1892年 明治25年 大英帝国 ロンドン
津田梅子は産んだばかりの幼子に万感の想いを込めて最期の抱擁を行うと、今生の別れとなるだろう恋人カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイムに託した。
「詩子を宜しく御頼みします」
「ああ、わかってる。ウタコはオレが育てるよ。安心してくれ」
マンネルヘイムは本国から呼び寄せた乳母に抱かせた幼子を撫でた。
「外見はオレに似たな。きっと頭の良さは梅子に似てるだろうな」
眠っている幼子は北欧人らしい透き通った肌の色と、亜麻色の髪を受継いでいた。
「……」
梅子は漆黒の瞳で幼子を見つめた。眠っている瞳も、父親に似て薄い砂金のような色合いで、日本人との混血児は父親の血に強く引かれたようだった。
「この子は、勝手な私を恨むでしょうね……」
「それはない、オレが育てるけれど、ウタコは二人の子供だよ」
「………………はい」
互いに留学先のロンドンで出逢い、そして本国に帰らなければならない。
よく話し合った結果だった。
最期に抱き合い、梅子は蒸気船に乗った。
テムズ河を下る蒸気船は、濃い霧の中で小島の影に隠れ、美しい夜のロンドンから見えなくなった。
七年後 1899年(明治32)2月14日 明治33年 フィンランド大公国ヘルシンキ
七歳となった詩子はブーツの音で父の帰宅を知り、乳母に手伝われながらも紅茶を淹れて、トテトテと幼い足取りで歩む。
「パパぁ! お帰りなさい!」
「ああ、ただいま、詩子」
ティーカップを受け取り、詩子の頬を撫でたマンネルヘイムはフィンランド軍制式コートを脱いだ。極寒の北欧の雪が肩から落ちた。
「……パパ……なにか、あったの? 怖い御顔……」
「…ああ、いや……何も無いよ……詩子、今夜は早く休みなさい」
自分の厳しい顔を見抜いた愛娘の鋭さに驚きながら、努めて優しい顔で紅茶を味わった。
「うまいな、生き返るよ」
「パパぁ…」
「どうした? なにも詩子が心配するようなことはないよ。安心して休みなさい」
「……はい」
いつもならば詩子が淹れてくれた熱い紅茶で、どんな難件があっても顔が弛むはずが、さすがに今夜は眉間の皺が消えなかった。
「パパぁ…おやすみなさい…」
「ああ、お休み」
詩子がベッドに入るのを確かめてから、軍式コートではなく目立たない私物のコートを着ると、再び家を出た。
「「「隊長!」」」
玄関の外に集合していた部下たちが詰め寄ってくる。
「我々はロシア軍と戦います!!」
「ならんッ」
気鋭の士官が具申すると、他の兵士も同意したがマンネルヘイムは諌めた。
「今は耐えろ」
「隊長! こうまでロシア皇帝に我々が軽んじられては、もはや属国としか言えません。この上は決戦して自治独立を認めさせるほかは…」
一世紀前にロシア皇帝アレクサンドル一世から自治を認められたはずが、ロシアに関わるフィンランドの重要事項を報告する国務大臣格の代表が些細な事由でペテルブルグにおいて惨殺されたことで青年将校たちは出陣の構えだった。加えて明日発表されるニコライ二世の声明は受諾できるものではなかった。声明ではロシア皇帝がフィンランド議会の同意なしに立法権を強制施行しうるというものだった。詳細にはフィンランド語を廃しロシア語を公用語とすること、フィンランド軍は解散しロシア軍に編入されること、ロシア軍ボブリコフ将軍がフィンランド行政権を掌握することが謳われる。完全なロシア化に将校も国民も納得できるはずがなかった。
「耐えよ!」
言い募る士官をマンネルヘイムが一喝した。圧倒的な兵力を有するロシアに対し、フィンランド軍は士気高くとも少数だった。抵抗すれば容易に全滅するがゆえ、強く諌める。
「今は耐えるのだ。生きてこそ得ることのできる栄光のために」
「………隊長……では、みすみすロシア軍に入れと?!」
「いや、そこまで従順になることもない。これよりフィンランド軍は解散する、が! 次に集まるときもフィンランド軍としてだ! イワンのバカから招集があったら、寒いので風邪を引いて熱があると言ってやれ! しばらくは休暇だ! ペイイェンネ湖でマスを釣ってロシア産のヴォッカでも煽ってろ!」
豪放に笑う将を見て、部下たちも雪の中で笑いに同調した。
