「銃後のメモオフ フィンランドの雨」   作:高尾のり子

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第2話

 

  二年後 1930年(昭和5年)2月3日 フィンランド共和国 ヘルシンキ

 暖炉の前で待つことしかできない中、マンネルヘイムは落ち着きの無い双海に声をかけた。

「日本を離れたこと、後悔するときはないか?」

「ありません。後悔ならシベリアで使い果たしましたから」

 二年前、ベルリンで血に汚れた双海字音少佐の軍服と、ソ連製の薬莢がドイツ兵に発見され、日本大使館に届けられた。マンネルヘイムの発案で「たまにはロシア人も使える」と笑った。以来、日本海軍は双海を殉職と見なしている。フィンランドに渡った双海は脆弱な海軍しかもたないフィンランド軍に協力を惜しまなかった。双海の「フィンランドの独立が保たれることは日本の国益にも適う」という言葉を信じてくれたのは嬉しかった。

「ロシア……たった一国を挟んで日本と我らは近所なのだな。鋼鉄頭のスターリンめが、コルホーズなどとぬかしておるわ」

「例の主義独特の集団農法を五カ年計画として実行したらしいですね」

 双海は相槌を打ちながら、冷めた紅茶を啜った。

「我が国でも公然とソ連一辺倒を唱える共産主義者が23議席にものぼっとる。今年中にも共産主義者を取り締まる法案が通るだろう」

「日本の治安維持法に相当するようなものですか?」

「ああ、まったく忌々しいのはロシア人だ!」

 双海も落ち着きが無いが、マンネルヘイムも苛立ちを隠さない。数万のソ連兵を前にしても涼しい顔をする豪胆さは無く、貧乏揺すりをしながら暖炉に薪を投げ込んでいる。

「燃料の輸入も世界恐慌のためにままならん。これではイルマリネン、ヴァイナモイネンも鉄の山だ。せっかくの25.4センチ砲も磨いておるだけだ。機会あればレニングラードに撃ち込んでやりたいものを」

「入り組んだ海岸線の多いフィンランド湾からバルト海では、小型で重装甲、大火力の海防戦艦が有利ですからね。排水量3900トンの艦に25.4センチ砲ともなれば、日本海軍の重巡洋艦でも20.4センチ級が汎用ですから、大戦艦並みの火力を軽駆逐艦に装備したようなものです」

「あとは潜水艦も新造…」

 多弁に語り合っていた二人は隣室から響いてきた産声に相好を崩した。

「無事に産れたか」

「よかった」

 二人とも落ち着きを取り戻し、座り直した。

「名は決めてあるか?」

「はい、詩子の詩、字音の音をとって詩音と名づけようかと」

「詩音……良い名だ」

 この日、極寒のフィンランドに新しい命が誕生した。

  九年後 1939年(昭和14)10月5日 フィンランド共和国 ヘルシンキ

 中央会議から帰宅したマンネルヘイムは九歳となった孫がトテトテと運んでくれた紅茶を美味そうに啜った。

「美味しいよ、詩音。ありがとう。ずいぶん、上手に淹れるようになったな」

「へへぇ…お爺ちゃん、おつかれさまです」

 厳しい顔も孫の紅茶で弛んだ。しばらく孫と会話してから休むように言いつけ、暖炉の前に座った。

「それで、スターリンは何と?」

 字音が問いかけると、モスクワに呼びつけられたフィンランドの代表団が要求された条件を穏やかに説明した。スターリンはフィンランドに対し、戦略的に重要なカレリア地峡の一部を東カレリアと引替えに譲渡すること、海軍基地としてハンコ半島を貸与することであった。

「ハンコ半島を?! 首都ヘルシンキから目と鼻の先ではありませんか?! それでは占領されたも同じことです!」

「むろん、政府も議会も承服しとらんよ。国民世論も承知すまい」

「スターリンは戦争をするために無理な要求をしているとしか考えられません」

「ああ、その通りだ。だから、ワシは閣議で言ってやったのさ。ハンコ半島がほしい? フンッ! くれてやると連絡してやれ! ノコノコやってきたところを25.4センチ砲でフィンランド湾に沈めてやればいい! いっそスターリン歓迎パーティーを開いて毒殺してやれ! とな」

「よくも、そんな発想を……それでは近代国家としてのフィンランドの信義が問われます」

「フンッ! 信義もクソもあるか! 強い方が好き放題やるという大原則は変わっとらん! 国際連盟は侵略戦争としてソビエト連邦を除名すると発表しただけで、役にも立たんよ。ロシア人め、ソ連に亡命しておったフィンランド人共産主義者を祭り上げて傀儡政府まで用意しとる。もはや、交渉の余地はない。リュティ首相は72歳にもなったワシに国防軍総司令官をやれと命令された」

