彼は、なにもかもがうまくいかないときに、ある光景を目にしました。

先日の朝、バッサバッサと向かい風に立ち向かっている鳩がいらっしゃいまして。
『がんばってるな〜』と他人事のように眺めていたのですが、
その光景を見てフと思いついたので書いてみました。

特に何かがあるというわけではないのですが、
時々こういう話を書きたくなるのです。

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先日の朝、バッサバッサと向かい風に立ち向かっている鳩がいらっしゃいまして。
『がんばってるな〜』と他人事のように眺めていたのですが、
その光景を見てフと思いついたので書いてみました。

特に何かがあるというわけではないのですが、
時々こういう話を書きたくなるのです。


バタバタしてる鳩がいた

 何事もうまくいかない時ってのはあるもんだ。最近の俺はまさにそれで、やることなすこと、何もかもがまったくうまくいかない。

 

 数ヶ月前までの俺は、極めて順調な生活を営んでいた。仕事は順調で段々と大きな仕事を任されるようにもなってきていたし、立場も次第に責任ある立場へとなっていくにつれ、もらえる金も増えていった。

 

 私生活も充実していた。将来を約束した女と同棲し、お互いの両親への挨拶も済ませ、結婚まで秒読み……というところまで来ていたのだが……

 

 

 ある日、俺の部下の新入社員がやらかした。大切な顧客の重要なデータが入っているHDDを、あろうことか完全にフォーマットした状態で、先方へと提出した。

 

 もちろん先方は大激怒。俺はそのやらかした新入社員を引き連れ、謝罪をするために先方へと赴いたのだが……

 

――そもそも、そんな大切なデータならバックアップ取ればいいじゃん

 

 信じられないことに、そいつはお客さんの眼の前で、そんなことを口走った。

 

 それが原因で先方の怒りは頂点に達した。俺も同じことは常々考えてはいたのだが、今だけはその言葉を口から吐いてほしくなかったのに……そいつはよりにもよって、一番言ってはいけないタイミングで口走りやがった。

 

 結果的にデータは復旧させたのだが、そのせいでうちは大損害。おまけに件の新入社員は『上司から理不尽なパワハラを受けた』と退職。おかげで社内での俺の立場はどん底まで落ちた。肩書こそ『主任』のままだが、部下も全員取り上げられ、俺は社内の片隅で、一人で書類整理や雑用だけを任されるようになってしまった。

 

 そんな状態に甘んじているわけにはいかない。俺も気力を奮い立たせて、新しい企画や業務改善の提案書なんかを暇な時間に作成して、上にかけあってみるのだが……

 

――これはもうお前の仕事じゃないから

 

 そんな言葉とともに、俺の提案書は中身を見られることもなく、俺の目の前で入念に破かれ、そして丁寧に丸められた後、ゴミ箱へと投げ捨てられた。

 

 不思議と悪いことは続くもので、俺がそんな状況に陥って途方に暮れていたある日。仕事から家に帰ると、俺の婚約者は姿を消していた。LINEはブロックされ、電話も着信拒否をされて、一言『もうあなたに用はない』と書かれた置き手紙だけがおいてあった。

 

 何もかもが嫌になった俺は、その次の日……つまり今日、会社を休んだ。

 

 仕事を休んだとはいえ、今の俺には別段やることがあるわけでもなく、かといってどこかにでかけたり、気晴らしに遊ぼうという気力も湧かず……気がついたら俺は、公園まで足を延ばし、そのベンチに座ってのんびりと空を眺めていた。

 

 今日は風が強く、春とはいえ肌寒い。自分が吐いた息をよく見ると、なんだか白く見える気がする。今日はホントに春なのか……と疑いたくなる寒さだ。俺はコートの襟を立て、自分の首が冷たい風で冷やされることを防いだ。

 

 空を見上げると、どう見ても春先の空の色ではない。灰色の雲は厚く、冷たい風も相まって、空の色がグレーに近い薄い青色に見える。

 