20年後 1919年(大正8年)6月28日 フランス ヴェルサイユ宮殿南燕の間
黒須哲夫は着慣れないタキシードを整えつつ、世界各国代表と随員、来賓たちが繰り広げる賑やかなパーティーの中に同郷者を見つけ歩み寄った。
「こんなところで会うとは奇遇だね。横須賀で見送ってくれたとき以来じゃないかい?」
「そういう貴様は? 黒須?! 黒須じゃないか?! 貴様! 生きてやがったのか?!」
ユーラシア大陸の最果てに来て、藍ヶ丘第二尋常小学校の同窓生と再会した双海字音は相好を崩した。各国人に向ける紳士的な笑顔ではなく、旧友への遠慮のない心底からの破顔だった。
「嗚呼! この通りピンしゃんさ! 双海こそ、よくも欧州なんぞに!」
互いに欧風宮廷作法に合わせていたのをやめ、乱暴に肩を組み合うと再会を祝した。
「黒須の留学先はドイツ、ベルリン大学だったな? 様子はどうだ? 砲弾は浴びなかったようだな」
「まったく酷い有様だよ。おちおち論文も書けない。よりによって在学中に敗戦を迎えるとは思わなかった。ある研究生なんざ、昼寝中にアパートの台所が吹っ飛ばされたんだぜ。それもドイツ軍の誤射だってんだから、たまらねぇさ。以来、鉄鍋をかぶって昼寝してやがる」
「今回の戦争は、まさに世界大戦という様相だったからな。日露戦争以来の騒乱だったが、幸い日本は大事なかった。パリ講和会議を締め括る親善パーティーとはいえ……今後の国防を憂うとな……」
各国の背広組と軍服、そして色鮮やかな婦女子たちのドレスが交じり合っているのを横目に双海が考え込むと、黒須は今更ながらに旧友の軍服姿に気づいた。パーティーであるため儀仗用の正装だったが、真っ白な海軍士官服は双海に似合っていた。
「双海、やはり貴様は軍人になったのか」
「まあな、黒須のように学者道を歩きたかったが、そうもいかなかった。本当は歴史を勉強したくて、士官学校の戦史科に入ったんだが、おりしも戦乱の世だ。歴史なんぞ役に立たぬと、廃科となって戦略情報科に回されたよ」
「双海らしい失敗だな」
望んでも選に漏れるエリートコースだった戦略情報科卒業を失敗だと笑ってくれる旧友の厭味の無さが嬉しかった。
「その失敗のおかげで、海軍省から欧州駐在武官に任ぜられたよ。こういったパーティーも任務の一部さ。最大の収穫は黒須と再会できたことだな」
「ふっ……それだけかな?」
黒須が不敵に微笑んだので、双海は不思議に想った。
「どういう意味だい?」
「先刻から、あちらの御令嬢が双海に熱い視線を送ってらっしゃるのに、気づいてないとは言わせないぜ」
黒須が目配せした方向には、若葉色のドレスを纏った女性が粛々と立っている。二人と目が合うと軽く会釈して笑みかけてくれた。透き通った白亜の肌と、亜麻色の髪と瞳が異国風で印象的だった。
「どうやら、双海に興味がおありのようだ。ダンスに誘ったらどうだ? むしろ、こうまで見つめられて無視したのでは非礼というものさ」
「……黒須……オレは遊びにフランスまで来ているわけじゃないぞ」
「友好親善だろ? 世界平和のために仲良くしてこい。ヴェルサイユ条約の第一編は国際連盟の設立のはずだ。我想う故に君あり、バーイ、デカルト」
黒須に背中を叩かれ押し出された双海は「我ありだ。ゲーテじゃあるまいし」と益体も無い文句を言いつつも、宮廷作法に適った仕草で女性に話しかけた。
「Comment allez~vous?」
双海がフランス語を操ると、女性は微笑み。
「Tres bien ……仏語より大和言葉を得手としませう」
やや怪しいが古風な日本語で応じられたので、双海は目を丸くした。
「これは………こんなところで日本語が聴けるとは………貴女は、どこの御国からいらっしゃられましたか?」
「私の御国はフィンランドと申します。わずか400万人ほどの小国でせうが、ご存知でせうか?」
双海は記憶の中から、北欧のスカンジナビア半島の基部、大国ロシアと北欧の強国スウェーデンに挟まれた小国を思い出した。
「ええ、たしか前年の1月4日にソビエト連邦から独立された御国だと記憶しております。ただ、独立宣言後も五ヶ月に渡りソビエト軍との衝突が続いたと……あ、申し遅れました。私は日本国海軍欧州駐在武官、双海字音中尉です」
「フタミ・ジオンさま……」