「では……」

「戦争になる」

「……」

「我が軍の士気は高い。ロシア人に思い知らせてやる」

「はい」

「………」

「……」

 二人は戦を前に怖気づいてはいなかったが、スヤスヤと眠る詩音の顔を見ると胸に痛みを覚えた。

  五ヵ月後 1940年(昭和15)3月12日 ソビエト連邦 モスクワ宮殿南朱雀の間

 リュティ首相に続き、マンネルヘイム元帥は乱暴な字で降伏文書にサインした。

「……」

 書記官が整えた降伏文書をスターリンに手渡すと、形式は整った。

「これでフィンランド南東部の割譲、ハンコ半島は貸与となりますが、住民の移動は確かに保証していただけるのでしょうな?」

 リュティ首相は念を押した。

「それは保証しよう」

 鷹揚にスターリンは頷き、それからマンネルヘイムに視線をやった。

「フィンランドは素晴らしい元帥をお持ちだ。今後はソビエトのために働いてはくれまいか? 我が連邦は来るものを拒まない」

「……」

 マンネルヘイムは黙ってスターリンを睨んだ。

 圧倒的な戦力差の中、フィンランド軍は勇敢に戦い、ソ連軍に甚大な被害を与え、一時は和平交渉も画策されたが、国際連盟の要請に答えてフィンランドへと援軍を送ろうとしたイギリスとフランスは北方の隣国ノルウェーが軍隊通行を承諾せず、降伏止む無しとなっていた。わずか二艦の海防戦艦もイルマリネンは轟沈、双海特佐が乗艦したヴァイナモイネンは賠償艦としてソ連に引き渡されることとなった。

「マンネルヘイム元帥の勇猛さは名高い。とくにカレリア防衛戦では、どんな魔術で我が軍を防いだのか、お聞かせ願いたいものですな」

「……」

 マンネルヘイムは不快そうに口を開いた。

「東洋の諺にある。敗軍の将、兵を語らず。もう帰ってもよろしいかな。モスクワの空気は身体に合わん」

 席を立ったマンネルヘイムは家族に死傷者が無かったことのみを神に感謝し、亡くなった兵士と市民に哀悼の意を表して帰国した。この戦争は、冬戦争または、第一次ソ連・フィンランド戦争と呼ばれた。

  翌年 1941年(昭和16)6月25日 フィンランド共和国 ヘルシンキ

 爆撃の轟きが近づく中、地下の食料庫で詩子は詩音を抱きしめていた。母に抱かれながら11歳の少女は恐怖と怒りに顔を蒼くしている。

(……ザァッ……ザァァ……)

 不意にラジオが放送を再開した。

(ドイツ・ソビエト間の戦争に対し政府は中立堅持を主張しておりましたが、ソ連軍はヘルシンキをはじめ南部の都市に爆撃を開始しました。これを受けて政府はソビエト連邦と戦争状態にあることを発表。我が国はドイツと共闘することになりました)

 最大出力で放送されているのか、途切れることの無い放送に耳を傾けながら、母子は爆撃が自分たちに直撃しないことと、父と夫の無事を祈った。

「ママ……ここにいるの? どこかに逃げないの?」

「このような攻撃ですから、どこへ逃げても同じかもしれません」

「……怖くないの?」

 震える詩音の手を、母は強く握った。

「詩音、あなたの身体には四分の三まで、お侍さまの血が流れています。このようなことで怯えてはいけません。強く生きるのです」

「……はい」

「今も、お父さまと、お爺さまが勇敢に戦っていらっしゃいます。武運長久、お祈り申し上げなさい」

「はい」

 強く祈りを捧げた詩音の手は震えるのをやめていた。爆撃は母子に直撃することなく、過ぎ去った。しかし、第二次ソ連・フィンランド戦争は再び総指揮官をマンネルヘイム元帥とし、大国ドイツと対等の立場で自国の態度を貫いて共闘していたが、苦戦は必至だった。

  四年後 1945年(昭和20)9月15日 満州 奉天駅

 三上智也陸軍航空隊少尉は鷺沢一蹴伍長を汽車に向けて一蹴した。

「貴様が乗れ」

「し、しかし、三上少尉…」

「元少尉だ。ポツダム宣言があったろ? 我が軍は解散だ。ほら、さっさと乗れ、出発するぞ」

 日本へ引き上げる列車は超満員で、あと一人乗るのがやっとだった。次の列車は何日後になるのか不明だった。遠慮する一蹴を稲穂信少尉が蹴った。

「早く行けって! こういうときは逆年功序列なんだ」

「稲穂少尉……」

 まだ躊躇う一蹴を加賀正午少尉が蹴った。

「お前が一番若いんだ! さっさと乗れ」

「若いって、少尉たちも、まだ25歳じゃないですか」

 反論した一蹴の前で、伊波健少尉が脚を振り上げた。

「「「「まだ、蹴られたいか?」」」」

「………………すいません!」

 一蹴は最敬礼してから動き出した列車にしがみついた。

「港で待ってます! いっしょに玄界灘を超えましょう!」

 列車から帽を振ったが「待ってなくていい」と投やりな返事だった。窮屈という言葉では表現できない苛酷な過密列車に耐え、港に着いた一蹴は先輩方の到着を待った。しかし、一週間、二週間が過ぎ、引き揚げ船さえ途絶えそうになったとき、諦めて船に乗った。