 そんな空を、たくさんの鳥が縦横無尽に飛んでいた。あの大きさは鳩だろうか。十数羽ぐらいの鳩の群れが、縦横無尽に空を飛んでいるのが見えた。

 

 その中で一羽、えらくバタバタと羽ばたいているヤツがいた。

 

 そいつは両の翼を大急ぎでバッサバッサと羽ばたかせ、バタバタと滑稽な動きをしながら、向かい風の中を必死に羽ばたいていた。そいつの姿は健気にも見えるが、どちらかというと滑稽だ。TV番組なら『ぼくがんばるもん!!』なんて、聞いてるだけで逆鱗が逆なでされるような、人を舐め切ったナレーションがつけられるであろう、そんな、哀れで滑稽な様相だ。

 

 そして、そいつはそれだけみっともなく頑張っているというのに、その強すぎる向かい風のせいでまったく前に進んでいなかった。風のことを考えなければ、ただ空に浮かんでいるだけのような、そんな印象すら受ける。それぐらい、そいつは前に進まない。ただその場でバタバタとみっともなく翼を羽ばたかせ滑稽な動きをしながら、その場で停滞しているようにしか見えない。

 

 ふと疑問が湧いた。他の鳩の奴らは、向かい風に対して決して逆らう様子はない。抵抗することなく風に従い、方向転換したあと、気持ちよく空を滑空しているやつがほとんどだ。なのに、なぜあいつはバタバタとみっともなく羽ばたいてまで、向かい風の中で前に進もうとするのか。

 

 その視線の先に何かがあるわけではないようだ。止まり木があるわけでもなければ、餌をばら撒く迷惑この上ない近所のババアがいるわけでもない。あいつが頑張って前に進んだその先には、なにもない。強いて言えば、風上でそいつを見守る、俺がいるだけだ。

 

 にもかかわらず、あいつは必死に羽をバサバサと動かし、体をみっともなくばたつかせ、前に進もうとしている。

 

 あいつら鳩に意識があるかどうかはわからない。だが、その表情はきっと必死な形相をしているだろう。マンガだったら、周囲に汗と千切れた羽根が飛び散るエフェクトがかけられるぐらい、あいつはみっとくもなく、だが必死に前に進もうとしている。

 

 俺は、次第にその鳩から目を離せなくなっていった。ベンチから立ち上がり、空で前に進まずバタバタと滑稽に暴れ続けるアイツを、固唾をのんで見守り始めた。

 

 鳩は、必死な顔を崩さないまま、今もなお必死に身体をバタバタとさせている。でも向かい風が強い。まったく前に進まない。

 

 右手の拳を少しだけ握りしめた。いつの間にか額に垂れていた汗が、風が次第に弱まっていることを俺に告げた。

 

 風が弱まる。鳩の動きが次第に落ち着いてきた。額の汗の冷たさがなくなる。風が弱い。止まりそうだ。

 

 雲の動きが止まった。太陽が俺の額を照りつけた。額から汗が吹き出す。

 

 そいつが目を見開いた気がした。風が止まった。

 

 そいつが翼を大きく広げた。その途端、そいつは目の覚めるスピードで空を滑空し始める。鳩が俺に近づき、高度を下げる。俺との距離が近づく。鳩は俺から目をそらさない。まっすぐ、ものすごいスピードで、俺に近づいてくる。

 

 その鳩の顔に俺は呑まれた。そいつのまっすぐな眼差しと目が合った。その目は今まで出会った誰よりも鋭く、そして力強く誇り高い。

 

 猛スピードを維持したまま、鳩はひときわ力強く羽ばたいた。もはや向かい風はなく、こいつの邪魔をするものは何もない。他の誰よりも美しいフォームで速さを維持しながら、鳩はまっすぐに俺の顔めがけて飛んでくる。

 

