四畳半秘封大系   作:膝゜帽子

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四畳半境界ツアー(四)

 翌日、夕刻に起床した私は、出町傍にある喫茶店で夕食とした。

 鴨川デルタの脇を通ったとき、彼方にある大文字が夕日に照らされていた。ここからの送り火はさぞ絶景であろう。ここで黒髪の乙女と一緒に大文字を望んだらどんなものであろうと妄想をぶおんぶお唸らせたが、あんまり夕風に吹かれて妄想を蔓延らせても脳味噌が腐ってしまうので、適当なとこで止した。

 下鴨幽水荘に戻った私の脳裏には、昨晩の出来事が蘇った。

 宇佐見氏メリー氏の神秘的な雰囲気に妖惑されようとも、私は冥界や境界などという実に眉唾な存在を一切断固として信じなかった。しかし『海底二万海里』を読んで古典的冒険世界へと空想の旅に出ようとしても、メリー氏と対峙したときの徒ならぬ錯覚に襲われ、私のノーチラス号は出航せずにぶくぶくと沈没するばかりである。私は溺れぬよう羊水の胎児さながらに丸まって、万年床で不貞寝した。

 うとうとしていたら、既に深夜であった。

 二階にある師匠の部屋で闇鍋をしたという小津が、悪代官のような良からぬ表情で私の部屋に現れた。

 

「こんな時間に一体なんだ」

「貴方、寂しいんじゃないかと思って」

「余計な御世話だ」

「どうですか、一緒にお酒でも」

 

 小津は右手から下げたビニール袋をぶらぶらさせた。中身は山のような缶麦酒である。小津にしては随分と太っ腹である。私は眉を顰ませた。「またヨーグルト爆弾でも作ったのか」訝しむ私に、小津は飄々と笑った。さながら老獪なぬらりひょんである。

 

「これは闇鍋の具材です。余ったのを、失敬しました」

「用意したやつはどれだけ入れるつもりだったのだ」

 

 呆れる私を尻目に、四畳半へ無遠慮にどっかり座った小津はビニール袋から缶麦酒を二つ出した。片方を私に渡すと、小津はにやにやとした。「ほら、ぐびっといきましょう」にやにやしながら軽快にぐびぐびと麦酒を下す小津が妙に癪だったので、私もぐいと呷った。まるで梅雨時のナメクジのように、しばし男二人してじとじとと陰鬱に呑んでいたが、つまみに魚肉ハンバーグでも焼こうかしらと私は冷蔵庫へずりずりと(はらば)った。麦酒片手にへらへらと笑う小津の頬は酔ったのか既に(あから)んでいた。どうせなら昨晩のように麗しき宇佐見氏メリー氏と晩酌をしたいものである。

 

「どうしましたか、阿呆なツラして。貴方のことだから、どうせ破廉恥な妄想でもしたのでしょうけど。穢らわしい」

「そんなことはしない」

「どうだか。秘封倶楽部の御二人とあんなことやこんなことをしたいんでしょ」

「黙れ。とっとと黙れ」

「それは無理ですね。僕は無駄口をきけないと、死んでしまうのです」

「死ねばいいのだ」

「残念。僕は無駄口が叩ければ、殺されても死にません」

 

 仏頂面になった私を尻目に、小津は覚束ない呂律で幻の超高級亀の子束子の話をした。それは想像を絶するほど強靭にして繊細な繊維の先っちょがファンデルワールス力によって汚れ成分と分子結合を生じさせ、力を入れずとも撫ぜただけで難攻不落な油汚れも白旗を上げてしまうという。「そんな阿呆なものはない」師匠から欲しいので探してこいと命じられたという小津を、私は両断した。しかし、小津は折れなかった。

 

「洗剤メーカーからの圧力で市場に出ていないだけですってば。知らないのも無理ありません」

「お前も阿呆なことをさせられるなあ」

 

 小津の師匠も中々に難儀な男のようだ。小津の話によれば、骨董品の地球儀や岸田劉生直筆の日記帳、ときには大王烏賊まで所望したらしい。「苦労させられます」愚痴(ぼや)きながら麦酒を呷った小津は、しかしどこか嬉々としていた。

