一方、甲板上では、クー・フーリンと魔帝によって改造されたダンテの双子の兄、バージルとの決着がつこうとしていた。
躰の芯まで凍り付きそうな寒さ。
吐く息は白く、街の通りを歩く人々の足取りは、暖かい家路に向かい、自然と速くなる。
そういえば、今朝のテレビで深夜帯から雪が降るかもしれないと、予報士が言っていた事を銀髪の青年―バージルは、ぼんやりと思い出していた。
日本の名門大学、帝都大の一年生であるバージルは、育ての親、13代目・葛葉キョウジの元を離れて、現在、寮生活を送っている。
超国家機関『クズノハ』から毎月支給される資金があるものの、そんな父親の仕送りにばかり頼っている訳にもいかない彼は、週何回か家庭教師のアルバイトをして、日々の生活の足しにしていた。
『折角のクリスマスだってのに、アルバイトかよぉ・・・?』
電話口で残念そうにぼやく父親の声が思い出される。
毎年恒例となっている矢来区にある探偵事務所でのクリスマス兼忘年会。
半ば強制的に参加させられている飲み会に、今年は残念ながらアルバイトの仕事が入って参加出来ない事を父親に伝えた。
「御免、明日のイブには絶対そっちに帰るから、今回は我慢してくれよ?父さん。」
電話口でブツブツ文句を言う父親に苦笑を浮かべる。
血は繋がっていないものの、バージルにとってキョウジは掛け替えの無い存在であった。
人生の先輩にして、武術の師。
彼からは、生きる為の術だけではなく、人間としての大切なモノを幾つも教えて貰った。
大きな敷地内にある門邸の前で足を止める。
此処は世界でも名が知られている建築家の邸宅であった。
門柱に備え付けられているインターフォンを押す。
『御免なさい、今手が離せなくて・・・玄関は開いてますからどうぞ中に入って下さい。』
カメラから娘の家庭教師の姿を確認したのか、スピーカーから30代半ばと思われる女性の声が聞こえた。
鉄製の正門を潜り、豪奢な屋敷の玄関へと向かう。
富裕層が多く住む南麻布の中でも、この家だけは一際目立っていた。
建築家である主人が自分の手で屋敷を設計した西洋風の邸宅は、建築に余り興味がないバージルでも品が良いと思う程、綺麗な佇まいをしている。
玄関に入るとそこは広いホールになっていた。
塵一つ無い綺麗な玄関口である。
しかし、不思議と人間の気配をまるで感じなかった。
何時もなら、母親か家政婦のどちらかがすぐ応対するのに、今日に限って誰も現れない。
「あの・・・狭間さん?家庭教師の葛葉ですけど・・・・?」
耳が痛くなる程の静寂。
堪らず声を掛けるが誰も反応する様子が無い。
と、その時、廊下を小さな子供が駆け抜けた。
パタパタとした足音は、そのまま2階へと上がって行く。
「・・・偉出夫(いでお)君・・・?」
あの小さい人影には見覚えがある。
この屋敷の主、狭間和幸の一人息子、狭間偉出夫だ。
バージルが受け持っている生徒、狭間緑(ゆかり)の異母兄弟で、今年小学校に上がったばかりの幼い少年であった。
自然と靴を脱ぎ、邸宅の中へと足を踏み入れる。
異様な緊張感が辺りを包む。
彼の本能が引き返せと激しく警笛を鳴らすが、まるで何かに魅入られでもしたのか、意思に反して、足が2階へと続く階段に向けられた。
ひんやりと冷たい廊下を進む。
するとドアが僅かに開いている部屋を見つけた。
バージルが家庭教師として受け持っている狭間緑の自室だ。
早鐘の様に鳴る鼓動。
震える手でドアノブをゆっくりと握り、そして・・・・。
「ライドウ!!」
トリッシュの声に悪魔使いの意識は、現実へと引き戻された。
見事な金色の髪をした美女とその傍らには、魔人化を解いた番の魔槍士がいる。
義手である左腕を斬り落とされた衝撃で、暫くの間、気を失っていたらしい。
「うっ・・・・俺は、一体・・・・?」
意識が未だ覚醒しないのか、記憶が所々飛んでいる。
首筋から右頬に掛けて、どす黒く不気味に浮き出ていた痣は、既に小さくなっており、首根の辺りで留まっていた。
「ご無事でなによりです・・・。」
