春の闇 作:カサブランカ
「まあっ!燈ちゃん、すごいわ!もう逆上がりができるのね!」
「え?…あー……たまたま、です」
そんな教諭の言葉を聞いてか、自分たちはまだできないからか、いいなあ、すごいなあ、と子どもたちがキラキラした目で見てきた。やべっ、と内心思ったけれど、後の祭り。
(しくった……気ぃつけんとあかんのに、またやってもーた…)
文字の読み書き、補助輪無しの自転車の走行、衣類の着脱や食事の片付け。できて当然のことをするだけで、周りからは驚きの目で見られてしまう。
「あかりちゃん、すごいねぇ!」
「さかあがり、どうしてできたの?」
この歳で敬語は大目に見てもらえたとして、お箸も使えず、オムツもとれず、親からの分離不安で泣きじゃくり、さらには一人称が未だに自分の名前、なんて幼児の中で。
(あかん!悪目立ちしすぎとる!)
「おまえ、『ひ』もだせるもんな!」
「すげーよな!」
化け物扱いされないのは、奇跡に近い。きっと親があんな人たちだから教諭や周りの親たちも『夜野さん家族』には寛容になってて、他所の親が私を寛容な目で見るからその子どもたちも私を仲間はずれにしないのだろう。……たぶん…おそらく……maybe…。
「あかりちゃん、さかあがり、おしえて!」
「おしえてー!」
「ええよ、任しとき。ほんなら、タオル持っといで。それ使てやるやり方教えたるわ」
「うん!」
ぱたぱたとカバンの所へと走っていく小さな背中に、転ぶなよー、と念を送って見守る。逆上がりの補助道具を片付けた教諭が笑顔で近付いてきた。
「燈ちゃん、いつもありがとうね。燈ちゃんがみんなのこと見てくれるから、先生すごく助かるわー」
「や、大したことしてへんので。先生もお子さん大きなってきてはるし、無理せんといてくださいね」
「まあっ!ありがとう。気をつけるわね」
膨らみが目立ち始めたお腹を手のひらで優しく撫でて、幸せそうに笑う姿が微笑ましかった。私は前世では子どもどころか彼氏すらいなかったし。
(今世では結婚して子どもも欲しいわぁ)
将来有望そうな子がいたら旦那候補としてリストアップしておこうか、と一瞬考えて、やめた。
「やーい!ウンコー!ウンコー!」
「つなよしのウンコー!」
「や、やめてよぉ…!」
「「きゃははは!」」
(うん、ないな)
何人かの男の子たちが、幼児の下着を投げてからかっている。トイレットトレーニングがまだ十分できていないのか、予備の下着を持たされた男の子が標的になっているようだった。周りではタオルを取りに行ったはずの女の子たちも一緒になって笑っている。誰か止めてくれる大人は、と見回したが教諭の姿は見えない。
「ひっ…ひっく…っ、かえしてよーっ!」
(やべ…。泣きそうやん)
ガチ泣きの気配がする。このまま放っておこうか、と見捨てる案が真っ先に脳裏に浮かんだあたり、事なかれ主義な大人の考えだなぁ、と笑えた。このまま手を出さなくても死ぬわけじゃあるまいし、そう思った。でもなんだか……ムカッ腹が立った。
(所詮ガキの遊びやし。飽きたら終わりやろし。あのいじめられっ子にもええ教訓になるやろし。………でも)
服の裾をギュッと握りしめて、大粒の涙を滴らせて俯く姿に。そんな幼児を心から楽しいと笑う幼児たちに。
(ここで見捨てたら、クソどもと一緒や)
心底、腹が立った。前世の上司を思い出した。次々と退職していった同僚たちを思い出した。はらわたが煮えたぎるようなあの憎しみを、思い出した。あそこにいるのは、私だ。
「っ、あかん!……落ち着け…落ち着け…」
いつの間にか身体中から燃え上がっていた黒い炎に気付いて、憎悪に滾った背筋が瞬時に凍りついた。やはり、炎は怖い。前世での死の間際の憎しみを、身の内から溢れ出る炎の恐怖が押さえつけるようだ。
(相手は子ども…子ども……怒鳴り散らさんと、興味の矛先を変えたらええ…)
大きく深呼吸をして、腹を決める。かすかにちらつく炎をも押しとどめて、子どもたちの輪の中に入った。
「ちょーいちょいちょい待ちぃや。あんたらのソレ、めっちゃおもんないで」
「えっ?」
けらけらと悪意なく嘲笑う声が止まった。面白くない、と言われたことで頭が冷えたのか、楽しげに笑っていた子どもたちの表情が驚きと戸惑いに変わっている。
「な、なんだよ、じゃますんなよ!」
リーダー格らしき男の子が突っかかってきた。でも子どもに凄まれたところで所詮子ども。全く怖くなんてない。
「別に邪魔してへんし。てかそれ返してごめんって言うたら、そんなんよりもーっとおもろい遊び教えちゃるで?ほら、この指とーまれっ!」
「えっ?ほんとう!?」
「やりたい!やりたいっ!」
逆上がりの練習なんて頭からすっかり消え去ったのか、子どもたちが我先にと私の人差し指に群がってきた。何か楽しいことが始まる予感にワクワクしているのか、からかっていた男の子たちもつなよしくんとやらの下着なんて目もくれずにこっちへやってこようとしている。
「おい!それはやくつなよしにかえせよ!」
「あ、うん。…ほら」
リーダー格の子に言われ、男の子が戸惑いの表情を浮かべるつなよしくんとやらに下着を押し付けた。
「まだやで。あんたら、ちゃんと『ごめん』て言える子やろ?」
「はやくしてよ!」
「きゅうけいおわっちゃう!」
周りの子どもたちに責められるように言われ、すっかり毒気の抜けた男の子たちが揃ってつなよしくんとやらに向かい合った。
「「「……ごめん」」」
「う、うん…」
たとえ、それが早く遊びたいがゆえの上っ面な言葉だとしても。
(…よっしゃ)
確かにこの瞬間、私は前世の私を救えたような、そんな気がしたのである。