「……少尉……」

 士官学校の途中で動員され伍長待遇だった一蹴を死なない程度に鍛えてくれた先輩たちを思うと申し訳なさが溢れた。それでも遅れて帰ってくることを信じた。船は敵国の潜水艦に怯えることもなく、神奈川県横須賀港に到着した。

「一蹴!! お帰りなさい!!」

 鷺沢彩花は無事に帰国した年下の夫に抱きついた。

「よかったぁ! 生きて帰ってくれたんだ!」

「彩花……彩花の方は大丈夫だったか? かなり空襲が酷かったらしいな」

「私は大丈夫。この通り生きてるわ!!!!」

 抱き合う二人に三上唯笑が近づいた。

「トモちゃんは?」

「三上少尉は……少し遅れるそうです」

「健ちゃんは?」

「……その……」

 伊波ほたるにも問われ、言葉を濁した一蹴に稲穂かおると加賀沙子が詰め寄った。

「信は?」

「加賀正午の消息を知らないか? まさか、シベリアに連行されたのでは……」

 絶望の色が濃い沙子の瞳に問われ、一蹴は項垂れた。

「少尉たちは……生きていますが……途中で別れてしまい。待っていたのですが……すいません。オレ一人帰ってくるのが……やっとでした」

 頭を下げた一蹴を蹴る者はいなかった。

  翌月 1945年(昭和20)10月24日 ウラル山脈 ペルボウラリスク

 智也と信は正午を左右から担ぎながら、健が発見した小屋に倒れこんだ。

「…ハァ…ハァ…腹減ったぁ……」

「…智也……それを言うな……ハァ……ハァ……」

 意識の無い正午を床に寝かせる。

「…ハァ…逃げ出したのはいいが……あてが無いな……ハァ……ソ連……広すぎる……」

「智也が…ハァ……ロシア人の意表を突いて、日本の反対に逃げようなんて……ハァ……言うからだぁ!」

「素直に日本に向かって…ハァ……逃げてみろ……三日で見つかったぞ……ハァ…」

 収容施設を逃げ出した四人は列車に潜み、シベリアから脱出したがウラル山脈を越えたとたんに検閲が厳しくなり、山中に逃げ込んでいた。

「……ウラル山脈を越えれば……ハァ……アジアはすぐだ」

「智也ぁ……アジアはアジアでも、中央アジアじゃないか……」

「シベリアよりはいい」

「もっともだ」

「…だいたい……ロシア人め……なんで、降伏したのに……ハァ………奴隷扱いしやがって……ハァ……腹減ったぁ……」

「それは……ソ連刑法58条だろ……ハァ……腹減ったなぁ……」

「信少尉が……ハァ……ロシア語が堪能で……ハァ……助かりましたよ……で、なきゃ……ハァ……今頃……ハァ……」

 三人とも床に転がると、空腹を癒すものを探したが何一つ無い。日陰の残雪を入れた水筒で喉を潤すと、高熱で朦朧としている正午にも飲ませた。

「……沙子……」

 うわ言で愛妻の名を呼んだ。

「…ショーゴめ……飯より……女か……オレは……唯笑より飯が喰いたい!」

「ああ……あったかいウドンでも食いたいなぁ……」

「……信少尉……カフェーの珈琲とカツサンドも、捨てがたいですよ」

「カラアゲ……カレー…………あんみつ……」

「……アカテガニ……」

「信少尉……アカテガニって……」

「喰えるのか? あれ?」

「もう、なんでもいい」

「………沙子………沙子の好きな……のは…………ほら……」

「ショーゴ? 起きたか?」

「……………今日は…………沙子の……誕生日だった……ね………けど…ごめん……なんにも……無いんだ……ごめんな……沙子…………」

「うわ言かよ……」

 信が目を閉じたときだった。

 パーーン!

 遠くで銃声が聞こえた。

「「「っ?!」」」

 三人とも飛び起きて耳を澄ませる。

「……追っ手か……」

「いや、見つかってないはずだ」

「なら、狩か……トナカイか、クマでも撃ってるのか……」

 疲労は極限だが、生死が掛かれば身体は動いた。

「どうする?」

「動かない方がいいだろう。ショーゴの状態も……おい! おい?! ショーゴ?!」

 智也は正午が息をしていないのに気づいて抱き上げた。

「おい! お…………」

 呼吸も、脈も無い。何の病いかもわからない内に正午は昇天していた。

「…………あっけないんだな……」

「ああ……」

 疲れているからか、嗚咽さえ湧いてこない。空腹と疲労のために三人とも倒れそうだった。

「これから、どう…」

 健がつぶやいたときだった。

 ザッ……ザッ……

外から足音が聴こえてきた。

「「「…………」」」

 三人に武器はない。

「「「…………」」」

 小屋の中に隠れる場所はあったが、時間がない。

 バタン!

