その夜は月のない新月の夜だった。
丸い夜を照らす光がない代わりに、無数の粒のような星々の輝きが見えた。自分、いいや自分たち以外誰もいないこの島から星空へと手が届きそうなほど、光を掴みそうになるほど多く、近く見える。多くの星々と、そして銀河の中心へと向かう天の川。いつか地球から見た空と、大して変わらない夜の星空が広がっていた。
黒い油で汚れた手、気にすることも無く紙巻き煙草に火を点ける。肺に煙を漂わせ、そして星空へと吐き出す。雲のない空に生まれた小さな雲はすぐに空に散って消えてしまう。波の音と、着ずれの音、電灯の光る電気の音、時折吹く海風が渦巻く笛の音、そして自分の心臓の音。
それだけしかない、それだけしか無かったこの島。
遠くに見える小屋、既に明かりが消えたところを見ると彼女も既に眠ったのだろう。穴倉から這い出るといつもの冷たい夜の風が頬を撫でる。昼間の熱気とは違うさりげない風の肌触り。海へと吹き降ろしてゆく風に煙草の白い煙は乗り、流れていく。
静かな音の流れる夜の海。波が立つことも無く穏やかに寄せては返す。暗いはずの海を星の光が照らす。
「何をやってんだろうな」
風が吹く。
自分が立つこの岩の上が揺らぐ。
地面が揺れたわけでは無い。
煙草の煙が揺れる。
両手は二週間前のゴンドラ整備の時の油汚れがまだとれていない。その上からまた新たに黒く汚れてしまった。汚れた指先を見た。握ると見慣れたやけどだらけの拳が出来た。
傷だらけのその手を開いて、ボケットに突っ込んだ。
右のポケットに入っていた小さなプラグ。
握りしめて取り出すと、そのまま投げつけてしまいたくなる。
振りかぶって、たたきつけて、壊して、二度と使えなくしてしまえばいい。
誰に迷惑がかかる事でもなく、誰かに止める権利がある事でもない。
自分が自分の物を壊すだけ。使えなくなるだけ、飛べなくなるだけ。
腹の底の方で掻きむしりが騒ぎ出した。掻きむしりは弱く、小さい。けれど、その雑音が血に乗って体中へと回っていく。
小さな掻きむしりの音は体中を侵し、増えていく。全ての音を追放して、浸食して、独占していく。ただの音のはずの掻きむしりが騒音となり、轟音となり、声音となっていく。
「お い」
ずっと聞いていたその声、目が覚めていても、そして眠っていても聞こえ続ける声。絶えることは無く、ずっと響き続ける。反響のように頭の中に響く。
鳥の鳴き声も、唐突な風の喚きも聞こえない夜はその悲鳴が大きく響く。耳鳴りのように鼓動と共に強く、大きく響く頭の中の声。
耳をふさいでも、歯を食いしばっても、眼を瞑っても、息を止めても止むことは無く、成す術などなくその音に身を削がれ続ける。
「お前は ない」
子守歌は無く、流れ続けるその呪いの言葉を聞き続ける。病的に熱い自分の吐息、その癖に背中には水が流されたような冷たさが走る。
全ては叶わなかった。
全ては実らなかった。
全てがもう取り返しはつかなかった。
失敗を背負って、、逃げ出して、その癖に諦めも悪くまた手を伸ばしている。
性懲りも無く、また。
「お前は飛べない」
本当にその通りだ。
握りしめた点火プラグから指は離れなかった。
煙草のフィルターを噛み潰していた。気が付けば煙草は根元まで燃え尽きていた。落ちた灰は海の方へと流されていく。微かに燃え残った吸殻を足で踏んで消す。岩と靴の擦れる音が聞こえる。右手に持ったプラグをもう一度ポケットの中に戻す。全身に入っていた力が抜け脱力するだけ。力と共に何かが抜けていく。
けれど、歌が聞こえた。
祷りにも似た歌が聞こえた。
声の主は言うまでも無く、その姿を探せばすぐに見つかった。
一昔前の流行歌、もはや誰も歌うことの無くなったありふれた恋の歌。
ステージがあるわけでなく、楽器隊がいるわけでなく、そして観客がいるわけでもない。
誰に聞かせるわけでもなく、自分のため、いいや、自分のためですらなく、何のためでもない。
嘆きなのか、悲しみなのか、怒りなのか、それすらも分からず、ただすべてを吐き出すように、語るように、突きつけるように奏でる。
歌声は大きくは無く、ともすれば雑音にかき消されてしまうほどの小さな音。けれど、その歌声は響く。
風に乗る。
空を駆ける。
海を渡っていく。
全てを撫でていくように聞かせてゆく。
月のない空
星降る夜
泣くように
笑うように
息をするように詩を紡ぐ。
それしか語るすべを持たない女の歌声。
その姿は確かに歌姫だった。