女性は噛み締めるように「ジオン」の音韻を反芻してから名乗る。
「私はウタコ・ツダ・エミル・マンネルヘイムと申します」
「それではマンネルヘイム将軍の…」
「娘です。ウタコとは大和言葉で詩歌の詩、子供の子と書きまして、詩子です」
「それは……また……」
双海は驚きのあまり二の句がつげなかった。ロシア革命の混乱期を狙い、独立を勝ち取ったフィンランドの名将マンネルヘイム将軍の娘が和名をもっていることが目の覚めるような驚きだった。
「光栄ですわ。大日本帝国の軍服さんと、お話できるなんて」
「詩子嬢、面映いことを………日本のことを知っていただいているとは、こちらこそ光栄です」
「フィンランドで日本を知らぬ者がおりませうか。バルト海を我が物顔にしていたバルチック艦隊を撃滅された東郷平八郎さま。ロシア陸軍に打ち勝たれた第三軍司令の乃木希典さま。そして、あの憎っきっニコライ二世を斬りつけられた津田三蔵さま。かの三英雄はフィンランドでも…」
やや興奮気味に話す詩子の様子を新鮮に思いつつも、双海は大津事件の犯人が英雄の列に加わるという歴史認識には賛同できかねたが、ずいぶんと自国を知ってくれている詩子に興味を持った。快活に話す詩子は明らかに日本人ではない色の髪と瞳を持っているが、どこか大和撫子の雰囲気がある。
「…私の第二姓ツダは、津田三蔵さまと同じ漢字を書きますの」
「……それは……奇遇な……」
「ああ、すいません。私ばかり喋ってしまって、つい嬉しくて」
双海は相槌を打ちながらも、パーティーに参列しているロシア人の存在が気になって、背中に少し冷汗を浮かべていた。日本語を知らずとも、トウゴウヘイハチロウ、ノギマレスケの名が出れば、何の話か世界中の誰もが想像できる。日露戦争以後、諜報部員として日本語を学ぶソ連軍士官も多い中、不用意な会話は避けたかった。おりしもアメリカと共同で革命干渉のためシベリア出兵の最中である。そんな双海の懸念を悟った詩子はダンスを誘われる女性の姿勢に戻った。
「Enchante」
「Je」
双海も礼儀正しく誘い出し、ステップを踏みながら囁いた。
「それほど、フィンランドの方々に慕われているとは私の認識不足でした。うれしい驚きです」
正直な感想だった。日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅したとの報がヨーロッパに拡がったとき、日英同盟のイギリス人でさえ日本人が力をつけたことに不安を抱き、人種差別による黄禍論が再燃する中、詩子のようなヨーロッパ人がいてくれたことがうれしかった。
「私は戦史戦略を専門としていますので、マンネルヘイム将軍のことは聞き及んでおります」
「まあ、父のことを? では、1899年2月14日のことまでご存知でせうか?」
「…………血のバレンタイン…」
「はい」
忌々しく、そして哀しげに詩子は頷いた。
「スウェーデン王国からの600年もの支配から脱却したフィンランドを併呑しようとしたのが、あの憎っきっニコライ二世! 血のバレンタインと呼ばれる日は、私たちにとって忘れえぬ日です」
「それをマンネルヘイム将軍が覆された。四万ものソビエト軍を相手に志願兵ばかりで果敢に応戦され、ドイツ軍バルト師団の協力を取りつけ、ついにはロシア人を追い出された手腕は乃木将軍に勝るとも劣らぬものです」
「それを父が聞けば、手を打って悦びませう」
微笑む詩子を見て、双海は声を最小にして囁いた。
「では、ロシア軍のボブリコフ将軍の暗殺も閣下が?」
「さて、どうでしょう?」
詩子が唇だけで笑むのを双海は肯定と解釈した。すると、詩子も声を小さくして双海の耳元で囀った。
「ドイツが負けてしまって、本当に口惜しいですわ。土地柄からフィンランドが頼れる国といえば、ドイツしかありませんのに。敗戦のためにドイツ王族から君主を立てる予定が、このヴェルサイユ条約での賠償決定………フィンランドでは共産党の動きが、活発になってしまい、これではソビエトの主義に逆戻り…………父も苦労が絶えません」
「たしかに共産思想は蔓延しつつあり……危険ともいえます……」