 戸が押し開かれた。

「「「……」」」

「「……」」

 支え合いながら二人の女性が入ってきた。

「「……」」

「「「…………」」」

 互いに武器はなく、見つめ合った後だった。二人のうち年上の女性が口を開いた。

「お……お侍さま……ですか?」

「「「日本語?!」」」

「嗚呼! やはり日本の御方!」

「あなた方は?」

 信が問いかけると女性は背後を気にかけながら答えた。

「私は双海詩子と申します。この子は娘の詩音」

 名乗った詩子は信の名乗りを待つことなく、詩音を前へと押しやった。

「お願いです! この子を守ってください! この子はまだ15なのです!」

「……守るって?」

 智也は疑問に想ってから、すぐに答えを察した。先刻の銃声、この二人に追っ手がかかっているがゆえ、智也たちが乗った列車の検閲も厳しくなったのだ。

「どうか! お侍さま! お願いします!」

 智也たちの答えも聞かずに詩子は小屋を飛び出した。

「ママ?!」

 後を追おうとした詩音を智也が引きとめた。逃亡生活で培った感覚がロシア兵の気配を感知していた。そして、詩子が意図していることもわかった。

「離して!」

「ダメだ!」

「ママ!! 置いていかないで!! ママ!!」

「隠れるんだ!」

「ヤ! 離して! 私に触らないで!」

「健! 信! 手伝え!」

 暴れる詩音を小屋の奥へと引き込み、床下に隠れると口を塞いだ。

 パーーン! パーーン!

 乾いた空気が、銃声を鮮明に伝播してきた。

「んん?! んんーっ!」

 口を塞ぐ手を噛まれたが、智也は離さない。手に血が滲んだが、それよりも詩音の涙が手を濡らしてきた。暴れる詩音を三人がかりで押さえ込んでいると、小屋に踏み入ってくるロシア兵の気配があった。

 パンッ!

 銃声と気配で、ロシア兵が拳銃で正午の遺体を撃ったのがわかった。

「ジャップ二匹を始末した」

(よしっ、帰還しろ)

 ロシア語で無線を使うと気配が消えた。気配が消えてから、たっぷり30分、智也たちは動かなかった。いつまでも泣いている詩音を押さえつけ、健に見回ってもらい、安全を確認してから小屋を出た。

「ママは?!」

 詩音は見回ってきた健に詰め寄ったが、健は顔を伏せた。

「これを……」

 わずかに切り取った亜麻色の遺髪をタバコ入れに納めた物を詩音に手渡した。

「…………ぅ……うそ……」

「信、ショーゴの遺髪を……もう、ここを発つぞ」

 泣き崩れた詩音を強引に立たせると、智也は信を促した。

「ああ、わかった」

 ロシア兵に捕まったときのために三人とも、何一つ日本製の物は持っていない。全て捨て、全て拾ったものを持っている。遺品は無い。遺骨を焼く時間などない。わずかな遺髪だけが残るものだった。

  翌年 1946年7月1日 日本 澄空市役所

 鷺沢彩花に付き添われた三上唯笑は夫の消息を総務課の主任、中森翔太に訊ねていた。

「先日も申し上げましたように、シベリアに抑留された方々の情報は皆無です。今のところは何も………官公庁としましては戦死扱いとして一時金を支給するのが、限界なのです………申し訳ありません」

