まな板の上の鯉≒コンクリート上のあざらし



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コンクリート上のあざらし

 あざらしって、漢字だと海の豹って書くんだよな。

 私を踏みつけた男は、下衆な笑いを漏らしながら嘯いた。

「あんな弱そうなのに豹だなんて、生意気だよ」

 

 高々と掲げられた右手が腹に下ろされる。受け身をとることができず、そのままコンクリートの床を転がった。顔を強打し、血が視界を塞ぐ。履いていたヒールが脱げ、転がっていた。狭く、そして窓一つ無い部屋には私の呻き声が響いている。それもそのはずだ。いくら悪どい組織に身をおいているとはいえ、その組織によっていきなり攫われて、こんな所に連れ込まれるなんて思いもしなかった。

 

「あざらしなんてな、痣ラシでいいんだよ。全身痣だらけだし。今のお前みたいにな」

「私はあざらしなんですか?」

 

 ふざけるな、と罵倒されるかと思ったが、予想に反し、彼は満足そうに鼻から息を吐いていた。成人したばかりの若い女だからか、それとも全身酷い痣だらけからか、明らかに見下されている。

 

「そうだな。お前は地面に這いつくばることしかできねえ痣ラシだ。ほら、泣いて懇願してみろよ。何もできない私のために魚を取ってきてくださいってな」

「何もできない私に魚を取ってきてください。言いました。助けてください」

「焦んなよ。女ってのはセッカチだから困る」

 

 鋭い痛みが背中に走った。堪らず呻き声が漏れる。女をいきなり後ろから蹴り飛ばすなんて、と文句をいうことはできない。それを言うのであれば、半ば脅しのような形で組織に強引に入れ、挙句の果てにこんな場所に監禁していることを先に指摘するべきだ。

 

 考え事をしていると、もう一度強く顔面を踏みつけられた。声を発することもできず、勝手に身体が暴れ始める。息を吸うことができない。もがくように手をばたつかせるも、ただ宙を掴むばかりだった。

 

「ほんと、腹が立つよな」

 そう言う割には男の声は上擦っていた。きっと、苦しむ私の声を楽しんでいるに違いない。屈辱だが、耐えるしかできないのも事実だった。

「どうしてあざらしなんかに豹っていう字がついているんだっての」

「あざらしは潜り込むのがうまいですよ、海に」

「立場を弁えろよ、嬢ちゃん」

 

 急に真顔に戻った男が、自慢のポニーテールを乱雑に掴み上げ、顔を寄せてくる。痛みで顔が歪む。みしりと頭皮が剥がれる音がした。

 

「豹ってのはな、俊敏で豪腕で、それでいて美しい最強の動物なんだよ。最強だ。アザラシなんかと一緒にするんじゃねえ」

 

 男の腕が視界を覆い尽くし、遅れて衝撃が襲ってきた。またしてもコンクリートをごろごろと転がる。殴られる直前、彼の腕に彫られた入れ墨がちらりと目に入った。一瞬だったが、確かに細身な豹の姿が描かれていた。よく見ると、彼のズボンにも豹がプリントしてある。もしかしたら豹に思い入れがあるのかも知れない。

 

「まったく、天然な女とは聞いていたが、ここまでとはな」

「私、なにか変なことをいいました?」

「普通はいきなり攫われて殴られりゃ、泣くか叫ぶか、その両方かなんだよ。今まででまともに会話できたやつなんていりゃしない」

「まあ、二度目ですから」

 

 一度目は、家に強引に押し入れられ、組織に入らなければ殺すとまで言われた。理由は分かる。ここの組織の長に少しばかり目をつけられるようなことをしたのだ。だが、今回は本当に理由がわからなかった。何か怪しまれるような行動をしてしまったのだろうか。

 

「私は金のために拐われたんですか?」両腕を抱きしめ、震える身体を押さえつけた。出た声は、自分の想像以上に弱々しい。

「金じゃねえよ」私の態度に増幅したのか、嫌らしい笑みを浮かべた男がそばに寄ってきた。

「お前は疑われてんだ」

「疑われてる?」

「うちのボスがな、お前が怪しいっていうんだ。何やら裏でうちの組織に悪さしてるんじゃないかって」

 

