四畳半秘封大系 作:膝゜帽子
ある朝起きれば、平凡な男が一匹の毒虫になっていたというのは、かのフランツ・カフカの『変身』である。しかしながら男汁にしこたま
この世ならざる桜を映したビデオデッキであるが、螺子が切れてしまったブリキ玩具のようにぷっつりと動かなかった。どうにかすれば直ったかもしれないが、この世ならざる桜にすっかり腰が引けてしまった私と小津は、テレビの黒々としたビデオ画面を狂ったかのようにじいとただ睨んでいた。我々は、無言で酒を呑んだ。
緑に包まれた自然の清涼な空気に、ぷくぷく鼻腔を膨らませた毒虫がむずむずと起きた。天蓋には御伽噺のようにまんまるとした月が悠然と耀いていた。まるで闇夜にぽっかりと大穴を穿つようである。
竹藪であった。鬱蒼と茂った竹藪が私を覆っていた。
何故私が竹藪で寝ていたのか、まるで分からない。「秘封倶楽部」の足跡を追う為にオカルトスポットを探訪したが、疲れて寝てしまったのか。実にマヌケな話ではないか。小津の悪戯によってここまで運ばれてしまったというのなら、まだ現実的である。小津にはある男を失脚させる為、ラブドールを拉致誘拐したという逸話まであるからだ。
小津の姿はやはりない。小津に連絡しようにもズボンのポケットに携帯電話はなかった。手元にあったのは、脇に転がっていた空の缶麦酒と、私の尻に潰され、無惨な姿となった熊のぬいぐるみだけである。
「これは」
私は呻いた。それはもちぐまであった。何故もちぐまがここにあるのか、まるで分からない。私は脳味噌をマッサージするようにもちぐまをふにふにしながら、空の缶麦酒を億劫と一瞥した。
私は夜の竹林で呑気に月見酒をしていたというのか。
嘆息しながら、私は背中や尻の砂利をぽふぽふ掃った。竹の葉がさあさあと
仕方がないので、もちぐまを慈しむようにズボンのポケットへ入れ、缶麦酒のプルタブを無沙汰に人差指でびよんびよ弾きながら、私は竹林をただ逍遥とした。時折、竹藪に獰猛な獣が隠れていないか疑ったが、杞憂に思われた。竹林は、まるで鎖されたかのように静謐としていたからだ。これほどの雄大な自然でありながら、生命の息吹がまるでないかのようで、実に寂しい。ふと、ここは尋常ならざる竹林のように思われ、私は不安になった。
確信となったのは、私が竹林をぶらぶらしてから、十数分経った頃である。
歩けども、まるで進んでいないように思われたからだ。景色も一面の竹藪から、変わっていない。私は碌に整備されていない一本道をずっと歩いていたはずなのに、竹林をぐるぐると回らされていたかのようであった。さながら己の尻尾をちょこまかと追う仔犬の心地である。胸がざわざわとした。
私は一本道の脇を睨んだ。ただ、竹藪が茂っていた。獣道も、なかった。目印になるように泥土をぎうぎうに入れた缶麦酒を道に置いてから、私は竹藪に入って道なき道を進んだ。一本道から離れすぎぬように、都度々々顧みながらである。
やがて先刻の一本道は竹藪の奥に隠れてしまった。もう戻らなければならぬ。ふと私の足元で、こつりと蹴られた缶麦酒が元の一本道に転がった。口からは、泥土が零れていた。背筋に蛇がぬるりと這ったかのように、悪寒がした。両の足が、ぶるりと竦む。咽喉がひりひりとして、私の悲鳴は声にもならなかった。
私は一本道を一心不乱に駆けたが、やがて缶麦酒の
私はふらふらと蹌踉していたが、ふと竹藪の奥で絹糸のようなものが靡いた。
美しい金髪であった。女性が一人で竹林を歩いていた。
ナイトキャップのようにふはふはとした帽子に、紫を基調としたドレスのようなワンピース姿は、一見すればメリー氏のように思われた。しかし、尋常ならざる竹林を一人でふらふらする女性が、よもやメリー氏であるはずがない。
理屈ではない。直感であった。
真夜中の竹林を夢遊病者のようにぷらぷらと散策する女性は、はなはだ不気味であったが、竹林から出なければならぬ私には一筋の光明に他ならない。私は泥の詰まった缶麦酒を咄嗟に掴むと、女性の背中を追った。