ありきたりの相槌を打ちながら、双海は大戦後に独立しつつあるヨーロッパの小国を諳んじてみた。フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、並べてみると白人同士の支配が終るかに見える。パリ講和会議の席上、日本が提案した人種差別撤廃案は参加32カ国の賛成多数を占めたが、議長役のウィルソン米大統領が重要案件は全会一致を要するとして不採択を宣言したことは双海にとっても不服極まりないことだった。いつか、人種の隔たりのない世界が築けないものかと願う。
「…あるいは、終わりの……始まりか……」
「はい?」
つい口に出してしまい、不審に思われ双海は焦った。
「……いえ…」
「何か、おっしゃられたのでは?」
好奇心豊かな亜麻色の瞳に見つめられると、双海は試してみたくなった。
「これで大国が小国を支配する時代、強い民族が弱い民族を支配する時代が終るのかと、共産主義めいた戯言に憑りつかれただけです。笑ってください」
「………笑えませんわ。だって、本当に願っていますもの」
「詩子嬢……」
「フィンランドの独立を確かにするためにも、国際連盟への加盟を急ぎたいのですが、ソ連の妨害工作も激しく…」
悔しそうな顔をする詩子を見ると、双海は励ましの言葉を考えた。
「微力ながら協力しましょう。幸い駐在武官の立場があります。外務省とも連絡をとりますから。きっと近い将来には加盟できるでしょう」
パッと詩子の顔が明るくなった。
「まあ、本当に?!」
「ええ、お約束します」
「それは頼もしいことです。今日は本当に良い日ですわ。ありがとうございます」
心底から喜ぶ詩子を見ていると、双海も微笑んだ。ダンスミュージックが終わり、互いに礼を言って別れようとしたときだった。
「……ジオンさま……」
「はい?」
詩子が何か迷っているような顔で煩悶していた。それは先刻の国際的な話ではない、もっとプライベートなことに想え、双海は静かに待った。
「一つ……お訊きしたいのですが……」
「なんなりと」
促すと詩子は申し訳無さそうに条件をつけた。
「……ただ……このことを……私が訊いたということを、お忘れになってほしいのです。他言無用に願いたいのです」
「……」
双海は訝しく想ったが、詩子の切実な様子に応えることにした。
「はい、お約束しましょう」
「ありがとうございます………………津田梅子という女性は…………日本では、どう評価されておりませうか?」
「…………津田…………梅子……」
双海は記憶を探った。
「津田……梅子……ああ! あの岩倉具視の使節団に同行し、帰国子女となった……あの方は……」
軍事に関係ないことだけに双海の記憶は乏しかったが、詩子が答えを乞うように待っているので、本土で読んでいた新聞の記憶を絞り出した。
「……津田女史は……たしか、女子教育者として…………津田塾大学の準備をされているはず……お会いしたことはありませんが、新聞記事で何度か読んだことがあります。たいそうなご活躍だと」
「そうですか。本懐を遂げられ……良かったぁ…」
詩子がホッと得心したので、双海は疑問に思った。詩子の第二姓がツダであることに思い至ると、気になって訊ねた。
「詩子嬢は津田女史の縁者でしょうか?」
「いいえ、何の関係もありません」
きっぱりと詩子は明言した。そして願った。
「お願いです。私が津田のことを訊いたことは忘れてください。お願いします」
痛いほど真っ直ぐな瞳に見つめられると、双海は頷くしかなかった。
「わかりました。お約束します」
「ありがとうございます。お侍さまは約束を違えぬというのも、本当なのですね」
「……ええ、本当です」
双海は士族が廃止されたことを説明しようかとも思ったが、日本軍士官の多くが薩長士族の出自で、侍意識を残しており制式サーベルよりも刀を持ちたがる士官も多いことを説明するとなると長くなるので割愛した。
一年半後 1920年(大正9年)12月16日 スイス ジュネーブ国際連盟本部
フィンランド共和国が主催した国際連盟への加盟記念パーティーに呼ばれた双海は礼儀正しく辞退した。そして詩子に別れを告げた。
「年明けからシベリア駐在を任ぜられました」
「……それは……おめでとうございます」
「共産軍との戦いが長引いていますから、バイカル湖あたりでしょう」
「ソビエトの反対側に行ってしまわれるのですね。本当にロシアが憎いですわ」