 丁寧に頭を下げられると、唯笑は礼を言って「また来ます。よろしくお願いします」と席を立とうとした。

「……唯笑ちゃん……」

彩花が慰めの言葉を探しているときだった、マーシャル諸島ビキニ環礁での爆音を超える声が市役所に響き渡った。

「なんで、ほたるが一時金もらえないのよぉぉ!!!!!!!!」

 中森ほたるの絶叫だった。

「ほたるは未亡人なんだよっぉぉぉ!!!! 健ちゃんは死んじゃったんだよぉぉ!!」

 対応していた地域生活課の相川係長はクレームを総務課に回した。当然、主任の中森翔太が担当にあてられた。

「あのさ、ほたる……」

 中森翔太は妻を宥めるように猫なで声を出した。

「オレと再婚したじゃないか。だから、一時金の支給対象じゃなくなるんだよ」

「そんなこと結婚前に聞いてないぃぃ!!!」

「……それは……そうだけど…………社会保障システムってのは……」

「そんなこと、ほたる知らないもん!!!」

「だからさ、オレの給料があるから……」

「無いぃぃ!! 全然足りない!!! 公務員の給料なんかじゃ食べられないぃぃ!!!」

 響き渡った声は市役所職員全員の反感を買った。

「ピアノの調律も出来ないぃぃぃ!!!」

「……ほたる……また、家に帰ってから説明するからさ……」

 翔太は冷汗を拭きつつ妻を宥めるが、治まらない。

「じゃあ、翔たんと離婚して一時金もらってから再婚する!!!」

「……そ……それは……ちょっと待ってよ。調べるから」

 翔太は課長に問うたが不明と言うことで、県に連絡すると、県は国に問い合わせたが、答えは芳しくなかった。

「……ごめん……ほたる……やっぱり、一度再婚しちゃうと前の夫の保障は受けられないってさ……」

「むぅぅぅううっぅ!!!!」

「……ほたる……また家に帰ってから説明するから……」

「一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!! 一時金!!」

 叫び続けるほたるを横目に彩花と唯笑は市役所を出た。

「……唯笑ちゃん……」

 元気の無い唯笑を何とか励まそうと彩花は声をかける。

「………唯笑ちゃんも……再婚したら?」

「しない!!!! トモちゃんは生きてるもん!!! 絶対しないもん!! 絶対生きてるもん!!」

「……そうだね……きっと生きてるよ……」

 彩花は提案するタイミングを間違ったことに気づいて、後悔した。

  三ヵ月後 1946年10月1日 ソビエト北西部 コラ半島 イマンドラ湖岸

 サーミ人のテントの中で、詩音は申し訳無さそうに智也に謝った。

「ほんとうに、すいません。けれど……本当に良かったのですか? 稲穂さんたちと別れて……」

「ああ、さすがに四人で動くと目立つしな。アイツらは中央アジアを南下して帰路を探すらしい……うまくいくといいが…………信はともかく……健は要領が悪いときがあるからな……」

 母を亡くした直後は口を利くことさえ無かった詩音だったが、智也の励ましもあって少しは話すようになっていた。ウラル山脈の麓で健と信は南へ、智也と詩音は北へと別れていた。フィンランドとソ連の間を越境するには最北部が監視の目が少ないからだったが、日本から最も遠い地域でもあった。口数の少ない詩音だったが、スカンジナビア半島北部に1000年以上前から住み、今も原始的な生活を送っているサーミ人のサーミ語を理解できるのは詩音だけだったために智也に通訳していく内に普通に話せるように戻っていた。

「私のために……こんな北の最果てまで……」

「もういいさ。詩音を送り届けることは、約束だからな。ほら、食べろよ」

「…………はい……」

 詩音はトナカイの生肉を齧った。サーミ人は生魚と生肉を主食としているが、詩音は苦手だった。生粋の日本人である智也は醤油が欲しいと思うが、無くとも食べられた。

「私はサーミ語がわかりますが、やっぱり生食は苦手です。サーミ人と仲良くするには同じものを食べることが一番のようですが…………ヨーロッパ人から見れば、野蛮です。そういった見方が両者の隔たりを生むのでしょうが……」

「野蛮か……生食が野蛮といわれれば、仕方ないな……日本人も野蛮なのだろうな」

「手で食べるのも……少し抵抗が……」

「フランス人の文化論文によると、ナイフとホーク、スプーンを使うのが最も文化的で、次いで箸を使うのが二流らしい。もっとも劣等なのが手だそうだ。しかし、当のヨーロッパ人さえ、14世紀になって王族の一部がフォークを使い始めたくらいで、16世紀までは食器らしい食器は庶民には出回らなかったんだ。けど、日本じゃ9世紀頃から箸を使ってる。どっちが野蛮だと思う?」

 詩音は唇に着いた血を拭ってから答えた。

「…………私……一度日本に行ってみたいです。祖母の生まれた国……父さんの生まれた国……なのに一度も行ったことがない。父さんは……無事に逃げていてくれるといいのに……」

「大丈夫、日本海軍出だったんだろ? バレンツ海を泳いででも生き残るさ」

「はい…………けれど、ママは……クズッ…………母は……自分が祖母と暮らせなかった分……とても私を大切にしてくれました…………なのに……」

「詩音…………さあ、出発しよう。山を越えればフィンランドだ」

 智也は腰を上げるとテントを出て「ドイツは、どっちの方角だ?」と詩音に訊き、南南西の方向に一礼一拍二礼した。サーミ人が燃料に使っていた古新聞にニュルンベルグ裁判の判決予定日があったからだった。

「……ショーゴは靖国だが、ドイツ人は、どこへ逝くのかな?」

今日、ナチス幹部に死刑が言い渡されているはずだった。

「彼らの神話によれば、ヴァルハラです。あの………………智也はドイツ人が好きなのですか? 私は嫌いです。フィンランドはドイツと共闘こそしましたが、それはソ連に対抗するにはドイツしか西側の国が無かっただけのことです。勝手に対ソ戦争を始めて、フィンランドを巻き込んでッ! おかげで父や、母まで戦犯の汚名を着せられて逃げ回ることになりました。ユダヤ人を迫害したドイツが罰されるのは当然です!」

「好きとか、嫌いとかじゃないさ。日本人は死んでいく者は、たとえ罪人でも礼を尽くす。死ねば神仏……ってのはキリスト教圏の人間にはわからないだろうけどな」

「ドイツ人は数え切れないほどのユダヤ人を虐殺していたのですよ?!」

「それと、これとは別なのさ。それにアメリカ人が無差別空襲で日本人を焼き殺したのと、道義的には何ら変わらないよ。シベリアの収容所でだって、日本人だけじゃなく、フィンランド人やチェコ人、ハンガリー人も見かけた。勝てば官軍、負ければ賊軍ってな」