竹林をふらふらと夢遊する女性の背中は竹藪の陰にちらちらと現れ、また隠れてしまう。土地勘もない私は女性を追うだけで難儀した。女性はまるで私を翻弄するかのようであった。
女性から離れぬように、慣れない野道をふうふうと歩いていた私は、突如として眩暈に襲われた。一本の竹を掴んで、倒れないのが精一杯であった。麦酒に酔ったのかと思われたが、私は否定した。アルコールで視界がぽわぽわするような、享楽的なものでは一切なかったからだ。脳髄を拳でがつんと殴られたかのような、頭蓋を銃弾で撃たれたかのようであった。竹林がかのポリゴンショックさながら、極彩色に瞬いた。眼窩で正四尺玉がクラッカーボールのように次々と炸裂し、鼓膜から脳漿がでろでろと流れてしまったかに思われた。金髪の女性は、もうどこへ去ったかも分からぬ。ぐらぐら酩酊しながら、どうにか倒れぬよう我慢する私の先で、
私は悲鳴を上げられたのかも、分からない。呂律は、碌に囘らなかった。
影は、ヒトではなかった。さながら人間を剥ぎ、皮膚を被った獣である。獣の双眸が耀やき、充血したかのようにぎらぎらとしていた。不気味なまでに煌々としたルビーレッドである。獣が口許らしきものを歪ませた。獣は、哄笑したようでも、激昂したようでもあったが、ただ慄然とするばかりの私には判然としない。私の荒々しい息だけが、静寂に木霊した。
「去れ」
獣は、女性のような声であった。数メートルは離れていたはずだが、獣の声はまるで私の耳元で囁かれたかのようである。
「ここから去れ」
獣が、唸った。獣の影が、ぬうと這うように迫ってきた。
もはや目と鼻の先にあった獣の腕だが、ふと静電気を喰らわされたかのように、ぴくりとした。私の爪先から髪のキューティクルまでをも貪っていたこの世ならざる獣の瞳が、動顚したように右顧左眄とした。焦燥したような獣が、竹藪の上にある夜の天蓋を仰ぎ、私は獣の視線の先を追った。道頓堀川の底にあるヘドロのようにぐずぐずとしていた私の思考と脳味噌は、もう治まっていた。
それは、晴天の霹靂であった。
突如として、視界が白々とした。さながら白夜である。ちかちかと眩暈もしたが、これはもうこの世ならざる獣の仕業ではない。巨大鯰が地中で暴れたかのように、心臓がびりびりとした。私の頬と髪をぬるいものがぶわりと撫ぜ、おでこがひりひりとした。
獣の姿は、もうどこにもない。
私は、忘我とした。
業火の翼を戦慄かせながら、火の鳥が猛然と咆哮していた。
○
夢は、起きたときに忘れてしまうものである。
ぱふぱふしたはずの麗しい黒髪の乙女のおっぱいの感触を綺麗さっぱり忘れてしまったとしても、それは若年性健忘症や、経験不足によるイメージの欠如を意味するものではない。私の名誉の為に、断言しておかなければならぬ。
起きたとき、私はもう夢の内容を忘れていた。ただ奇妙な夢であったという、断片的な記憶しかなかった。
二日酔いである。私の灰色の脳細胞が、悲鳴を上げていた。雑魚寝していたから身体の節々が小枝のようにぱきぱきとして、両肩はずっしりと鉛のようである。私は適当なタオルを台所で濡らして、顔や首筋をたっぷりと拭った。
足元には缶麦酒が散乱していた。零れた麦酒が四畳半に澱む諸々の秘密成分とともにじっくりと熟成され、あたかも山崎蒸留所で発酵された琥珀色のウヰスキーのように、この四畳半に訪れてきた者を骨の髄まで泥酔させてしまうのも時間の問題である。中身が泥土でぎうぎうになった缶麦酒や、空の缶麦酒によって築かれたコロッセオは、どうせ小津の仕業である。博覧強記たる私にも酔っぱらいの行動原理はいまだ解明できていないが、小津となれば話は別であった。小津は、無意味な悪戯にも粉骨砕身するような男である。
小津の姿はない。京都全域でグローバルに悪事を展開している底なしの暇人である小津は、実に神出鬼没である。ふらりと私の四畳半に邪魔してきて、嵐のように去っていってしまう。いつもの話であった。
憮然とした私は、山のような缶麦酒を前にして、万年床にどっかりと
「これは」