「……」
「大尉昇進おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「……」
「……」
双海の階級は大尉となっていたが、少しも嬉しくはなかった。だが、任務とあれば従うしかなかった。
「詩子嬢とお会いでき、大変楽しい想い出が、いくつもできました。ありがとうございます」
「いえ……こちらこそ……」
「では、失礼します。また、いつか」
何千キロという距離と国境に隔てられ、もう会うことはないと互いに理解できていた。
詩子は涙と感情を抑えた声で告げた。
「ごきげんよう」
双海は敬礼して踵を返すと、道路へと出た。敷設されたばかりのアスファルトの上に、奇妙な形の四輪車が待っていた。
「黒須、見送りはいらないといっただろ?」
「本当に行くのか?」
「…………なんだ、そのクルマは?」
双海は黒須の問いに答えず、問いで返した。
「こいつは研究中のプロトタイプだがフォルックスワーゲンと言うのさ。見送りついでに愛車を自慢してやろうと思ってな。ドイツ製だぜ」
「ほお、ドイツの工業技術は相変わらずすごいな。こんなものが量産化されれば賠償金に悩まされることも無くなるかもしれないな」
「そいつはどうかな。今とんでもないインフレだからな。乗れよ」
やや狭いが成人男子二人を乗せて、試作車は走行した。
「そのインフレの中、どーやって買ったんだ?」
「円を米ドルに変えてから、ドル札で買ったのさ。インフレさまさま、留学の身にはありがたいくらいさ」
多くの留学者が困っている中でも実家の裕福な黒須は、できたばかりのハイウェイを軽快に走らせた。時速70キロを超えたあたりでエンジン音が不穏となったので、肩を竦めて減速する。
「いまやドイツマルクは紙切れ同然さ。分厚い哲学書と重さで交換てな按配だ」
「……黒須……ドイツ人に刺されないようにしろよ」
黄禍論の元凶になりそうな旧友を諌めると、双海はヨーロッパの風景を目に焼き付けた。
「もう来ることはないだろうな。黒須、貴様は帰国予定は?」
「ノーベル哲学賞を獲ったらな」
「ノーベル賞に哲学は無い」
「あると思えばある。無いと思えば無い。色即是空、空即是色、バーイ、空海」
「…………あほ……」
双海は軍帽を脱ぎ、胸襟を緩めた。
「本当に諦めるのか、双海? いいのか? このクルマじゃバルト海は越えられないが、港までなら今からでも間に合うぜ」
「森鴎外じゃあるまいし、一時の感情に流されるのは愚かなことだ」
「その節度の良さ、一度もベッドインしなかったろう?」
「彼女はマンネルヘイム将軍のご令嬢だ。下町の踊り子とは違う。下衆なことを言うな」
「……」
黒須は前を見ながら、旧友の心中を慮った。
「双海、本気だったなら…」
「黒須! いいか、男の女の間には万有引力が存在する」
「バーイ、アイザック・ニュートン?」
「…………ふぅぅ……いい友達をもってオレもうれしいよ」
双海は肩の力を抜いた。重苦しい気分が和らいだことを感謝する気はなかったが、いい友達といったのは本当だった。
「で、話の続きは?」
「引力さえ距離に左右される。男女の気持ちだって離れれば冷めるさ。まして何万キロだ」
「同じ地球上じゃないか。どこでも重力は働いてるぞ」
「諦めるって決めたのさ」
「ムリだね。双海には穴が開いちまってる」
「穴?」
「そう、とんでもない穴だ。シュバルツシルト半径ってシロモノさ」
「…………ブラックホールか? そんなもの存在するわけないだろ。机上の空論だよ。アインシュタイン博士だって相手にしてないだろうが」
駅まで送ってもらった双海は「ちゃんと哲学を、勉強しろ」と忠告して親友と別れ、ヨーロッパを後にした。
八年後1928年(昭和3)8月27日 フランス パリ
黒須はバスティーユ広場を歩いている日本海軍少佐を呼び止めた。
「八年ぶりだな、双海」
「……まだ、ヨーロッパにいたのか」
「まだ、ヨーロッパに未練があるんだな?」
「……」
シベリアからの撤兵後六年に渡る刻苦勉励の末に、ヨーロッパ言語の全てを操れるようになった双海を海軍省は再び欧州へと派遣していた。パリ不戦条約の調印を見守った後、旧友と再会すると、困ったような笑みだけを浮かべた。