「賊軍…………フィンランドも……」

 詩音はフィンランド、ドイツ、日本を始め枢軸国側だった国を思い返してみた。

「オーストリア……ブルガリア……フィンランド……ドイツ……ハンガリー……イタリア……日本……ルーマニア……タイ……満州国…………日独伊以外は巻き込まれるしかなかった小国ばかりです」

「ドイツだって賠償金に苦しんだから狂ったのさ。日本だってABCD包囲網ってヤツで、どうにもならなくてね。ま、世界大戦は避けられなかったんだろうな。願わくば、三回目が無いことを祈ろう」

「……はい……」

 二人は世話になったサーミ人に丁寧に礼を述べ、出発した。

  翌月 1946年11月1日 日本 澄空市

 奇跡的に帰還した二人の元日本兵のニュースは澄空市内においては、フランスの総選挙で共産党が第一党に躍進したことよりも、衝撃だった。

「かおる、遅くなってゴメン」

「ほたる、ゴメンな」

 稲穂信と伊波健は市民に祝われる中、駅前で稲穂かおると中森ほたるを抱きしめた。

「信……心配したんだから……バカ…」

「健ちゃん!  やっぱり生きててくれたんだね! ほたる、ずっと待ってたんだよ!」

 感動的な再会の場面に、鷺沢一蹴元伍長が花束をもって先輩を迎えようとしていたが、隣にいた鷺沢彩花が思わず言った。

「中森さんと再婚したんじゃなかった?」

 一瞬の沈黙の後。

「翔たんとは何でもないから」

「……ほたる……」

「ほんとに何でもないの……ほたるを信じて! 今、離婚するから!」

「……わかってるよ。ごめんな、色々心配かけて」

 健は素直に、ほたるを抱きしめた。再び拍手が起こった後、三上唯笑と加賀沙子が尋ねた。

「トモちゃんは?!」

「加賀正午の消息を知っていたら、教えて欲しい」

「「…………」」

 信と健は妻から離れると、汚れたタバコ入れに納めた遺髪を丁寧に出した。

「智也は……途中で別れ別れになった。最期に見たときは……元気だった。けど、ショーゴは……」

 健が正午の遺髪を沙子に渡した。

「……ショーゴは……もう帰ってはきません。これがショーゴの遺髪です」

「………正午……」

「すいません」

 健は目を伏せたが、沙子は質問を続けた。

「人違いや、見間違いではないのだな?」

「ええ、確かに……」

「本当に…人違いではなく……確かに…ショ…正午は……死んでしまった? 見たの?」

「ボクも、信少尉も……三上少尉も見ている前で息をひきとりました。確かです。すいません。この遺髪を持ち帰るのが……精一杯でした」

「…………」

 黙って踵を返した沙子は群衆の中から歩み去った。翌々日の新聞で、加賀沙子が自ら喉を突いて自害したことを知った健と信は深く後悔した。

  四ヵ月後 1947年(昭和22)2月3日 フィンランド共和国 ヘルシンキ

 マンネルヘルムは大統領を辞任してから一年、80歳となったが、悩みは尽きなかった。それでも今日という日は誇らしくもあり、淋しくもあった。

「これで梅子の末は八分の七まで日本人となってしまうな」

 元大統領の孫娘にしては質素な結婚式は福音ルター教会の基、粛々と執り行われていた。

「詩子は婚期を逸したが、取り戻すように詩音は17じゃというのに早々と……二人にも見せてやりたかった」

 すでに訃報を知った娘と、獄中にある義息子のことを考えるとマンネルヘルムは暗澹たる想いだったが、それでも幸せそうに微笑んでいる詩音を見ると、幾分か和んだ。

「おめでとう、詩音」

「お爺さま、ありがとうございます。ふふふ、智也はお爺さんと性格がそっくりなんですよ」

「ほお、そいつは頼もしいな。詩音は詩子の若い頃に生き写しだよ。智也くんは見る目があったということだ」

「…恐縮です」

 智也は困って軽く後頭部を掻いて誤魔化した。マンネルヘイムは激励しつつも、智也に元日本軍少尉であることは絶対に秘匿するよう重ねて注意した。それは7日後にパリで調印される予定の平和条約において賠償金4億4470万ドルと首都付近のソ連軍基地化、さらなる領土割譲だけでなく、戦犯の捜索が条件に加わっていたからだった。

七ヵ月後 1947年9月15日 フィンランド共和国 ザンスカール広場

 詩音はスオミ新聞を握ったまま、記事に有ったザンスカール広場へと駆け込んだ。

「パパ?!」

 群集の中、はるか遠いが父の姿を見つけた。後を追ってきた智也も息を飲んだ。連合国管理委員会の長ジュダノフ指揮の下、ソ連・フィンランド戦争の戦争犯罪者をギロチンにかける執行が始まっていた。