 

「タツノオトシゴのときなんてね、拾った大きな水槽に水を入れたら、途中で水が怒涛のように溢れて大変なことになっちゃった。師匠の四畳半が、もうびちゃびちゃ」

「待てよ、お前の師匠の部屋ってどこだ」

「この真上です」

 

 私は激怒した。必ずこの邪知暴虐の小津を凹ませねばならぬと決意した。

 いつか、私の留守に二階から水漏れがあった。愛すべき四畳半に帰ったら、天井からしとどに滴った水が貴重な書籍類を猥褻非猥褻無節操にふにゃふにゃにさせていた。被害はそれだけに終わらず、水に浸ったパソコンからは貴重なデータが猥褻非猥褻無節操に電子の海中へと没した。この事件によって学界が私という唯一無二の存在を失ってしまったのは自明の理である。よほど抗議すべきか迷ったが、「二階の天地は複雑怪奇」と面倒を厭った私は、結局有耶無耶にしてしまった。

 

「あれはお前の仕業か」

「猥褻図書館を失っただけで、別に大した被害じゃないでしょ」

 

 小津は実に臆面もなかった。

 

「クソ、呑まなきゃやってられん」

「へへへ、御一緒しまっせ」

「誰の所為だ、コノヤロウ」

 

 しばし我々はへべれけに呑んだ。さながら自棄酒の様相を呈していた。「そんな貧相なの食べずに、猫ラーメンに行きましょうよお」酒の肴にしようと魚肉ハンバーグをじうじう炙っていた私の隣で小津がぶうぶうと喚き、喧しいことこの上ないものだから私の癇癪はバルカン半島さながらに爆裂間近まで至った。あわや私の導火線と小津の命は風前の灯火かと思われたが、フライパンが小津の鼻先へぱちりと油を喰らわせた。「わひゃあ」マヌケな悲鳴を上げながら四畳半をごろごろと悶絶する姿があまりにも滑稽で、さすがの私も憐れんだ。

 斯様な具合で我々は牧歌的に呑んでいたが、やはり小津がぶち壊した。

 

「これを一緒に観ませんか」

 

 それは「阿呆なもの」であった。

 

  ○

 

 映画サークルに所属する小津や彼の仲間が制作したというビデオを試写会などと称して幾度と観させられた私だが、いずれも酔っていたので小津が琵琶湖疎水の藻屑と化さなかったことは誠に残念である。類稀なる阿呆な映像美に我々は散々「阿呆だ」「阿呆だ」と絶倒したが、翌日になれば臓腑の底からぎりぎりと悶絶した。「何故あんなものに時間を無為にしたのか!」

「鼻毛の男」なる映画は、一日に鼻毛が一メートルも伸びてしまう男が仕事も恋人も失って転落する姿をドキュメンタリータッチにしたものであるが、鼻毛が鼻から一メートルも出てしまったらそれは最早鼻毛ではない。まるで意味が分からぬが、酒の所為で私は小津と一緒に膝を叩きながら観てしまった。最近ではどこまでも四畳半が続き、出口のない四畳半世界から脱出する為に延々と旅をする男小津のサバイバル映画を観させられ、終始表情が変わらぬ怪演ぶりであった小津が四畳半からの脱出に際して滂沱の涙を流すラストには、不覚にも涙が止まらなかった。しかしよくよく顧みれば、サバイバルでもなんでもないしどこにでもあるような陳腐な設定で、私は一体どこに感動したのかまるで分からない。途方もない断腸の念に駆られた私は、麦酒っ腹をした中年のおっさんが大勢大挙して、私の脳天をうねうねと鰻のような詭弁踊りの会場にしてしまうという悪夢に数日苛まれる始末だった。

 これほど阿呆の塊のような小津はさぞサークルで爪弾きにされているのであろうと確固として疑わなかったが、後輩から尊敬され、同輩から信頼され、部長の右腕たるポジションにあるらしい。さっぱり解せない。「隣人を愛してやまぬ人格者の僕に、貴方も学んだらいかが」小津はにやにやしながら、四畳半の西壁にあるテレビのデッキにビデオをセットした。