隻腕になってしまったとはいえ、大した外傷が無い事にほっと安堵の吐息を零す。
この最愛の主をもし失ってしまったら・・・きっと自分は生きてはいけないだろう。
寝かされていた甲板から上半身を起こし、ライドウは、周りの状況を確認する。
血の様に真っ赤に染まった空。
巨大な月。
そして、周囲を包む瘴気。
3年前のテメンニグル事件と全く同じ様相に、此処が魔界の入り口だと判断する。
「志郎・・・バージルはどうした?」
巨躯を誇る魔剣士の姿が何処にもない。
「奴なら海に落ちました。深手を負わせましたが、生死は不明です。」
「そうか・・・。」
予想通りの番の応えに、ライドウは斬り落とされた左腕を押さえて立ち上がる。
どれぐらいのダメージを与えたのか知らないが、魔帝によって大分肉体を改造されている事は、あの変わり果てた姿で十分予想は出来る。
3年前の面影などまるで見当たらなかった。
スパーダとしての誇りと人間としての最低限の理性すら奪われ、魔帝の走狗として変わり果てたバージル。
自業自得と言われてしまえばそれまでだが、余りにも救われない。
オルフェウスによって連れ去られたその妻・エウリュディケーを追って、異界の扉を潜ったダンテ達。
その道すがら、黒猫の躰に宿った冥府の女王・ペルセポネーが、この城の主についてポツリポツリと語り始めた。
「私の父・ゼウスの娘、カリオペーと人間との間に生まれたオルフェウスは、とても優秀な魔術師でした。竪琴の名手で気が大変優しく、周りの人達からも慕われていたと聞いています。」
そのせいか、出世欲がまるで無く、小国ダヴェドの宮廷魔術師の地位で満足していたのだという。
二人の優秀な弟子に恵まれ、歳の大分離れた美しい妻と共に順風満帆な生活を過ごしていたが、そんな彼に暗雲が立ち込める。
野苺を採っていた妻のエウリュディケーが、誤って毒蛇に噛まれてしまったのだ。
医者としても優秀だったオルフェウスであったが、森の中で倒れていた彼女を見つけた時は、既に手遅れな状態であった。
妻を失い、全てに対して自暴自棄になった彼は、宮廷魔術師の資格を国に返上し、この絶海の孤島”マレット島”へと引き籠ってしまった。
「彼は諦めて等いなかった・・・一人で”異界送り”の儀式を行い、何度も私の所に来たのです・・・。」
死者と生者を会わせる行為は、因果律に違反する。
何度も何度も、それこそ数え切れないぐらい追い返し、時には恫喝までしたが、オルフェウスは決して妻との面会を諦め様とはしなかった。
一体誰の入れ知恵なのか、等々、オルフェウスは禁術まで持ち出してしまう。
「ある日、何時もの様にオケアノスにある審判の間に来たオルフェウスを私は追い返そうとしました・・・・でも、その時だけは彼の様子が違った。」
当時の出来事は、今でも鮮明に思い出せる。
眼は落ち窪み、頬が扱け、湯浴みをロクにしていないのか、髪はボサボサ。
生きる屍とはこういう事を言うのか、余りにも様変わりしたオルフェウスに、当初冥府の女王は、言葉を失った。
『これが最後なんだ・・・頼む、妻に会わせてくれ・・・ペルセポネー。』
血走った甥の双眸が自分を見つめる。
こんな風に彼を追い詰めてしまったのは、他ならぬ自分自身なのだ。
しかし、因果律を護る為には、例え甥の言葉であろうと素直に許す訳にはいかない。
毅然とした態度で断ると、オルフェウスは右手に握っていた”あるモノ”を突き出して来た。
「あの時は、吹き飛ばされて気を失っていたので、何が起こったのか分からなかったのですが、後で従者に聞いたところ、”クリフォトの果実”を使った事が判りました。」
「クリフォトの果実・・・・・?」
「ええ・・・冥府にしか生息しない魔界樹・・・”クリフォトの大樹”から生み出される魔力の結晶体です。」
オウム返しに聞くダンテに、ペルセポネーがそう応える。
「妙だな・・・”クリフォトの根”は、人間の血液さえ与えなければ、全く無害な植物だ・・・それが何故、オルフェウスの手に渡った・・・?」