「どうして?! どうしてパパが?!」

 取り乱した詩音を、かつての部下が静かにするよう諌めた。

「お嬢さま、どうか騒がないでください。双海特佐は、連合国側からフィンランド人を煽動して戦争に導いた平和に対する罪で裁かれるのです」

「なにを言ってるの?! 戦争を仕掛けてきたのはソ連よ!! パパは国を守ろうとしただけ! そんなこと部下だった貴方なら知ってるでしょ!!」

「わかっております! ですが、双海特佐は自らが罪を被ることで、我々将校に累が及ばぬように、そう自白されたのです。どの道、日本人であるだけで殺されるに十分な理由だと笑って、おっしゃいました…」

 それ以上の説明を聞くことなどせず、詩音が駆け出そうとすると部下と智也が止めた。

「離して!!」

「詩音……どうにも……ならないんだ! 行けば詩音まで捕まる!」

「離して!! パパ!! パパぁ!!」

 詩音の声は遠い広場の中央にいた字音に届くことなく、ギロチンの刃は落ちた。

「…………………………パパ……」

 亜麻色の瞳が鮮血を映し、哀しみと怒りに支配された。

「…………許さない…………絶対に…………許さない……」

「詩音! バカなことは考えるな! 詩音!」

「わかって……います…………今は、まだ……けれど、必ず……」

 激しすぎる感情のために、かえって静かになった詩音はジュダノフの背後にいるだろうスターリンを憎悪し、復讐を誓った。

  六年後 1953年(昭和28)3月5日 中国 シンカイ湖岸

 深夜におよんだ毛沢東との秘密会談を終えたスターリンは75歳となっても壮健な身体をベッドに横たえた。

(世直しのことを知らないんだな)

「誰だ?!」

 突然に室内に響いた声に飛び起きた。

(革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標をもってやるから。いつも過激なことしか、やらない)

「四方から声がくる?」

 警備兵の気配が無く、スターリンは壁にかけてあったサーベルを握った。目を凝らすと、部屋の闇から、智也が現れた。スターリンと同じくサーベルを握っている。

「しかし、気高い革命の心だって、官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って、世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる。だったら…」

「私は世直しなど考えていない!」

 スターリンは叫び、サーベルを振るった。

「愚民どもに、その才能を利用されている者が言えることかッ!」

「そうかいッ!」

 智也はスターリンの一撃を弾き返した。

 ギンッ! ギッギンッ!