 

「完成披露試写会です」小津は、へらへらとしたいつもの笑顔を崩さなかった。「みそぎの急先鋒である僕のビデオを最初に観られるなんて、貴方は幸せですよ」

「どうせまた阿呆なものなのだろう」

「酒の肴です。呑気に観ましょ」

 

 けらけらとする小津が小癪である。私は麦酒を呷って、テレビを睨んだ。

 ビデオは突如として、男の口上から始まった。小津の声である。「大学三回生の春までの二年間、大凡実益のあることなど一切しなかったとここに断言しよう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など社会的有為の人材となる為の布石を尽く外し――」鬱々とした小津の口上がデビット・カッパーフィールド式に続けられ、私の気分は早々にぐずぐずと茸のように腐ってしまった。自殺志願者の陰鬱な自戒が、熱帯低気圧のようにじっとりと四畳半に木霊した。「私の一世一代たる告白は、何故(なにゆえ)小日向さんに届かなかったのか!」

 

「おい、小津」私は陰鬱と叫んだ。「どういうことだこれは!」

「映画にはリアリティーが大事ですから」

 

 小津は満面の笑顔である。ビデオからはなおも小津の声で誰にも内緒にしていた私の恥ずかしいあんなことやこんなことが次々と語られ、私は紳士らしからぬ悲鳴を上げた。「きゃあああ」明石さんによればこの映画で私は自殺志願者の男であるが、どうやら小津は私を二度も自殺させたいらしい。穴があれば、砂風呂として三十分間じっくり入って、背中の嫌な汗と恥ずかしい過去のむにゃむにゃを綺麗さっぱり忘れたいものであった。

 しかし、そこから「阿呆なもの」の本領であった。

 陰々滅々とした男の独白が、次第にコメディーチックになったのである。「彼女との恋が成就するまでこのパンツを脱がぬと誓って病気になった死にたい」「彼女をどうにか海に誘ったが、尻のホクロに毛があることを笑われた死にたい」「先斗町界隈で居酒屋を陽気にハシゴしていたらズボンを盗まれ、下半身裸で路頭に迷った死にたい」「嗚呼死にたい死にたい」蓋を開ければ何故そこまで絶望するのかまるで分からぬほど、実に馬鹿々々しい。しかし、男は人類最期の日とばかりに深刻である。男の阿呆な苦悩と黄泉の底から残響するような小津の怪演のミスマッチぶりがまた愉快で、男のモチーフが誰なのかも忘れ、私はついつい笑ってしまった。ただ、これは酔っていた所為である。くれぐれも誤解なきように。

 くよくよと悩んでいた男は、やっと自殺を決心したらしい。「よし、死ぬんだ!」「やれ!」へべれけの我々は、ふらふらと蓮台野の寺院へ向かう男の背中に、滅裂な快哉を送った。余談であるが、男のモチーフは私である。

 

「おい、小津」ただ、私には少々疑問があった。「お前は蓮台野のとき、俺を先導してなかったか」

 

 先導していたなら、私の背中は撮れないはずである。小津は魚肉ハンバーグをむぐむぐした。

 

「我々がオカルトスポットに行ったのは、一度だけじゃないでしょ」

「ああ」私はすっかり失念していた。私も魚肉ハンバーグをむぐむぐしながら、脳裏には蓮台野以外にも探訪した不毛なオカルトスポットの数々が蘇った。不毛だったから忘れていただけである。

 

  ○

 

 一時期、「秘封倶楽部」は如何なるサークルなのか、真面目に考察したことがあった。

 先述したが、私が一回生の秋頃までは、ビリヤードとダーツと女しか脳味噌にないような阿呆どもが己の不埒な思惑を「秘封倶楽部」でうごうごさせていた。しかし、小松崎という男だけは、斯様な阿呆どもと一線を劃していた。小松崎はふはふはして、繊細微妙で夢のような美しいもので頭が一杯な男であった。つまり、女のおっぱいしか頭にない、マシュマロマンのような男であった。