「乗れよ」
新車のクラクションを鳴らした黒須の誘いに乗った。
「まったく互いに住所交換もせずに別れちまうヤツがあるかよ」
「未練がましいことはしない主義だ」
「結婚したか?」
「していない」
「…………」
黙った黒須は一気にアクセルを踏んだ。
「工学部の学生使って、時速100キロ以上出せるように改造したんだぜ」
「…………黒須……ちゃんと勉強してるか?」
「いずれはロータリーエンジンが世界を席巻するとボクは思う」
「工学じゃない! 哲学だ!」
双海は怒鳴りつつも、この藍ヶ丘第二尋常小学校の同窓生に会うと、自分が自分に戻る気がした。少佐の地位となって二年、部下の前で笑うことは少ない。いつも感情を顕わにしないでいたが、黒須と話せば一分もしないうちに打ち解けているのを実感して、軍帽を脱ぎ胸襟を緩めた。
「本当に哲学の勉強してなさそうだな」
「ボクはルネッサンス人さ。何だってやるんだよ」
「口の減らない男だ」
「ほら、見てくれ。時速150キロだ! 今日は最高にエンジンの調子がいい!」
「……」
真っ直ぐな平野を飛ぶように走る車中で黒須はうれしそうに笑っている。
「去年、リンドバーグだって大西洋無着陸横断に成功したんだ。ボクだってユーラシア大陸無停車横断に成功したいね」
「無停車はムリだろう。国境がある」
双海が指摘した通り、パリを出てから三時間で国境に着いた。
「双海、ヤバイもの持ってないか? 潜水艦の設計図とか、引っかかりそうなものは?」
「……とくにない」
双海から確認を取った黒須は、そのまま国境検問に入った。二人ともフランス兵に流暢なフランス語で冗談を言いつつ、身体検査、車体検査、書類検査を受けると120メートル先のドイツ兵の下へと向かう。ドイツ兵に練達したドイツ語でフランスの悪口を言いながら検査を終えた。
「毎度毎度、面倒だよ。ふぅぅ……これが無きゃベルリンまで無停車なんだがな」
「ポケットの裏側までフランス兵とドイツ兵に探られるとはいえ、国境が地続きだという感覚は何度通っても、島国の日本人には本当の意味で実感できないことなのだろうな。この根底的違いは大きい。パリとベルリンは直線距離にして600キロ、飛行機ならば一時間か」
双海が考え込んでいる間に、黒須は最高速記録を塗り替えることに専念していた。日暮れと同時にベルリンに入る頃には双海は国境が地続きであることを深く実感していた。
「本場ドイツのビールはホットビールさ!」
停車させてカフェに入った黒須は黒ビールで乾杯すると、すぐに双海を二階に上がるよう導いた。
「ここさ」
黒須は廊下の奥のドアを軽くノックした。
「森」
(湖)
ドイツ語での「森」に対して、フィンランド語で「湖」と返事があった。
「碧き清浄なる祖国のために」
(碧き清浄なるスオミのために)
ジャパンが英語でありニッポンが正称であるように、フィンランド語ではスオミが正称である。合言葉の交換が終ると、ドアが開いた。
「……黒須……ここは?」
ずらりと並んだ突撃銃や機関銃に双海は驚いた。
「ここはイエーガーの地下組織さ」
「……地下組織なのに……二階にあるのか?」
「そこがコペルニクス的転回なのだよ。もっとも、ドイツとフィンランドは秘密裏に協力しているから、一部のドイツ将校はイエーガーの存在を応援している。ドイツ人にならバレても問題ないのさ。ここはソ連の目を欺くために隠れてるだけのことさ」
「………10年前に独立を勝ち取ったマンネルヘイム将軍の隠し刀ってわけか……」
「とっておきの隠し兵器が、こいつだ」
黒須が部屋の奥を指したとき、双海は動けなくなった。
「……」
「…………」
記憶にあるドレス姿やモダンな洋服ではなく、男のようななりをして銃を磨いているが、たしかに詩子だった。目が合うが、言葉が無い。
「………」
「……」
黙って煩悶し合う二人を見た黒須はタメ息混じりに告げた。
「どっちも結婚してない。バカップルだよ」
磁石が引き合うように双海と詩子は抱き合った。
「私は、もう36歳なんですよ」
「オレも似たようなものさ」
「字音」
「詩子」
しばらくして落ち着いた後、双海が黒須に礼を言ってから「黒須は結婚していないのか」と問うと「とっくに日本人と結婚しているよ。けど、それはまた別の物語さ」と笑った。