もちもちとして愛らしい熊のぬいぐるみである。「もちぐま」であった。
○
二回生の夏、私はとあるアルバイトをした。
河原町にある「蛾眉書房」という古本屋が、古本市での人手を募集していた。「秘封倶楽部」の実態を追究する為、小津とともにオカルトというアンダーグラウンドを芋虫のように這いずっていた私は、身も心も懐具合も限界であった。私の高潔なる魂が、のどかなアルバイトを欲していた。
「バイト代、ほとんどないも同然だよ」
店主の言葉には、実に愛想がない。煮蛸のような男であった。
前述したように、このときのバイト仲間が明石さんであった。私には無愛想な店主も、明石さんと話すときにはまるでかぐや姫に求婚する車持皇子のようである。煮蛸と平安貴族とでは、雲泥の差である。
参道の脇にある南北に続く馬場には古本屋のテントが犇き、古本を物色する大勢の老若男女が木立の下を歩いていた。右も左も年季の入った書籍でぎちぎちに詰まった木箱が置かれていて、埃が焼けたような古本特有の匂いで芬々としているように思われた。毛氈が敷かれた床机には、青木まりこ現象に襲われたらしい人々が尻をもじもじとさせていた。むしむしとしていたが、時折、どこからか風鈴が鳴っていて、木立の奥からする蝉の声には風情があった。休憩時間に小橋の欄干に腰を下ろしてラムネ片手にぼんやりしていると、宇佐見氏メリー氏の動機と乳と尻を追って蠢いているのが、滑稽になった。
連日、明石さんとは一緒になった。彼女は短い黒髪と理知的な眉、じっとなにかを睨むような透徹とした瞳をしていた。能ある鷹が爪を隠さず、綺麗に砥いでいるという印象であった。彼女は主に店番をしていたが、彼女を前にすれば万引き犯も生まれたばかりの仔鹿のようにぷるぷると腰が引けてしまったはずである。
それほどヨーロッパの城塞都市のように強固な彼女であったが、鞄にはとても愛らしいものがぶら下がっていた。マシュマロのような、小さな熊のぬいぐるみである。一日の仕事を終わらせた彼女が、沈む夕日をバックにして一心不乱にぬいぐるみを揉んでいた。
「それはなんですか?」
私の言葉に、さながらフェルマーの最終定理と対峙したソフィー・ジェルマンのようであった彼女が、ふわりと眉を緩ませた。
「これはもちぐまです」
彼女の鞄には、色の違う熊のぬいぐるみがもう四つ、ぶら下がっていた。彼女は五つの熊を「ふわふわ戦隊モチグマン」と大切にしているらしかった。「もちぐま」という名前もナイスであったが、「これはもちぐまです」と笑った彼女の姿が、私の脳裏から離れなかった。
古本市の最終日であった。明石さんに、いつもの凜とした姿がなかった。獲物を前にしても眈々とする猛禽類のような瞳にも、力がない。ついには彼女らしからぬミスもして、店主に深々と頭を下げていた。些細なミスであったから、店主は笑っていた。ふくふくとした店主は、まるで恵比寿様である。明石さんを心配していて散漫と仕事をしていた私も、ついミスをしてしまった。些細なミスであったが、当然ながら煮蛸となった店主が、小言を墨のように吐いてきた。恵比寿様と煮蛸では、月と鼈である。さすがの私も、これには憤慨した。私は店主に隠れて、適宜ストライキを敢行した。労働環境改善の為の、断固たる抗議運動であった。
「実は、もちぐまを一匹失くしてしまって」
明石さんが、ふと呟いた。私の逐次的ボイコットに一切の成果はなかったが、下鴨納涼古本まつりは無事に終わっていた。古本屋のテントが撤収された参道は森閑としていて、数日間の活況もまるで嘘のようである。私と明石さんは、二人して小橋の欄干でのんびりとしていた。すっかり薄暮に包まれていたが、参道はまだ古本市の余韻が残っているかのように暑かった。右手のラムネがひんやりとしていて、心地よい。時折、彼女はラムネの瓶を、頬や額にぴたぴたさせていた。彼女の鞄には、もちぐまが四つしかない。白のもちぐまが、なかった。
「どうせ地球は丸い。また、きっと縁があるさ。なんなら、私が探してもいい」