 まさに禁断の果実である宇佐見氏メリー氏のおっぱいに惹かれて「秘封倶楽部」に入会した小松崎は、隙あらば二人の瑞々しい林檎をふらふらと追っていた。ついにはどこに宇佐見氏メリー氏のおっぱいがあるのかまで常に把握していたらしいが、それは二人の行動を把握していたに他ならない。私は当然ながら紳士として激憤した。「それではただのストーカーではないか!」激昂した私とは裏腹に、情報源たる小津は飄々としていた。

 

「しかし、彼の情報がなければ、御二人の動向は分からないままでしたよ」小津はにやにやとした。実に下品な表情であった。「それに、御二人の動機を追う我々も、彼と同類ではないですか」

「断じて違う。我々の目的は、おっぱいではない」

 

 私の断固とした言葉に、しかし不服であったらしい小津は叫んだ。

 

「詭弁だ! 詭弁だ!」

 

 喧々諤々の大論争の末、我々は「秘封倶楽部」の実態究明にうごうごと蠢動したが、羽虫のように幾多の壁にぶつかった。

「秘封倶楽部」がオカルトサークルであるという噂は、我々も既に承知していた。事実、小松崎のおっぱいメモ帳にも宇佐見氏メリー氏が数々のオカルトスポットを探訪していたらしいことが記されていたが、私にはやはり疑わしかった。第一に、麗しき乙女二人の趣味が、何故(なにゆえ)オカルトなどという寂しいものでなければならぬのかという客観的事実である。また、おっぱいメモ帳から宇佐見氏一人だけがオカルトスポットを頻繁に訪れていたことも分かったが、これが重要であった。これは宇佐見氏がオカルトスポットへ下見に訪れていたと推察されるが、宇佐見氏しかオカルトに興味がないとも推論されるからだ。メリー氏は宇佐見氏に連れられてオカルトスポットを訪れただけで、「秘封倶楽部」自体はオカルトサークルではないと断じた。しかし、「人間というものは、一般論で分からぬものですよ」との小津らしからぬ言もあり、私は「秘封倶楽部オカルトサークル説」を一旦保留にした。

「秘封倶楽部」は旅行サークルなのではないかという情報もあった。おっぱいメモの記述によれば、宇佐見氏メリー氏は四国、中国、関東、北陸、東北と、まさに全国津々浦々を二人で旅行していたらしいから、一理あるように思われた。しかし、二人が何を目的に旅をしていたか、当時は判然とせず、「秘封倶楽部旅行サークル説」も保留とした。余談であるが、二人が旅した東京には宇佐見氏の実家があるという。

 最後は「秘封倶楽部グルメサークル説」である。宇佐見氏メリー氏の二人は大学構内のカフェや穴場とされていたおいしい喫茶店などによく訪れていたらしいからだ。「もしや、サバトですかね」おっぱいメモを卑猥に読んでいた小津が、下賤に笑った。さながら魔女に召喚されたゴブリンのようであった。しかし、麗しき乙女二人をよもや魔女とは、道断である。私は反駁した。

 

「麗しい女性とは、苺のショートケーキのように、ふはふはして繊細微妙で夢のように美しいもので、頭が一杯なはずだ。断じてオカルトではない」

「貴方の破廉恥な理想論はいいですから」

「破廉恥とはどういうことだ。俺はただ御二人とオシャレな喫茶店に行きたいだけだ」

「ついに馬脚を露わしましたね。所詮、貴方は小松崎と同類だ」私を睨んだ小津は、くわと叫んだ。「このおっぱい偽善者め!」

 

 斯様に、我々は日夜ハイレベルな論議を尽くしていたが、「秘封倶楽部」の実態は依然として分からなかった。四畳半で腐っていた我々は、ついにおっぱいメモに書かれた「秘封倶楽部」の足跡を追うという行動に出なければならなかった。

 結果は散々であった。

 まず「秘封倶楽部オカルトサークル説」として、数々のオカルトスポットを幾度と探訪したが、収穫は一切なかった。しかも、私はかの伏見稲荷大社で撮影用のデジカメを失くしてしまった。どうせ碌なものは撮れていなかったであろうが、私の懐は見事に狐に抓まれてしまった。