 鳩から目を離せず、しかし見つめることしか出来ない俺の頭をかすめ、鳩は再び大空の向こう側へと舞い上がっていった。

 

 おれとそいつがすれ違ったその瞬間、俺の耳に届いた声があった。猛スピードですれ違った『ゴウッ』という風の音に紛れ、微かにだがはっきりと声が聞こえた。

 

――俺は逃げなかった

 

 その声にハッとした俺が背後を振り返った時、鳩は、すでに俺の視界から消えていた。

 

 しっとりと濡れた額をぬぐう。どうやら俺は完全に鳩の迫力に飲まれていたらしい。再び向かい風が吹いたが、あいつの姿はどこにもない。ひょっとしたらまたどこかでばたついているかと周囲を伺うが、そんなやつはどこにもいなかった。

 

 あの鳩の言葉の意味を、俺は必死に考えた。

 

――俺は逃げなかった

 

 あいつは、他の奴らが退散していく中、たった一人で、向かい風に立ち向かっていた。バタバタと情けなく翼を羽ばたかせ、必死に汗を撒き散らす……そんな、こっけいな姿を周囲に晒しながら。

 

 ひょっとしたら、あいつは俺以外の他の仲間にも笑われていたかもしれない。『あいつ、向かい風に立ち向かってるぜ』『バカじゃないのか』なんて、冷笑されていたのかもしれない。鳩の奴らに言葉なんてホントにあるのかさっぱりわからないが。

 

 そんなあいつが、向かい風が止まるやいなや、今までのストレスを発散するかのように、美しいフォームと信じられないスピードで大空を駆けていた。わざわざ風上にいる俺に向かって飛んできて、自分の勇姿を俺に見せつけるかのように。

 

 他の鳩の奴らを眺めながら、その理由を考える。他の奴らは優雅に空を気持ちよく飛んでいるやつらや、地上に降りてのんきにアスファルトをつっつく奴ら……思い思いに過ごしているが、あいつほどのスピードで空を駆ける奴は、結局見つけられることは出来なかった。

 

 あいつが、他の誰よりも速く駆けることが出来た理由。それはおそらく、向かい風に対してみっともなく立ち向かい続けたからだろう。

 

 そのがんばりが、具体的にどういう効果を生み出したかはわからない。あの滑稽な羽ばたきにどんな理論的な効果があったのかは、文系の大学出で理数系の科目が苦手だった俺には、見当もつかない。きっと説明されたとしても、理解は出来ないだろう。

 

 だが俺には、あの滑稽な姿があったからこその、風が止まった後の目覚ましいスピードだったのではないか……あの、みっともなく向かい風に立ち向かい続けた時間があったからこその、誰よりも美しく、力強い疾さだったのではないだろうか……そう思えてならなかった。

 

 すでに俺の視界から消えて久しい、アイツの後ろ姿が空に見えた気がした。

 

――俺は逃げなかった

 

 うっすらと見えるあいつの後ろ姿から、あいつの言葉が再び聞こえた気がした。

 

「逃げんなってことか」

 

 あいつにとっての向かい風は、今の俺の状況となんだか似てる気がした。

 

 なら、俺も逃げずに立ち向かえば、いつかはあいつのようなスピードで空を羽ばたけるのだろうか。

 

 仕事もうまく行かず恋人も失ったが……そこで腐らず、みっともなくあがき続ければ、いつかは、あいつのように華麗に大空を飛ぶことが出来るだろうか。

 

 ひんやりと冷たい風が吹いた。額が冷たい。汗はいつの間にかひいたようだ。首筋が冷たく、心地よい。

 

 空を見上げる。今まで灰色にしか見えなかった今日の寒空は、いつしか、太陽が顔を覗かせる、春先の天気へと戻っていた。

 

 あいつの行った先をもう一度振り返る。俺に大切なことを身をもって教えてくれたそいつは、すでに俺の目の届かない、はるか遠く高い場所へと、到達していたようだった。

 

終わり。

 


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