「それより、猫ラーメンに連れていってください」堂々たる私の言葉にも、明石さんはどこか恬然としていた。「神出鬼没と噂のおいしい屋台ラーメンらしいのですが、先輩なら知っているんじゃないですか」
読者諸兄も既に御存知のように、私は「猫ラーメン」の常連である。深夜、小腹が空いても、私はまず背筋をしゃんとさせ、万年床に端座して精神統一をする。糺の森が夜風に吹かれてさわさわとする合間々々から屋台の風鈴が鳴っていて、私はパブロフの犬さながらに全身のあらゆる感覚が活性化される。静謐なる四畳半で洗練されてきた抜群の嗅覚と、長年の経験と勘があれば、猫ラーメンは目と鼻の先のようなものである。朝飯前である。私ほどのフリークともなれば、いつでも脳裏にあの濃厚なスープと芳醇な香りが再現され、一人ぐうぐうと胃袋を唸らせていた。それほど猫ラーメンを熟知していたと理解していただきたい。しかし、明石さんのような黒髪の乙女と一緒の猫ラーメンがどれほど乙なものか、私にも想像できない。知的好奇心として、彼女を猫ラーメンに連れていくのもやぶさかではない。
ただ問題は、「明石さんがどうして私が猫ラーメンを知っていると分かっていたのか」である。些細な問題かのように思われた。しかし、重要な問題でもあるかのように思われ、私は困惑していた。
私は玉虫色の返事をした。
「それでよければ、いつでも」
「約束ですよ」
彼女は笑った。夕日に包まれた彼女の瞳が、琥珀色にきらきらと耀いていた。
後日、煮蛸のような店主から、ほとんどないも同然のバイト代を渡された。覚悟していたが、やはり雀の涙であった。封筒の中身が空でなかっただけでも喜ぶべきなのか判断に迷うほど、店主は当然のように無愛想であった。それは、もはや貫禄があると思われるほどであった。錯乱していた。
「それと好きなのを一冊、いいよ」店主は仏頂面で書房の本棚を示した。「バイト代」
店主の言葉が嘘ではないかとなかば兢々としながら、私は『海底二万海里』を頂戴した。店主が前言を撤回して、万引き犯として京都府警平安騎馬隊に京都市中引廻しをされる前に、私は足早に蛾眉書房を去った。
古本市。明石さん。もちぐま。『海底二万海里』。
夏の、淡い思い出である。
○
四畳半にある蛍光灯の紐に、もちぐまがぶら下がっていた。私はいつもちぐまを拾ったのか。昨晩、酔った拍子に下鴨神社を彷徨として拾ってきたのかもしれないが、酔っていたから判然としない。私は、もちぐまをつついた。
「お前は明石さんを放って、一体どこをぶらぶらしていたんだい?」
もちぐまからの返事はなかった。当然である。
二日酔いで頭がすっきりしない私は、珈琲を淹れた。珈琲メーカーがごぽごぽと呻き、私は一人、カステラと対峙した。小津が置いていったものである。山のような缶麦酒の裾野にギフトケースが転がっていて、チラシの裏に書かれた小津のメモが残されていた。「闇鍋の余りものです。貴方にプレゼントします」ピュアな私の心を弄ぶ、小津らしい退廃的なイタズラであった。
「とっとと『海底二万海里』を返せ」四畳半にごろりと倒れ、私は天井を仰いだ。「私の夏の思い出を返せッ」
頭上では、部屋に入ってきた大きな蛾が蛍光灯へとぶつかるように、ふらふらと羽搏いていた。ローレンツ方程式に基づけば、テキサス州全域が恋風邪のハリケーンに襲われ、ケロリン桶が内外薬品史上最高の売上を記録して、黒髪の乙女との恋のリーマン予想を証明した私には、薔薇色のキャンパスライフという栄光のレッドカーペットが敷かれていてしかるべきである。蛾であるか、蝶であるかは些細な問題でしかない。カステラに水分を奪われ、糖分ばかり補給されるものだから、私の脳味噌はただただ不毛な妄想に駆られるばかりである。紳士として、恥を知らねばならぬ。私はヴォルテールのように珈琲をがぶがぶと呷った。
ふと、ベビーウエハースのように薄いドアがノックされた。よもや小津か。小津は普段ならノックなどしないが、私を油断させようとたまにノックをするチンケな男である。小雨のようなノックはやがて止んだが、私は居留守をした。