 次に「秘封倶楽部旅行サークル説」であるが、旅先で宇佐見氏メリー氏がどこに行ったのかも分からぬから、これもまるで話にならなかった。東京では宇佐見氏の実家に行ったらしいという唯一の情報から、我々は東京での二人の足跡を追うことにしたが、これがまた難儀であった。資金難であった我々は青春十八きっぷを買ったが、鈍行でのむさ苦しい男二人旅は苦痛の一言であった。尻と精神がぎりぎりと痛むばかりで、やはり収穫はなかった。

 最後は「秘封倶楽部グルメサークル説」であるが、特筆すべきものはない。陰鬱な男二人が、京都にあるカフェというカフェの砂糖菓子のような雰囲気を滅茶々々にしただけである。誰も得をしない。得をするのは、愉快犯がごとき小津のような男だけであった。

 これほど不毛だったのだから、私が忘れたかったのも無理からぬはずである。映画のネタにされていたというのも、馬鹿らしい話であった。

 

  ○

 

「阿呆なもの」のシーンは蓮台野に移っていた。

 腰丈ほどの岩へ、ずぶずぶと沈む錨のように鬱々と腰を下ろした男が、飽きもせずずっと黒猫と戯れていた。私が黒猫と戯れたのは一、二分ほどでしかなかったはずであるが、実に自然に編集された妙技であった。さすがは明石さんだ。

 蓮台野は実に暗澹としていた。

 編集され、明度が上げられていたが、それでも黒猫の輪郭は判然としなかった。のっぺりとした闇に双眸だけがぬらぬらと耀き、まるで蛇眼であった。愛らしい黒猫であったが、やはり不気味である。

 ふと、黒猫の双眸がテレビの奥から我々を一瞬睨んだかに思われた。私は、息を呑んだ。まるで小津のカメラが隠されていたと知っていたかのようである。刻印されたかのように黒猫のぬらぬらとした双眸が私の網膜に(ちらつ)き、奇妙にも蓮台野の情景が鮮烈に蘇った。私の脳裏で、ニューロンが(ほとばし)ったかのようである。

 蓮台野にある彼岸花が、まるで大海原にぽつんと残された水死体のようにゆらゆらと――、

 

「うぎゃあああ」

 

 マヌケな悲鳴に脳裏の退廃とした厭な情景は失せ、私はしばし呆然とした。

 アフレコの小津が叫んでいた。小津の悲鳴で、「阿呆なもの」は唐突に終わってしまった。「また阿呆なものを作りましたね」と明石さんに評された真髄たる、男が化猫に襲われ、喰われるラストシーンである。しかし私には、滑稽なラストなどよりよほど大事と思われることが、脳裏で(しこり)のように残っていた。

 私は、焼肉屋での明石さんの言葉を反芻した。「ただ――」いつも凜とした明石さんの表情に、陰があった。

 何故――。

 

「どうしましたか。自慢の阿呆面がさらに阿呆になってますよ」隣の小津は実に呑気であった。「それよりちゃんと観ていましたか、貴方」

「あ、ああ」

「本当ですかね」

 

 つい生返事した私を、小津が(ねぶ)るかのように訝しんだ。事実、没入していた私は、中盤から観ていないのも同然であったから、小津が疑うのも無理からぬ話である。しかしながら小津よりも明石さんが私にとって重要であるのは誰からも歴然である。ただ私が難儀するのも、結局は「阿呆なもの」が起因と思われ、はなはだ癪であった。

 顧れば、小津に蓮台野へ連れられてからというもの、私の泰然とした日々はさながら砂浜の楼閣と化し、「秘封倶楽部」という大波に呑まれ、瓦解してしまった。宇佐見氏メリー氏との一夜が、私の脳裏に蘇った。冥界の桜や境界など、与太話である。「阿呆なもの」に、桜など映っていなかった。実に馬鹿々々しい。あの夜の私は、どうかしていた。酔っていたからに他ならない。私は一人で勝手にぷりぷりとした。

 

「冥界はあるのよ」

 

 しかし、宇佐見氏の凜とした言葉を、嘘や戯言と一蹴するなど、私には到底無理であった。

 