 組織に裏か表があるなら、確実にこの組織は裏の方ではあるし、悪さをしているのも間違いなくこの組織だ。

 

「俺はそうとは思えてねえし、ボスも確信したわけじゃなかったがな。一応だよ一応。疑わしきは罰せよ。この世の常識だよな」

「私、なんにも知らないです」

「お前がなんにも知らないのは知ってるんだよ。ただ、ボスは慎重でな。石橋を叩いて渡るのを地で行ってるんだ」

「石橋を渡っているのに、結局地面を行くんですね。橋の意味なくないですか?」

「ないな。ボスは意味のないことが好きなんだ」

 

 つまらなそうに笑った男は、「お前が何を疑われているのかっていうとな」と少し同情を孕んだ目つきで語り始めた。いや、同情ではなく嘲笑かも知れない。

 

「お前は、うちの組織の情報を公安に流したことと、資金の黒いところをマスコミに告発したこと、そして部下を殺したことを疑われてるんだ」

「なんですか、それ」

「多すぎるよな。新人OLだったあんたにはできないだろ。」

「きっと、そのボスさんの不倫相手が逃げたりしても私のせいにされそうですね」

「鋭い」

 

 カチャリと音がした。男がベルトを外し、その欲望をぶつけてくるのかと思ったが、違った。見下すようなその目はそのままに、何か黒いものをこちらに突きつけていた。拳銃だ。

 

「あんた、天然の割には鋭いじゃねえか。ボスが一番キレてるのはそれだよ。お前のせいで不倫相手が逃げたんじゃないかって疑ってるんだ」

「そんなこと」

「無理に決まってるよな。だが、無理なのはあんたの命を助けることも同じだ。脳天に風穴を開けてみると、案外楽しいかも知れないぜ」

「そんな。私は何も知らない」

「だから、そんなのは知ってるって」彼は流石にうんざりしたようで、銃口を眉間に押し付けながら乱雑に頭をかいていた。

「疑わしきは罰せよなんだって」

「私は本当に何もやってないんです。私を撃っても意味ないです」

「ボスは無駄なことが好きなんだよ」

 

 男に握られた拳銃が一度ぶるりと震えた。引き金に意識を集中しているのか、口角を上げた男は目線を銃に合わせている。両手で拳銃を握っているため、姿勢は不安定だ。

 

 流石にそんな隙を逃すほど私は間抜けではない。

 

 うずくまるように内側にしまいこんでいた四肢を、玉が弾けるように投げ出す。倒立の要領で足を上げ、相手の顔面を蹴り飛ばした。怯んだ相手を確認することなく、全力で相手の右腕を踏み潰す。肉が裂ける音と、拳銃が床を転がる音が耳をついた。

 

「ちょっ、まって」

「待ちませんよ。女はセッカチなんでしょ」

 

 床に落ちた銃を拾い上げ、男に向ける。他に人がいないかと気を使うが、どうやらこの下衆一人だけのようだった。

 

 危なかった。この組織に侵入し、情報を集めるという任務は順調に遂行できていた。だが、どうやらここのボスに怪しまれていたらしい。公安として失格だ。

 

 ほぅ、と安堵の息を吐き、男に近づいた。外さないようにとこめかみに銃口を押し付け、姿勢を低くする。男と同じ過ちは侵さない。

 

「おい、あんたいったい」

「ひとつ、いいことを教えてあげるわ」

 

 いいことを教えてもらえたしね、と口の中で唱える。まさか、我々が行っていた妨害工作の情報がバレているとは思わなかった。そのボスとやらは随分と優秀なようだ。部下はひどい有様だが。

 

「な、なんだよ。いいことって」

「あら、さっき言ったじゃない」

 

 何かを言おうとする男を無視し、引き金にかかった指を動かした。パンと乾いた音が響き、視界が真っ赤になる。汚れてしまったことに顔をしかめつつ、私は彼に背を向け言った。

 

「あざらしってのは、潜り込むのがうまいのよ」

 


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