クリフォトの魔界樹は、存在こそ民間伝承で有名ではあるが、それが一体何処にあって、どんな姿をしているか知る者は、生者では殆どいない。
「・・・・一人だけ心当たりがあります・・・・私の身の回りの世話をしていた小間使いのゴブリンです・・・多分、そのゴブリンが甥のオルフェウスに要らぬ入れ知恵を与えたのでしょう。」
ケルベロスの問いかけに、ペルセポネーは苦々しく応える。
事件後、その小間使いだけ忽然と姿を消していた。
他の従者達に小間使いの行方を探させたところ、オルフェウスと一緒に何処かに消えたのを見たという目撃者が現れた。
恐らく、その時に”クリフォトの根”を甥に渡したのだろう。
「一度ぐらい会わせてやれば、こんな事にはならなかったんじゃないのか?」
それまで、黙って死の女神と魔獣の会話を聞いていたダンテが徐に口を開いた。
確かに彼が言う通り、妻との最後の別れをさせてやれば、オルフェウスもこんな強硬手段には出なかったかもしれない。
「・・・・貴方は誰かを気が狂う程、愛した事はありますか?」
自分よりも遥かに高い位置にあるダンテの顔を見上げ、死の女神が言った。
「愛は時に盲目になります。それまで聖人君主だった人間を悪魔に変えてしまう程・・・もし、私がオルフェウスの面会を許せば、彼は死んだ妻を無理矢理連れ去るでしょう。そうなってしまったら、エウリュディケーは転生の輪から外れ、亡者となってしまう・・・苦しみながら現世と幽世(かくりょ)の狭間を彷徨う事になるのです。」
そんな悲劇を生み出さない為の因果律なのだ。
冷酷とも受け取られるが、この世の理を護らなければ、宇宙そのモノが滅んでしまう。
「気が狂う程、誰かを愛した事があるか・・・・ねぇ・・・。」
不意に脳裏に美しい悪魔使いの少年の姿が過った。
3年前、呪われた塔”テメンニグル”で初めて出会った時は、只ムカつくだけの糞餓鬼だった。
圧倒的実力の差をまざまざと見せつけられ、それまで、荒事師として培われてきた矜持を完膚なきまで叩き潰された。
双子の兄、バージルは脅威として受け取ったが、何故か自分は違った。
あの悪魔使いを手に入れたいという狂おしい程の渇望。
無駄と心の何処かで知りながらも、辛抱強く悪魔絡みの依頼を待ち続けたのには、何時か再び、ライドウと回り逢えると信じた故であった。
「ライドウを好きになっても駄目だよ・・・・生者は決して死者には勝てないんだから。」
「何だと・・・・?」
自分の肩に座る妖精に鋭い視線を向ける。
精神感応力に優れた妖精は、敏感にダンテの心情を読み取ったらしい。
「ライドウには好きな人がいたんだよ・・・もう大分昔に死んじゃったけどね。でも、今でも彼女の事を愛しているの・・・彼の中で、彼女は一番綺麗な姿のまま、永遠に残り続けるの。」
「・・・・・。」
ライドウにかつて愛した女性が居た事を始めて知った。
確かに見た目は10代後半辺りの少年にしか見えないが、彼は自分より遥かに長い時を生きている。
その人生がどんなモノだったかは知らないが、心惹かれる異性が一人いてもおかしくはない。
一同が狭い回廊を暫く歩いていると、広い場所へと出た。
その異様な光景に、息を呑む。
幾何学的に歪んでいる床や壁。
現世と違い、鮮血の如き紅い空には、巨大な月が二つ浮かんでいる。
異形の怪物共が生息するに、最も適した環境。
そう、此処は魔界の西の地・・・ティフェレト。
四大魔王(カウントフォー)の一人、魔帝・ムンドゥスが支配する領地なのだ。
「まさか西の領地に繋がっていたとはな・・・・幸い、未だ魔帝には我々の存在は知られてはいないみたいだが、見つかれば少々厄介な事になるな。」
「これだけのメンツがいりゃぁ、楽勝じゃねぇの?」
慎重なケルベロスの言葉に、ダンテに背負われている雷神剣・アラストルが軽口を叩く。
「馬鹿ね、魔界と現世では勝手が余りにも違うのよ。馬鹿正直に真正面から魔帝に攻撃を仕掛ければ、他の四大魔王(カウントフォー)が黙ってはいないでしょ?」
ペルセポネーが言う通り、此処は悪魔達が住む世界なのだ。
