぱい分程の儚さを糸に引いて前を向いた。
「やらないの、アイドル」
低くて、少しかすれ気味の、けれどしっかりと聞き取れる女性の声。
––––––そこには、誰も予想していない人がいた。
「いいと思うけど、あなた」
渋谷凛が、そこにはいた。
ライブ会場で遠巻きで見るよりも背は高くてスラッとしている。顔はとても小さくて、腕と脚も少しの衝撃でぽっきりと折れてしまうぐらいに細く見える。
少し意外そうに右眉を上げて、頭ひとつ分ほど背の小さい灯織を見下ろす。
「ルックス悪くないし。いけると思うよ」
クールそうな印象を与えるつり目が、少しだけ細くなって微笑む。
当の灯織はというと、かなり戸惑っているのか、「あ」や「え」を繰り返しながら、金魚のように口をパクパクしている。
「渋谷……凛さん?」
「うん。声も可愛い。ますます向いてると思う」
会話の方は成立していると言い難かった。
「渋谷さん、なんでここに?」
このままでは新幹線が交差するだけで終わると直感した僕は、当然の疑問をぶつける。……とは言っても、声が震えているのが自分でもわかった。
「車まで行こうと思ったけど、道に迷っちゃって。駐車場ってどこかわかる?」
「それならそこをまっすぐ行って、突き当たって右です。あとはまたまっすぐ」
「ありがとう」
僕に礼を言うが、視線は灯織に向いていた。余程気に入っているらしい。
「大丈夫?」
「あ、はい、大丈夫、なはずです」
「自分のことでしょ」と言いたかったが、灯織は続いて口を開いた。
「本当に、アイドルに、なれるんですか、私」
とてもハッキリとした声で、でもちょっと早口気味に言う。
息遣いが荒く、胸が浮き沈みしているのがわかるけど、彼女の目は、とても真剣で真っ直ぐだった。
そんな問いに、渋谷さんは微笑んで、風船で覆うような声で答えた。
「なれるよ。灯織が強く思っていればね」
その言葉に、灯織は幼い子供のような笑みを浮かべて、声音を弾ませて「はいっ」と答えた。
その時の彼女の顔が、ひどく脳裏にこびりついた。まるで赤のペンキが付いた掌を押し当てられたように。強く、嵐が来ようが、豪雪が振りしきろうとも、消しきれない、埋まり隠れない程の、色濃いそれが。
限りある時間の中で、渋谷さんと話をする灯織。
今まで見たことのない顔。目。声の色。仕草。
胸が痛む。
それは締め付けるような痛さでもあって、何かがぶつかった衝撃のような痛さでもあった。血が噴き出るほどの痛さだけれど、どこかに心地よさがあった。
––––––人を好きになるってどういうことなんだろうね?
数ヶ月前、彼女に送った文面を思い出す。
それは時空をねじ曲げて、今日の僕に突き刺さった。
––––––それはね。
スマートフォンのキーボードを打つような感触だ。軽々しくて、けれどキーボードよりも打つ力が強くなる、過去の僕への返信。
––––––とても、苦しくて幸せになることなんだ。
春の雷のような痛みは、心臓に衝撃を与え続けて、血の流れを早くする。
雷雨は僕の中で降り続けてる。
まるで僕と灯織が初めて話し合って、泣き合った、あの雨の日のように。
僕の心と瞳を濡らし続けている。