「話があるのだけれど」
ドアの奥から、声がした。女性である。好奇心旺盛な少年のように、明朗とした声であった。小津ではないのなら、四畳半でむっつりと胡坐をしていても仕方がない。私は万年床から、腰を上げた。
「やあ」
ドアの先で、宇佐見氏が笑っていた。私は会釈をした。宇佐見氏の隣では、メリー氏が
哀れむべきは、招き猫であった。
「お」ふと、宇佐見氏が綻んだ。「カステラだ」
嬉々とした宇佐見氏は、仔猫のように部屋へと入っていってしまった。早業である。宇佐見氏は、実に身軽であった。「お邪魔します」メリー氏も宇佐見氏に続いていた。私は呆然とした。
「さすがは男の一人暮らしね」
勝手にカステラを頂戴しながら、宇佐見氏が呟いていた。宇佐見氏は、まるで男子クラスメイトの秘密基地を発見した女子小学生のようである。静謐なる牙城を崩された私は、もはや四畳半に居場所がないように思われ、尻をもじもじとさせた。しかしながら、私も一国一畳の主である。女とジョニーには、手綱を握らせぬ所存である。私は毅然として、宇佐見氏メリー氏に珈琲を淹れた。
「それで、話とは」
三人でカステラをもごもごしながら、私は本題に入った。宇佐見氏が頷き、彼女はやや無骨な革のポシェットからビデオテープを出した。ラベルには「秘封倶楽部」と書かれていた。小津の字である。「阿呆なもの」であった。よもや、宇佐見氏メリー氏も化猫とこの世ならざる桜を観たというのか。四畳半の北壁にある押入れには、ビデオテープを入れたままのビデオデッキがガムテープでぐるぐると乱暴に巻かれて、放置されていた。これは、応急処置である。我々は、恐れたのではない。いずれ解決するつもりであった。狼狽した私に、宇佐見氏が意地悪に笑った。
「貴方も観たのね」
宇佐見氏も、視線の先には北壁の押入れがあった。私は、不承々々、頷いた。
「もしや、御二人も」
ふと、宇佐見氏がメリー氏に
李白氏は水面の月を掴もうとして溺れ、死んだ。
「これまで私とメリーは境界を探して、暴いてきた。結果的に、オカルトスポットを探訪してきたのだけれど」宇佐見氏はビデオテープを、三人の前に置いた。「私達は映像として記録を残していない。これは境界を撮影した、貴重な映像よ」
宇佐見氏は興奮したように、頬が紅潮していた。私は、曖昧に相槌をするしかなかった。
「どうして境界を撮影できたのか。それが問題よ」宇佐見氏は、人差指をずいと出した。私の目と鼻の先である。「だから、次は貴方と小津君にも同行してもらうわ」
どうして我々が同行せねばならぬのか。怪訝とする私に、宇佐見氏が説いた。
「対照実験よ」
宇佐見氏の言葉にも、私はまだ判然としない。
「貴方達だから撮れたのか。私達でも撮れるのか。もっと他の要因があるのか。私はそれを検証したい。あの黒猫が、本当に妖怪なのか、も。貴方達には、撮影したときの条件を再現してもらうわ」
「しかし」
「小津君はもう誘っておいたわ」不断な私の機先を、メリー氏が制した。「明石さんは、これから」
「どうして明石さんが」
明石さんは撮影に参加していない。彼女は、編集をしただけである。私は呻いた。「編集か」私のエウレカは、もっと別なときに活躍すべきである。宇佐見氏が、頷いていた。
「彼女が編集したからかもしれない。これも検証すべき立派な要因ね」
宇佐見氏の言葉に反論の余地はないように思われ、私は黙然とした。宇佐見氏が、最後のカステラを抓んだ。彼女は猫のように親指をぺろりとして、破顔した。大胆であった。
「いい返事を期待してるわ」宇佐見氏は、珈琲を空にした。「珈琲、ありがと」
宇佐見氏からカップを渡され、私は曖昧に返事をした。
私のカップに残された珈琲が、ふと夜の水面のように思われた。私は、夢か現か幻かも分からぬまま、月を摑もうとしてとぷんと水底へ沈む老人の姿を空想した。やがて、老人の姿が私と重なっていき、魔性の月が李白氏のように私を死の水淵へと
メリー氏は、笑っていた。
メリー氏の双眸が、ただ、月のように耀いていた。