異物である自分達が領主に喧嘩を売れば、忽ち(たちまち)魔界全体に知れ渡り、他の魔王達まで呼び込む結果になる。
「うーん、エウリュディケーの気は、あのお城から微かに感じるよ。」
得意の精神感応力を使い、エウリュディケーの気を感じ取ったマベルは、小高い丘に聳え立つ(そびえたつ)白亜の城を指差した。
「ムンドゥスの居城・・・・?何故、オルフェウスはそんな所に・・・?」
マベルの言葉に魔獣が首を捻る。
魔帝と一介の魔術師に過ぎないオルフェウスの関係が分からない。
いくら、ペルセポネーと同じオリュンポス神族の血を引いているとはいえ、相手は神族にとって怨敵でもある魔族なのだ。
自ら進んで魔族と関係を持つとは到底思えない。
「アレコレ小難しい事を考えていても仕様がねぇ、要は魔帝とやらにバレなきゃ良いんだろ?」
警戒する一同を他所に、ダンテは白亜の城―『ムンドゥスの居城』に向かって歩き出す。
「ちょっ、ちょっとぉ!何の策も練らずに進むなんて無謀過ぎるわよ!」
「やれやれ・・・無理が通れば道理引っ込むとはこの事だな。」
何も考えずにムンドゥスの城へと向かうダンテの背を黒猫と魔獣が一歩遅れて追い掛けた。
「これ、俺が乗って来たボートの鍵だ。場所はドアマースが知ってるから、彼女の後について行くと良い。」
魔界の海を渡り、帆船が辿り着いた船着き場。
最上級悪魔(グレーター・デーモン)の一人、大天使・メタトロンの力を使い次元刀で現世へと繋がる通路を切り開いたライドウは、GUMPから一体の悪魔を召喚した。
美しい女性の姿に長く垂れた耳と長い尾。
ケルト神話に登場する犬の悪魔は、主であるライドウの前で恭しく傅い(かしず)ている。
「一体これは何の真似なのかしら?」
この少年が何を考えているのか全く分からない。
あの時、自分を見捨てようと思えば幾らでも出来た筈である。
それなのに、助けたばかりか、態と逃がそうとしているではないか。
「君が一体何者で、何が目的で俺に近づいたのかは分からなし、知りたくも無い。只、此処は大人しく帰って欲しいってだけさ。」
不機嫌な顔を隠そうともしない番に一瞥を送りながら、ライドウは女諜報員に苦笑を浮かべる。
「これから魔帝と大喧嘩しようってんだ。無駄な争いはしたくないんだよ。」
「・・・・そう。」
軽口を叩く悪魔使いに、トリッシュは秀麗な眉根を寄せる。
本気でこの男は、魔界を統べる四大魔王(カウントフォー)の一人、魔帝・ムンドゥスと戦うつもりなのだろうか?
確かに超国家機関『クズノハ』最強と謳われる17代目・葛葉ライドウならば、魔帝に勝つ事は可能かもしれない。
SSクラスの悪魔召喚術師(デビルサマナー)であり、最上級悪魔(グレーター・デーモン)を三体も使役している。
その中には、『神殺し』という通り名で知られる魔王・アモンがいるのだ。
「でも、私がコレを使ったら、貴方の脱出する手段が無くなるんじゃない?」
モーターボートのキーを手の中で弄びつつ、トリッシュは少し離れた位置に立つ隻腕の少年に蒼い双眸を向けた。
「逃げ出す手段なら幾らでもあるさ。それより、君は自分の事を心配した方が良い。」
強者故の余裕か。
確かこの悪魔使いは1年以上も魔界を放浪していた経験があると聞いている。
ならば、島から脱出する方法など幾らでも知っているのだろう。
「優しいのね・・・でも、その優しさが仇にならなければ良いのだけれど・・・。」
この悪魔使いは何処となく、自分の育ての親である悪魔召喚術師のナオミに似ている。
何の気紛れか、戦災孤児であった自分を拾い、実の子の様に育ててくれた。
ある日、日本の天海市という場所で仕事があると言って出て行った。
その最後の姿とライドウの今の姿が重なる。
「俺は死なないよ・・・・生憎、死神には嫌われているんだ。」
そんなトリッシュの心情を察したのか、ライドウが自嘲的な笑みを浮かべる。
ソレは、ライドウ自身に対してなのか、それとも他の誰かに対してなのか、トリッシュには分からなかった。
次回、やっとこさ魔帝とバトルです。