「ありゃ」思索の隅で、小津が頓狂な声を上げた。ビデオデッキを、酔った小津がふにゃふにゃとした指先で(もてあそ)んでいた。「どうやって出すんですか、これ」

 

 どうやら小津はボタンを誤ったらしい。映像はきゅるきゅると戻ってしまっていた。男や黒猫がちょこまかと蠢き、「阿呆なもの」がより阿呆になった。

 

「停止してからにしてくれ、じゃないと壊れる。左端だ」

「そんなオンボロ、さっさと修理に出しましょうよお」小津はぶうぶうしながらも、ビデオデッキの左端にある停止ボタンをぐにりと押した。「止まらないですよ」

 

 かの金沢文庫にも劣らぬ猥褻図書館の貴重な文化財として、映像部門を担ってきたテレビとビデオデッキの両氏であるが、文明の利器であるパソコンが台頭し、御隠居した両氏はすっかり耄碌してしまった。テレビは当然のように突然の砂嵐に襲われ、時々映像がぐるぐると風車さながらに囘り、漱石してしまったかのように頭痛がする。アンテナの不調とも思われたが、アンテナが故障したという話はまるでなかった。ビデオデッキはボタンのスプリングがぐにぐにと“バカ”になってしまったし、停止せずにビデオテープを出せば、ぎちぎちと断末魔を上げた。

 やはり限界であったか。私には感慨すらあった。

 しかし、ビデオデッキからビデオテープは出さねばならぬ。「阿呆なもの」であれど、「秘封倶楽部」の映像資料であるからだ。どうにかならないものかとビデオデッキを点検しようとした私と小津の鼓膜は、突如としてテレビから(ほとばし)ったノイズに劈かれた。「のわ」「うひょ」マヌケな悲鳴を上げながら、どたばたとテレビから離れた我々は、茫然自失とした。

 壊れたはずのビデオデッキが止まっていた。しかし、重要なのはビデオデッキが止まったことではない。映像があるシーンで止まっていたからである。蓮台野のシーンである。寂しい背中をした男は、黒猫の背をくりくりと撫ぜていた。

 黒猫の双眸が、じっと我々を睨んでいた。

 私は、慄然とした。ごくりと下した唾が、厭にべとべとしていた。

 

「おい、小津」それはまるで私の声でないかのようであった。「お前、また俺を馬鹿にしたいのか」

「ど、どうして」

 

 あの小津が、狼狽していた。

 

「どうしてもなにも、何故あの猫は尻尾が二本もあるんだ!」私は癇癪した子供のように、胴間声を上げた。「どうせお前が編集したんだろ!」

「知りません、僕も知りません」

 

 小津も動顚していた。きっと小津の仕業でもない。ならば明石さんの仕業でしかないが、彼女がこれほど悪趣味な悪戯をするとは到底信じられない。

 私の脳裏には、焼肉屋での明石さんが蘇っていた。

 

「ただ――」

 

 彼女らしからぬ表情の理由が、もしこれだとしたら――。

 

「これでは本当に化猫ではないか……」

 

 私は呻いた。

 不毛であった二年を、オカルトの巣窟たる「秘封倶楽部」の片隅でゴキブリのように生きてきた私は、妖怪についても齧っていた。塵のような知識ばかりがうもうもと肥やされ、山のようになってしまった。邪魔なだけである。妖怪の知識など、一体どうしようというのか。

 しかし、私の常識は、非常識にひたひたと侵されていた。

 いや、だが――。

 それでも誰彼(だれか)の悪戯と疑わぬ私を(いら)うように、黒猫がまるで人間のように歯を剥きながら嗤笑(わら)ったように思われた。私は背筋を震わせた。

 

「うひゃあ」小津がテレビを人差指で示しながら、叫んだ。「あ、あれ……」

 

 嗤笑う黒猫の背後には暗澹とした蓮台野の墓場があったはずだが、まるでない。化物に喰われてしまったかのようであった。

 そこには、桜があった。

 幽霊のように淡朦朧(うすぼんやり)と輝きながら、まるで甘美な死へと(いざな)うかのような――、

 冷汗すらも出ぬ背中が、ただひりひりとしていた。

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