 老練な刃が智也の左肩を斬ったが、浅い。

「このくらいッ!」

 さらに打ち合うこと数回、智也が32歳たる力を発揮してスターリンのサーベルを押し返した。

「サーベルのパワーが負けている?!」

「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!!」

「むッええい!!」

「スターリン!!」

「なんとッ?!」

 力んだスターリンの攻撃を避け、反撃に出る。

「ずおおぉぉ!!」

 智也がスターリンのサーベルを弾き飛ばしたときだった。

「父ジオンの仇ッ!!」

 天井から舞い降りた詩音がスターリンを討った。

「詩音、脱出するぞ!」

「はいっ」

 六年かけた計画は予定通りだった。警備の隙をつき、中国空軍基地に潜入すると、ミグ25フォックスバッドを奪取し、飛び立った。

「久しぶりの飛行だが、高くは飛べないな。レーダー網を誤魔化さないと……」

「智也は陸軍航空隊だったのですものね」

 空は静かだったが、無線は鳴りっぱなしだった。

「超低空飛行で、一気に函館を目指す。詩音には初めての日本になるな。歓迎されるとは思えないから、それだけは承知していてくれ」

「はい……智也の故郷はハコダテなのですか?」

「いや、神奈川県澄空市だ」

「その付近に空港は?」

「……横須賀にある」

「では、そこにしましょう」

「そうだな」

 午前1時48分、強行着陸したミグ25を日本の保安隊が取り囲んだ。智也はキャノピーを解放すると名乗った。

「オレは三上智也! 元陸軍少尉だ! シベリアから脱出してきた! 害意はない。このミグは手土産だ」

 保安隊員の一人がジュラルミン製の盾を投げ出して智也に駆け寄った。

「智也ぁ! オレだ! 信だ!」

「信?!」

 二人は殴り合う様に抱き合った。

「信! 貴様、もう軍隊には入らんとか言っといて!」

「保安隊は軍じゃねぇんだよ! これしか職がなかったんだ!」

「バカ野郎ぉ! よくも生きていやがったな!」

「貴様こそ、こんなハデに帰ってきやがって! 外交問題なんだからな!」

 笑い合った二人は誰にも聞こえないように詩音のことは残留孤児だと紹介すると内諾した。

  15日後 1953年(昭和28)3月20日 日本 稲穂家

 稲穂かおるの誕生会という名目で外出した智也と詩音は、監視員が付くものの行動の自由はあった。

「よっ! 33歳! 厄年だな!」

 智也の挨拶を、かおるは不快そうに受け流したが、詩音が付け加えた。

「特に男の42歳と女の33歳は大厄といいますね」

「あんた、残留孤児なのに詳しいわね」

 かおるはジットリと、まだ23歳の詩音を睨んだが、ケーキを切り分けた。

「Thank you for your kindness」

「………中国語は?」

「さあ?」

 かおると詩音が友好を深めようとしているときだった。外が騒がしくなり、誰かが乱入してくる。

「離して! トモちゃんと話を!」

「どきなさいよ! 智也に会うんだから!」

監視員に止められながらも、乱入してきたのは唯笑と彩花だった。

「トモちゃん!!」

「智也!」

「よぉ! 彩花! 生きてたのか?!」

 監視員が二人を引き出そうとしたが、智也に面識があるようなので、とりあえず話だけはできる距離まで近づけた。

「トモちゃんも生きて帰ってくれたんだ!」

「ああ。彩花、よく生きてたな! 空襲すごかったろ? ほんと、よく生きてるよな」

「うん、ちゃんと防空壕の中にいたからね。この通り生きてるわ!!!!」

「唯笑も、いっしょに避難したんだよ。すっごい怖かったよ」

「そうか。一蹴のヤツは無事に帰ってたか?」

「うん、智也たちのおかげよ」

 智也と彩花が苦労話を始めてから半時間ほど経ったときだった。

「トモちゃん……なんで、唯笑を無視するの?」

「……」

 黙り込んだ智也の手を、詩音が握った。

「唯笑、すまん! オレは詩音と結婚したんだ!」

「…………そ……そっか…」

「智也?! ひどいッ! ひどいよ! 唯笑ちゃん、ずっと待ってたんだから!」

 彩花が抗議したが智也は項垂れるだけだった。

「……すまん……」

「智也! 考え直してあげてッ! ひどいよ! ずっと! 唯笑ちゃん、ずっと待ってたんだよ!! 智也!」

「………すまん……」

「智也! 今からでも…」

 言い募る彩花の肩に唯笑が手をおいた。

「………もう………いいよ………トモちゃんも色々大変だったんだよね……バイバイ…」

 完全に光を無くした唯笑の瞳は涙に濡れながら、戦後の日本を見つめていた。

  終幕






 稲穂信は戦争体験を「信聴公記」と題し、次のように記している。

 戦争は酷い、だが一瞬で射殺されるのと長年抑留されるのと、どちらが酷いだろうか。そして夫の帰りを待つ銃後の妻たちは、死んでいるとも、生きているとも分からない伴侶を、どんな想いで待ち、それぞれの生活を送るのだろうか。オレは幸せな方だったと、いつも思う。戦友三上智也はオレが問うと答えて云った。マルクスの資本論では資本主義が成熟した社会で革命が起こり、共産社会になるが、ロシア革命時のロシア社会は資本主義としては未成熟だった。それゆえ、スターリンは歴史の発展段階を基礎から組み直すべく、奴隷社会から始めたのだろう。頑張って行き着いたのが、フランス革命後のジャコバン派による恐怖政治社会までで、それがせいぜいだったのさ。マルクスも良い孫弟子を持って喜んでたことだろう、と。智也の意見は皮肉に満ちていた上に、オレが訊いた内容の答えにはなっていなかった。



 三上詩音は戦争体験を「詩音独立戦争記」と題し、次のように記している。

 フィンランド、この国の歴史は苦渋に満ちたものでした。中世スウェーデン王国からの長い支配から脱却したのはロシア・スウェーデン戦争の結果でした。しかし、ロシア皇帝からの支配もまたフィンランドに圧力の強いものでした。二度にわたる世界大戦ではロシアとドイツに挟まれたフィンランドは軍隊の通過点として、または基地として各国の思惑に翻弄されつづけました。ただ独立を欲しただけのフィンランドは大国ロシアの出口にあったという地政学上の意味では朝鮮半島に類似しますが、自ら剣を取りソ連と戦ったという意味では日本と同じだったフィンランドは、連合国側からは戦闘こそなかったもののイギリスからも宣戦布告を受けています。結局、敗退し莫大な賠償金とソ連軍の駐屯を受け入れることとなりました。
ですが、その後も粘り強く独立を渇望し続け、復興と発展を遂げて1975年のヘルシンキ宣言において東西の緊張緩和に貢献することにより、第三次世界大戦を予防するに至ったことを誇りに思います。よって列強の支配に抵抗したこと、そのものが戦争犯罪であるゆえ、私はこの罪を矜持と見なしています。
フィンランド、日本、ともに列強の支配に抵抗して大戦を闘い、傷を負った国家、この二つの祖国を私は強く愛しています。そして第三次世界大戦が永遠に始まらぬよう切に願うと同時に、馥郁たる平和と尊厳ある独立が再び脅かされるとき、私は父母、祖父母、高祖先人に倣い成すべきことを成す覚悟をしています。


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